喉笛の塔はダミ声で歌う

第46話 フォルボスの忠誠

 物陰に身をひそめ、どれだけの時間が経ったろう。鍵を外す音とともに、扉が開いた。よどんでいた空気が動き、ランタンの柔らかな明かりが室内に入ってくる。
 照らしだされた顔は、フォルボス・マクロイ局長のもの。
 それ以外に、だれかがついてきた気配はない。――予想どおりだ。
 局長は無言でランタンを掲げ、室内を照らしながら部屋の奥まで入ってきた。オースターのいる物陰からでも全身が見えるようになる。
 片手にランタン、もう片手は空いている。武器を持っている様子はなく、腰だのポケットだのに隠している気配もない。
(武器を持っていない……?)
 だが、油断は禁物だ。相手は大人で、しかも立派な体躯の持ち主だ。オースターの華奢な体など、拳ひとつで簡単に伸すことができるのだと、アキのおかげで嫌というほど思い知った。
 かといって、このまま隠れていてもしかたない。隙をついて倒す技などオースターにはない。それに、体力も底を尽きかけている。
 オースターは覚悟を決め、物陰から這いでた。

「これは……本当に殿下でしたか。驚きました」

 明かりを向けられ目をすがめながら、オースターは口を開いた。
「そうだろうね、驚いたろう。僕が生きていることに」
 局長は顔をしかめ、オースターが右手に構えた錐に視線を落とした。
「アキとロフは死んだよ。ぬめり竜に食われて。送りこんだ手駒が死んで、殺すつもりだった僕が生きている……いまどんな気分だ?」
 フォルボス局長はなにも言わなかった。ただ黙って、己に向けられた錐を見つめている。オースターが工具に籠めた敵意を。
「局長がふたりに僕の暗殺を命じたんだろう? ドファール家に頼まれて。報酬はなんだ? アラングリモ家の資産よりも魅力的だった? ルピィ・ドファールが大公の座についたあとの特別待遇でも約束されていたか」
 声に力が籠もらない。しゃべるだけでも肩が上下する。
 局長はオースターをしげしげと眺め、ふと溜め息をついた。 
「いま、どんな気分かと訊ねられましたね。簡潔に言えば、あなたが生きていたと知って安堵している」
「安堵だって?」
 局長は「ええ」と答え、自嘲気味にほほえむ。
「そして落胆もしている。どうやら、あなたは私を裏切り者だと思っているようだ」
「……なにか言い分があるなら言え。聞くだけは聞いてやる」
「それはそれは。寛大なお心づかいに感謝申しあげる」
 局長はふてぶてしくも言いはなち、ランタンを埃まみれの棚に置き、両腕を胸の前で組んだ。
「私は以前、あなたに申しあげた。”地下水道事業に資金を提供していただけるかぎり、敬意は払う”と。だから、突然あなたが衛生局にやってきて、たいそう不遜な態度で208番を隔離するよう命じてきたときも、私は従った。アラングリモ家に敬意を示すために。……にもかかわらず、あなたは私を裏切り者だと疑っている。地下に行くと決断したのはあなたであり、私はやめるよう忠告したにもかかわらず」
「それは……」
 オースターはしかし局長を鋭くにらみつける。 
「でも、あなたは案内人としてアキとロフをよこした」
「いいえ、私は別の案内人を用意した。あなたが独房の鍵を預けるよう命じた、あの娘です」
 ルゥのことだ。
「地下でどんな行き違いがあったのかは知りませんが、たしかに私はあの娘を案内人に命じた」
 局長は顔をしかめた。
「とはいえ、疑われるのも無理はないとも思っています。なにせ私は、今度あなたが地下におりたら、あの双子があなたに危害を加えるだろうことを知っていたので」
「どうして……」
「ドファール公爵家から再三、あなたを地下に送るよう命じられていましたから。どうことわったものかと頭を抱えたが、幸いあなたは職場体験学習先を〈喉笛の塔〉に変更した。ならば、あなたが地下に来ることはもうない、暗殺の心配も、脅迫を受けたり、危害を加えられたりする心配もない、そう安心しておりました。――だが、あなたは来た」
「じゃあ、あなたは僕の暗殺には関わっていないと?」
「ええ。ドファール家は私が動かないことに業を煮やし、あの双子に直接、暗殺の命令を出したのでしょう」
 局長はオースターの不恰好に切られた髪や、腫れた頬、汚れ、濡れすぼった姿を見つめ、組んでいた腕をおろした。
「その錐はそこらに放ってしまって結構ですよ。構えているのも疲れるでしょう」
「その言葉に僕が従うと」
「従わずともかまわないが、残念ながらここにある工具はすべて壊れている。その錐も、ちょっと力を加えればすぐに柄が外れる。持っているだけ無駄ですよ」
 立ちすくむオースターを見つめ、フォルボス局長は口を開いた。
「お許しいただけるなら、すこし私の話を聞いていただけますか。それを聞いたうえで、なお私を疑うなら、どうぞご自由に。そっちの工具箱になら、多少ましな工具が入っている。殺したければ、殺しなさい。半身不随にでもしたいなら、金づちを選ぶといい。私は無抵抗で、首を差しだしましょう」
 オースターは当惑した。
 だが、局長がシャツの襟を開き、白い首をオースターにさらすのを見て、錐を持った手をゆるゆると太ももの脇におろした。


「我がマクロイ家は、先祖の代からランファルドの公衆衛生環境の改善に力を注ぎ、大いなる功績を残してきた。特に戦前、我が指揮下で敷設された下水道は、人々の生活の質を大きく向上させたと自負している」
 フォルボス局長は襟を整えながら、マクロイ家の歴史を語りはじめた。
「下水道が完成したばかりの頃は、ずいぶん人々から感謝されたものです。流行り病が激減し、道路に垂れながしだった汚物が視界から消えたことで、町の景観も清潔になった。心身ともに健やかになった人々は、下水道こそがランファルドの繁栄の象徴だと信じてやまなかった」
 そこで局長は、昔をなつかしむように虚空を見上げた。
「殿下にも見ていただきたかった。下水道開通式典の素晴らしい盛りあがりを。人々は熱狂し、国中にマクロイの名が轟いた。式典が終わったあとも、人々の下水道に対する関心が薄れることはなかった。人々は地下に広がる広大な闇の迷宮に冒険心をくすぐられた。盛んに下水道見学ツアーが開かれ、地下の水辺には絢爛豪華な観光船が浮かべられた。大公家の方々、公爵家の方々も、着飾って下水道にやってきた。あなたの父上も、奥方とともにいらしていましたよ」
「父上と、母上が……」
「香草袋を鼻にあてがいながら観光船に乗りこみ、地下の闇を冒険された。大公家の書斎には記念品の下水道模型が置かれ、熱狂は庶民にも広がった。船に乗るための長蛇の列ができ、整理券が配られ、露店が道にあふれかえった。……なつかしき栄光の時代だ」
 どこか疲れた口調で、局長はつぶやく。
「やがて、東の魔導大国アモンと西の科学大国フラジアの間で戦争がおこった。衛生局の局員も、優れた技術を持った下水道の掃除夫たちも、保守点検員たちも、みな戦地に送られた。そして、その大半が戻ってはこなかった。……そのうち〈汚染〉が北から広がり来て、それとともに――あの忌々しい鳥どもがやってきた」
 ホロロ族のことだ。
「|狂った九官鳥《バクレイユ》は、鳥どもとともに〈喉笛の塔〉を建設した。当時は私もそれを歓迎した。〈汚染〉から逃れてきた北部の移民によって、首都の人口は急増していた。下水道は増えた屎尿《しにょう》を処理しきれず、地上にまであふれ、健康被害も出はじめていた。だというのに、人員は不足したまま……下水道は完全に機能不全に陥っていた。私は思った。下水道こそさまざまな面で電化して人手不足を補うべきだ。ゆえに、バクレイユの電気事業に大いに期待を寄せた。――だが、」
 フォルボス局長は目をすがめる。
「あの男は、私の顔を見るなり、こう言った」

 ああ、私の可愛い小鳥たちの世話は、あなたに任せるとしましょう!

「地下にホロロ族を住まわせ、その世話を衛生局に一任するという。ホロロ族の住まいとして地下はちょうどいい、衛生局の人員補充にもなる、そうしよう、それがいい、と勝手に納得し、勝手に決め、勝手に押しとおした。そして衛生局の予算は、ホロロ族の生活費に食いつぶされることになった。下水道は、電化どころか、どんどん老朽化していった。〈鼻つまみの三か月〉を食い止めることができたのは、奇跡としか言いようがない」
 フォルボス局長は鼻を鳴らす。
「あなたには、この屈辱がわかりますか。見上げれば、地上は〈喉笛の塔〉によって華々しく発展していっている。一方の私の下水道は、発展どころか、現状を維持するだけで手いっぱいだ。
 だが、バクレイユには逆らえなかった。ランファルドを繁栄に導いたあの男には、元老院、そして大公殿下が後ろ盾についていたからだ。
 考える必要があった。バクレイユに逆らうことなく、下水道を発展させるにはどうすればいいか。――そんなとき、ひそかにドファール公爵家の当主から申し出があった」

 地下水道事業に、資金を提供しよう。
 そのかわり、マクロイ家にはちょっとした仕事を頼みたい。

「ドファール公爵家は、次期大公の座を確実なものとするため、そして大公となった後の治世をドファール家に都合のいい世とするため、ホロロ族と下水道を利用することを思いついた。大っぴらには存在を認知されていないホロロ族を使い、ドファール家の”敵”の秘密を探らせた。下水道を使えば、貴族の屋敷だろうが、元老院の会議室にだろうが、容易に潜入できますからね。そうして得た”敵”の秘密を使って、”敵”を脅し、操った。あるいは地下に呼びだし、事故死に見せかけ始末した。そうやって、彼らは徐々に一族の力を強めていったのです」
 局長は鼻頭に皺を刻んだ。
「うんざりする。そんな汚れ仕事など引き受けずとも、本来なら、衛生局には相応の敬意が払われ、相応の予算がおりるはずなのに。なぜ、わざわざバクレイユ博士や、ドファール家の言いなりになる必要がある? なぜ、だれも下水道が〈喉笛の塔〉と同じぐらい重要であると気づかない? 下水道が機能を失えば、人々の生活の質はあっという間に下がる……それを皆、知っているはずなのに。
 普段は目に見えないから、簡単に忘れてしまえるのだろう。たまさか町に臭気がたちのぼり、あるいは私の顔を見たときにだけ、思いだす。……この屈辱! ほとんど動きのない〈汚染〉の襲来に怯えるよりも、地面の下を流れる汚水が地上にあふれだすことこそ怯えるべきではないのか!」
 扉の開かれたままの室内に、局長の怒りに震えた声が響きわたる。
「――失敬」
 局長は瞬時に我にかえり、オースターに非礼を詫びた。
「ともかく……戦後十年、地下水道事業に関心を持ち、理解を示し、その身に汚水を浴びてまで積極的に学びにきたのは、あなただけだったのですよ。殿下」
 局長は思いがけないほど真摯な口調で、オースターをそう称えた。
「私はアラングリモ家に相応の敬意を示すと約束した。その理由は、アラングリモ家がドファール家にかわって資金提供を申し出てくれたからだ。それ以上でも、それ以下でもない。……が、これはごく個人的な話になるが……私はあなたに期待をしたのだ。下水道と、そこで働く勤労者に関心を抱くあなたが次の大公となり、私の下水道に正当な評価を与えてくださることを。国として正式に、下水道の拡充事業に注力してくださることを」
 力強い口調で語って、局長は目を細めた。
「とはいえ、ドファール家の勢力は強大だ。あなたがこのまま順当に大公の座に就けるとはとても思えなかった。ドファール家は必ずなにかを仕掛けてくる」
「事実、そうでした」
「ええ。……個人の想いとして、私は下水道の価値を知る人間に大公の座についていただきたい。だが、衛生局の長として、下水道の未来を先行き不透明なあなたに安易に託すわけにはいかなかった。我がマクロイ家の双肩は、下水道の命運を――民の健やかな生活を担っているのだから」
「……はい」
「だから、今回の件は私にとってはいわば賭けだった。今日、あなたがドファール家の魔の手から逃れ、生きて戻ってこられたのなら……そのときこそ、私はあなたに真の忠義を示そう。そう思っていました」
 目を見開くオースターの前で、局長は片膝をつき、頭を垂れた。
「マクロイ家の忠誠はあなたのもとに。オースター・アラングリモ殿下」
「局長……」
「私の想いはすべて正直にお話しした。これで信じていただけぬのならば、ここで殺していただいて結構。下水道ともども死にゆくこととしましょう」
「――お信じになりませぬよう」
 そのとき、ぞっとするほど冷ややかな声が室内に響きわたった。
 同時に、局長の首がぐっと後ろに反らされた。驚くオースターの目に飛びこんだのは、局長の首もとにあてがわれた短剣の刃だ。
 局長の背後で殺意に目を燃やしていたのは、従者のラジェだった。
「オースター様、なんとむごたらしいお姿――この男に……ドファールの犬に、なにをされたのです!」
 ラジェの口から、憎しみに満ちた声が漏れる。
「覚えているがいい、ドファール。このラジェが貴様ら全員の寝首をかいてくれる!」
 ラジェがここまで感情を剥きだしにするのを、オースターは生まれてはじめて目にした。
 それとともに、自分の中にあった混乱が消え去り、冷静な自分が現れた。
(局長は嘘をついていない。ルゥに案内役を命じたのもきっと本当だ。だからルゥは僕が地下に来ることを知っていたんだ。だから助けにこられた)
 いいや、今となってはそれが嘘かどうかなど、どうでもいい話だった。
 局長の話を聞いて、気づかされた。
 自分には、フォルボス・マクロイを殺すことはできない。
(このひとは、自分の価値をよく知っている)
 彼の命は彼だけのものではない。フォルボス局長がいなくなれば、遅かれ早かれランファルドの下水道は衰退するだろう。そうなれば、ランファルドの民は〈汚染〉に呑まれるよりも先に、病原菌に体を蝕まれることになるかもしれない。
(この国には、このひとが必要だ)
 ランファルドには、フォルボス・マクロイという男の知識と知恵が必要なのだ。
 ――ふと、オースターの心のなかに、なにかの感情が芽生えた。
 その感情がなんなのか、オースターにはすぐにわからなかった。
 ただ、それはこれまでに感じたことがないほど穏やかな感情だった。
(ああ、そうか。僕は……)
 オースターは手にしていた錐を手放した。工具が床に転がる音が響きわたる。
「オースター様、この男の言葉など信じてはいけない……っ」
 ラジェが声を荒らげた。局長はいっそ清々しいほどの表情で、両手を軽くあげて降参の意思を示す。
「ご命令を。この男を今すぐ殺せとおっしゃってください!」
「下がってくれ、ラジェ。フォルボス局長を害する必要はない」
「いいえ、この男は聞こえのいい言葉を並びたてているにすぎない。あなたにおもねることで、己の立場を確固たるものにしようとしているだけです」
「それは誰しも同じことだよ」
「同じではありません。アラングリモ家の次期当主におもねることと、この国の頂きに君臨する大公におもねることとは、その重みも意味もはるかに異なる。この男は大公殿下を殺めようとしたばかりか、今それをなかったことにし、オースター様の……大公殿下からの信頼を勝ち得ようとしているのです!」
 オースターはラジェを力なくねめつねる。
「僕を大公殿下と呼ぶなんて不遜にもほどがあるよ、ラジェ。大公殿下のお耳に入ったら、アラングリモ家に反意ありと疑われてもしかたがない」
「――いえ。この忠実な従者が言っている大公殿下というのは、まさしくあなたことですよ」
 口を挟んできたのは、ほかでもないフォルボス局長だった。
「七時間前、先代ランファルド大公が亡くなられました」
 淡々と言って、フォルボス局長は目を伏せた。

「新たなる大公殿下に、ご祈念申しあげる。先代の偉業を継ぎ、ランファルド大公国に新たなる安寧と繁栄をもたらさんことを。オースター・アラングリモ大公殿下」

 オースターは目を瞠り、フォルボス局長を見下ろした。その喉元には相変わらずラジェの短剣がつきつけられている。あふれでた血が鎖骨をたどり、シャツの襟もとを赤く染める。
「まだ戯言を抜かすか、マクロイ……!」
「待って!」
 オースターは我にかえって、短剣に力を籠めるラジェを制止した。
「局長。ここの地下にトマがいる。その忠義が確かだと言うなら、その証に今すぐ彼を救いだしてくれ」
 ラジェが信じがたいと言いたげな目をするのを無視して、オースターはわかるかぎりの状況を伝える。局長はラジェの短剣を優雅とも思える手つきで押しのけると、「御意に」とうなずいた。
「それからもうひとつ。さっき、地下水道で〈汚染〉を見た」
 局長は眉間に皺を寄せる。
「見間違いでは。……いえ、たしかに以前にも、ホロロ族が似たようなことを言っていましたが――」
「確かだ。でも、どこから侵入したのかはわからない。地下水道の全体像を把握しているのは、設計者であるあなただけだ。すぐに〈汚染〉の侵入経路を調べだし、対策を練らなくちゃいけない」
「わかりました」
 局長は驚きも動揺もほとんど表には出さずに答え、積まれた荷物の中を部屋の奥へと歩いていく。
「どこへ行く!」
 ラジェが吠える。フォルボス局長はそれを無視して、壁に設置された箱のふたを開けた。
 中にある無数のボタンを手早く操作する。すると、たったそれだけで「錆びついて動かない」とトマが言っていた大扉が、錆を強引に剥がしながら、轟音をたてて開いていった。
 開きはじめた扉の先に、あの恐ろしい暗闇が現れる。
「……ああ、よかった――トマ……!」
 オースターは我を忘れ、力の入らない足をもつれさせながら大扉へと走った。

「ご苦労。フォルボス・マクロイ君」

 甲高い九官鳥のような声がした。
 オースターははっと目を見開き、足を止める。
 驚きに振りかえった先には、〈喉笛の塔〉の底にいるはずのバクレイユ博士が満足そうに笑って立っていた。

第47話へ

close
横書き 縦書き