喉笛の塔はダミ声で歌う
第44話 始まりの地
暗闇の中で、ふたりは互いのことを語りあった。
トマは東の魔導大国アモンでの暮らしや、ランファルドまでの逃走の話、そして下水道での仕事の話を。オースターは、少女だったころの話や、性別を隠しながらすごしてきた学園生活の話を。
歩んできた道のりを語りあううち、オースターは昔からの友であったようにトマのことを知ったし、トマもどうやらそのようだった。
心安らぐ時間もやがて重たい疲労に呑まれていった。オースターは泥に沈むように眠りに落ちる。
けれど少しも眠らぬうちに、はっと目を覚ます。
目を開いているはずなのに、そこにあるのは、閉じていたときと変わらぬ闇。真っ黒な壁が鼻先に迫っているかのような圧迫感に、一瞬でパニックに陥りかける。
「大丈夫だ。水はあがってきてないから、眠ってろ」
そのたびに、トマが枯れた声で囁く。握ったままの手に力をこめられ、泣きたくなるほど安堵する。
「トマの手、あったかい」
「オースターの手は冷たい」
「うん、寒くてしかたない」
水に浸かっていたときは無我夢中だったから気づかなかったが、いつからか震えが止まらなくなっていた。濡れた体が痛いぐらいに強張って、まるで凍ってしまったようだ。しゃべろうとすると、歯までカチカチと鳴る。
(話せるうちに話しておかなくちゃ)
オースターは頭を振って、飛びそうになる意識をかろうじて呼びもどす。
「トマ、これからのことを話そう。君の〈喉笛〉はぜったいに取りかえす。それは決まってるけど、具体的にどうするのか……それからほかのホロロ族のみんなのことも考えなくちゃ」
「寝てろ。おれたちのことは、あとでいいから」
「ううん。いま寝てしまったら……目を閉じて、次に目を開けてもまだ、周りに暗闇しかないってわかったら、今度こそ正気ではいられないかもしれない。まだ頭が回っているうちに、話しておきたいんだ」
「……けど、おれのほうが、もう頭、あんま回ってねえ」
そう答えるトマの口調は、たしかに眠たげだった。
「じゃあ、ひとつだけ。これからのことを考えるうえで、君に知っておいてほしいことがあるんだ」
緊張のせいか、危機感のせいか、オースターの眠気はにわかに消え去った。
トマが軽くうめいて、身じろぎをする。
「オースターが女だってことのほかに、まだなにかあんのかよ」
「うん。――〈汚染〉のことだ」
胸が早鐘を打つ。これから話そうとしていることは、オースターもまだ受け止めきれていない話だった。
「アモンから逃げるときに、トマは〈汚染〉を間近に見ているんだよね。僕は小さいころに、アラングリモ領の地平線で陽炎のように揺らいでいるのを見たきりで、すぐそばで見たのは今日がはじめてだった」
それは驚異的な光景だった。手のような形をした黒い靄。あの黒い手は、意志を持った生き物のような動きで、ラクトじいじの腕に掴みかかったのだ。
「トマは、〈汚染〉の正体について、考えたことはある……?」
〈汚染〉の正体については、いまだに議論がなされている。フラジアかアモン、二つの大国のどちらかが使用した兵器の副産物だとする説が有力だが、それはあくまでも推測にすぎない。
オースター自身も、想像をふくらませるだけなら何度となくしてきた。けれど、真剣にその正体を知ろうとしたことはなかった。なにせ、必死になって考えたところで、誰もその正解を知らないのだから。
だが――それはただの思いこみだった。「誰も知らない」と勝手に思いこんでいただけで、知っている人は、いや、少なくとも限りなく真相に近い手がかりを持っている人はいたのだ。
「ない。けど……ずっと不思議に思ってたことはある」
トマは眠そうなダミ声で呟く。
「不思議に思ってたことって?」
「そっちが先に言ってくれ。なにかあるんだろ」
トマにうながされ、オースターは意を決した。
「さっき〈喉笛の塔〉で、バクレイユ博士から古い電信を見せられたんだ。〈フラジア北方戦略戦線研究所〉というところから届いたものだった。聞いたことは?」
トマは「ない」とだけ答える。
「たぶんなんだけど、ここでは、その……捕虜として捕えたホロロ族の人体実験を行ってた。アモンの『魔法』の正体を探るために」
トマの心情を慮って、オースターはためらいがちに言う。
「それって、ラクトじいじやマシカがいたような、捕虜収容所みたいなところか?」
「たぶん。でも、もしかしたらだけど、仰々しい名称からして、捕虜収容所よりももっと規模の大きな施設」
トマは〈汚染〉がアモンに迫ったとき、飼われていた貴族の屋敷から逃げだし、直接、ランファルドまで逃げてきたと言っていたから、捕虜収容所については詳しくないだろう。
一方のラクトじいじたちは、フラジアに戦争捕虜として捕えられ、フラジア国内の捕虜収容所に送られた。移送中に〈汚染〉の襲来を受け、監視が混乱しているのに乗じて、逃げだしたのだ。
その捕虜収容所では、ホロロ族に対する人体実験が行われていた。フラジアはアモンの魔法の秘密を探ろうとしていたのだ。
捕えられたホロロ族は、ひとり、またひとりと、施設の奥にある赤い扉の向こうに連れていかれた。順番が回ってくるまで牢に入れられていたラクトじいじは、扉の先から、仲間の悲鳴が聞こえてくるのを何度も聞いている。
ラクトじいじなら、もしかしたら〈フラジア北方戦略戦線研究所〉のことも知っているかもしれないが、ここにいるかぎりラクトじいじには会えないし、老人の安否を確認する術すらなかった。
「この施設でも、ほかの捕虜収容所と同じく対アモン戦略を研究していたんだと思う。アモンの『魔法』の秘密を探るため、ホロロ族を研究材料にしていたんだ。それで……」
オースターはトマの熱い指をぎゅっと握りしめる。
「そこに、〈天然物〉の女性がひとり、捕えられていたみたいなんだ」
十年も昔の技術で届いた電信だ。ランファルドよりもはるかに科学的に進歩したフラジアではあったが、それでも印字された文字数には限りがあった。文字も部分的にかすれ、紙も黄ばんでいた。おそらくバクレイユ博士は繰りかえし電信を読みなおしたのだろう、畳み皺のところで印画紙はなかば千切れてしまっていた。
それでも、十年前に届いたフラジアからの「最後」の電信には、オースターが戦慄するのに十分すぎるほどの情報が詰めこまれていた。
「〈フラジア北方戦略戦線研究所〉では、その女性を使って、一年にもわたっていろいろな実験をしていたらしい」
「一年も……なにを?」
「わからない。人体実験っていうぐらいだから、きっと、言葉にもできないぐらい酷いことをしていたんだと思う」
電信にはそこまで詳しくは書いていなかった。だが、ラクトじいじがいた捕虜収容所では、人体実験を受けたホロロ族の悲鳴がたびたび聞こえたというから、それはきっと痛みや苦痛を伴うものだったのだろう。
(彼らが生きて戻ってくることはなかった……)
だとしたら、人体実験の果てに待ち受けていたのは、死。
実験材料として不要になったから殺されたのか。それとも実験の結果、死んだのか。どちらにしても悲惨なことには変わりない。
逃げ場のない檻に閉じこめられ、悲鳴をあげながら死んでいったホロロ族のことを思うと、その人体実験をランファルドの同盟国の人間が――同じ人間がやったのかと思うと、耐えがたいほどの自責の念がこみあげてくる。
そして、〈フラジア北方戦略戦線研究所〉で行われた人体実験もまた、きっと凄惨なものだった。
被験者として一年もの時間を生きることがどれほどむごたらしいことか、オースターには想像すらできない。
いつ終わるとも知れない恐怖と絶望。ほっと眠りにつく瞬間も、明日を迎える喜びも、そこにはなかっただろう。
生きる希望などなにもないまま、一年というあまりにも長い時間をすごしたその果てに、いったいなにが起きてしまったのか――。
「一年が経って、突然、所内に『謎の黒いエネルギー体』が発生したらしいんだ」
震える声で呟くと、トマが身構えるように身じろぎをした。
「莫大な力を秘めた、けれど、とても不安定な波動を放つエネルギー体。発生したばかりの頃は、研究所のひとたちの手で制御できていたようだけど、バクレイユ博士に電信を送った所員は、そのエネルギー体を『手綱のない猛獣』と表現していた。いつか制御不能に陥るんじゃないかと心配して、博士に助言を求めていた」
「……そのエネルギー体ってのは」
オースターは小さく息を吸って、電信の最後に書かれていた言葉をトマに伝える。
「謎のエネルギー体は、そのホロロ族の女のひとの『叫び』から生まれたんだよ、トマ」
一年もの間、どのような実験を施そうとも、うめき声ひとつあげなかったその女性が、突然、叫び声をあげたという。
叫びつづける彼女の口から、黒い靄のようなものがこぼれだした。
それは見る間に広がり、研究所の一区画を丸々呑みこんだ。逃げおくれた三人の所員を生きたまま腐らせ、さらに拡大をつづけた。
呑みこまれた区画は、壁も、床も、腐食したように溶けてしまい、そして不意にそれは止まった――。
「つまり……〈汚染〉はホロロ族が生みだしたってことか?」
強張った口調で、トマが言う。オースターは「うん」とうなずいた。
〈汚染〉という名称は、フラジアやアモン、その周辺の小国群といっさいの連絡が取れなくなってから、ランファルドの人間が命名したものだ。だから、フラジアからの電信には「正体不明の黒いエネルギー体」が〈汚染〉の正体だなどとは、一言も書かれてはいない。
だが、オースターも自分自身の目で見ている。〈喉笛の塔〉で、ホロロ族の〈喉笛〉たちが悲鳴をあげた直後に〈汚染〉が生じたのを。
そして、それをともに目撃したバクレイユ博士は歓喜のあまりにこう叫んでいる。
『アモンとフラジアを壊滅させた〈汚染〉の正体を、我々はついにこの目で見きわめたのだ! まさか、あの最後の電信に書かれていたことが事実であったとは……』
それを考えれば、〈汚染〉の正体は、ひとつしか推測できない。
ホロロ族の魔力だ。
だが、ホロロ族には大した魔力はないという話だった。フラジアとアモンを壊滅させ、ランファルドの国土の四分の三を〈汚染〉するほどの力を生みだせるとはとても思えない。それができるならば、そもそも長年、アモン貴族の奴隷に甘んじているはずがないのだ。
しかし、バクレイユ博士はこうも言っていた。
『やはり〈天然物〉が鍵なのだ』
指先まで凍るように冷たくなった手で、トマの熱い手を何度も握りなおす。
「〈天然物〉のホロロ族は、〈養殖物〉のひとたちよりも魔力が強いって聞いた。トマも叫び声ひとつで地下水道を崩落させられただろう? きっとホロロ族は、とくに〈天然物〉と言われるひとたちの潜在魔力は、君たち自身が自覚しているよりもずっと強いんだ」
「まさか。そんな世界を滅ぼすような力、いくらなんでも……」
否定しかけたトマは、不意に黙りこんだ。
「いや……聞いたことがある。昔、アモンの貴族の屋敷で。おれを飼ってた奴と、奴の客人が噂してたんだ。ずっと昔、ホロロ族は西の果ての島に、アモンよりもずっと強い帝国を築いていたって。先祖から受け継いできた〈喉笛〉を利用した〈喉笛の塔〉と呼ばれる魔力炉を国中に配備して、アモンでも成功したことのない魔導船を大空に浮かべるほどの力を持っていた……」
「〈喉笛の塔〉を、国中に――」
「そう。でも、長いこと敵なしだったホロロ族は、平和に生きるなかで歌う以外の魔法を忘れてしまったんだ。そうしてどんどん弱くなっていって、〈喉笛〉から魔力を引きだす方法まで忘れてしまった。けど、今でもたまに先祖がえりをするホロロ族が現れる。そのホロロ族は化け物じみた魔力を持っている、って」
化け物じみた魔力。
それを〈フラジア北方戦略戦線研究所〉に囚われたホロロ族が有していたとしたら。そのことを自覚せぬまま、あるいは知ったうえで、秘めた魔力を解き放ったのだとしたら。
(〈汚染〉はランファルドより北の国々のどこかで始まったと言われている……)
だとするなら、それは西の科学大国フラジアの〈北方戦略戦線研究所〉で始まったのだ。