喉笛の塔はダミ声で歌う
第17話 決別
「姉の葬儀に来てくれたよね?」
オースターはとっさに声をかけた。
あの男の子だ。間違いない。銀色の髪に、青色の瞳。それに目の下のほくろ。「私」の葬儀に来てくれたときよりも背が伸びているけれど、ルピィ・ドファールに違いなかった。
大公宮の空中庭園で開かれた晩餐会でのことだ。大人たちの集団から離れ、ひとり、花壇のふちに腰かけていた少年を見つけたときの高揚感ときたら。
どきどきした。わくわくした。やっと会えた! 「私」の墓に白い花をそなえてくれた男の子は、どんな声をしていて、どんな風に笑うのか、ずっとずっと知りたかったのだ。
少年は銀色の前髪を揺らし、首をかしげる。
「僕はオースター・アラングリモだ。君はルピィ・ドファールだろう?」
ああ、と納得してうなずくルピィに期待していた笑顔はなかった。けれど、すぐそばにともった松明に照らされた青い瞳は、橙色の光をはじいて、ガラス玉のようにきれいだった。
「握手をしてくれる?」
「なぜだ?」
「君と仲よくなりたいと思っているから。僕と友だちになってほしいんだ」
ルピィは目を見開いて、どこか責めるようにオースターをにらんだ。
「そちらの家とは仲が悪い」
拒絶され、オースターは言葉に詰まった。そして、こう聞きかえしたくなった。
君こそ――だったら、どうして「私」に花をくれたの?
ただ葬儀に参列しただけなら、「礼儀」の一言で片づけられる。けれど、葬儀が終わったあと、ひとり墓所までやってきて、あらかじめ用意されていた花束ではなく、野に咲く花をちぎってよこしてくれたのは、いったいなぜ?
けれど、聞くことはできなかった。聞けば、こっそり見ていたことがばれてしまう。なにより「姉」の墓に捧げられた花のことを、どうしてそこまで気にするのかと問われたら、うまくごまかせる気がしなかった。
「うん」
だからただうなずくと、ルピィは拍子抜けしたように肩を落とした。
やがてルピィは周囲をうかがい、はにかんだ様子で手を差しだしてきた。
「おまえがいいなら、いいよ」
オースターは目を輝かせて、手を握りかえす。
ぎゅっと握りかえされたその手には、意外なほど力がこもっていた。
それがどれほど嬉しかったかなんて、きっとルピィは知らない。
皇太子に選ばれてからの三日間は大変な忙しさだった。
舞踏会が終わり、クラリーズ学園に戻ったあとも同級生や下級生、上級生にまでもみくちゃにされた。翌日は朝から面会を求める者が正門の外に列をつくり、新聞記者まで押し寄せた。
ジプシールやオルグは、満面の笑顔でオースターをたたえた。学者先生のコルティスは無言で肩をぽんと叩き、ルピィの取り巻きたちは皇太子となったオースターに手出しをするのは得策ではないと踏んだのか、ただ指をくわえて遠巻きににらんでくるだけだった。
ルピィはいつもと変わらずに授業を受けていた。こちらを見ることはなく、オースターもまた彼と目を合わせることはしなかった。
二日目、教師たちは会議を開き、ついにオースターの授業への参加を免除するとした。オースターは教室に行くかわりに職員棟にある貴賓室に通い、お祝いの言葉を受けたり、記者からの取材を受けたりと忙しくした。
そして、三日目。
オースターは朝から寮の部屋付きトイレにこもっていた。
(疲れたなあ……)
オースターは陶器製の便器につっこんでいた顔をあげた。
また吐いてしまった。薬の副作用はあいかわらずきつく、今日は一段とひどい。
忙しいせいもあるだろう。毎日、いろいろな人間がやってくる。王侯貴族に富裕層、さまざまな分野で活躍する実業家、後ろ盾を求める芸術家……お祝いという体で、彼らはオースターを品定めする。体つきを観察し、礼儀作法や言動、挙動をそれとなく見つめる。視線の動きや、ちょっとの油断も見逃さない。彼らは社交的な笑顔を浮かべた監視人だ。
気が抜けない。今までとは比較にならない。指を動かすだけで緊張する。前髪をいじくる癖すらやめた。
わずかでも「男らしくない」と思われたら。「男にしては成長が遅い」と思われたら。もしも万が一、胸のわずかなふくらみに気づかれたら。
今度は、ルピィの取り巻きにからかわれるだけでは済まない。
(少しでいいから、ひとりになりたい)
そう思ったとき、扉を叩く音がした。
「オースター様。お加減は」
ラジェだ。オースターはよろめき立ち、扉を開ける。ラジェがすぐに体を支えてくれる。
「ちょっと吐いた。でも、胃液しか出なかったよ」
「……そうですか」
なんて暗い顔をしているのだろう、この従者は。
仕える主君が晴れ晴れしくも皇太子に選ばれたというのに。
この日のために、オースターには内緒で、母と共謀してきたのだろうに。
オースターは額の汗をタオルでぬぐいながら、三日前のことを思いだす。
「大公殿下から提示された条件はふたつでした」
三日前、寮に帰りついたオースターに、ラジェは淡々と説明をはじめた。
「シュレイ・アラーティス嬢と結婚し、アラングリモ家に大公家の血をより濃く入れること。バクレイユ・アルバス博士の〈喉笛の塔〉改築事業に一定額の融資をすること。奥様が大公殿下と書簡をやりとりし、今回の華々しい結果につながりました」
「華々しい……?」
オースターは力なく反芻した。
「ラジェは知っていたんだね。ぜんぶ。最初から。僕だけが聞かされていなかった。僕という人間が、そんなに信用ならなかったってわけか」
今回の皇太子交代劇は、母が演出したものだ。そして、その計画をラジェも知っていた。アラングリモ家の「秘密」を知らないカルデ夫人でさえ。
聞かされていなかったのはオースターだけ。
きっと母はオースターに計画を話しておこう、とすら思わなかったのだろう。
頼りにされていない。いや、手駒としてすら信用されていない。
信用していれば、病をおしてまで舞踏会の会場には来なかったはずだ。監視に来たのだ、オースターが母の命令どおりに大公家筋の令嬢とちゃんと踊るのを。
中身の空っぽな母の操り人形として、なにも考えずに言うことを聞くのを。
――よくやりましたね。あなたを誇りに思います。
オースターは痛みのやまない腹を押さえた。
(僕は褒められるようなことをなにもしていない)
なのに、母は褒めた。乗馬大会で優勝したときも、剣技大会で優秀な成績をおさめたときも、決してオースターを褒めなかった母が。
なぜ。
ラジェがなにか進言したからだろうか。「オースター様は奥様に不満をお持ちです。一言褒めてやれば、満足して、これからも黙って従うことでしょう」とでも言ったからか。
だとしたら、なんて優秀な従者だろう。
事実、オースターは満たされた。母のたった一言で、ルピィへの裏切り行為も、皇太子の一件もすべて、受け入れてしまった。
受け入れてしまったのだ。
「僕なりにがんばってきた。母上と君の意に沿うほどではなかったかもしれないけれど、努力してきたし、つらいことも我慢してきたつもりだ」
嬉しかった。母に褒められて、混乱した頭が喜びにはじけそうになった。
「ラジェの言うとおり、不満はあったよ。それでも僕だってアラングリモ家の人間だ、爵位復活のため、必死に演じてきた。弟を――生きていれば、彼がそうなったろう輝かしい未来の姿を!」
嬉しくて、嬉しくて、一瞬後、その褒め言葉がまったく中身のないものだと気づいて、愕然とした。
「アラングリモ家の誇りたかき嫡子。父上と母上が望んだとおりのオースター・アラングリモ! 足りていないなんて、わかっている。父上と母上が、死んだのが僕のほうならよかったのにって思っていたこともわかっている。それでも僕はがんばってきた。演技の手本になる父上はもういないから、父上が弟に教えてきた言葉だけを頼りに――誇りを重んじて生きてきた。それなのに、僕を信用できないのはどうして? 言え、ラジェ。僕をそこまで疑うのはどうしてだ!」
ラジェは目の下のくまを濃くし、棚の引き出しからなにかを取りだした。
それを目にした瞬間、熱していた心が冷めた。
「これはなんですか、オースター様」
「返せ」
「引き出しの奥に、ずいぶんと大事そうにしまっていらっしゃいましたね。説明を願います」
顔を真っ赤にしてラジェの手からひったくったそれは、しおりだ。
表面には、すっかり色あせた押し花が貼られている。
「正直に話してください。あなたの体はまだ男にはなりきれていない。では、お心は? お心はどちらの性がより強いのでしょう?」
「この花のことは誰にも話したことはない」
「いいえ、幼いころに話してくださいましたよ。無邪気にほほえみながら、ルピィ・ドファールが墓に花をそなえてくれたのだと」
「誰にも話した記憶はない!」
「その話をされたとき、今後一切、誰にも話さぬよう進言申しあげたのは私です。私の母にも、むろん奥様にも。知っているのは、このラジェめだけ。今でも」
ラジェは暗い顔のまま、血の気の引いたオースターの顔を見下ろす。
「もしも、お心に少女のあなたを残したままだとしたら」
そこでラジェはいったん言葉を区切り、
「きっとあなたはルピィ・ドファールを足蹴にはできない。そう思っておりました」
オースターは怒りとも羞恥ともつかない感情に襲われ、呆然と立ちつくした。
ラジェはいったいなにを言っているのだろう。
まさかオースターがルピィの白い花にしがみついたのは、少女が抱いた淡い恋心のせいとでも言いたいのだろうか。
(ちがう)
大切にしておきたかったのだ。自分にはなにもないから。弟の皮をかぶった「私」は、「私」だけのものをなにも持っていないから。
名前を捨てた。性別も捨てた。思い出さえも弟のものにすりかえられた。
だから、しがみついた。
たったひとつきりの、最後の「私」の思い出。
(それとも……ちがったのかな)
本当はラジェの言うとおりだったのだろうか。
墓に葬ったはずの「私」はまだ生きていたのだろうか。
その「私」は、ルピィ・ドファールに恋をしていたというのだろうか。
「あなたは今後、シュレイ・アラーティス嬢と結婚し、大公家の子をつくらねばなりません。体が男のものになったとしても、お心が女のままでは……」
ラジェはふたたび棚の引き出しに手を伸ばし、中から鋏を取りだした。
柄をオースターの側に向け、差し出してくる。
「いま一度、お心を決めなおしてください」
オースターはしおりを胸に抱きしめる。
「オースター様。私は奥様にはなにも言ってはおりません。奥様はここまでがんばってこられたオースター様のことを、本当に、心から誇りに思っていらっしゃいます。そして――期待を」
ぴくりと肩が震えた。
(そんなのずるい)
オースターは顔をゆがめる。
気づいていなかったわけではない。けれど、思い知らされた。
(僕は、母上に価値のない人間だと思われることが、怖くてたまらない)
男にならなければ、今度こそ、自分という存在は不要になる。
だれにも必要とされず、期待もされず、生きる価値のないものになる。
生きながらに無価値の烙印を押されるのだけは、もう、絶対にいやだ。
ルピィを裏切ってもなお、母の関心が欲しい。
(僕は、本当に、最低だ)
オースターは鋏をつかみ、息を殺して、押し花に刃を入れた。
「そんな顔しないでくれ、ラジェ。心配しないでいい。僕は平気だから。きっとそのうち、副作用もおさまる」
三日前に起きたことは、あまり思いだしたくはない。けれどあの日のことは、むしろラジェのほうをより苦しめているようだった。
最近のラジェの顔ときたら、陰鬱を通りこして、もはや陰惨。「陰惨」なんて顔つきを表現する単語ではないけれど、下手をしたらそのうち眼球から闇を放ち、周囲まで陰気人間に変えてしまうのではないか、と心配になるぐらいなのだ。実に迷惑な話だ。
オースターが苦笑するのを見て、ラジェは堰を切ったように口を開いた。
「奥様には勝算がおありです。オースター様が摂取しつづけている薬には、たしかな効能がある。かならずそのお体は、遠からず男のものとなる。そう確信しておいでです。今はおつらいかと思いますが、いずれ必ず、すべてが報われる日が」
「わかっている。僕は男になるよ。男になって、立派な皇太子になる。もう腹は据わった。だからこれからも支えてくれるね、ラジェ」
ラジェは息をのみ、唇を噛みしめて頭を垂れた。
「身命を賭して、お支え申しあげます」
「大げさだなあ、ラジェは」
笑うと、従者はわずかに表情をやわらげた。
「吐き気をやわらげるハーブティーがございます。どうか座ってお待ちを」
忠実な従者の背中を見送り、オースターは椅子に腰かける。笑顔を消し、そっと腹をさすると、皮膚が痛みにざわついた。
(下水道に行きたいな)
授業の免除と一緒に、職場体験学習への参加も一時的に免除されてしまっているから、もう長いこと下水道に行けていない。
今となっては、あの闇の世界が魅力的に感じられた。あそこでなら、無理に笑顔をつくる必要もない。指先にまで神経を張りめぐらせる必要もない。不安も、恐怖も、怒りも、悲しみも、後悔もすべて、隠さずにさらけだしたっていい。
空っぽの体に溜まった黒い澱も解放することができる。大声で泣き叫ぶことだってできるはずだ。
そうしたって、地上のひとはきっと誰も気づかない。
誰も……。
――おれは、ずっと、あの塔の下で叫んでる……っ!
オースターは目を見開いた。
「ラジェ、吐いたらすっきりした。今日は午前の授業まで休んで、午後から下水道に行くよ。今後の来賓は、学園の正常運営に支障が出るからとお断りしてくれ」
「下水道に? ご冗談を」
「三日も職場体験学習を休んだんだ。これ以上休んだら、みんなの進捗から遅れちゃう」
「そのことですが、皇太子になられた以上、やはりもっとふさわしい職場を選びなおされるべきかと……」
「ラジェ。一度はじめたことを途中で投げだすのは、皇太子としてみっともないと思うんだ。それに僕は、下水道掃除夫と接することに大きな意義を感じている。公爵家の人間として、勤労者とはもっと積極的に接するべきだと感じた。それでも君が反対するというなら、僕も考えを改めてみるけれど、どう思う?」
意見を問うと、ラジェは難しい顔でうなった。これまでのような子供っぽい反応を予測していたのだろう、次の言葉がなかなか出てこない。
オースターはしたり顔を微笑で隠し、「思うところがあれば、また助言してね」と言って話を切りあげた。
(トマに会うんだ)
舞踏会ではたくさんの情報を得た。これまで知らなかったことをたくさん。この三日間、自分のことで手一杯になってしまい、すっかり忘れていたが、あの日、自分はバクレイユ博士にすら会ったのだ。
次にトマに会ったら、これまでちんぷんかんぷんだった彼の話を理解できるようになる。もっとトマと話をして、トマが抱える問題を把握し、彼がなにを望んでいるのかを教えてもらうのだ。
(僕は空っぽだ)
今回の一件で、正真正銘そうだとわかった。
(誇りたかきアラングリモ家の嫡子が、空っぽのままでいるなんて許されない)
トマの力になるのだ。
彼を助けて、今度こそ自分は、本物のオースター・アラングリモになる。