喉笛の塔はダミ声で歌う

第37話 科学者の哄笑

〈喉笛の塔〉が〈汚染〉に浸食された――?

 オースターは浅く呼吸をしながら、蠢く黒い手を凝視する。
 いつ。どこから侵入したのか。いつの間に〈北の防衛柵〉を突破し、首都にまで進行したのか。
 機甲師団はなにをしていた。〈汚染〉の侵入を見すごした? まさか、ありえない。第一、ついさっきまでオースターは地上にいたのだ。〈汚染〉の気配など微塵も感じなかった。〈汚染〉が接近していれば、いくらなんでも気づく。

(でも、今日は濃霧が視界を邪魔していた……)

 わなわなと震えだす手を、固く握りしめる。
 大丈夫、首都は守られている。〈汚染〉がふたたび拡大をはじめたなら、もっとはやくに〈北の防衛柵〉から報告があったはずだ。オースターが地下に入ってから経った時間は、せいぜい一時間。その程度の時間で、地上の状況が劇的に変わるなんてありえない。
 ――けれど、少し前の新聞記事にはこう書かれていたじゃないか。『〈汚染〉の進行が再加速か』と。
〈汚染〉の正体はいまだに謎なのだ。「状況が劇的に変わるなんてありえない」なんて誰も保証できない。突如として〈汚染〉が雪崩のごとき速度を得て、首都に襲いかかってきたとしても、なんら不思議ではないのだ。
 そう、もしかしたら今まさに、地上は〈汚染〉に呑まれている最中かもしれない。
 地下にいる自分たちにはわからない。地上が今、どうなっているかなんて。

 背筋に冷たいものが走った。
〈汚染〉は、この十年間、常にそばにあった脅威だった。
 けれどオースターは、このときはじめて〈汚染〉の存在に慣れきってしまっていた自分に気がついた。

 苦悶のダミ声が聞こえた。
 ラクトじいじが腕を押さえ、鉄橋に頭をこすりつけている。
 さっき黒い手につかまれた腕が、ずぶずぶと音をたてながら黒く爛れていくのがわかった。
「どうして……なぜ、ここに〈汚染〉が」
 かたわらに膝をついた長老がうめく。
「ようやく逃げおおせたのに。みなの亡骸を置き去りにしてまで、やっと南の楽園に……」
 そうつぶやいて、長老は気の抜けた様子で肩を落とした。
 ラクトじいじは苦痛にあえぎながら、バクレイユ博士に顔を向けた。額には血管が浮きでて、そこを脂汗が伝い落ちていく。
「この塔はもうだめじゃ。逃げてくだされ、バクレイユ。あなたさえいれば、〈喉笛の塔〉はまた再建できる。……アジル、すぐに町に戻って、みなを安全な場所に逃がすのじゃ。塔の〈喉笛〉を失っても、みながいれば、また新しく生みだせる」
 甲高い哄笑があがった。
 博士は爛々と輝く眼で、鉄柵の向こうの黒い手を見つめた。
「逃げるだって? 馬鹿なことを。ああラクト、我が友よ、我らはついに見いだしたのだぞ。ここを真の楽園とする術を!」
 この状況下で笑える博士が信じられず、オースターは声を震わせ言った。
「博士、〈汚染〉が侵入してきたんですよ、わかっているんですか!?」
「侵入ではない。この〈汚染〉は〈喉笛の塔〉の底で生じたのだ」
「塔の底で生じた? いったい、なにを言っているんですか!」
「まったくだ! 私とて信じられん。まさか本当にこんなことがありえるとは」
 前髪をくしゃくしゃに指でつぶして、博士はオースターを振りかえった。
「わからんかね、アモンとフラジアを壊滅させた〈汚染〉の正体を、我々はついにこの目で見きわめたのだ! まさか、あの最後の電信に書かれていたことが事実であったとは……」
「電信? 〈汚染〉の正体って、いったい……」
 博士は手に掴んでいた手帳のページに挟んであった紙切れを、乱暴にオースターの胸に押しつけた。とっさに受けとるが、博士はその紙がなんなのか説明もせず、ふたたび計器にかじりついた。
 目は異様に血走り、鼻血で汚れた口元はこらえがたい笑みで引きつっていた。
 まともじゃない。オースターは博士の腕をつかんだ。
「博士、ここは危険です、いったん退避しましょう。ラクトさんの手当てもしないと」
 バクレイユ博士は手を振り払い、なおも計器が示す数値を凝視する。
 ふいに、その顔がゆがんだ。
 喜びが困惑に、そして憤怒へ。ぎりっと歯を噛みしめ、吐き捨てる。
「……危険など、なにもない。見よ、この黒い靄どもが放つエネルギー量を! みみっちいほどに微弱だ。この程度のエネルギーではなんの役にも立たん。大公宮の昇降機を動かすのもやっとだ」
 バクレイユ博士は機械を蹴りとばし、黒い手の群れに向かって叫んだ。
「どうした、〈喉笛〉ども! さっきの威勢はどこへいった、あの驚異的なエネルギーはどこへ消えたのだ! もう一度だ。歌え、叫べ、役立たずが!」
 ぐらぐらと煮えたつように、塔の底の闇が波打つ。次々と黒い手が生じ、触手のような腕を伸ばして、鉄橋の柵につかみかかる。
 だが、興奮に身を乗りだしたバクレイユ博士の表情はすぐに曇った。鉄柵をつかんでいた黒い手の群れが、力をなくしたように塔の底の闇へと引きかえしはじめたのだ。階段を這っていた黒い手も、疲弊したように段差を滑り落ち、するすると闇のなかへと戻っていく。
 博士は呆然と鉄柵の向こうに手を伸ばした。
「なぜだ。いったいどうして、こんなにも弱々しく……。ああ、せっかくの〈汚染〉が、これではなんの役にも立たんではないか!」
 役に立つ。その一言に、オースターは凍りついた。

(まさかこのひとは、〈汚染〉を発電に利用する気なのか)

 バクレイユ博士は計器をこつこつと指で叩きながらひとりごちる。
「いいや、落ちつけ。なにか秘密があるはずだ。さっき感じたエネルギー、あれをもう一度、再現できれば……」
 博士ははっと目を剥き、手帳を忙しくめくった。
「そうだ、いまこそ〈天然物〉の出番ではないか……!」
 博士は跳びあがり、さも愉快そうに両足でステップを踏んだ。
 オースターは愕然としたまま、手にしたままの紙切れに視線を落とした。

〈フラジア北方戦略戦線研究所〉。
 最初に目にとびこんできたのは、その名称だった。
 西の科学大国フラジアから受信した電信のようだった。
 印紙はずいぶん黄ばんでいる。それもそのはず、受信日はおよそ十年前の日付になっていた。
 一瞬で、オースターの意識は電信に釘付けになった。
 頭のおかしい科学者も、けがを負ったラクトじいじも、塔の底からわきあがる黒い手のことも、なにもかもが頭から消し飛んだ。
 電信は、フラジアにある〈北方戦略戦線研究所〉内で、「正体不明の黒いエネルギー体」が生じたことを伝えていた。
 発信者は研究員のひとりで、莫大な力を秘めたエネルギー体の発生を喜び驚くと同時に、その力が非常に不安定であることを危惧していた。
 いまは制御できており、所員の多くも絶対の自信を持って研究に臨んでいるが、発信者はエネルギー体を「手綱のない猛獣」と称し、いずれ制御不能に陥るのではないかと案じて、バクレイユ博士に知恵と助力を求めていた。

 また、彼は推論もしていた。
 施設内部にとつぜん生じた、謎の黒いエネルギー体――その正体を。

 オースターは我知らずあえいだ。
 呼吸が荒くなり、電信を打ちだした用紙を持つ手が震える。
「ラクト。208番を連れてくるのだ」
 はっと顔をあげる。バクレイユ博士がラクトじいじに命じていた。
 ラクトじいじは焦点のさだまらない様子で、不安げに顔をあげる。
「……この期におよんで、トマになにをさせるおつもりか……」
「歌わせる。それで不十分とあれば、痛苦を与え、悲鳴をあげさせる」
「どうしてわかってくださらぬ。トマの魔力は制御できるものではないのじゃ」
「私なら制御できる」
「制御できぬのです、バクレイユ。何度も言わせないでくだされ」
 バクレイユ博士の眉が不快そうに寄った。
「まさか私を信じられぬと言うのか、ラクト」
「あなたの力を疑ったことはありません。ただ〈天然物〉の魔力を侮ってはいけない。あれは、手懐けられない……あなたの小鳥にはならぬのです」
 息も絶え絶えに訴えるラクトじいじ。だが。
「そうか、私を信じられぬのだな。ホロロ族の長よ」
 ラクトじいじを見下ろす博士の目には、「友」であるはずのラクトじいじの怪我を案じる気持ちもなければ、あってしかるべき友情も信頼も存在しなかった。
 あるのはただ、己の足を引っぱる邪魔者を見つめる、冷徹な双眸だけ。
 バクレイユ博士はへたりこんでいる長老に顔を向けた。
「3番。208番を連れてこい」
 ラクトじいじの顔が悲しげにゆがんだ。潤んだ目を伏せ、力なくかぶりを振る。
「いけない、連れてきてはだめじゃ、アジル」
「3番、ほかの〈天然物〉たちもだ。いるだけ連れてくるのだ」
 呆然と膝をついていた長老は、真逆の命令を下すラクトじいじとバクレイユ博士とを見比べた。
 博士は自信にあふれた笑みを、長老に向けた。
「よいかね、〈天然物〉たちをここに連れてくれば、すべてがうまくいくのだぞ」
「……すべてが、うまくいく……?」
「ああ。ようやく、おまえたちが望みつづけた楽園を、この地に築いてやれる。これまでの名ばかりの楽園とは違うぞ、本物の楽園だ。十年以上も待たせてしまったが、許してくれ、友よ」
「本物の、楽園、を……」
「その方の言葉を聞いてはいけない、アジル」
 止めようとするラクトじいじを無視し、バクレイユ博士は長老の肩をそっとつかんだ。
「そうだ、楽園だ。だがそれには〈天然物〉の力が必要なのだ。わかるかね、〈天然物〉だけでよいのだ。気が乗らんというなら、208番だけでもいい」
「208番……トマを――」
「そう、おまえたちが持てあましてきた”トマ”だ。そうすれば、もう哀れな雛たちの喉を裂き、〈喉笛〉をとりあげる必要もなくなる。3番、おまえが塔の底で、〈喉笛〉たちの悲鳴に心を痛めながら歌う必要もなくなる。おまえたちは自由を手に入れるのだ」
「自由……」
 長老がふらりと立ちあがる。その瞳に、やわらかな憧憬が宿る。
「誰にも傷つけられず、誰かに利用されることもなく、ただ己の心のおもむくままに歌える。快適な生活の場を地上にもうけてやろう。満足のいく食事も、そうしたいと願う者には仕事も与えよう。大公には文句を言わせない。あの木偶は私に逆らえない。……どうした? 喜べ、おまえたちはまもなく本物の楽園を手に入れるのだぞ」
 バクレイユ博士の表情には自信がみなぎり、甲高い声にはすんなり人を信じさせるだけの力強さと、なによりも魅力があった。
 この自信が、バクレイユ博士をこの国の頂点に据えているのだ。
 なんの根拠もなく人を信奉させ、強引に従わせるだけの、圧倒的な自信こそが。

「さあ、連れてくるのだ。今すぐに!」

 博士が叫んだ瞬間だった。弾かれたように長老が走りだした。鉄橋を渡って、奥の赤い扉をしがみつくように開け、外へ飛びだす。
 オースターは息をのんだ。ラクトじいじが切羽つまった眼差しを、オースターに向ける。
 その一瞬の、意思疎通。
「……っ」
 オースターはきびすを返し、長老とは逆側の赤い扉に向かって走りだした。
 扉を開け、通路に出る直前、バクレイユ博士を振りかえる。
 博士はオースターを警戒した様子もなく、ついに意識を手放したラクトじいじを支えることもせず、ただうっとりと、塔の底で心もとなく揺れる黒い手の群れを見つめていた。



 来た道を戻り、産業廃棄物置き場の通路を抜け、立坑の鉄梯子をのぼる。おりるときにはさほど感じなかった体力の衰えが、急激に腕の重さ、足のだるさとして襲いかかってきた。じれったいほど遠くに感じる頭上の四角い穴は、いまだ真っ白な霧に呑まれている。
「オースター!」
 息も絶え絶えに梯子をのぼりつづけるオースターの腕を、誰かが頭上から引っぱりあげた。コルティスだ。
「よかった、無事に戻ってきて。あんまり戻るのが遅いから、もうどうしようかと」
 オースターは肩で息をしながら、周囲に目をこらす。
 濃霧が霧雨のように冷たく体に絡みついてくる。見える範囲ではあるが、立坑のまわりには青い芝生が広がるばかりで、〈汚染〉は見られない。
「さっき、〈喉笛の塔〉がものすごく気持ちの悪い声で歌いだしたんだ。下で聞いてた? ……オースター」
 コルティスはオースターをひと目見るなり、顔をこわばらせた。
「君、血が」
 オースターはコルティスの二の腕を、疲労と動揺に震える手でつかんだ。
「コルティス。〈喉笛の塔〉の底に〈汚染〉が生じた」
「……えっ?」
 オースターは早口で今見たことをまくしたてた。
 見る間に青ざめていくコルティスの両肩をつかんで、オースターは言う。
「知らせにいって。博士は〈汚染〉を利用して、恐ろしいことを始めようとしている。止めなくちゃ」
「でも、誰に知らせたらいい? 元老院に知らせをやる権限、僕にはないよ。学長? それとも父に? 伝える相手をまちがえたら、大変なことになる」
 オースターはフラジアからの電信を、コルティスの手に握らせた。
「ルピィに伝えて」
 コルティスが驚いた顔をした。
「彼ならなにをすべきか的確に判断できる。職場学習体験先も〈北の防衛柵〉だし、機甲師団や〈汚染〉の現状にも詳しい。必要となれば、元老院にも知らせることができる。ルピィの父君は、元老院の一員だ」
「わかった。それで、オースターは……?」
 ラクトじいじのまなざしが脳裏をよぎる。
 たとえ、ラクトじいじが自分を促さなくても、オースターのやるべきことは決まっていた。

「下水道に行く」

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