喉笛の塔はダミ声で歌う

第45話 君を守る

 いくら化け物じみた魔力を持っているからといって、フラジア、アモンを壊滅させ、さらにランファルドの国土の大半まで呑みこんだ上、十年が経った今なお拡大しつづけられるものなのか。魔法のない世界で生きてきたオースターには想像もつかない。
 それに、当初、研究所によって制御できていた〈汚染〉が、なぜ最終的に制御不能に陥ったのかもわからない。そもそも制御とはどうやったのか、本当に制御ができていたのか。もしかしたら制御していたのはホロロ族自身だった可能性だってある。
 一枚きりの電信では、書かれている以上のことはわからない。
 それでも、〈汚染〉の正体はホロロ族があげた叫びによって生じたことは、間違いないように思えた。
 でなければ、〈喉笛の塔〉で〈汚染〉が生じた理由に説明がつかない。

「トマ、さっき、ずっと不思議に思ってたことがあるって言ったよね。それはなに?」

 改めて訊ねると、トマはどこか悲しげな声で呟いた。
「追いかけてきてる、って思ったことがあるんだ」
「追いかけてきている……?」
「十年前、アモンの貴族の屋敷から抜けだして、ひたすら南に逃げる道中、何度も〈汚染〉に追いつかれそうになった。油断すると、いつの間にか背後に迫ってて……おれを追ってきてるみたいだなって思った」
 ふと、オースターはラクトじいじの話を思いだした。
「ラクトさんも同じことを言っていたよ。〈汚染〉は、追ってきたとしか思えないほどしつこく、ランファルドに逃げるホロロ族の列の背後に現れた、って」
 トマはひととき言葉をなくし、ふと独り言のように囁いた。 
「いっしょに連れていってほしかったのかな、南の楽園に……」
 言葉をなくすと、トマは皮肉げな調子で笑った。
「本当に追ってきてたのかもな。アモンからひとりで逃げだしたおれが、ランファルドに向かうみんなの呼ぶ声を聞いて、後を追ったみたいに。
 だとしたら、〈汚染〉をランファルドに連れてきたのは、おれたちホロロ族だ」
 共鳴。そうラクトじいじは話していた。
 南へ逃げろ。そう叫びつづけたラクトじいじの声に、〈汚染〉の襲来から生きのびたホロロ族が共鳴した。もしも共鳴したのがホロロ族だけでなく、〈フラジア北方戦略戦線研究所〉にいたホロロ族の女性の叫び――〈汚染〉まで招きよせていたとしたら……。
「もしそうなら、あんたたちは災難だったな。いや、おれたちをこの国に招いたのはバクレイユ博士だから、結局は自業自得か」
 オースターはなにも答えられなかった。
 豊かな穀倉地帯だったアラングリモ領を呑みこみ、ランファルド大公国を世界から孤立させた〈汚染〉。
 それが国と国の戦争に巻きこまれた、ひとりの人間の慟哭によって引き起こされたものだったとしたら、自分はそれを責めることができるだろうか。
〈汚染〉によって、たくさんの人が死んだ。だがその責任を、同じく戦争の犠牲者であるひとりの女性に押しつけることなどできるだろうか。
(もし、〈フラジア北方戦略戦線研究所〉に囚われていたのがトマだったら)
 あるいは、ルピィや、コルティス、ジプシール、オルグ、学園にいる大切な友人の誰かだったら。理不尽に捕らえられ、一年もの間、人間としての尊厳を無視され、実験道具にされてきたとしたら。
 絶望の果てに力を暴走させてしまったとして、どうしてそれを責めることができるだろう。
「さっき、オースターは地下水道で〈汚染〉を見たって言ったよな。おれも、見たことがある」
「……え!?」
「やっぱり旧水道のあたりだったと思う。それか、坑道のほうだったか。すげえ前……何年も前の話。たぶん〈汚染〉は、オースターが思うよりもずっと昔から、ランファルドの地下にまで入りこんでたんだ」
「そんな……」
「前、学園でルピィ・ドファールに馬鹿にされたって言ってただろう? 『ぬめり竜はそんなに大きくない』って。もしかしたらあれ、正しかったのかも。おれはでかい奴しか知らねえけど、とっくの昔に地下水道に〈汚染〉が侵入してたとしたら、ぬめり竜も変異したんだ。もともと小さい種族だったのが大きく」
 ルピィとは口をきかなくなって久しいから、ずいぶん前のことのように思えるが、たしかにそんな会話を交わした。

『ぬめり竜なら知っている。学術名はモグラミミズ。大型環形動物門貧毛綱の一種だ。成体でもせいぜい体長六百ルエール程度にしかならん。おまえの話を信じるなら、おまえが遭遇したぬめり竜は通常の五倍もの体長になる。話を盛るのもほどほどにしておけ』

 あのとき、オースターは自分を「嘘つき」呼ばわりするルピィに腹を立てた。
 だが、もしかしたらルピィは本当に、オースターを嘘つきだと思ったのかもしれない。
「もしぬめり竜が変異していたんだとしたら、〈汚染〉がランファルドの地下水道に入りこんだのは、かなり昔ってことになるよ」
「だな。十年とは言わないまでも、かなりの年数が経ってるのかも。ランファルドの地下は昔の坑道だらけだ。〈北の防衛柵〉の向こうから地下に入りこんで、そのまま坑道や地下水道を通ってきたのかもしれねえ」
「でも、どうして〈汚染〉の影響が、地上にまで出ないんだろう」
 地上の町は〈汚染〉されていない。地下に入りこんだきり、動きを停滞させているのだろうか。
「……わかんね」
 トマが眠たそうに呟く。オースターは首を横に振って、そのことをいったん忘れることにした。
「バクレイユ博士は、〈汚染〉を発電のために利用しようとしている。そのために、〈天然物〉のひとを……君の魔力を使おうと考えているみたいだ」
 ただ世界を腐らせるだけだと思っていた〈汚染〉だが、フラジアの研究者はあれを「エネルギー体」だと断言している。
 そして、一時的にせよその力を制御できていた可能性があるのだ。
 だとしたら、さらなるエネルギーを求めるバクレイユ博士が、〈汚染〉を発電に利用しようとしたとしても不思議ではない。
 トマになにをさせるつもりなのだろう。〈フラジア北方戦略戦線研究所〉で、囚われていたホロロ族の女性にしたことの再現でもするつもりなのだろうか。
(博士はフラジアの捕虜収容所も見学している)
 フラジアの研究者が「赤い扉」の向こうでホロロ族になにをしたのかも知っているはずだ。
(……ううん。それがどんなことであったとしても、トマは連れていかせない)
 この国の繁栄のためにトマを犠牲にするような真似、これ以上、許すわけにはいかない。

「君のことは、僕が必ず守るから」

 トマはふと笑った。
「僕、なにかおかしなこと言った?」
「いや……べつに」
「ええ!? 言ってよ」
「なんでもねえよ。ただ……おれ、友達ってなんなのか、よくわからねえんだ。いたことないから」
 ルゥやマシカとは仲がいいようだったが、ホロロ族のひとたちは仲間ではあっても、友達という感覚ではないのかもしれない。
「そういう風に、必死になって守ろうとしてくれたり、おれのこと考えてくれたり、友達ってそういうもん?  なんかすげえ……くすぐったい」
 照れくさそうに言うトマの口調は、いつになく柔らかで、オースターもなんだか恥ずかしくなった。
「トマだって、僕にお守りをくれたじゃないか」
「あれは……あんたを利用してやるつもりでいたから、その前に死なれたら困るって思っただけだ」
 ぶすっとして言うので、オースターはくすりと笑った。
「そんなにむずかしく考えないでいいよ。ただ、僕はトマが大切なだけだよ」
「……はあ?」
「なんだよ、その反応! だって、大切なんだ。君は僕にたくさんのものをくれた。僕がどれだけ嬉しくて、励まされたかわかる? そりゃ、痛い言葉もたくさんもらったけど……それも含めて全部、僕にとったら宝物なんだ」
 オースターはどうしたら自分の胸のなかにある気持ちを表現できるのかわからず、もどかしい気持ちでトマの手を握りしめる。
「トマは、僕を変えてくれたんだよ。ずっと目をそらしてきたたくさんのものと、向きあう勇気をくれた。だから、君からもらったもの全部、大切にしたいんだ。君のことを大切にしたいんだよ。トマが苦しんでるなら、力になりたいんだ。そういうのが、その……僕が言った友達ってやつで……いや、でもこれだと友達そのものの説明にはなっていない気がする……ええと……ええとー」
「……もういいよ。ていうか、なんでそんな恥ずかしいこと、恥ずかしげもなく言えるんだよ、あんた」
「友達を大切って言って、なにが恥ずかしいのかなあ!?」
「恥ずかしい。もういい。黙れ」
 勘弁してくれと言わんばかりに言って、トマは小さく息をついた。
「これからどうしたいのかわからないのは、おれがなにも知らないからなんだろうな。友達がなんなのかも、普通の人間の暮らしがどういったものなのかも。自由になりたいって思うけど、本当のところ、おれは自由がなんなのか知らない。でも――」
 トマは遠い地に想いを馳せるように呟く。
「母親が小さい頃に教えてくれたんだ。歌はホロロ族の魂だって。檻に閉じこめられてたって、魂だけはだれにも侵せない。歌だけはおれを自由にしてくれるって。
 けど、〈喉笛〉をとられて、おれは歌えなくなった。自由に飛べなくなった。海辺の国にももう行けない……」
「海辺の国?」
「ホロロ族の先祖が住んでた場所だ。おれたちみんなの故郷。心のなかにある楽園。苦しみも不安もなにもない世界。……アモンから逃げだして、ラクトじいじたちと合流したあと、南の楽園を目指すんだって聞かされたとき、それはきっと海辺の国みたいにあたたかな楽園なんだろうなって勝手に想像した。地下の監獄に入れられるなんて、考えてもみなかった。……おれは、あの海辺の国に帰りたい。あそこには、母さんがいる。父さんもいる。みんな笑顔で歌ってて……」
「……トマ?」
「〈喉笛〉を取りかえしたら、オースターも連れてってやるよ。本当はオースターも自由がなにかなんて知らないんだろう……?」
 かすれた声で呟いて、トマはそのまま小さく寝息をたてはじめる。眠ってしまったようだ。
 夢うつつのトマの言葉に、オースターはなぜだか泣きたくなって唇を噛みしめた。

(僕も、自由を知らない……)

 トマと同じだなんてとても言えない。トマのように檻に閉じこめられてきたわけでも、首輪をはめられ、労働を強制され、番号によって管理されてきたわけでもない。
 けれど、「公爵家の嫡男」という役割に縛られ、逃げ場がなかったという意味では同じなのかもしれない。
 ――いつか、みんなに女であることを明かすつもりでいる。だが、十年以上もこの国の人々を、大公と諸侯を欺いてきた罪は計り知れない。オースターが嘘を明かせば、オースターにも、母にも、ラジェにも乳母にも罰が下るだろう。
 その罰とは、極刑だ。
 この国において、極刑とは斬首刑を意味している。
(僕の魂も、連れていってくれるかな)
 トマの歌に導かれて、自由で平和な「海辺の国」に行けるのなら、それはきっと幸福なことだ。
 オースターは目を閉じる。寒い。凍えそうだ。握ったトマの手だけが熱い。きっと「海辺の国」も暖かいのだろう。
 想像するうちに、やがて睡魔が襲ってきて、眠りにつく。



 ――それからどれだけの時間がたったのか。
 オースターはトマの声を聞いた気がして目を開けた。
 途端、暗闇が容赦なく襲いかかってきて、瞬間的な緊張で息があがる。
「このままじゃまずい」
 傍らでトマが呟いた。切羽詰まった声に、オースターは上ずった声で「なにが?」と聞く。
「水が引くのを待ってたら、オースターが先に寒さで死んじまう」
「……僕なら大丈夫だよ。すこし寒いぐらいだから」
「おれは水に濡れることに慣れてる。でもオースターは無理だ。濡れたままじゃ、あんたの今の体の状態じゃ朝までもたない」
 トマが身じろぎをする気配を感じる。オースターは不安に駆られた。
「なにするの?」
「さっき通気口があるって言っただろう。きっとどこかに通じてる」
 戦慄する。ヘッドランプの明かりが消える前に、通気口を目にしている。けれど、とても人間が入れる幅ではない。
「あの通気口、狭くて入れないと思ってたけど、肩の関節を外せばいけるかも」
「そんなの無茶だよ! ……トマ?」
 オースターはそこではじめてトマの手が異様に熱いことに気がついた。
 自分が凍えていて気づかなかった。トマだって水に濡れたのに、いくらなんでも熱すぎる。
 手を離し、手探りでトマの体を探る。濡れた服をたどっていくと、首だか頬だかの皮膚に触れた。凍えた手がじんと溶けるぐらいの熱さが伝わってくる。
「ひどい熱だ。いつから」
 記憶を掘りかえしてみても、トマの手は最初から熱かった。
 ずっと熱があったのだ。
 そうだ、ラクトじいじが言っていたではないか、トマは〈喉笛〉の摘出手術のあと、高熱を出して寝込んでいると――。
「通気口を這っていったら逃げられる。そしたら、自由になれる。もう鎖につながれなくて済む……」
「鎖? なに言って――」
 支離滅裂な言葉に、オースターは震えあがった。
(落ち着け。平静を失ったらだめだ)
 これだけ濡れているのに体が冷えないならまずい状態だ。トマこそきっと朝までもたない。朝までもったとしても、都合よく水が引くとは限らない。
「トマ。あの通気口があったのって、錆びた大扉の右? 左だった?」
「入れないんだ。狭い。どこに行くかもわからない」
「僕は君よりももっと華奢だ。君が肩を外せば入れるかもって判断したなら、僕ならもっと楽に入れる」
「暗くて狭い。でも、あいつらは入ってこられないから安心だ」
 オースターは自分の手首に意識をこらす。そこにはトマが編んでくれた飾り紐がある。何度もオースターを勇気づけ、守ってくれたお守りだ。

(――僕が行かなくちゃ)

 オースターはトマから手を離した。
 真っ暗闇の中、腹ばいになって狭い空間から抜けだす。長い時間、縮こませていた体はガチガチに固まっていた。アキとロフに殴られ蹴られたところも、地下水道の崩落で負った腕の怪我も、動きだした途端、鋭い痛みとなって存在を主張してくる。

(落ち着け)

 トマを蹴らないように用心しながら――それでも何度か蹴飛ばしてしまいながら、どうにか立坑のふちに腰かけることに成功する。
 今度は爪先を使って、のぼってきた梯子を探す。 水はたしか、上から三段目のところで止まっていたはずだ。
 そう思っていたが、二段目までおりると水面らしきものに触れた。

(落ち着け)

 オースターはそのまま二段目に足を乗せ、立坑のふちに座ったまま、手で黒い虚空を探った。
 通気口のある壁までは、梯子から腕をめいっぱい伸ばせば届く程度の距離しかなかったはず――あった。指が、壁らしきものに触れた。なら、このまま手探りに通気口を探せばいいだけだ。
 だが、どれだけ探しても、錆びた大扉も、通気口も見つからなかった。
 もっと腕を伸ばさなくちゃ。オースターは尻を浮かせ、水に沈みかけた梯子だけを足がかりに、ぎりぎりまで腕を伸ばす。

「……っ」

 足が滑った。バランスを崩した体はどっと水に落下し、オースターは泡を吐きだしながら手をばたつかせる。
 手がなにかに当たり、死に物狂いでそれに掴まる。それがなにかはわからないが、感触からしてたぶん梯子だ。さっきの梯子だろうか。それともほかにも梯子があっただろうか。
「トマ!」
 激しく乱れる呼吸を整え、呼びかける。だが、返事はない。
 離れなければよかった。猛烈な後悔が襲ってくる。暗すぎて、もう戻ることができない。トマがどこにいるのかもわからない。
 オースターは梯子をのぼり、上半身だけを水面の上に出した。震える手でさらに壁を探ると、さっきまでとは違う感触に触れた。
 冷たい金属の感触だ。指先で形を探ると、錆びて開かなくなったという円形の大扉のように感じられた。
(これだ。この扉の右脇か、左脇に通気口が……)
 あった。右側だ。穴が開いている。
 ふちを手で探る。狭い。いや、狭いどころではない。こんなの頭が入るのがせいぜいだ。華奢なオースターでも肩なんて通らない。きっと入れても途中で詰まる。そうなったら――。

「しっかりしろ、馬鹿……!」

 オースターは自分を叱咤し、今度は梯子の横棒と縦棒の隙間に足をつっこみ、足場を安定させてから、通気口の内部に両腕をつっこませた。
 次いで、頭をくぐらせるが、すぐに肩がふちに当たった。それでもうんと身を縮めると、ぎりぎりで肩が通過した。通過してしまった。
 腹ばいになって、傾斜のほとんどない通気口のなかを進む。梯子からはすでに足が離れている。もう後戻りはできない。
 心臓がばくばくと高鳴る。ずりずりと少しずつ這ううちに、つま先までが管の内部に入りきった。濡れた靴の先で乾いた底面を蹴って、さらに前に進む。
 いつ詰まってもおかしくない狭さだ。前に進むたび、肘や膝がざらついた壁にこすれ、やすりをかけられたみたいに熱くなる。
(こわい……)
 目を閉じろ。開けるな。自分に言い聞かせる。狭さも、暗さも、すべて意識の外に追いやれ。でなければ、もう正気を保てない。
 オースターは考えることをやめた。ただ、同じことを繰りかえすだけの生き物になることにした。ただ前へちょっとずつ進むだけの生き物。そう、芋虫になろう。少しずつ水音が遠ざかる。ずいぶん這った気がするが、きっとそうでもない。通気口はどこまでつづくかわからない。行き止まりかもしれない。枝分かれしているかも。先が詰まっていたら、どうやって後ろに下がろう。
(なにも考えるなったら……!)
 恐怖のあまりに悲鳴をあげそうになったそのとき、遠くから声が聞こえた。 
 歌だ。本当にかすかな、ダミ声の歌。
 トマだ。熱に浮かされ、朦朧とするあまりに歌っているのか。それともオースターが通気口に入ったことに気づいて、励ますために歌ってくれているのか。
 ほんのひと月前、はじめて下水道におりたときに感じたよりも強い勇気が体にほとばしった。
 そうだ、ここは穏やかな春の日差しに包まれた、緑豊かな草原だ。
 幼いころ、老いた愛犬と一緒に駆けまわったアラングリモ領の大草原だ。
 体が軽く感じられた。
 体中に感じていた痛みはなくなり、芋虫になって這うことが苦ではなくなる。

 かすかに暗闇が薄れる。
 通気口の終わりが、ぼんやりと輪郭をあらわした。



 通気口の出口から上半身を出した状態で、オースターは動くことができなくなった。疲労が激しくて、指一本動かすのも億劫だ。すでに歌は聞こえない。聞こえなくなったころからまた体の重さと凍えがよみがえってしまい、今はこのありさまだ。
 それでも外に出られた。
 乱れた呼吸がようやく整ったところで、オースターはのろのろと顔をあげた。
 暗く、埃っぽい空間だった。どこかの施設の一室のようだ。箱が乱雑に詰まれ、一見、倉庫のように見える。人がいる気配はない。
 壁の低い位置に開いていた通気口の出口から、ぼとりと床に落ちる。力の入らない体を叱咤し、かろうじて立ちあがる。
 赤い光が壁をぼんやりと照らしている。光源を探すと、部屋の隅になにかの小型装置を発見した。
(電気が来ているんだ)
 積まれた箱の奥に、扉らしきものがあった。倒れこむようにして扉の前にたどりつく。ドアノブを動かしてみるが、開かない。電気が来ていることを考えると、きっと外から鍵がかけられているのだろう。
 オースターは赤い光の点る小型装置のもとに向かった。
(通信機かな……)
 これを使えば、外にいる誰かに助けを求めることができるかもしれない。
 適当なスイッチを押してみる。使い方がわからず、がむしゃらにスイッチを押して、なにかしら反応がないかを試みる。
 ふいに、通話をつなげているときのような音がした。
 ぷっと音がとぎれ、どこかにつながった気配がする。
「誰かいますか。オースター・アラングリモです。地下水道を歩いているうちに、道に迷ってここに……助けをよこしてください」
 かじかんだ唇を動かして言うと、ざりざりとした音の向こうで声がした。
『まさか……皇太子殿下ですか? そこは閉鎖された施設です。どうやって』
「お願いだ、疲れがひどくて、これ以上は話していられない。怪我人がいます。はやく助けを……」
『――すぐに向かいます』
「あなたの所属を教えてください」
『衛生局の通信技師です。どうか通信はつなげたままに――』
 言いかけた相手の言葉をさえぎって、オースターは通信を切った。
 そのまま、室内に物色の目を向ける。
 オースターから通信があったことは、すぐにフォルボス局長の耳にも入るだろう。
 アキとロフの手で始末されたはずのオースターが生きている。そうとなれば、あの男はきっとひとりでここに来るはずだ。なにせオースターは、フォルボス局長がドファール家による皇太子暗殺に加担していることを知っているのだ。
(もう二度と油断はしない。自分の身は自分で守る。トマはかならず僕が守る)
 積まれた荷物をひっくりかえすうち、手入れのされていない工具が詰めこまれた箱を見つける。もっと体力が残っていたら金づちを掴んだかもしれないが、結局、選んだのはやはり錐だった。
 最後の力をこめて柄を握りしめ、荷物の陰に身をひそめ、オースターは扉を凝視した。

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