喉笛の塔はダミ声で歌う

第43話 理想の姿

「どうやって助けに来てくれたの?」
 長い時間の中で、オースターとトマは、ぽつりぽつりと話をする。
 暗闇は意識すると一瞬で正気をなくしそうなほど恐ろしかったが、つないだ手の温かさがオースターを安心させた。
「ルゥが呼びに来た」
 その返答に、オースターは震える息を吐きだす。よかった、ルゥは無事だったのだ。
「ルゥと別れた場所から移動してたのに、よく場所がわかったね」
「ぬめり竜が這った跡には、粘着性の足跡が残る。それを追った。そしたら一匹、穴に引っかかってたから、たぶんオースターはその先だろうと当たりをつけて、回りこんできた。でも、思ってたより早く水が来てて……焦った」
「けど、僕は水に呑まれて、ぜんぜん違うところまで運ばれちゃったんじゃ……」
「おれがやったお守り、持ってるだろ。あれ、結びのまじないなんだ。編んだ人間と、結んだ人間の間につながりをつくる。近いところにいれば、なんとなく居場所がわかる。それに……」
 トマは少し不思議そうな声音で言った。
「オースターの声を聞いた気がしたんだ」
 では、あれは夢ではなかったのだ。朦朧とする意識が見せた幻かなにかだと思っていた。
「すごい……やっぱり魔法なんだ」
「ただのまじないだ。歌いながら編めば、ちょっとだけ力が宿る。それだけ」
「でも、そのおかげで僕は助かったんだ」
「おれを助けるために地下水道に入ったんだから、”おかげ”ってことはないだろ」
 たしかにそうとも言える。オースターはふと眉根を寄せた。
「そうだ。バクレイユ博士が君を〈喉笛の塔〉に連れさろうとしているのを知って、フォルボス局長に頼んで、ホロロ族に連絡を入れさせたんだ。君を独房に入れて、鍵をかけ、その鍵をルゥに預けるようにって。そうしたら僕が行くまで、長老やほかのホロロ族から君を守れるんじゃないかと思って……その連絡はちゃんと伝わっていたのかな?」
 フォルボス局長は、オースターのもとにアキとロフを送りこんだ。その時点で、オースターの味方などではなかったことははっきりしている。ホロロ族に託した伝令もどうなったのかわからない――そう思っていると、トマは「連絡は来たよ」と言った。
「いきなり独房に放りこまれた。局長命令だって言うから、懲罰の一環だと思ってけど……あんただったんだな」
 呆れたような口ぶりに、オースターはまごつく。
「とっさにそれ以外、思いつかなかったんだ。怖かったよね、ごめん」
「怖いわけねえだろ、独房なんか入り慣れてる」
 どこか得意げに言うので、おもわず笑う。笑えるぐらい余裕を取りもどしてきたことに、オースターは安堵を覚えた。
「じゃあ、長老やみんなから、君を守ることができたんだ」
「……どうだろうな。長老も、誰も、独房には来なかった。なにか町で騒ぎがあったみたいで……」
「騒ぎって?」
「わかんねえ。けど、みんな、妙にざわついてた。〈喉笛の塔〉が異様な声をあげたのは町まで聞こえてたから、そのせいかとも思ったけど、ざわつきはじめたのは声が聞こえてからだいぶ経ってからなんだ」
 なんだろうか。オースターは胸がざわつくのを感じた。塔で黒い手に襲われ、負傷したラクトじいじが戻ってきたのか、それとも〈喉笛の塔〉のこととは別の問題が起きたのか――。
「そのうち、ルゥが来て、鍵を開けてくれた。オースターが大変だ、みたいなことを伝えようとしてきたから……」
「ルゥは?」
「町に置いてきた。様子がおかしかったから」
 心が沈んだ。ルゥがおかしかったのは、実の兄であるアキとロフが目の前でぬめり竜に食われたからではないだろうか。オースターは重たい口を開いて呟く。
「アキと、ロフが……」
 死んだことだけ伝えるべきか、彼らがなにをしようとしたかまで伝えたほうがいいのか。逡巡する間に、トマが「わかってる」と言った。
「死体があった。ふたり分あるのかもわからないぐらい、めちゃくちゃな状態だったけど」
 オースターは唇を引きむすぶ。
「自業自得だ。オースターが気にすることはない」
「ふたりが僕を殺そうとしたのは、アラングリモ家とドファール家の確執が原因だ。ふたりにとっては関係ないことだった。巻きこんでしまったのは、僕だ」
「関係ないわけじゃない。見返りがあったんだ。――フォルボス局長から、時どき〈特別な仕事〉が入る。ドファール家からの指令だ。アキとロフはその〈特別な仕事〉を気に入ってた。ドファール家が『排除しろ』と命じた人間を下水道まで引っ張ってきて、脅したり、痛めつけたり、迷わせたり……たぶん殺しもしてた。今日、あんたがされたように。あいつらは中毒になったみたいに、危険で、刺激のある仕事を欲してた。好きだったんだ、他人をいたぶって遊ぶのが」
 オースターはうなずく。そして、ふたりがしていたのは〈特別な仕事〉だけでない。地上にたびたび出てきては、自分たちの意思で犯罪に手を染めていた。不法侵入、盗難、婦女暴行――きっとそれ以外にも。
 ふたりが過去にやってきたことは、許されていいことではない。罪をつぐなうべきだと思う。けれど、ぬめり竜に食われるだなんて、あんなむごたらしい結末を迎えることは考えていなかった。
 それに、ふたりがああも心を歪めてしまったのは、幼い頃から虐げられてきたことが原因だと思えば、複雑な気持ちにもなる。
「あいつらほど軽薄に〈特別な仕事〉を受ける掃除夫はほかにいなかったから、局長もあいつらには甘かった。そのせいで、ラクトじいじはあいつらになにも言えなかった。みんなもそうだ。媚びへつらってた。ルゥが暴力をふるわれていても、見て見ぬふりをして……俺はあいつらが死んでくれて、せいせいしてる」
 トマが本気でそう思っているのかはわからなかった。ただ、その口調にはどこか割り切れないものがあるように聞こえた。オースターの気持ちをやわらげようとして、わざとそう冷たく言ってくれているのかもしれない。

「……トマは、どうするつもりでいるの?」

「なにが?」
「これからのこと。もし、ここから出られたとして、それから先のことは?」
 ずっと聞きたかったことだった。〈喉笛〉を盗むというのは、あくまでもオースターの考えだ。肝心のトマの気持ちを知りたかった。
 そう言うと、トマは黙りこんだ。オースターはためらったすえに続ける。
「〈喉笛の塔〉の監視所の地下で見たんだ。〈アニアシ大回廊〉って名前を。アニアシって、どこかで聞き覚えがあった気がしたんだけど……前に君が話してたんだ。〈アニアシの葉脈〉って」
 トマはまもなくそこの掃除夫に任じられるはずだった。ところが、オースターの教育係を任され、〈アニアシの葉脈〉の担当から外れることになった。トマはとても憤って、ラクトじいじが訝しく思うほどだった。
「あのとき、〈アニアシの葉脈〉ってなにか聞いたら、トマは大公宮の地下水道のことだって答えた。でも、僕が見たのは〈喉笛の塔〉の監視所の地下でだ。……もしかして、あのときトマは嘘をついたんじゃない? 本当は、〈アニアシの葉脈〉があるのは大公宮の地下ではなくて、〈喉笛の塔〉の地下。もしそうだとしたら、嘘をついた理由って……」
 最後まで言わずにトマの反応を待つと、トマはやがて小さく呟いた。
「〈アニアシの葉脈〉から、〈喉笛の塔〉の内部に侵入できる配管があるんだ」
 やっぱり。得心がいって、オースターは小さく息を吐き出した。
「おれが小さいころは、〈喉笛〉をとられることに抵抗を覚えるホロロ族はもっといたんだ。ほとんどがおれと同じ〈天然物〉の大人で、どうにか〈喉笛の塔〉に侵入できるルートがないかを、ひそかに探してまわってた。何年もかけて見つけたのが、〈アニアシの葉脈〉にある、一本の細い管。……でも、すごく狭い。大人には入れない。だから、みんなはおれを仲間に引きいれて〈アニアシの葉脈〉のことを教えてくれた。『いっしょに〈喉笛〉を取りかえして、地下の町を抜けだそう』って言ってくれた。……全員、事故や病気で死んじまって、いまはおれしか残ってないけどな」
 オースターは息をのんだ。
「おれひとりだけでも、〈喉笛〉を取りかえすつもりでいた。おれの〈喉笛〉がランファルドにもたらす電気量はかなり多いらしいから、あんたたちは困ることになる。それでも取りかえすつもりでいた。……魂を置いてはいけない。〈喉笛〉を塔に残したままじゃ、どこに逃げたって心はこの国に囚われたままだ。そんなの、いやだ。おれは自由になりたい。だから、どんな犠牲を払っても〈喉笛〉を取りかえして、ここから出ていくつもりでいた。どこでもいいから、ひとりで生きていける場所へ出ていくつもりだった」
「どうして過去形で話すの?」
 どこかあきらめた口調のトマに、オースターは困惑した。
 トマは暗闇のなかで深く沈黙してから、ぽつりと言う。
「このあいだ、おれは魔力を暴走させた。たくさん人が死んだって聞いた」
「――君のせいじゃ」
「ちがうんだ。おれは自分の〈喉笛〉を取りかえすためなら、何人死んだっていいと思ってたんだよ。あんたたちランファルドの人間が困ったとしても、ホロロ族のみんながつらい目に遭っても、どうでもいいって思ってた。だれも苦しみをわかってくれない。なら、みんな消えてなくなれって思ってた。だから、何人死んだってどうだってよかった。……よかったはずなのに」
 トマは言葉を詰まらせる。
「あんたが怪我して倒れてるのを見たら、マシカが血まみれになって、瓦礫の下で死んだみたいに動かなくなったのを見たら、もうだめだった。あんたたちを見殺しにする覚悟をしてたはずなのに、全然だめなんだ。辛くて、仕方なかったんだよ。だから、〈喉笛〉のことはもういい。オースターももう危険なことはしないでいいから」
「あきらめるっていうこと?」
 驚いて訊くが、トマはなにも言わなかった。
「だめだよ、そんなの。僕はあきらめない。ランファルドの平和が、誰かの苦しみの上に成り立ってるなんて、そんなの間違ってる。僕は君の魂を、かならず君の手に返す。君の苦しみをなかったことになんかしない。僕は絶対に君を見捨てない」
 トマは言葉を失ったようだったが、やがて心もとなく呟いた。
「なんでそこまでしてくれるんだ? あんなにひどいこと言ったのに……怪我させて、あんたの国の人たちまで大勢死なせたのに」
 頭の中に、たくさんの答えがあふれかえった。
 けれど、実際に口をついて出たのは、たった一言だった。
「友達だから」
 陳腐すぎる言葉に、言った瞬間、かあっと頬が熱くなった。
 でも、大義名分をぶら下げてみても、結局のところ『ちびっこ脳筋』な自分が考えることなどそれだけなのだ。
「この間は、泣かせてごめんね。トマ」
 トマは長いこと黙ったあと、「なんだよ、それ」と涙ぐんだ声でぼやいた。
「でも、もうわからねえんだよ。〈喉笛〉を取りもどしたい。でも、どうしたらいいのか、おれにはわからねえんだよ」
「……僕もわからない」
 正直に明かして、オースターはクラリーズ学園の友人たちに、トマのことや、ホロロ族のことを話したが、理解してもらえなかったことを打ち明けた。 「みんなには他人ごとにしか思えないんだ。君たちに同情はしても、自分たちのいまの平穏を脅かしてまで助けようとは思ってない。……僕もその気持ちはよくわかる。地上にいる僕たちの目に、地下の君たちの姿が目に留まることはない。だから、見て見ぬふりをするのはとても簡単で、そのほうが楽なんだ」
 だから、〈喉笛〉を盗みだすことを思いついたと伝える。いったん〈喉笛〉をホロロ族に返すことで、互いが互いに望むものをかけて交渉ができるように。この〈汚染〉によって閉ざされた狭い世界の中で、共存していけるように。
「でも、それが正しいやり方だと思っているわけじゃない。君たちの考えを聞かずに、僕だけの考えで勝手にやろうと思っただけなんだ。だから、トマやみんなとよく話しあいたい。一緒に考えよう。これからのこと。僕たちみんなの未来のこと」
 暗闇の中で、トマの反応を息を詰めて待つ。
「おれたちが〈喉笛〉を取りかえしたら、きっと、あんたたちはおれたちを憎むよ」
 トマは呟く。そうかもしれないと思う。もともとは〈喉笛〉はホロロ族のものだが、すでに十年もの間、それはランファルドの所有物だった。もとの所有者に返しただけだと言って、「それなら仕方ない」と納得する人間など、そうはいないだろう。多くの人は、自分のものをとられたと思い、ホロロ族に怒りを向けるはずだ。
「やっぱり〈喉笛〉を盗むなんて、むちゃくちゃだよね……」
 落胆して言うと、トマは苦笑いをした。
「というか、未来の大公殿下を、おれのせいで犯罪者にするわけにはいかねえだろ」
 心臓がぎゅっと縮まった気がして、オースターは息を呑んだ。

「……トマ。そのことだけど、君に話しておきたいことがある」

 トマは、ためらう口調のオースターに、「うん」とうなずいて続きをうながす。
「僕が大公になれば、もしかしたら君たちの立場をもっとよくすることができるかもしれない。何年も、もしかしたら何十年もかかるとは思うけど、〈喉笛〉を盗むよりはもっとずっと穏便に、君たちの立場を改善させることができると思う。でも――」
 その先の言葉を言うのは、勇気がいった。
 誰にも、話したことのないことだった。ラジェにも、コルティスにも、母にも。
 地下水道の崩落後、目を覚ましてからたったひとりで決め、たったひとりで実行に移し、これまで抱えこんできた秘密。
「僕は、大公には、ならない」
 意を決して言う。トマは不思議そうに「え?」と返した。
「なんで? 皇太子になったってことは、大公が死んだら、オースターが大公になるってことだろ?」
「うん。でも、僕には大公になる権利がない。だから、もうすこし色々なことが落ちついたら、皇太子の地位を返上するつもりでいる」
「権利がないって、なんで?」
 沈黙がつづいて、ふとトマが言った。
「それって、あんたが男のなりをしてるのと関係あるのか?」
「…………なに?」
「オースターが着てる服って、この国では男の装いなんだろう?」
 思考が吹き飛んで、理解するのに時間がかかった。
「……えっ!? あいた!」
 勢いよく顔をあげた拍子に、低い天井に頭をぶつけ、オースターはうめく。
「あ? もしかして隠してたのか? なら、悪かった。忘れろ」
「な、ななななんで知っているの、い、いつから!?」
 トマは場違いなぐらい軽く「うーん」とうなる。
「最初に違和感を覚えたのは、オースターが具合を悪くしておぶったとき」
「具合を悪くして……って、それ、結構、前じゃないか!?」
 下水道掃除の体験学習をはじめて、まだ半月ほどしかたっていない頃だ。
 トマはあきれたように言った。
「隠してるんなら、もうちょっと気をつけたほうがいいぞ」
「見た目でわかったってこと!?」
「違う。うかつに背負われるなって話だよ」
「わかるもんなの!?」
「……、わかるような。わかりたくないような」
「なんだよそれ!」
「でも、確信したのは崩落事故のあとだ」
「な、なん……」
「だから、あんたの腕を応急処置したの、おれだからで……見えたというか。その」
 オースターは小刻みに震えた手で顔を覆う。
 あのとき、ラクトじいじにも気づかれた。ラクトじいじは自分以外には気づいた者はいないと言っていたが、トマは気づいていた。いや、それよりも前にすでに――。
「なんで、男のふりをしてるんだ?」
「……アラングリモ家には嫡子がいない。だから、僕が爵位を継がなければ、一族は没落してしまう」
「それと、本当は女だってことと、どう関係ある?」
「関係あるに決まっているよ!」
 答えてから、オースターははっとする。
「そっか。ええと、ランファルドでは爵位は直系の男子が継ぐものなんだ。家督も資産も、女は受け継ぐことができないんだよ」
 オースターは唇を噛みしめる。
「弟がいたんだ。でも、小さいころに死んでしまった。それからずっと、僕が弟のふりをしている。オースターって名前もそう。母上が体を男のものに作りかえる薬を用意してくれて、小さいころからずっと注射を打っていて、でも……成果がほとんどなくって」
 知らず、声が震えた。
「がんばっているんだけど、どうしても男になれない」
「薬って、ずっと具合悪そうにしてるけど、もしかしてそのせいなんじゃないのか? すぐにやめろ」
 トマが強い口調で言った。
「アモンにも薬物にはまって内臓がぼろぼろになって死ぬ貴族がいっぱいいた。このままじゃ死ぬぞ」
「うん……」
「なんで、そんなものを打ちつづけたんだ。男の体につくりかえるなんて、魔法でだって無理だ。だいたいなんで……ぜんぜんわかんねえ。なんで女が公爵になっちゃだめなんだ?」
「なんでって……だめなんだよ。そう決まっているんだ。君にはわからないかもしれないけど、女が爵位を継ぐなんてありえないし、許されることじゃないんだ」
「だからなんで、女じゃだめなんだよ」
「なんでって――」
 なんで、だろう。
「……わからないよ」
 トマが呆れたような声になる。
「あんたはなんにも知らないんだな」
「……悪かったね」
「オースターはたぶん、いい公爵になるよ」
 その何気ない言葉は、まるで水面に広がる波紋のように体全体に染みわたった。
「めちゃくちゃおせっかいな、いい公爵になる。大公にだってなれる。だからもう、薬はやめとけ。死んだら、もったいない」
 なれるわけない。ぜったいに。トマはわかっていないのだ。そんなことは誰も考えもしないことなんだってこと。
 けれど――嬉しかった。どうしようもないぐらい、嬉しかった。
(父上と母上にも、そう言ってほしかった)
 本当は家名の存続だとか、そんなものはどうでもよかったのかもしれない。ただ、父と母に認めてほしかったのだ。男としてではなく、女としてでもなく、ただ彼女自身の存在を認めてほしかった。乗馬大会で優勝したとき、母上にたったひとことでいいから「よくやりましたね」と言ってほしかった。弟ばかりを慈しむ父に、一度でいいから名前を呼んでほしかった。
 それでもトマが認めてくれたなら、もういいと思えた。
「……薬は、もうやめた」
 オースターは囁いた。
「まだ誰にも言ってない。従者のラジェにも。こっそり気づかれないように、少しずつ薬の量を減らして、体をもとに戻していっているところだ」
 中途半端に成長を止めた体を、もとの女の体へと。けれど、何年にも渡って体内に入れつづけた薬を抜くのは命がけだ。どれだけうまくやったとしても、きっと無事では済まない。オースターの体の不調を、ラジェは薬を変えたせいだと勘違いしているが、オースターは自分を「オースター」ではなくすために、薬を減らしていっている。
「もともと女の体になりつつあったんだ。たとえ薬をとりつづけても、男にはなれないことはわかってた。それでも、自分の意志で薬をやめたかった。……もう嘘をつきつづけたくない。男になれなくて、女にも戻れなくて、そのせいで何者にもなれなかったとしても、僕はもうそれでいい。……もう、誰も傷つけたくない」
 いつも困難にぶつかって迷いが生まれたとき、心の中で自分に言い聞かせてきた。
 ――負けるな、オースター・アラングリモ。君ならできる。
 ――大丈夫。君ならできる。オースター・アラングリモ。
 弟ならば、きっとこうする。弟だったら、きっとこう振るまう。そうやって、オースターは心の中に育ててきた「理想の弟」を演じつづけてきた。
 けれど、それももうやめた。心の中で「オースター」に語りかけることを、薬を捨てるのと同時にやめていた。
 たくさんの人を騙してきた罪はつぐなうつもりだ。幼いころに、母に強いられた嘘だけど、大きくなってからもそれをつづけたのは、母に立ち向かい、これまで必死に築きあげてきたものを破壊する勇気を持つより、体を壊す薬を打ちつづけるほうがよほど楽だったからだ。
(ああ……打ちあけてしまった)
 オースターは震える息を吐きだす。
 本当は、まだすこし迷っていた。誰にも言わなければ、臆病風に吹かれたとき、また人知れず薬を再開できる。そして、何食わぬ顔で皇太子として生き、いずれ男となって大公になる道を切り開くのだ――そうやって現実から逃げたがる自分が、まだ心の中にはいた。
 けれど、トマに話したからには、もう後戻りはできない。
 いま、オースターはこれまで生きてきた十四年の歳月を、すべて捨て去ったのだ。
 正真正銘、空っぽだ――。
 耐えがたいほどの不安と、「オースター」を失った孤独が押し寄せてきて、オースターは震えあがった。
「ごめん、だから大公にはならない。大公として、トマの願いを叶えてあげることはできない……」
「いいよ、そんなの」
 トマはあっさりと言った。
「あんたは、あんたのままで、いい」
 オースターは固い床に額をこすりつけ、小さく「うん」とうなずいた。

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