喉笛の塔はダミ声で歌う
第38話 天秤の傾き
出会った所員に体調不良による退所を告げ、出してくれた送迎の電気自動車で霧の町に出る。ケーブルカーの最寄駅まで回してもらうことを考えるが、運転手に「送電トラブルで動いていない」とすでに知っていることを指摘され、自分がまだ冷静さを取りもどせていないことに気づく。
(だいたいケーブルカーでどこに行こうって言うんだ。下水道の鍵は、もう衛生局に返してしまったのに)
冷静になれ。
両頬を叩き、オースターは行き先を官庁街に変えた。
霧に呑まれた街に、異変はなかった。乳白色の世界を、時おり、ゆったりと歩く人の姿が見られる。
ここ首都に、〈汚染〉は到達していない。
オースターは確信する。
やはり、あの〈汚染〉は〈喉笛の塔〉で生まれたのだ。
車を下り、官庁街の隅にある簡素な建物に入る。受付の制止を無視し、オースターは奥の部屋へと足早に向かい、その扉を開けた。
デスクに広げた地図を眺めていたフォルボス・マクロイ衛生局局長は、ちらりと視線を上げ、眉をひそめた。
「どうかされましたか、殿下。控えめに申しあげて、見るも無惨なありさまで」
「あなたは以前、アラングリモ家に忠義を尽くすと約束した。それは今でも変わりないか」
局長は眉間にしわを刻んだ。
ため息とともに地図から身を起こし、手にした指示棒の先でデスクを打つ。
「曲解しないでいただきたい。地下水道事業に資金を提供していただけるかぎり敬意は払う、と申しあげただけだ。それに、あいにく今は下水道の復旧作業で忙しい」
「大したことを頼む気はない。トマを今いる場所から、すぐに移動させてほしい」
局長が怪訝そうにする。オースターは重ねて言った。
「ホロロ族の長の目に止まらぬ場所にだ。できれば、地上のどこかに――あなたの屋敷にでも匿ってほしい」
局長の端正な顔が盛大にゆがむ。
「私の下水道を破壊した罪人を、屋敷に匿えと? ご冗談を。だいたい殿下は、職場体験学習先を〈喉笛の塔〉に変更されたのでは?」
「匿えないなら、トマを独房に放りこんで。鍵をかけ、その鍵は合い鍵も含めてルゥに預けるんだ。僕がいいと言うまで、誰にも開けさせるな」
「……いったい、なにをなさるおつもりか」
「詳しく話す気はない。今すぐ地下のホロロ族に、僕が言ったとおりの命令をだせ」
値踏みするように目を細める局長に、オースターは詰め寄る。
「なにを迷う必要がある。アラングリモ家が、今もこれからも、衛生局に対して潤沢に資金の提供をすると約束しているんだぞ」
局長は指示棒をデスクに放って、壁にかかった受話器をとりあげた。取り次いだ誰かに、オースターが言ったとおりのことを命じる。
「ご満足ですか?」
受話器をおろすと、局長がさも邪魔だと言わんばかりの口調で言った。
「では、お引きとりを。私は忙しい」
「もうひとつ。下水道の鍵を貸してほしい」
一瞬、局長が沈黙する。
「なぜです」
「詳しく話す気はないと言ったはずだ」
「下水道に行くおつもりならば、忠告申しあげる。鍵があっても道案内がいなければ、地下の暗がりで迷子になるだけだ」
「――トマに会いたいんだ!」
冷静に話していたつもりだった。なのに、つい発した言葉は焦りに震えていた。
局長はたしかに指示を正しく伝えたろう。
だが、それでは安心できない。独房に入れさせたのは、あくまでも時間稼ぎだ。
(すぐに下水道に行って、トマを助けださないと)
下水道の崩落事故以降、ホロロ族にとって、トマは災厄をもたらす危険人物となった。
それはバクレイユ博士が長老に対し、トマ以外のほかの〈天然物〉も連れてくるよう命じたときのやり取りからもわかる。バクレイユ博士が「208番だけでもいい」と言ったら、長老はあきらかにそれに従う気配をにじませたのだ。
――長老は、トマだけを差しだすつもりだ。
そうとなれば、南京錠も鉄格子もなんの守りにもならないだろう。
長老が「トマをバクレイユ博士に差し出せば、我々は自由になれる」と声高に説けば、数百人のホロロ族は喜んでトマを独房からひきずりだす。南京錠を壊し、鉄格子をへし折ってでも。あるいは、鍵を持ったルゥをむりやり捕まえてでも。
暴徒と化した民衆ほど恐ろしいものはない。
それは、かつて領地を所有し、民を統治したアラングリモ公爵家の血に刻まれた教訓だった。
(ぜったいにそんなことはさせない)
オースターは震える拳を握りしめた。
そんなオースターを、局長は黙ったまま見つめてくる。
その目が、一瞬、迷いに揺れた。
なにを迷ったのか――オースターは瞬間的に不安を覚えた。
けれどオースターには、そのことをちゃんと考えるだけの気持ちの余裕がなかった。
「……案内人を地下によこしましょう。〈死者の酒樽広場〉に行ってください」
紙切れに手書きの地図を書いてよこす。
「そこは崩落事故の現場だけど……」
「ホロロ族が作業中ですから、案内人の手配をつけやすい。お急ぎなのでしょう?」
案内人と落ちあう場所の詳しい説明を受け、オースターはそれを制服のポケットにおさめた。
ようやく、わずかながらに安堵する。
少なくともこれで地下に行く手立てはできたのだ。
「ありがとう。……助かります」
いったん去りかけたオースターは、足を止め、フォルボス局長を振りかえった。
局長のホロロ族に対する態度は許しがたい。それに「地下水道のためならばなんでもする」と豪語する局長を信頼するのも無理な話だ。ドファール家と、アラングリモ家。より多くの金貨を皿に積み、天秤を傾けたほうに服従する――その節操のなさを信じることなどできるはずがなかった。
それでも、この状況で頼れる相手がいるのは心強かった。
局長は目を見開いた。瞬間的になにかを言いかけ、口を開く。
だが、けっきょくは口を閉ざした。ふたたび地図に視線を落とすと、わずらわしげに手でオースターを追い払った。
濃霧のなか苦労して辻馬車をつかまえ、たどりついた〈死者の酒樽広場〉には人気がなかった。工具店を探し、皮の手袋や長靴、縄、先端の曲がった鉄の棒など思いつくかぎりの工具を買う。
例の崩落現場は広場の中心にあった。枯れた噴水池そばの地面が広範囲に陥没している。大穴の周囲にはロープが張られ、「立ち入り禁止」の立て看板が立てられていた。
ぎりぎりまで近づいて穴を覗いてみるが、瓦礫の山が見えるだけだ。作業中だというホロロ族の姿は見あたらない。
オースターは霧の広場を歩きまわり、花壇のそばに「目当てのもの」を見つけた。
マンホールの蓋だ。
ステップは八段で終わった。
蓄電池式ランタンを点灯させると、記憶に馴染んだ地下水道が光の輪のなかに現れた。
事故の影響か、作業灯が点いていない。暗い。
「誰かいる?」
声が反響する。応答はない。まだ連絡が届いていないのかもしれない。だとしたら、少し待つ必要がある。
オースターは焦る気持ちをおさえこんで、その場で待ちつづけた。
――どれぐらい待っただろう、ふと遠くにかすかな光が見えた。
「誰か! そこにいるの!?」
光が揺れる。ランタンの明かりだ。
オースターは声を張りあげた。
「オースター・アラングリモだ! フォルボス局長がよこしてくれた案内のひと?」
答えるように、光が左右に揺れる。
だが、近づいてくる様子はない。
オースターはマンホールを見上げてから、意を決して地下水道を歩きだした。
だんだんと光が近づいてくる。
光はまだ左右に揺れている。
もうすこしだ。
そう思ったとき、ふっと光が消えた。
「へえ、本当にオースター様だ」
すぐ耳元で声がした。
はっと右に顔を向けた直後、目の前でパッと白光がひらめいた。
まぶしい。無理やり薄目を開けると、白んだ視界のなかで金髪の少年がにやりと笑った。
直後だった。
後ろ頭に衝撃が走った。膝から崩れおち、どっと地面に倒れこむ。
そして――それきり。
オースターはなすすべもなく意識を手放した。