喉笛の塔はダミ声で歌う

第16話 最初の踊り手

 男爵の言葉に面食らうオースターの耳に、ラッパの高らかな音が届く。
「大公殿下のおなり!」

 きぃきぃと音が近づいてくる。玉座の背後に伸びる廊下の奥から現れたのは、車椅子に乗った老人――ランファルド大公だ。
 顔はシワとシミで覆われ、七十という年齢を十分に感じさせる。車椅子の側面には薬瓶が吊るされ、伸びた管が鼻の穴に差しこまれていた。
 大公がぼそぼそとなにかを言った。目前にひざまずいたドファール家ですら聞きとれなかったようで、参列者たちの頭がぐっと前のめりになる。
 オースターも気を引きしめにかかった。けれど、思考はモーテン男爵の言葉にとらわれている。
(永遠に聞いていたいと思えるほどの美しい声……)
 自然と耳によみがえったのは、はじめて下水道を訪れた日に聞いた、あの歌だ。
 あの歌声こそ、オースターにとってはまさに永遠に聞いていたいと思えるほどの声だった。
(ということは、あれはホロロ族の声だったのだろうか)
 けれど、あのとき近くにいたのはトマだけだ。
(トマはひどいダミ声だ。出会ったホロロ族もみんなダミ声だった)
 なのに、モーテン男爵は彼らの声を美しい声だったという。
 これはいったいどういうことなのだろう。

「立てッ。立てッ。何度も言わせるな、ドファールッ」

 はっと顔をあげる。
 大公がいらだった様子で、骨と皮だけの腕を弱々しく振りまわしていた。
「偉大なる大公殿下。ご健勝のご様子、なによりにございます」
 ドファール家の当主が前へと躍りでた。
「これのどこが健勝に見える。戦地よりおめおめ無傷で帰還した臆病者め」
 大公はいまいましげに当主をにらみつけた。
 場内にどよめきが起こる。罵倒された当主すら唖然とした様子だった。
 しかし、大公は気にした様子もなくつづける。
「貴様以外の多くの者は、命を惜しまず戦い、戦地に散った。あるいは傷を負い、己のふがいなさに身を縮めながら帰ってきた。ところが貴様はどうだ、無傷でいながら諸手を挙げて帰還した。まるで英雄の凱旋とでも言わんばかりに。よいか、真の英雄とは……そう、かのアラングリモ公のような男にこそにふさわしき称号だ。わかるか、ドファール!」
 耳目がオースターに集中した。
 オースターは困惑しながらも、礼儀を保って一礼する。
「賢王、ランファルド大公殿下」
 ルピィが怪我を忘れさせる優雅さで片膝をつき、大公の赤いマントの裾に口づけた。洗練されたその所作に、列席者のあいだに感嘆が広がる。
 だが、大公はそれすらも冷たく一瞥した。
「まだ治らんのか。子供の遊戯で骨折など、情けなくて話にならん」
 今度こそ場が凍りついた。オースターもまた目を見張る。
(大公殿下が、ルピィを……皇太子を貶した?)
 そのときだ。大広間の電灯が点滅した。かと思うと完全に明かりが消え、大広間がうっすらと暗くなる。
 停電だ。また。
 場内の明かりが消えたことで、窓の向こうの景色がきわだって見えた。曇り空の下に広がる街と工場。その先に広がる緑豊かな森林。森の隙間からはわずかに平野が見えた。雲間から伸びた光の帯が、そのあたりを明るく照らしている。
 一瞬、黒い影が見えた気がした。
(あれ……〈汚染〉って大公宮から見えたっけ)
 そう思ったとき、ぱっと電灯がともった。大広間にきらびやかな光が戻り、そわそわしていた人びとは一斉に安堵する。
 オースターはもう一度、平野に目をこらすが、黒い影は見えなかった。気のせいか。ほっとして玉座に向きなおったオースターはどきりとする。
 大公が、オースターのことをじっと凝視していた。
 目が合うと、大公は顔をそむけ、手を叩いた。
「踊れ、踊れ、舞踏会のはじまりだ!」

 宮廷音楽が奏でられ、大扉から着飾った貴婦人たちが現れる。
(さっき、どうして殿下は僕のことをご覧になっていたのだろう)
 オースターは早鐘を打ったままの胸元に手をやる。
(それに、みんなの前で、父上のことをなつかしんでくださるなんて……)
 誇らしい。というには、戸惑いが強すぎた。大公がドファール公爵家の当主を、皇太子ルピィを罵るなど、かつてなかったことなのだ。
 オースターは無意識にルピィの姿を探し、ふと、壁ぎわまで下がっていた男性たちが、じろじろとこちらを見ていることに気づいた。
 オースターは顔を真っ赤にして、急いで壁ぎわまで下がる。
(いけない。せっかく殿下が父上を称賛してくださったのに、嫡子の僕が恥ずかしいふるまいをしては台なしだ。舞踏会に集中するんだ、オースター)
 舞踏会には作法があるのだ。最初の踊り手ふたりのために、そのほか全員が壁ぎわに下がらなければいけないのである。最初の踊り手が踊り終えてようやく、男性たちが女性たちを踊りに誘い、全員で踊りはじめることになる。
(今日の最初の踊り手は誰だろう)
 最初に踊るべき男女は、本来ならば大公夫妻。だが、奥方がすでに亡くなっているため、これまでは皇太子とその婚約者が踊り手をつとめてきた。
(けれど、ルピィは婚約を解消した。だから、今日の一番手にはならない)
 では、誰が。
 視線がひとりの女性に吸いこまれた。
 清楚な百合の花のような真っ白なドレス。回転するたびに輝く黄金の髪。
 ルピィの元婚約者、シュレイ・アラーティス嬢だ。
 以前開かれた舞踏会で、ルピィは杖をついているにもかかわらず、アラーティス嬢ととても優雅に踊った。背の釣り合いがとれ、素晴らしくお似合いのふたりだった。
(本当にお似合いだった)
 アラーティス嬢の白い裾がひるがえるたび、脳裏を白い花がちらつく。
 幼いころ、ルピィが墓所に捧げてくれた白い花だ。
(白い花は「私」のものなのに……)
 オースターは自分の頬を両手ではたいた。隣にいた男性がぎょっと身を引く。
(なにを考えているんだ。舞踏会に集中しろ)
 よけいなことばかり。どうしてこんなにルピィのことばかり考えてしまうのだろう。

 ――オースターは本当にルピィのことが好きだなあ。

 コルティスの無責任なからかいを思いだし、オースターはさらにバシバシと頬を叩いた。
(ちがう、そんなんじゃない! いい加減にしろ、オースター)
 最初の踊り手が誰かなどどうでもいい。自分は今日、未来の妻となるかもしれない大公家筋の令嬢と踊るのだ。大公家とつながりが濃くなれば、爵位が凍結されていようとも、アラングリモ家をふたたび盛りたてることだってできるはず。今日の大公殿下の様子からして、殿下がドファール家だけでなく、アラングリモ家にも権威を与えようとしてくださっているのは明らか。
(きっと母上はお喜びになる。いまだ男になれない僕に、母上は失望されていると思うけれど、これですこしはお心をおなぐさめできるはず)
 カルデ夫人を探そう。
「オースター様」
 来た。女性の声。カルデ夫人だ。
 オースターは気合いを入れなおし、笑顔で振りかえった。
「ああ、オースター様、おめでとうございます。おふたりが本日の舞踏会の最初の踊り手ですよ! さあ、みなさまを魅了してきてくださいませ」  レース編みのハンカチで歓喜の涙をぬぐうカルデ夫人。つと身を寄せ、よかったですね、と耳元で囁かれる。
 なにがだろう。オースターはまじまじとカルデ夫人の涙と、そして彼女の背後にたたずむ女性を見つめる。
 そこには、ひとりの女性が立っていた。
 白百合のように清楚にたたずむ、真っ白なドレス姿の令嬢。

 ルピィの元婚約者シュレイ・アラーティス嬢だった。

「カルデ夫人、失礼ながら勘違いしていらっしゃるようです。僕のお相手はフィーリ・アイラダ嬢という方と聞いています」
 カルデ夫人は驚いたように身を引き、アラーティス嬢にうろたえたまなざしを向けた。
「アイラダ……それはどちらのお嬢様ですか」
「大公家筋のご令嬢だと聞いています」
「そのような家、ございましたかしら。いえ、それよりもわたくしは今日、奥様からアラーティス嬢をオースター様に紹介するように、と……」
「僕はそんな話は聞いていません」
 小声でやりとりするふたりに、アラーティス嬢が怪訝なまなざしを向ける。
 オースターの頭は真っ白になっていた。同時に、無意識下ではなにが起きたのかをいやというほど理解していた。

(騙された)

 嘘をつかれたのだ。従者に――ラジェに!
 どうしてそんなことを。自分は味方だと言ったその口で。
(僕が、ルピィを気づかうそぶりを見せたから?)
 だからとっさに嘘をついた。踊る相手は、ルピィの元婚約者ではない、と。本当のことを言えば、オースターが母への不平不満から、「奥様のお気持ちも考えず」「奥様がいかにも嫌がりそうな」ことをするだろうと――令嬢とのダンスを拒否するだろうと勝手に疑って。
「そんな……では、きっとなにか行きちがいがあったのでしょう。けれども、オースター様――」
「僕はそんな話、聞いていないのです」
 怒りに突きうごかされ、オースターは説得じみた口調になりはじめたカルデ夫人を拒絶した。
「非礼はお詫びします。ですが僕はこの方とは踊れない。この方とだけは決して」
 オースターは自分を見つめるアラーティス嬢の目に侮蔑の色がにじみはじめていることに気づいた。己に恥をかかせた者を許さぬ、大公家筋の娘らしい気位の高いまなざしだ。
 そこでようやくオースターは、アラーティス嬢が背にした玉座から、大公が自分を凝視していることに気づいた。
(ああ、そうか。殿下はだからさっき僕を見つめていたんだ)
 大公だけではない。広間に集まった貴族の誰もがオースターを見つめていた。
 カルデ伯爵も、コルティス親子も、フォルボス局長も、ドファール家の当主も。
 ランファルド大公国の主要な貴族たち、全員が――。
 いけない。だめだ。自分の言動も行動も、すべてアラングリモ家の評価につながるのだ。気をつけろ、オースター。
 けれど、オースターの口は止まらなかった。
「お許しください、アラーティス嬢、カルデ夫人。どうかこのことはお忘れください。母上はなにか勘違いなさったのです。こんなことは許されない。僕は友を裏切るような真似だけはぜったいに」
「オースター様! 奥様を前にして、奥様の勘違いだなどと、そのようなことをおっしゃってもよろしいのですか!」
 カルデ夫人がせっぱ詰まった口調で言った。
(奥様を「前」に?)
 まるで磁石に吸いつけられたように、視線が壁ぎわの一点に向けられた。
 そこにいたことなど知らなかったのに。
 まるで最初から知っていたかのように。
 そこには、人目を避けるようにひっそりと、痩せた女性が立っていた。
(母上)


 ――どうやら噂は本当だったようだな。大公殿下がドファール家からアラングリモ家に鞍がえしようとしているという噂は……。

 気づけばオースターはアラーティス嬢と踊っていた。
 貼りついたような微笑を浮かべて踊るオースターの耳に、貴族たちの囁き声が聞こえてくる。

 ――今やドファール家の権力は、大公家を上回りかけている。出すぎた杭は打たれる、ということだろう。
 ――惜しいな、ルピィ・ドファールは才覚にあふれ、見栄えもよかったが。
 ――足をけがする前までならな。さっきの殿下のお言葉を聞いたろう。殿下は昔から完璧なものを好まれる。そのやっかいな性質のせいで、亡き大公夫人はずいぶん苦労なされた……。

(僕はなにをしているんだ)
 無責任な噂話のなかで踊りながら、オースターは愕然とする。
(踊るのをやめなくちゃ。こんなことはぜったいに受け入れられない)
 けれど、体は勝手に踊る。見えない糸に操られでもしているかのように。本心からそれを望んでいるかのようなほほえみを浮かべて。
 だって――母上が見ている。

「素晴らしい! 素晴らしい!」

 突然、甲高い声と拍手とが響きわたった。
 オースターは弾かれたようにアラーティス嬢からとびのき、玉座を見る。
「年若いふたりがぎこちなく踊る姿は、なんと初々しくほほえましいことか。研究一筋で生きてきた私の胸まで踊るようですよ!」
 会場がざわつく。オースターは大公のかたわらに立った男を見つめた。
 バクレイユ・アルバスだ。
〈喉笛の塔〉監視所の所長にして、塔の開発者である天才科学者。
(狂った九官鳥……)
 納得する。なんて高い声。きぃきぃと耳ざわりで、いまのオースターには耐えがたいほど神経にさわった。
「さて、みなさんがたが踊りに加わるまえに、大事な発表があります」
 バクレイユ博士は大公に許しを乞うこともせず、笑顔で両腕を広げた。
「かねてよりその必要性を訴えつづけてきた〈喉笛の塔〉の改築計画がついに現実のものとなったのです! 資金難を理由に、元老院に難色を示されてきたが、アラングリモ家からの資金提供により、ついに、ついに〈喉笛の塔〉が生まれかわることとなったのです!」
 オースターは立ちつくす。
 資金提供? 〈喉笛の塔〉がなんだって?
「さっきも大公宮全体で停電がありましたねえ。〈喉笛の塔〉の改築、システムの抜本的見直しを図らねば、今後、ますます電気供給は不安定なものとなるでしょう。ですが、塔の改築計画が進めば、電気供給は安定し、みなさんがたの生活はより安らかで、豊かなものとなります。どうぞご安心を」
 そこでバクレイユ博士は、とつぜんオースターを指さし甲高く笑った。

「感謝申しあげる、オースター・アラングリモ。それとともに、私からもお祝いの言葉を。これであなたが皇太子殿下、次期大公だ!」

 言いたいことを言いきると、会場の反応も見ずに、バクレイユ博士はきびすを返した。せかせかとした歩みで舞踏会場を去っていく。
「オースター・アラングリモ。前に出てまいれ」
 大公が言った。オースターは手招きされるままに壇上へとのぼり、車椅子のかたわらに立つ。
 大公はオースターの肩を痛いぐらいに掴み、それを支えに自らもよろめきながら立ちあがった。
「聞いてのとおり、我が国の皇太子についてみなに告げることがある。本来であれば、皇太子の擁立には、ふたつの公爵家のどちらかから年長の者を選ぶ決まり。知ってのとおり、公爵家の嫡男ふたりは同じ年齢だ。それでも私がルピィ・ドファールを皇太子として選んだのは、ひとえにアラングリモ家の当主がすでに亡く、アラングリモ公爵位が一時凍結となったためだ。今にして思えば、殉教の英雄に泥を投げつけるかのごとき、ばかげた決断であったと思う。
 今日この場で宣言する。この日このときより、大公位継承権はオースター・アラングリモを第一位とし、ルピィ・ドファールを第二位とすることを!」
 悲鳴とも歓声ともつかぬ騒ぎにのまれるなか、それを打ち消すように音楽隊の演奏が始まった。

「オースター皇太子殿下!」

 アラングリモの親戚筋の者たち、派閥の貴族たちが歓声をあげた。きぃきぃという車輪の音が遠ざかる。オースターは大勢の貴族たちに囲まれながら、ルピィの姿を探した。ドファール家の当主が身近な貴族たちに身ぶり手ぶりでなにかを訴えかけている。ルピィは――、いた。誰にも気取られることなく、ひとり、大広間から出ていこうとしていた。
「待って、ルピィ!」
 オースターは叫んだ。群がる貴族をおしのけて、振りかえることも、足を止めることすらせずに、ルピィの背中を追った。

 廊下には人気がなかった。舞踏会の音が壁越しに聞こえる。ルピィは少し前を歩いていた。
「ルピィ、ちがうんだ、僕はなにも知らなかった!」
 彼をだますつもりなどなかった。こんな卑怯な手段でルピィ・ドファールを貶める気などなかった。
 自分はなにひとつ聞かされていなかった。
「ルピィ……!」
 ルピィに追いついたオースターは、彼の腕を強引に掴んだ。
「お願いだ、話を――」
 だが、足を止めたルピィの表情を見て、オースターは言葉をなくした。
 もうおまえに興味はない。
 その言葉どおりに、ルピィの顔にはどんな感情も浮かんではいなかった。
 まるで見知らぬ他人を見るように、オースターを無言で見下ろすだけだ。
 おもわず手を離す。
 ルピィは背を向け、歩きだす。
「……なにも、言うことはないのか」
 オースターはふとももの脇で拳を握りしめた。
「僕は君から皇太子の座を奪った。君たちドファールの人間が見苦しくしがみついてきた大公家の権力を手に入れた。その僕に、怒りがないなんて言わせない。興味がないなんて言わせない!」
 ルピィは振りかえらない。
 オースターはかっとなって、ふたたび彼に追いすがり、杖の柄を握るルピィの手を掴んだ。
「なんでなにも言わないんだ。腹立たしくはないのか。僕は君からすべてを奪ったんだぞ。皇太子の座も、群がる貴族たちも、美しい婚約者だって」
 ルピィは振りかえらない。振りかえらない!
 オースターは悲鳴のような声をあげた。
「乗馬大会で君をさしおいて優勝した僕に嫉妬し、下水道に送りこむなんて卑怯な真似までしたのに、見ろ、勝ったのはけっきょく僕だ。殿下は、君よりも僕を認めたんだ! ざまあみろ、ルピィ・ドファール!」
 腕を払われた。力任せに振りはらわれたのなら、救いようもあった。けれど、ルピィは礼儀正しく手をそっとのけ、オースターをしりぞけた。
「悔しいくせに……!」
 ルピィが歩きだす。今度はオースターも追わなかった。彼の姿が角の向こうに見えなくなる。杖の音も遠ざかって消えた。消えてしまった。
 オースターはよろめき、両手で顔を覆った。
(最低だ)
 ルピィにすがりつき、口汚く侮辱した。
 そうすることで、彼に振りむいてもらおうとした。
 見てほしかった。笑いかけてほしかった。もうおまえには興味がないなんて、言わないでほしかった。また友として認めてほしかった。
 昔のように、「私」の墓に白い花をたむけてくれたときのように、真摯なまなざしを向けてほしかった。
 この世でたったひとり、「私」の死を悼んでくれたひと。
 涙があふれる。情けなくて、恥ずかしくて、こらえようとしてもこらえることができない。オースターは深くうなだれ、唇を噛みしめる。
(母上に言わなくちゃ)
 ルピィの元婚約者の件も、皇太子の件も、母が手を回したのだということはわかった。
 もうこんなことはやめるべきだ。
 今日こそ母にそれを伝えるのだ。
(母上は失望されるだろう)
 心臓が竦みあがる。
 けれど、それでも。

 それでも――。

「オースター」

 背後で母の声がした。
 オースターは唇を震わせ、勢いよく振りかえった。
「母上、今日のことですが、僕は……っ」

「よくやりましたね。あなたを誇りに思います」

 オースターは呆けた。
 返答のひとつもできないオースターの横を、母が無表情にすり抜ける。
 流行遅れのドレスの裾が床を擦る音が、背中の向こうに消えてなくなってようやく、オースターはへなへなと膝から崩れ落ちた。

第三章「地下水道の崩落」へ

close
横書き 縦書き