喉笛の塔はダミ声で歌う

第49話 ルピィ・ドファール

 危険です、せめてお供させてください――そう食いさがるラジェを説得するのは、驚くほど簡単だった。
 ただ、無言でほほえむだけ。
 たったそれだけで、ラジェはもうオースターを止める手立てをなくした。
(こんなに簡単なことだったんだ)
 必要なのは、勇気だけだった。覚悟だけだった。
 足の重たさも、不思議ともう苦にならない。オースターはまっすぐに廊下の奥、階段の上を見つめ、東棟の最上階に向かった。
 アラングリモ家と両翼を成す、ドファール公爵家の子息のための部屋――そこに、ルピィ・ドファールがいる。


 最上階の廊下は、静まりかえっていた。
 オースターは最奥の扉の前で足を止め、そっと息を吐き、扉を叩く。
「オースター・アラングリモだ。開けてくれ」
 応答はなかった。
 もう寝てしまったのか、それとも部屋にいないのか――そう思ったとき、扉が薄く開き、ルピィの従者ウェイルズが顔を見せた。
 従者は顔を引きつらせた。素早く廊下に出て、後ろ手に扉を閉ざしてから、言う。
「ルピィ様はすでにお休みです。お引きとりを」
 オースターは首をかしげた。一瞬、見えた室内は煌々と明るかった。主君が寝ているのに、従者が私用で明かりをともしているということはないだろう。

 ――汚物にまみれるがいい、卑怯者。
 
 雨の日の図書館で、従者がすれちがいざまに耳元で囁いてきたのは、十日前のことだ。
 オースターは目を細め、従者を見あげた。
「大公殿下が亡くなられた。諸侯はやるべきことが山積みだ。たとえ学生の身分であっても。君の主はそんなこともわからずに、さっさと眠りにつくほど図々しいのか」
 従者はいともあっさりと挑発に乗った。こちらを見下ろす顔は怒りに燃え、今にも首を絞めにかかってきそうだ。
 オースターは臙脂色のコートを脱ぎ、廊下の床に落とした。
「君は図書館で、僕に『汚物にまみれろ』と言った。ご覧のとおり、汚物まみれになったよ。でも、狙いはすこし外れたみたいだね」
「……なんの戯言です、殿下」
「僕が生きて戻るとは思いもしなかったんだろう? 気の毒に」
「なにっ?」
「言うまでもないけど、皇太子暗殺は大罪だ。たとえ未遂であったとしても。……僕は生き証人だ。皇太子暗殺を請けおった人間は、僕を手に掛ける前、得意げに教えてくれたよ。暗殺の首謀者はルピィ・ドファールだと。さて、僕が大公になって最初にやるべきことはなんだろう、ウェイルズ?」
「卑怯者がぬけぬけと……!」
「どいてくれ。君に用はない。ルピィと話がしたいんだ」
「だれが貴様など――っ」
 ゴンッと扉の内側から鈍い音がした。
 従者はびくりとして背後の扉を振りかえる。

「ウェイルズ。なにを話している」

 中からルピィの低い声がした。さっきの鈍い音は、ルピィが杖の先で扉を叩いた音だろう。
「いえ……っ、ルピィ様、なにも……」
 従者は口端をぴくつかせ、しどろもどろに答える。
(おかしな反応だ)
 オースターは改めて従者の表情を観察した。
 どうしてこの男はわざわざ扉を閉めたのだろう。アキとロフの言うとおり、暗殺がルピィの企てであったなら、ルピィを遠ざける必要はないはずだ。
 従者はまるでルピィに話を聞かれまいとしているようだ。
(もしかして、僕を殺そうとしたのは――)
 オースターは我知らず声を大きくした。
「ルピィ。夜遅くにすまない。オースターだ。君に話があって来た」
 ルピィはつかのま沈黙し、やがて深々とため息をつき、投げやりに言い捨てた。
「通せ。大公を足止めする馬鹿がどこにいる」
 杖の音と、足音とが、遠ざかっていく。
 だが、従者は凍りついたままだった。背中を扉に押しつけ、次第に呼吸を荒くし、なにかをぶつぶつと呟きはじめる。
「……これは私ひとりの罪……。これは私ひとりの……」
 血走った目が、ふいにオースターをとらえた。
 従者がすばやく背中に手を回した。次にその手が視界に現れたとき、そこには銀色の短剣が握られていた。
 まっすぐオースターの心臓めがけて突きだされる刃。
 驚きのあまり、ただ目を見開いて、妙にゆっくりと迫ってくる刃を凝視する――。
 従者の背後で、部屋の扉が勢いよく開かれた。現れたルピィが杖を振りあげる。落馬事故以来、愛用しているルアーブ社製の杖が打ちすえたのは、従者の後頭部だった。
「……ぐあっ」
 短いうめき声をあげ、従者が膝をつく。驚愕に振りかえった顔をさらに打ちつけ、ルピィが冷ややかに吐き捨てた。

「ドファールの面汚しが」

 鼻を潰されたのか、従者は鼻血を垂らしながら、ルピィの足にすがりついた。
「わ、私は、ドファール家の栄光のために……っ」
「ぶざまな言い訳は、お前の”主”に言え」
 ルピィは容赦なく従者を足蹴にした。尻もちをついた従者は真っ青になって後ずさり、ふいに身を反転させると、もはやオースターのことなど眼中にない様子で廊下を逃げ去っていった。
 オースターはぽかんとして、暗闇へと消えていく従者の背中を目で追う。
「お入りください、大公殿下」
 オースターはルピィを振りかえった。
 ルピィはオースターを一瞥し、薄い唇に嘲笑を浮かべる。
「腰でも抜けましたか。敵対する家の陣地に単身で乗りこんで来て、この展開を予想もしていなかったなら、あまりに情けないのではありませんか? 大公殿下」
 オースターは硬直を解き、のろのろと室内に足を進めた。
 ルピィは扉を閉めると、さっさと部屋の奥にある長椅子に歩いていき、杖をテーブルに放って、どっかと腰を下ろした。
「お座りください、大公殿下。たった今、従者を失ったもので、もてなしはできませんが。まあ、かまいはしないでしょうね。殿下も夜分に人を訪ねるのにふさわしい恰好とは、到底言えませんから」
「……今日は無視はしないんだね」
「大公殿下を無視するなど、私とて不敬罪で捕らえられたくはありませんので?」
 慇懃無礼な敬語に、嫌味たらたらな口調。
(ルピィだ……)
 久しぶりに見る“ルピィらしさ”に、オースターは言葉をなくした。
 ルピィはオースターが絶句していることに気づき、嘲りの笑みを顔から消した。頭のてっぺんから爪先までを観察し、眉を寄せる。 
「察しはつく。父だろう」
 オースターは体をこわばらせた。
「おおかたお前を亡き者にすれば、私が皇太子に返り咲けると踏んだのだ。我が親ながら、呆れるほどの単細胞だな」
 ルピィはわずらわしげに顔をしかめた。
「罪に問いたいならばそうしろ。だが、単細胞であっても、保身は得意なおひとだ。探ってみたところで、せいぜいウェイルズが網にかかるぐらいだ。あれは私の従者ではあるが、長らく父の手駒として動いていた。皇太子暗殺はウェイルズひとりが勝手に企てたこと――もし失敗したときには、そう言い逃れできるよう、あらかじめ手はずを整えていたはず」
 ――これは私ひとりの罪……。
 従者が自分に言い聞かせるように呟いた言葉を思いおこし、オースターは目を伏せた。
(ルピィじゃなかった)
 ルピィが暗殺の首謀者――そう言ったアキの真意は、今となってはわからない。
 暗殺の首謀者がだれか知らなかったのか、あるいはルピィだと聞かされていたのか。そうでなければ、オースターがかつてはルピィと友人関係にあったことを知って、ルピィの名を出せば心を傷つけることができると踏んだからか。
 もちろん、ルピィが嘘をついている可能性だってある。だが、そうだとしてもそれがなんだというのだろう。
 ルピィには、オースターを殺すだけの理由が十分にある。
 十分にあったはずなのに――。
(ルピィじゃなかったんだ)
 オースターは太ももの脇で、力なく拳を握った。
「まったく、どいつもこいつも」
 ルピィが毒づく。
「嫌気が差す。おまえたちの目には〈汚染〉が見えていないのか? アレの脅威を前に、誰が大公になるかなんて些末ごとだろうに」
 オースターはうなだれ、顔に泣き笑いを浮かべる。
 視線だけをあげると、長椅子のそばのテーブルには、ランファルド大公国のものとおぼしき地図が広げられていた。手元に置かれたカップからはまだ湯気が立ちのぼっていることから、さっきまでルピィが地図を見ながら、なにかしらを思索していたことが伺えた。
 オースターは唇を噛みしめ、その場に両膝をつき、平伏した。
「……なんの真似だ」
「春の乗馬大会のこと、母から聞いた。あの日、君が落馬をしたのは、母がそうなるよう鐙に細工をしたからだ」
 ルピィが黙りこむ。オースターはいっそう深く身を伏せた。
「君から片足を……未来を奪ってしまった。謝って済む話ではないと、重々承知の上だ。けれど、謝らせてほしい。本当に、申しわけないことをした」
 はっとルピィが笑った。
「未来を奪った? 見下されたものだな。足一本なくしたところで、私から損なわれるものなどなにもない。その謝罪は私への侮辱と知れ」
「わかってる。……それでも――」
 オースターは絨毯に額をこすりつけた。
 沈黙が下りる。空気が張りつめ、ルピィが苛立っていることが伝わってくる。
 謝罪がルピィにとってなんの意味も持たないなら、こんなことはただの自己満足だ。そうとわかっていても、オースターは顔をあげることができなかった。
 ルピィは「損なわれるものなどなにもない」と言った。
 そのとおりだ。ルピィ・ドファールの輝きに傷をつけられる者など、この世には存在しない。心からそう思う。
 けれど、だからといって、そこになんの苦しみもなかったわけではないはずだ。
 悔しかったろう。無念だったろう。皇太子に対して「潔癖なまでの完璧さ」を求める大公殿下を前に、なんの落ち度もなく負った傷。たったそれだけで、大公殿下の、そして周囲のルピィを見る目は劇的に変化したはずだ。
 片足を失ってなお、ルピィ・ドファールは皇太子にふさわしい。そう周りの人間を納得させるためには、血のにじむような努力が必要だったはずだ。
(それなのに君は、誰が大公になるかは些末ごとだ、と言いきるのか)
 オースターに敵うはずがなかった。
 だからこそ、母は卑怯な手を使わざるを得なかったのだ。
 顔をあげられるわけがない。
「おめでたくも勘違いしているようだが、私はおまえにそうまで謝られるほど潔白ではないぞ。遅かれ早かれ、父がおまえの暗殺を企てることはわかっていたのだから。わかっていて、積極的に止めようとは思わなかった。無益な人間がひとり死んだところで、痛くも痒くもないからな。そうだろう? アラングリモ」
 オースターはうなずく。
 ルピィは黙りこみ、ふと腹を立てたように「もういい」と言った。
「私の父はおまえを殺そうとし、おまえの母は私を害そうとした。相殺だ。それでこの件は帳消しにしろ」
 相殺。その一言は、ルピィがオースターに示した「許し」だった。
 目頭が熱くなる。オースターは歯を食いしばり、固く目を閉じ、なお深く平伏した。
「もういいと言っている。立て」
「…………」
「いつまでも、みじめったらしくひれ伏しているな。立て!」
 ルピィが長椅子を蹴倒す勢いで立ちあがったのが音でわかった。片足をひきずる音が近づいてきて、突然、胸倉を掴みあげられる。
「おまえは私がなにに腹を立てているのか、本当にわかっているのか!」
 間近に迫ったルピィのガラス玉のような青い瞳が、深い憤りに揺れていた。
「幼いころからずっと、おまえを友だと思ってきた。〈汚染〉によって世界から隔離されたこの国で、たったふたつしかない公爵家の子ども。唯一同等の立場にあり、唯一同じ責務を背負う、盟友! 私は信じていたのだ。おまえだけが、ランファルドの行く末をともに論じることができる、たったひとりの友だと!」
「ルピィ――」
「だが、おまえは変わった。いつからか、おまえは大公殿下の関心を買うことばかりに執着するようになった。〈汚染〉の脅威にも、〈汚染〉の外に広がる世界にも興味を示さなくなった。おまえの目に映っているのは、ただアラングリモ家の栄誉だけ!
 爵位がそんなに大事か。大公の座がそんなに欲しかったか! ランファルドの未来をともに背負って立つ友の存在を忘れるほどに!」
 オースターはくしゃりと顔をゆがめた。
「ちがう……大事だよ、ルピィのほうがずっと!」
 ルピィがはじめて見せた剥きだしの感情に引きずられ、オースターはずっと隠してきた思いを吐きだした。
「大事だった、大事にしたかった。でも、できなかった。その勇気がなかったんだ!」
 そんな答えが返ってくるなど思いもしなかったのか、ルピィは驚いた様子で目を見開いた。
「ごめん、ルピィ、ごめん――」
 切り刻んだ。ルピィがくれた白い花。ラジェに言われるままに。鋏で――この手で。
「君のことが、大事だった……!」
 頭が真っ白だ。なにを言っているのかわからない。こんなことを言いにきたのではないのに。それでも口から溢れでる言葉を止められなかった。
 ルピィがあっけにとられていた。
 襟首を掴んでいた手が、ふらふらと離れる。
「……なんだそれは」
 つぶやき、しげしげとオースターを見つめるルピィ。
「なにを言っているんだ、おまえは。大事? 私が? は……っ」
 ふとルピィは、一瞬前の険しさなど忘れたように、声をあげて笑いはじめた。
 まるでなにかが吹っきれたように、とても楽しそうに。
 オースターは、その姿を見つめた。
 時が経つのを忘れてしまいそうだった。
 そのまま飽くことなく、見ていたかった。
(そんな風に笑わないでくれ)
 せっかく覚悟を――すべてを捨てる覚悟を決めてきたのに。
 仲がよかった頃みたいに屈託なく笑うルピィを見ていると、選んだ道を引きかえしてしまいたくなる。
 オースターはうつむき、そして口を開いた。

「僕は、君をずっと騙してきた」

 ルピィが笑うのをやめた。
「その上で君に頼みがある。図々しいのは承知の上だ。けれど、力を貸してほしい」
 オースターは深呼吸し、顔をあげた。
「僕の命を対価に」
 ルピィの顔から、かつて友人であった者に向けていた気安さが消えた。
 かわりに現れたのは、次期大公が纏うにふさわしい冷徹な表情だった。

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