喉笛の塔はダミ声で歌う

第42話 叫べ!

 濁流の中で激しく錐もみされて、一瞬で上下がわからなくなった。
 水流に胸を殴られ、肺の中の空気はすぐに空っぽになる。
 死ぬのだ、と思った。ここで。さっき望んだとおりに。
(どうして、ここで死ねたらなんて思ったんだろう)
 馬鹿だ。そんなのただの逃げなのに。嘘をつきつづける罪悪感からも、先の見えない不安からも――母やアラングリモ家から逃げて、楽になりたいだけ。
 コルティスに約束したじゃないか。いつか必ず、すべて話すって。
 決めたじゃないか。トマを闇の底に置き去りにしたりはしないって。

 ――どこにいる……!

 誰かが呼んでいる。

 ――どこにいる……!

 そのダミ声を、オースターはよく知っている。

 ――どこにいるんだ、オースター! 叫べ!

 濁流に翻弄されて、声を出すことはできない。口を開くこともままならない。そのダミ声を聞く自分が、生きているのか、死んでいるのかさえもわからない。

 ――叫べ、オースター! 叫べ!

 けれど、必死で自分の名を呼ぶその声は、オースターの魂を揺さぶった。
(ここに)
 オースターは答える。
(ここにいる、僕は、ここに――)
 その答えは、ただ心の中でだけ繰りかえされる。声に出してもいないのに、届くわけがなかった。けれど、ダミ声が言う。
 叫べ。叫べ。叫べ、オースター!
 オースターは叫んだ。真っ暗な意識の底で。

(僕は、ここにいる!)

「……っ」
 直後、強烈な衝撃が腹に食いこんだ。力強いなにかがオースターを水面まで引きずりあげる。
「なにやってんだ、このばか……!」
 まばゆい光が目を焼いた。ヘッドランプだ。光の中にあったのはトマの顔。
 オースターは水を吐きだし、激しく咳こんだ。だが、あえぐことすら許さずに、トマが「のぼれ!」と叫んだ。
 混乱する。なにが起きたのかわからない。トマが。どうして。のぼるってどこに。
「のぼれ! 上までのぼれ!」
 梯子の上部に片手で掴まり、オースターの体を片腕一本だけで抱えていたトマは絶叫しつづける。
 オースターはトマの言葉に本能的に従い、梯子に手を伸ばした。だが、腕にまるで力が入らない。掴もうとしても、体がぐったりと重たく、指一本すら梯子に届かない。トマが毒づき、オースターの腰のベルトを掴むと、強引に梯子をぐいぐいと引きずりあげた。
 どうにかたどりついた梯子の先は、トマのヘッドランプが照らすかぎり、狭い通路のようだった。力尽きて膝をつきかけるが、トマはオースターを無理やり立ちあがらせる。
「トマ……本当に……、なんでトマが……」
 呆然と呟くオースターの胸ぐらをつかみ、トマが叫んだ。
「なんで地下に来たんだ! もう来んなっつっただろうが!」
「……僕……」
「だいたい、なんでこんなところに入ったりしたんだ! あんた地上にいるんだから、すぐに雨が降るってことぐらい空見てりゃわかっただろう!」
「……ごめん、わからなかった。ごめ……」
 涙があふれる。目を閉じてこらえるが、恐怖と安堵と疲労とでどうにも止まらない。
 トマは手を離し、眼下を流れる激流を見つめた。水位はこの瞬間にも上がりつづけ、すでに梯子の上部まで呑みこもうとしていた。
「いいか、公爵。ここは普段は使われていない旧水道だ。雨が降ったとき、上層の下水道で処理しきれなくなった雨水をここに流しこむんだ。だから、すぐにここも水に沈む」
「ここもって、この通路も……」
「そうだ。すぐに水の底になる」
「どうしたら――」
「まだ走れるか」
 走れない。だが、走らないわけにはいかない。オースターは震える手のひらで、重たい太ももを二度、三度と叩いて、決死の覚悟でトマを見返した。
「走る」
 トマはうなずき、ひったくるようにオースターの手首を掴んで、走りだした。
 もつれる足を懸命に動かし、トマの走る速さに合わせようとする。「走る」と断言したくせして、足は驚くほど動かず、ほとんどトマに引きずられているだけだったが、それでもできるかぎり前へ、前へと体を動かす。
 通路は暗闇の中をまっすぐに伸びていた。肺が痛くなるほど走りつづけると、ふいに自分の足音にぴしゃりと水音が混じった。
「トマ、もう水が……!」
「すぐそこに出口がある! おれがこの旧水道に入るときに使った出入口で――」
 トマが急に足を止めた。
 オースターはトマの肩越しに、閉まった鉄製の扉を見つめた。
「どうしたの? 開けられないの?」
「……自動開閉式なんだ。水が流れこんだから、自動で閉まって、鍵が――」
 最後まで言いきるよりもはやく、トマがふたたびオースターの腕を掴んで、来た道を引きかえしはじめた。どこからともなく轟々という水音が反響し、迫ってくる。前に進むたび、靴が水を蹴散らすぴしゃぴしゃという音が鳴りひびく。激しく揺れるヘッドランプが真っ暗な水道をパッと明るくし、また暗くさせる。
 トマが足を止めた。目の前には、先ほど目にしたのとまったく同じ鉄製の扉があった。閉じている。
 怒りに任せるように、トマは無言で扉に体当たりした。水はすでに足首にまで達して、ぐんぐんと水位を上げていた。
「トマ、この梯子は!?」
 扉の脇に上につづく梯子があった。トマのヘッドランプが梯子の上部を照らす。
 狭い立坑が、闇へと向かって長く長く伸びていた。
「これ、マンホールじゃない!? 梯子をのぼった先に、マンホールの蓋があるんだ。きっと外に出られる」
 トマは答えない。顔をこわばらせ、躊躇するように梯子を見上げる。
「――オースター。よく聞け」
 ふと、トマが言った。
「この立坑の先は行き止まりだ」
「で、でも梯子が」
「のぼった先に扉があるんだ。でも、大昔のもので、完全に錆びて開かない」
「そんな……」
「でも、ほかに行く先がない。出入口はもう、ほかにない。……立坑のいちばん上、錆びた大扉のそばに、資材置き場かなにかに使ってた狭い空間がある」
 話しているあいだに水が膝まで水位を上げていた。もう自由に動くこともままならない。
「オースター、狭い場所は平気か?」
 トマが悲痛な声で問う。恐ろしい予感がして、オースターは背筋を凍りつかせた。
「狭いって……どれぐらい?」
「ほとんど身動きがとれない。そこに下手したら何日も閉じこめられることになる」
 オースターは答えられない。わからないのだ。想像もつかなかった。
 けれど、それしか助かる手段がないなら、やるしかない。
「……平気だ。僕は大丈夫」
 声の震えを隠して言うと、トマも意を決したようだった。
「掴んでのぼれ」
 オースターは梯子を掴んだ。だが、重たい体はあいかわらず自由がきかない。それでもトマが一段下に立って、オースターの背中を押しあげるように支えてくれるのを頼りに、一段一段とのぼっていく。
 天井が見えた。同時に、梯子をのぼった先に、トマの言う「狭い空間」とやらが現れる。
 狭いなんてものではなかった。子供用の棺桶をふたつばかり横にして置いた程度の狭さと高さだ。
「足から入るんだ」
 言われたとおり、オースターは鉛の塊のように重い足を持ちあげ、トマに手伝ってもらいながら、息を切らして狭い空間に入る。うつぶせになると、トマもその隣に腹ばいになった。
 眼下に四角形の立坑を見下ろすことができた。のぼってきたばかりの梯子がどんどん水に呑まれていく。
「水がここまで上がってきたら終わりだ」
「ここまで上がってくる……?」
「上がってくることもある。昔、ここで何人も溺れ死んでる」
「どうすれば……」
「祈れ」
 トマは簡潔に言った。
「雨の精霊に祈るんだ。それでだめなら、だめなんだ」
 オースターは両手の指を顔の前で絡めて、祈った。
 雨の精霊がどんなものかは知らなかったけれど、必死で祈った。


 水は、梯子の終わりから三段下で止まった。
 オースターとトマは横並びに腹這いになって、動きを止めた水面を見つめる。
 本当に狭い空間だった。足を完全に伸ばすことはできなくて、腰を変な風にひねり、膝を曲げるしかない。けれどそうするとトマの膝とぶつかる。自由に身じろぎができない。光源もトマが頭から外したヘッドランプの白い灯りだけだ。
「おとなしいな、オースター」
 ふと、トマが呟いた。
「いつもうるさいぐらい元気なのに」
「……酸素が心配で」
「そこに通気坑がある。酸欠にはならない」
 そこ、と指さされた先を見る。光に照らされた立坑の壁面に、錆びて開かなくなったという円形の大扉があった。その脇には、たしかに通気坑が開いている。先ほどぬめり竜から逃れたときに通った管よりもさらに狭く、華奢なオースターでも肩でつっかえるだろう。
「でも……うるさいのはトマは嫌いだろ」
「嫌いだ。でも、おしゃべりなあんたがしゃべってないと不安になる」
 きゅるると変な音がした。顔を向けると、トマは非常時とは思えないほど間の抜けた情けない顔でため息をついた。
「腹減った」
 ぼやいて、オースターを恨めしげに見つめる。
「今日は甘い菓子ないのか?」
 オースターは笑いそうになる。疲れすぎて、頬も口がろくに動いてはくれなかったけれど。
「ないよ。仕事で来たんじゃないもの……」
「じゃあ、なにしに来たんだよ」
 なにをしに――それを話せるほどには思考能力も体力も残っていなかった。けれど、ここまで来たのがなんのためだったのか、オースターはトマに伝えなくてはならない。少なくとも時間だけはあるから、もたついてでも話してしまおうと決意する。
 オースターは力をふりしぼって、〈喉笛の塔〉で目にしたことを伝えた。〈喉笛の塔〉に行こうとした理由も、塔の地下に侵入して目にした、バクレイユ博士とラクトじいじら長老たちが起こした共鳴反応のことも。
 そして――塔で生じた〈汚染〉のことも。
 塔の底に〈汚染〉が生じたというのは、衝撃的な話のはずだった。けれど、トマは無言のままだった。なにかに思いを馳せるように虚空を見つめ、じっと考えこんでいる。その沈黙に不安をかきたてられる。
 オースターは唐突に、心臓がどくりと脈打つのを感じた。
(さっき僕が見たのは……本当に〈汚染〉だったのかな)
 地下水道に入ってからの話だ。さっき水に呑まれる直前、オースターは〈喉笛の塔〉で目にしたのと同じ「黒い手」を見た。
 あれは恐怖が見せた幻だったのだろうか。それとも現実だったのか。
 けれど、どうして地下水道に、あの黒い手が――。
「さっきも見たんだ。水道の闇の中に〈汚染〉を。黒い……手のような形をした」
 〈北の防衛柵〉の向こうでなら、あるいは閉鎖空間である〈喉笛の塔〉の底で〈汚染〉を見たのなら、まだ受け止められる。けれど、地下水道であれを見たというのは、心が受け止められる限界を超えていた。
 もし本当に人知れず、〈汚染〉が地下水道に侵入していたとしたら、ランファルド大公国はすでに〈汚染〉されている、ということになる。地下水道を閉鎖してしまえば、〈汚染〉が地上の街々を侵略することはないだろうか? ならば、ホロロ族を地上に逃がし、地下水道を閉鎖してしまえば、あとは不衛生な環境に耐えさえすれば、どうにかやりすごせるだろうか。
 やりすごすだって? やりすごして、何年ぐらいもつのだろう? 何年か後に、地下水道が〈汚染〉されつくしたら、その先は? 〈汚染〉がマンホールを伝って、地上にまであふれかえるのは時間の問題なのではないか。
 そもそも地下水道には、下水だけでなく上水、電気ケーブルや通信網なども通っている。〈汚染〉はすべてを腐らせる……ならば、水を腐らせ、ケーブル類も腐食させてしまうのではないか。人々は飲み水を失い、生活用水をなくし、電気まで奪われてしまう。そうなれば、ランファルドは終わりだ。
(ランファルドの南には、断崖絶壁の海があるだけ。もうどこにも逃げられない)
 この国が、人類の終着点だ。世界の果てなのだ。南の楽園を目指したホロロ族だけでなく、東、西、北の三方向に〈汚染〉が広がるランファルドの民もまた、逃げ場を失う。〈汚染〉に「食われる」しかなくなる。
「なにを考えてるの?」
 トマは黙ったままだ。訊くと、トマは我にかえった様子でまばたきをして、首を横に振った。
「……なんでもない。それより、そんなことを伝えるためにまた地下に戻ってきたのか? おれが〈喉笛の塔〉に連れていかれないように?」
「そんなことって。大事なことだろう?」
「あんたには関係ない話だ」
「関係なくなんて、ないよ!」
 オースターの声が悲痛に割れた。
「関係ないなんて言わないでよ! なんでそうやって拒絶するんだよ。僕が君たちのことをなにも知らなかったから? 無知で無神経な愚か者だから!? だから、君を心配したらいけないの? 君たちが抱えるすべてを知って、理解してなきゃ、君と一緒に苦しんで悩むこともできないのか!?」
 そのとき、ヘッドランプの明かりが消え、視界が黒一色で塗りつぶされた。オースターは悲鳴をあげる。
「落ち着け、今は夜だと思え。明かりを消して、眠るところだ。そう思うんだ」
「でも、暗かったら水が来てもわからない……っ」
「水が来たら暗くたってわかる。そうだろう?」
 そのとおりだ。オースターは荒くなる呼吸を必死に整える。冷静に。パニックを起こしたらおしまいだ。そう言い聞かせてもなお恐ろしい。目を閉じても、開けても、そこにあるのは暗闇だけ。トマが黙ってしまえば、そこにいるかどうかもわからない。本当はトマが、自分が生みだした都合のよい幻だとしても不思議ではない。
「服、掴んでていい……?」
 小声で懇願すると、トマは「ガキみてえだな」と笑って、ちょんと腕のあたりに触れた。オースターは手探りでその手を握る。トマのあたたかい手がしっかりとそれを握りかえしてきた。
「ごめん」
 ぽつりと、トマが言った。
「……なにが?」
「うまく言えない。おれは……あんたみたいに自分の心の中を言葉にするのがうまくない」
「いいよ。そんなの僕だって同じだ。言いたいことがあるなら、なんでも言って。もっと君と話がしたいんだ。僕は君のことをなにも知らないから、だから話してほしいんだよ」
「あんたは、生粋の、ばかだ」
「……それがやっと絞りだして言う台詞?」
「ありがとう。伝えに来てくれて」
 トマの手に、ぎゅっと力が籠められる。
「〈喉笛の塔〉にまで行ってくれたことも、ありがとう。〈喉笛〉を盗もうなんて大ばかをやらかそうとしてくれたことも、命がけでここまで来てくれたことも、全部。あんたが本気でおれたちのことを考えてくれてるのは、ちゃんと伝わったから……だから、ごめん。ありがとう。……オースターが、生きててくれてよかった」
 囁くようなダミ声が紡ぐまっすぐすぎる言葉に、唇がわななく。
 返事をしたらうっかり嗚咽が出そうで、オースターはかぶりを振って、トマの手を握りかえした。

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