喉笛の塔はダミ声で歌う

第36話 変容

 ――助けて。

 オースターの耳は、はっきりとその声を聞いた。

 ――出して、ここから出して。
 ――助けて。助けて。
 ――暗い、狭い、苦しい。
 ――怖い。こわい。こわい。こわい。

 老いた声、若者の声、幼子の声、赤子の泣き叫ぶ声までが聞こえる。恐怖に支配された数百人分の叫びは、耐えがたい不協和音となって襲いかかってきた。
 オースターは両手で口を覆った。そうでもしなければ、嗚咽をあげて泣きだしそうだった。
 ああ、ずっと聞こえていた悲鳴は、これだったのだ。
 助けを求める〈喉笛〉たちの悲鳴だったのだ。
 あまりにも美しく、あまりにもむごたらしい――塔の底に囚われたホロロの民の魂の叫び。
 オースターは、ラクトじいじに顔を向けた。
 目が合うと、ラクトじいじは恥いったように顔をそむけた。
 背を丸めてうなだれる姿には、ランファルドの繁栄に寄与しているという自負や誇りは微塵も感じられない。
 ただただ、卑屈めいていた。
 ただただ、みじめだった。

(ここは楽園だって言ったじゃないか)

 哀れみよりも怒りがわきおこって、オースターは歯を食いしばる。
(そうやってホロロ族のみんなをあざむいてきたんじゃないか。だったら、顔をそむけたりせず、堂々と振るまえばいい!)
 それができないのは、ラクトじいじも本当はわかっているからだ。ここは楽園なんかじゃないということを。
 なのに、ラクトじいじはその事実から目をそらしている。「楽園に連れていく」と言って、みんなを引き連れ、ここまでやってきたから。
 楽園という理想を掲げ、従順なホロロの民を凄惨な旅路へと導いた。彼らが仲間の死肉を食らってまで生き残ろうとしたのは、〈汚染〉が多くの仲間の命を奪っていく絶望のなか、それでも歩みを止めなかったのは、ラクトじいじの掲げる「楽園」にいつかたどりつけると夢みたからだ。
 そうして、ランファルドにたどりついた。死の世界をくぐりぬけ、枯れ木のごとく痩せ細りながら、ついに安楽の地へと。
 今さら言えないだろう。そうまでしてまでたどりついた場所が、楽園ではなかったなどと。
 ここから先には、もう逃げ場所などない。だから、永遠に嘘をつきつづけるしかない。「ここはまだ楽園ではないが、みんなで楽園にしてゆくのだ」と、新たな理想をかかげて。
 そして、ホロロの民もまた自分自身を欺きつづけるしかない。「今の生活に満足している」と。
 けれど、どんなに取りつくろったって、むきだしの魂は正直だ。
〈喉笛〉がホロロ族の魂だというなら、魂は叫びつづけている。
 ここから出してくれ、助けてくれ、と。

「ラクト、頼む、出してくれ、出してくれ……!」

 ふいに、闇の底で悲鳴があがった。
 ラクトじいじは鉄橋から階段を数歩おり、闇の底に向かって手を伸ばした。
 すぐさま階段を駆けあがる音がし、ぬっと老人が現れたと思うと、ラクトじいじの腕にしがみつくように鉄橋に這いあがった。
「ああ、よかった、ラクト、やはりなにかがおかしい。先日の暴走から、すべてが変わってしまった。共鳴実験は、すぐにでもやめるべきだ。君から博士に言ってくれ」
 長老はラクトじいじに必死のダミ声で訴える。
 感情のコントロールができず、声はおそらく本人が思っているよりも小声にならなかった。オースターの耳にも届き、おそらくは博士の耳にだって届いたはずなのに、博士は満面の笑顔でそれを無視して、ラクトじいじと、背後の男に目をやった。

「さあ、208番君、いよいよ君の出番だ。存分に歌いたまえ。今日は皇太子殿下もお越しだぞ」

 バクレイユ博士の言葉に、オースターは目を見張る。
 208番は、トマの識別番号だ。まさかトマがここに来ているのか――そう思って首を巡らせるが、ラクトじいじと長老のほかにいるのは、ぬめり竜に腕をやられた男だけだった。
 博士も眉を寄せ、男のそばに歩みよる。びくりと後ずさる男の首輪を無理やりつかんで、刻まれた数字を確認し、
「87番だって?」
 裏切られたとでも言いたげに、ラクトじいじをにらみつけた。
「ラクト。私は208番を連れてくるように言ったはずだ。あの特別な輝きを放つ、素晴らしい〈喉笛〉の持ち主を」
「バクレイユ、トマを連れてくることはできない。前にもそうお話ししたはずです」
「そんな話、覚えておらんぞ」
「独房の前でたしかにお話しした。どのみち、トマは〈喉笛〉の摘出手術のあと、高熱を出して寝こんでいますのじゃ。動ける状態ではありませぬ」
 ぎくりとする。やはりすでに摘出手術は行われてしまったのだ。しかも高熱だなんて。命の危険は、後遺症の心配はないのだろうか。地下には医者もおらず、薬だってろくにないのに。
「それでかわりに、この鳥を連れてきたわけか。ふん、まあ、〈天然物〉ならばひとまずは誰でもいいが……」
「彼も〈養殖物〉ですじゃ」
「なんだって?」
 ラクトじいじをまじまじと見つめ、博士は激昂した。
「私が208番を連れてくるよう命じたのは、〈天然物〉が起こす共鳴反応が見たかったからだ! 208番がだめなら、せめてほかの〈天然物〉を連れてくるべきだ、その簡単な判断もできぬおまえではあるまい!」
「バクレイユ、私はたしかに言ったはず。トマに歌わせるのは危険だと。それはほかの〈天然物〉でも同じこと。〈養殖物〉とは魔力量の桁が違うのです。不用意に扱っては――」
「もういい! 今日はその鳥でいい。歌わせろ」
 その鳥、と指さされ、ラクトじいじの背後にいた男がすくみあがる。
「ラ……ラクトじいじ、すみません、こ、ここにはいたくない。怖い。怖いです」
 ラクトじいじは男を肩越しに振りかえって、おだやかにほほえむ。
「大丈夫じゃ、怖いことなどなにもない。ただ、歌うだけじゃ。わしと長老たちも、もう何度もここに来て歌っているが、怖いことなどなにも起きなかったぞ?」
「でも、赤い扉が……!」
 悲痛な叫びに、ラクトじいじは笑顔をわずかにひきつらせた。
「こ、ここは、赤い扉の中だ。みんな、連れてかれた。戻ってこなかった。みんな、悲鳴をあげてた。ひどい目に遭わされたんだ」
「モル、ここはフラジアの捕虜収容所ではない。ひどい目になど遭わされない」
「いやだ……!」
 ラクトじいじは小さく息をつき、バクレイユ博士に向きなおる。
「バクレイユ、今日の共鳴実験はとりやめにできませんかの。先日の暴走から、〈喉笛の塔〉はなにかがおかしい。どこか変わってしまったように感じるのです。このまま実験を進めれば、いずれ取りかえしのつかない恐ろしいことが――」
「つまり、ランファルドのためには歌いたくないということか、ラクト」
 バクレイユ博士がいら立ったように言う。
「いいえ、決してそのようなことは。……ならば、私が歌いましょう。もともと、共鳴実験を行うのは長老会だけという約束。モルは、この87番はまだ若い」
「長老会だけが共鳴実験をするなどと約束した覚えはないぞ」
「たしかに約束したはず。バクレイユ、あなたはいつもすぐに約束を忘れてしまう」
「忘れたのではない、そもそもそんな約束などしていない」
 ラクトじいじは困ったように苦笑した。
「バクレイユ、もうひとつ頼みがあります。扉の色を、別の色に塗りかえてはもらえませんかのう。赤い色は、フラジアの収容所にいた我々にはあまりに酷じゃ」
「だから敢えて赤にしている。怯えれば怯えるほど、おまえたちの歌声は力を増すのだ。気づいているだろう、ラクト」
「それは……」
 ラクトじいじは言葉を探して口を閉じたり開いたりし、また「バクレイユ」と博士の名を呼ぶ。だが。

「いいから、歌わせるんだ!」

 子供の駄々のような命令だった。
 だが命じられたとたん、ラクトじいじの瞳から感情が消え失せた。嫌がる男の腕をつかみ、引きずるように階段へと押しやる。
 いまだ塔の底には、大勢の人々の叫びが渦巻いている。男は涙を流しながら、鉄柵にしがみついた。
「いやだ、ラクトじいじ、行きたくない、下りたくない……!」
「大丈夫じゃ、モル」
 ラクトじいじは男の背に手をあてがい、耳元で優しくささやいた。
「幸福を呼ぶホロロの鳥よ、ランファルドの人々のために歌ってきなさい。みんなを喜ばせるのがお前の役目じゃ」
 すると、男の顔からもごっそりと表情が抜け落ちた。膝を震わせながら階段をおり、底の闇のなかへと消えていく。
 オースターは愕然として、非難の眼差しをラクトじいじに向けた。
 果たしてこの人は自覚しているのだろうか。祭祀承継者《さいししょうけいしゃ》として、〈養殖物〉のホロロ族が主人に従順であるよう「しつけた」と言う彼自身が、バクレイユ博士にまるきり逆らえずにいることを。
「ラクトさん、こんなこと、おかしい」
 オースターは言う。ラクトじいじは黙ったまま、ゆっくりと階段をおりていく仲間を見守る。かわりにバクレイユ博士がオースターを振りかえった。
「おや、殿下にはなにか不服がおありですかな?」
 オースターはたじろいだ。下手な発言は、バクレイユ博士の不信を招きかねない。不承不承、口を閉ざして、「いえ」と首を横に振る。
 叫び声がやまないなか、塔の底から歌が聞こえはじめた。
 ダミ声の、哀れなほど恐怖に震えた歌声だ。
 オースターは無力感にさいなまれ、目を伏せる。
 
 ――どうして、と誰かがつぶやいた。

 オースターは目を開き、眉を寄せ、塔の底の闇に目をやる。
 気づけば、〈喉笛〉たちは叫ぶことをやめていた。ただ、かすかなダミ声の歌だけが聞こえてくる。
 オースターは鉄柵に手をかけ、底の闇を覗きこんだ。
 ふたたび、聞こえた。どうして。少女のものとおぼしき〈喉笛〉の声。
 最初、ひとりのつぶやきだったそれに、ひとり、またひとりと同調しはじめる。どうして。どうして。どうして。やがて、大勢の〈喉笛〉たちが口々に囁きはじめた。

 どうして、助けてくれないのか。
 もう何回も何十回も何万回も叫びつづけているのに。
 どうして無視をする。
 ほかでもない「私」自身が、どうして「私」の嘆きを無視する。
 どうして。どうして。どうして。

 どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして

 ど う


  し

              て

 声が捻じ曲がった。オースターの体は巨人に平手打ちされたような衝撃を受けて、横倒しに転げた。
 呆然とするオースターの鼻から血がしたたる。耳からも熱いものが流れでる。
 だが、それらをぬぐうよりも先に、オースターは悲鳴をあげて両耳を塞いだ。

(なんだ、この声)

 耳を塞いでも無駄だった。指の隙間から入りこんだ音という音が、耳から体内へと侵入し、すさまじい勢いで暴れまわりはじめる。
 さきほどの悲しみに満ちた叫びとは質がまるでちがう。もっと暴力的な声だ。オースターは全身を殴打されているかのような痛みを覚えながら、耳を塞いだまま「やめてくれ」と叫ぶ。
 ふと、かたわらに、誰かが立った。
 どきっとして振りかえるが、そこには誰もいない。
 今度は背後に気配を感じた。振りかえるが、やはり誰もいない。
 けれど、オースターは自分が大勢の人に囲われていると感じた。
 姿は見えないが、たくさんの人が自分をじっと見下ろしている。
 そのまなざしの奥にあるのは、憎悪。
 オースターは悟った。
〈喉笛の塔〉がいま歌っているのは、憎悪の歌だ。
 憎しみの歌が、何十、何百、何千、何万とあふれかえる。その声は円筒状の壁面にぶつかり、跳ねかえり、逆の壁にぶつかって、また跳ねかえる。幾度もそれを繰りかえし、より強大な力を持ちはじめる。同時に音は高くなり、高くなり、さらに高くなって――、

 やがて、耳で感知できない音域にまで達した。
 無音。
 声はもはや聞こえず、耳に痛いほどの静寂が、塔の内部を占拠する。

 オースターは耳から手を離し、鉄柵にしがみついて、よろめきながら立ちあがろうとする。だが、めまいがひどくて手にも足にも力が入らない。
 倒れているのは自分だけだろうかと顔をあげる。ラクトじいじも、長老も、バクレイユ博士も、同じように耳や鼻から血を流し、鉄橋に倒れていた。
 塔の底におりていった男の歌声ももう聞こえない。モルと呼ばれていた。やはり彼も倒れているのかもしれない。 
 モルはどうなったのか、確かめないと。オースターはなにが起きたのか理解できないまま、鉄柵を支えに、足を引きずって階段に向かった。
 だが、異変はそれだけではおさまらなかった。
 心臓が、ぐるんと裏返った。
 階段の下に、「なにか」がいる。
 黒い水面のごとき闇のなかから、「なにか」が這い出てくる。
(嘘だ)
 オースターは愕然として立ちつくした。
 
「すばらしい……すばらしい!」

 だしぬけに、バクレイユ博士が歓声をあげた。
「いったいどうしたことか。これはとてつもない力だぞ、ラクト!」
 よろめきながら立ちあがり、鼻血をぽたぽたと垂らしながらも甲高い声で叫ぶ。ふらふらと向かった先は、鉄橋の中央部に設置された真鍮製の機械。博士は機械にしがみつき、大口を開けて笑った。垂れた鼻血が歯を赤く染めるのも気にせず、機械上の計器が示す数値を忙しく手帳に書きつける。
「なんというエネルギー量だ! いったいなにが起きたのか……ああ、だがこの力を制御できさえすれば、ランファルドの繁栄は未来永劫につづくだろう! すばらしい、すばらしいぞ!」
 ラクトじいじが呆然と首を振って、鉄柵に手を伸ばす。
「バクレイユ……これは、いけない」
「なにがだ!」
「この力はいけない。この声はあまりに危険だ」
「なにが危険だというのだ!」
「わかりませぬ」
 ラクトじいじのダミ声が珍しく動揺に揺れた。
「ともかく、これは我々に制御できるものではない」
「制御できない? なにを言う。おまえたちはいつでも従順だ、私の命令にそむいたことは一度もない。この力もまたおまえたちがつくりだしたもの、ならば制御など簡単だ!」

 それらのやりとりを、オースターは意識の隅だけでとらえていた。
 その「なにか」は、靄のようにぼやけた黒い手だった。
 手は五指を蠢かせながら段差がある場所を探り、ずるり、ずるりと階段を這いあがってくる。通りすぎた跡をじりじりと錆びつかせながら、一段一段、手探りで鉄橋に近づいてくる。
 オースターは真っ青になって後ずさった。
 信じられなかった。いま自分が見ているものは、ここには存在しないはずのものだ。〈喉笛の塔〉の内部だけではない、首都ランファルドには決して存在してはいけないはずのものなのだ。
(こんなこと、ありえない)
 だってこれは、〈北の防衛柵〉の向こうにしか存在しないはず――

 跳ねた。
 とつぜん。黒い手が。

「ラクトさん!」

 オースターは声をあげた。鉄柵にしがみついていたラクトじいじがこちらを振りかえる。瞬間、鞭のようにしなった黒い手が、ラクトじいじの腕に掴みかかった。
「――っ」
 驚愕に声を発しかけたラクトじいじの体が黒い手に引っぱられる。オースターはとっさに手を伸ばし、今にも柵を乗りこえ、底の闇に落とされようとしていたラクトじいじの逆側の腕を引っぱった。長老も一緒になってラクトじいじの体を掴む。黒い手はあっけなくはずれ、塔の底へと戻っていく。
 勢いあまって鉄橋に倒れこんだオースターは、急いで上体を起こし、鉄柵の向こうに目をやった。
 柵の向こう側では、無数の黒い手が煙のように立ちあがり、ゆらゆらと蠢いていた。
「そんな……ばかな」
 長老がつぶやく。

「これは――〈汚染〉だ」

第37話へ

close
横書き 縦書き