喉笛の塔はダミ声で歌う

第5話 反響する笑い声

 下水道へとつづく螺旋階段を降りると、トマが壁際に立って待っていた。
「……また来たのか。懲りない奴だな」
 オースターは仏頂面で、肩をすくめた。
「そりゃ来るよ。僕は真面目な優等生なんだからね」
 売り言葉に買い言葉を返すと、トマはさっさときびすを返した。
「あ、待って。作業着を持ってきたんだけど、どこで着替えたらいい?」
「来る前に着替えてこいよ、のろま」
 悪口は無視しよう、無視だ。
「更衣室とかないのかな?」
「あるわけない。ここで着替えろ」
 それはまずいのである。
「ちょっとそこの脇道で着替えてくるね。あ、これ。従者からの差しいれ」
 オースターはトマに焼き菓子の入った箱鞄を押しつけ、手近な脇道に入る。
 不快な匂いのたちこめた暗がりで、華やかさのかけらもない作業着に着替えていると、みじめな気分がいっそう増してくる。
「お待たせ、着替えてきたよ。……トマ?」
 トマはまだ鞄を見つめていた。不審物だとでも思っているのかもしれない。
「中身、焼き菓子だよ。エルスピットって知っているだろう? あれの豆を練りこんだやつ。甘いの平気?」
「菓子?」
 ひねくれたダミ声が、一瞬、明るさを増した気がした。
「甘いもの、好きなの?」
 トマははっと顔をあげた。
 目が合うと、額のゴーグルをぐっとおろして顔を隠した。
「好きじゃない。――乗れ」
 トマが親指で下水道の闇を示した。
「乗れって……わあ!」
 汚水の中に真鍮製の乗り物が浮かんでいる。
 六本の脚を持った多脚式の装甲車だ。
 前部にふたりがやっと立てる狭さの無蓋の運転席がもうけられている。後部には円筒形の透明なタンクが設置され、全体のフォルムはてんとう虫のようだった。
「なにこれ、かっこいい! なんていう名前!?」
「ホロロ四号」
「ほろろ?」
「ホロロはもともと”蟹”っていう意味なんだ。形が似ているからそう名付けた」
「もともと?」
 オースターはきょとんとし、ぷっと吹き出した。
「ち、違う。君がつけた名前じゃなくて、この乗り物の名称のこと! トロッコとか、戦車とか、そういうのさ」
「……汚水回収車エリスⅡ型。軍の払い下げの戦車を改造したものだ。いいから乗れ!」
 オースターはにやにやしながら、運転席の小さな扉を開けて中に入った。
 簡易的な丸椅子がひとつ。トマが着席し、オースターはその横の狭い空間に身を縮めて立つ。背面にちょっとした戸棚があったので、鞄と制服はそこにしまった。
 椅子の前面にはいくつもの操縦桿がある。トマがそのうちのひとつを手前に引くと、ホロロ四号は汚水の中をゆっくりと進みはじめた。
 耳を聾する轟音。へりから身を乗りだすと、車体の下で汚水が渦を巻き、ポンプによって背面のタンクに吸いあげられているのが見えた。
「これはなにをしてるの!?」
 声を張りあげて問う。
「下水管の底にこびりついた排泄物や、油の塊、泥やモルタルなんかを、水圧ではがしてる。放っておくと水の滞留を招くからな。幹線や、この車が入るぐらいの中型の下水管は、これを使って掃除する。はがして吸いあげたごみはタンクに集められて、圧縮したあと産廃置場に廃棄されて、焼却される」
「へええ」
 感心しながら、オースターはこっそりトマの横顔に目をやった。
 この間は、教育係を任せられたことに不満もあらわだったトマだが、一応、仕事を教えるつもりになってくれたようだ。態度も初日のときほど険悪ではない。
 ――おまえのせいで……。
 あんなことまで、言っていたのに。

「〈アニアシの葉脈〉ってなに?」

 トマが肩越しにオースターをにらんでくる。
「この間、言ってただろう? 〈アニアシの葉脈〉の担当になるはずだったって」
 めげずにつづけると、トマはそっけなく答えた。
「葉脈っていうのは、下水道のことだよ」
「ああ……確かに葉脈みたいに入り組んでいるものね。じゃあ、アニアシは? どこかの下水管の名前なの?」
 トマは舌打ちした。
「大公宮の下水道のことだ」
 大公宮。大公殿下が住まわれている宮殿のことで、ランファルド市の中心――〈喉笛の塔〉に隣接した、断崖にそびえる石積みの要塞だ。
「そっか。それであんなに怒っていたんだね。悪いことしちゃったな」
 トマは怪訝そうにした。
「なにが」
「君たち掃除夫にとったら、きっと大公宮の下水道を担当することは名誉なことなんだろう? 僕のせいで担当を外されたなら悪かったなって」
「なんで名誉なんだ」
「だって……大公宮だよ? 名誉なことじゃないか」
「あんたのご主人様や、貴族どものくその始末をするのが名誉だって言うのか」
 絶句するオースター。
 なんてことを言うのだろう。ラジェが言うみたいに「飼い馴らす」ことができたとしても、こんな猛獣珍獣、乞われたって飼いたくない。
「だったらなんでこだわったんだよ。僕のせいでって言っていただろう」
「……べつに。〈アニアシの葉脈〉はポイントが高いから、効率よく稼ぎたかっただけだ」
 ポイント――初日にもほかの掃除夫がポイントがどうのと言っていた。
 それってなに、と聞きたかったが、また悪態をつかれると思うと口が重たくなる。
(いいや、今度ラクトじいじに会ったときに聞こう)
 押し黙ると、トマが口を開いた。
「あんた、大公宮に行ったことあるか?」
 トマからの質問だ。オースターの質問には不機嫌になるくせにとひねくれた気持ちになりながら、「あるよ」と答えた。
「学生だから、しょっちゅうではないけど。たとえば晩餐会や舞踏会に招かれれば、外出届を出して参加するよ」

「なら……塔は?」

 オースターは首をひねった。
「塔って、〈喉笛の塔〉のこと? 塔には行ったことがないなあ。発電所に用はないもの。国家運営にかかわる最重要施設だから、一般庶民の見学も許されていなかったと思うよ」
「……そう」
 オースターは首をかしげた。
「君でも〈喉笛の塔〉に興味があるの? ランファルドの繁栄を象徴する偉大な建造物だものね」
 トマは答えなかった。無言で操縦桿を操るばかりだ。
 オースターは「また無視か」と肩をすくめた。


「おりろ。この先、こいつは入れない。手作業だ」
 運転席から歩道におりるトマ。オースターも後につづいて歩く。
 と、少し先に立ちはだかった壁に、白い光が揺れているのが見えた。
 行ってみると、そこは狭い立坑の底だった。立坑の天井から光の帯がさしこみ、水面に反射した光が壁に美しい波紋を映しだしていたのだ。
「ずっと上に蓋が見えるだろう? あの蓋を開ければ、もう外だ」
「蓋って、光が射しこんでいるあの……丸い形の?」
「そう。マンホールの蓋」
「マンホール?」
 おうむ返しのオースターに、トマはうんざりしたため息をついた。
「あんた、なんにも知らないんだな」
「……悪かったね。知らないから学びにきているんだよ」
「マンホールってのは、地上と下水道とを結ぶ点検用の立坑のことだ。つまりここ。梯子があるだろう? あれをのぼって蓋を開ければ、地上に出られる」
 へえ、と素直に感心するオースターである。
「ちなみに、ここは英雄アーカス通りの地下。〈英雄アーカスの葉脈〉って呼ばれてる」
「え、それって〈時計台広場〉にある道路のこと!?」
 原則、学生は校舎の外に出ることを許されないが、週末になると、面倒な外出許可申請をしてまで足を運ぶのが、旧市街にある〈時計台広場〉だ。
 昔ながらの真空式時計台があって、「花の祭典」の時期になると区長による開会宣言がなされる。普段からにぎやかな広場だが、休日になると市が開かれ、市民がそぞろ歩きを楽しむ。一歩裏手に入ると、高級ブティックが並ぶ閑静な通りに入り、オースターも従者を連れて訪れたことがある。
 知らなかった。
 見知った場所の足もとに、こんな地下空間が広がっていたなんて。
(僕が広場でりんご飴にかじりついているその真下では、トマが掃除をしてたのかな。それって驚きだ)
 いきなりトマが立坑の底にたまった汚水の中に跳びこんだ。
 水飛沫があがって、オースターは「わっ」と後ずさる。
 トマは腰までの水をかきわけるように奥に向かい、いくつもある鉄梯子のひとつに手をかけた。
 梯子の先には、口径が片腕の長さほどの管が丸い口を開けている。
「今日はこの排水管で作業だ。おととい、別の掃除夫が奥に亀裂を見つけた。材料が揃ったから、補修材で埋めて、水漏れを防ぐ」
「わ、わかった。僕はどうすればいい?」
「そこで見てろ」
「え、でも」

「汚れ仕事はいやなんだろ、公爵」

 一瞥され、オースターはどきりとした。
 梯子を素早くのぼっていくトマを見送る。
(見抜かれていたんだ)
 ため息が漏れる。
 けれど、どんなに強がってもそれが本心だ。汚水まみれになるのはやっぱりいやだった。
(だって、この汚水って……汚水なわけだよね)
 歩道にしゃがんで、汚水の流れを見つめる。
 灰味がかった緑色だ。時おり、ごみのようなものが混じって流れてくる。
 下水道の仕組みはまだよくわからないが、これらはつまり、地上のトイレから流れてきた排泄物とかそういうものなのではないだろうか。
 最初の日、オースターは汚水を踏みながら歩いた。あのときは無我夢中だったからできたのだと改めて思う。
 深く考えだすと、どうしたって抵抗感がわく。
(トマは気持ち悪くならないのかな)
 オースターは膝に乗せた両手の甲の間に鼻をうずめる。
(呆れたろうな)
 初日にあれだけ大口を叩いておいて、このざまとは。
 見上げると、トマは梯子を足場に円形の排水管を覗きこんでいた。管からは汚水が流れ出ており、頭から飛沫を浴びながらの作業だ。
 けれど、トマはまるで汚水を気にする様子がない。

(……すごいな)

 ふっと素朴な感動がこみあげてきた。
 どうするのか見ていると、管に身を屈めて入っていき、そのまま姿を消してしまった。
(あんな狭い管の中にも入っちゃうんだ)
 すごいことだ。汚れることなんていとわずに、実直にやるべき仕事をしている。
 それに比べて、自分はなんなのだろう。
(空っぽ公爵……)
 一昨日、トマの投げつけてきた言葉が頭によみがえった。
 オースターはどうしようもなく情けない気分になり、立ちあがった。
「待って、トマ! やっぱり僕も――」

 歌えよ。
 でなきゃ死ね、役立たず。

「……っ!?」
 頭のすぐ後ろで聞こえた声に、オースターは驚いて背後を振りかえる。
 だが、そこには誰もいない。
 心臓がばくばくと高鳴る。今のはいったいなんだろう。すぐそばで聞こえた気がしたけれど。
 きっと、トマの声が反響しただけだ。トマだったらそれぐらい乱暴なことを言いかねないではないか。
 ――そうだろうか。いくらなんでもそこまでのことは言わないのではないか。
「トマ、大丈夫?」
 声をかけるが返答はない。ただ水の流れる音だけがむなしく響きわたる。
 気のせいだ。
 そう自分に言い聞かせた直後、悲鳴と笑い声が破裂した。
 幾重にも反響する声。オースターは恐怖に突きうごかされ、背後にある下水管のひとつを覗きこんだ。

「誰かいるの……?」

 管の出口側が、円形に切り取られて見える。
 そこに、こちらを覗くようにして、ふたつの人影が現れた。
 管のふちに手をかけ、身を乗りだしてこちらを見ている。
(ゆ、幽霊じゃないよね!?)
 大嫌いな怪奇小説みたいだ。
 下水道には亡霊や怪人が住んでいてどうのという――、

 耳元で「おい」とダミ声がした。

「うわあああああ!?」
「……なんで毎度叫ぶんだよ」
「ト、トトトトマ!? ど、どこに行って」
「どこって上の管だ。見てただろ。それより、ほら」
『ぶぁっ』
 トマが顔になにかを押しつけてくる。あわてふためくオースターの視界がガラスで覆われている。ガスマスクをかぶせられたのだ。呼気で曇るガラスの向こうで、トマがなにかの計器を見せてきた。
「ガスが発生した。いったんここを離れる」
『ガ、ガス?』
「硫化水素。計器が反応してるだろう? ここの青い表示だ」
『い、今、あっちに誰かいた! こっちを見ていた。歌えって。死ね、役立たずって。それで悲鳴が……笑い声も!』
 トマはさっと表情を険しくした。
 例の管を覗きこむが、そこにはもう誰もいない。
「……掃除夫だろ。あちこちにいる」
『でも!』
「いいから」
 トマはオースターの腕を痛いぐらい掴んで足早に歩きだした。
 引きずられながら背後を振りかえるが、そこには無人の下水道があるばかりだった。


 置いてきたホロロ四号のところまで戻り、だいぶ経ってからトマはオースターにガスマスクを外す許しを与えた。マスクを外し、オースターはほうっと息をつく。
 トマは歩道の壁にもたれて、ぐったりしている。そこではじめてトマがガスマスクをしていなかったことに気づいた。
「もしかしてこれ君の分だった? パニックになっていたみたいだ、気づかなかった!」
「違う。ふたつ持ってくるのを忘れたんだ。おれが悪い」
 オースターは目を見開いた。
(なんだよ、それ。ずるいや……あれだけ案内役をいやがったんだったら、今だって嫌みのひとつやふたつ言ってくれたらいいのに)
 先ほどの情けない自分を思いだし、オースターはぎゅっと目を閉じる。
 そしてオースターは、いぶかしそうな様子のトマに勢いよく頭を下げた。
「ごめん、トマ! さっき、水の中に入るのをためらった。やる気のない態度だった。次こそきちんとやるから、今度はちゃんと仕事を教えてほしい」
 トマはあっけにとられてから、疑り深い顔つきになった。
「あんた、誰にはめられた?」
「えっ」
「知ってるだろ。ここではドファール家が幅を利かせてる。衛生局の局長とドファールの当主が仲いいんだ。あんたの家とドファール家は犬猿の仲だって聞いた。そのあんたがドファール家の縄張りにいる……ルピィ・ドファールにでもはめられたか」
 オースターはトマの分析に舌を巻き、もごもごと言い訳をする。
「体調を崩して休学している間に、職場体験申請書の希望職種欄に下水道掃除夫って書かれて、勝手に提出されたんだよ」
 トマはため息をついた。
「そういうことか。なら、これで終わりだ。学園に戻って、下水道掃除はもうやりたくないと言ってこい。公爵家のあんたが言えば、誰も強要なんてできないだろ」
「そんなことできないよ」
「ああ、大公に誉められたいんだっけ? けど、そういうのはよそでやれ。下水道掃除はおきれいな世界に生きるあんたに耐えられる仕事じゃない。出口までは送ってやる」
「ま、待って、違う、やめたいって話をしたいんじゃないんだ。僕はただ、これからはちゃんとやるから、きちんと仕事を教えてほしいって――うわっ」
 いきなり胸ぐらを掴まれ、壁に押しつけられた。驚くオースターを至近距離でにらみつけ、トマは低いダミ声で囁いた。
「いい加減にしろよ。どうせあんたも『ドブネズミは餌さえやれば、なんでも言うことを聞く』と思ってるんだろけどな」
「な、なんだよそれ。僕はそんなこと、……っ」
 ぐっと喉を押さえつけられ、オースターは顔をしかめた。
「ちょっ、くるし……、離し……っ」
「みんながなんと言おうと、おれは二度とあんたら貴族どもの言いなりにはならない。ぜったいに!」
 オースターは目を見開いた。自分をにらみつけるトマの瞳には、憤りと一緒に、深く重たい悲しみが宿っているように見えた。

 ――パキッ、と乾いた音がした。

 ずっと聞こえている水音とはまるで違う異質な音だ。
 同時に、ぞわりと背筋に震えが走った。
(……なに?)
 オースターは困惑し、反射的に耳を澄ませる。
 ふいにトマが手を離した。衝動的な行動だったのか、後悔するように視線をさまよわせる。
 オースターは襟を整えながら口を開いた。
「君を言いなりにさせる気なんてないよ。トマがそんなにいやなら、僕からラクトじいじに言う。教育係を変えてほしいって。でも……トマは、僕が嫌い?」
「あんたに興味はない」
「だったらどうして? なんでそんなに拒絶するの?」
 自然とルピィのことが頭に浮かんだ。春の乗馬大会をきっかけに、突然オースターを嫌い、距離を置くようになったルピィ。彼は今や、あの墓前の白い花ではなく、決闘の証である白い手袋を投げつけてきている。
 オースターは太ももの脇でこぶしを握りしめ、うなだれる。
「わけもわからず拒絶されるなんていやだ。僕に悪いところがあったなら謝る。誤解があるなら解かせてほしい。不満があるなら聞くから、ちゃんと話をしてほしい。だから……!」
 勢いよく顔をあげたオースターは、きょとんとした。
 トマはなぜか、変な顔をしていた。
「……聞く? おれの話を? 貴族のあんたが?」
 貴族。そこにこだわるトマに疑問を覚えた、そのときだった。
 耳障りなサイレンの音が鼓膜をたたいた。
「な、なに!?」
 トマは答えずに小さく息をつくと、もうオースターのことなど忘れたようにホロロ四号に飛びのった。

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