小説(長編小説)王宮の自動人形|朋




「朋」


『共に都を造り、国を安寧に導こう』
『罪が消えることがないのなら、せめて出来るは過ちを繰り返さぬこと。
 …そのために、私は伝え人となろう…』
『協力する』


 ──遥か遠い昔。
 世界の右隅に、神に見離されし大地あり。
 愚かなるは人なる生物。
 神との誓約を破り、故に大地は踊り狂った。
 草も木も、
 町も城も、
 全ては崩れ去り、


 残されたは、それでもなお生き残る、


 人ばかり。

+++

 朱燬媛士と羅輪戒王の出会いは、後の世で絵巻などに描かれるような美しいものでは、決してなかった。
 絵巻の豪奢で神秘的な衣装とは正反対に、ボロ布を纏った羅輪戒王。
 その運命の瞬間、彼は死人のように痩せ細った肢体を地面に投げ出し、瓦礫を背にして眠っていたのだから。


「起きたか」
 すぐ側で、声がした。
 カレヴァリーは目覚めたばかりの虚ろな眼差しを隣へ向けた。
 霞む視界に映ったのは、燃えさかる炎だった。驚いて目を見開き、よくよく見れば、それは炎ではなく、紅蓮の髪を風に靡かせた一人の大男だった。
 見たことのない顔だ。だが自然と警戒心は涌いてこない。
 カレヴァリーは静かな瞳で、自分を灼熱の太陽から遮っている大男を見つめた。
 男は口端に軽快な微笑を浮かべ、ふと覗き込ませていた顔を逸らして隣に腰を下ろした。それきり湧き出たばかりの泉で、歓声を上げている人々を眺めやる。
 日の傾きを見ると、眠りに落ちてから大した時間が経っていないことが分かる。
 もう何日も眠っていたように、頭がすっきりと冴え渡っている。久々に深く、眠りに落ちていたらしい。
 ひどく安堵し、夢も見ずに。
「食え」
 物思いに耽っていた顔の前に、いきなり丸いふっくらした物が差し出された。困惑して隣を見ると、大男は人々を見つめたまま、手だけを差し出していた。受け取らずにいると、男はこちらを振り返って首を傾げ、自分自身でそれを一口かじった。
「ただの美味いだけの饅頭だ」と言ってまた、一口分だけ欠けた饅頭を差し出した。カレヴァリーはもう少しで笑いそうになった。まともな名称のついた食べ物を、数ヶ月ぶりに見た気がしたのだ。
「…どこからこのようなものを…」
 小さく呟くと、カレヴァリーの腕の中で眠っていた少女が微かに身動きをした。その頭を撫でてやるついでに、食べ物から視線を逸らす。カレヴァリーの弱った胃は、それを見るだけで吐き気を誘わせた。
 男は受け取り手のない饅頭をそれでも差し出したまま、どこか人と威圧させる類の眼差しを周囲の荒涼に彷徨わせた。
 カレヴァリーはその目を見て、唐突に思い至った。
 朱燬媛士だ。
 涯山より南にて、英雄と称される者の名、「朱に焼き尽くす者」それはまさに、彼の烈火のごとき髪を指しているのではないか。
 そして彼はまさに、英雄に相応しい風格を備えている。空気が違うのだ。襤褸を着た彼の周囲には、圧倒的に存在感の違う空気が取り巻いていた。
 もっとも彼は、どこからどうみても、「媛」には見えなかったが。
「ケナテラ大陸の大部分は、壊滅状態にある。だが無傷な国も少しはある。そこから供給させたものだ」
「…無事な国…そうか…」
 カレヴァリーは沈鬱と呟き、静かに目を伏せた。無事な国があったことに安堵したのではない、大陸の大部分が壊滅したという事実が彼を苛んだ。一切情報が閉ざされた今、カレヴァリーは壊滅的被害を受けたのが、せめて海明遼だけであればと、少なからず期待していた。だがそれがあり得ないということもまた、分かっていた。戦争なり災害なり、何か起きたときは互いに救援し合う盟約を、海明遼は幾つかの国と結んでいた。だが助けは来なかった、伝令すら来なかった、それが意味するところは少ない。
「…では貴方は、無事な国から救援を受ける道を見つけたのですね、朱燬媛士」
 カレヴァリーが"朱燬媛士"と呼びかけると、朱燬媛士は片眉を上げて彼を振り返った。
「何だ、死にかけかと思えば、脳味噌は立派に働いているではないか」
 英雄にあるまじき、大した言いざまだ。カレヴァリーはしかし、まさにその言いざまが気に入ってわずかに微笑した。
「けれど腐りかけている…貴方の見出した知恵を、あの人たちにも分け与えていただけませんか」
 朱燬媛士は畏怖を呼び起こす眼差しを、ふと不愉快そうに細めた。
「許可など無用。そのために来たのだ。俺が知恵を惜しむような愚かな真似をすると、思ってくれるな」
 それきり黙りこむ朱燬媛士。怒らせてしまったようだ、カレヴァリーはそう思うと同時に、自分自身で自らに嫌悪した。まるで自分がこの地の支配者であるかのような言い回しだ、大層な台詞ではないか。灼熱に焼かれた肌が、ちりちりと痛んだ気がした。
 静かな時間が流れる。
「名は」
 不意に朱燬媛士がそう聞いてきた。こちらを見つめる表情に、もう先ほどの怒りの気配は砂礫の小粒ほどにも残っていなかった。
 カレヴァリーは崩壊以来、初めて自分へ向けられた怒りという感情が消えたことに、安堵しているのか、落胆しているのか分からないまま、ほんのわずかに首を振った。朱燬媛士は曖昧なその態度に、赤い髪を掻き回しながら「では俺は次から貴様を、名無しと呼ばねばならんのか」と言った。
 カレヴァリーは笑う。頓着ない朱燬媛士の言葉の連なりは、身にそぐわぬ敬意ばかり受けてきたカレヴァリーに、安心感のようなものを与えた。
「俺のいた地にもお前の名は伝わっている。羅輪戒王と呼ばれているとか」
 そして安心感を与えるその声が囁いた"羅輪戒王"の称号は、カレヴァリーに今までにないような苦しみを与えた。最たる罪人の自分が受けとるべきでは決してない、輝きと希望に満ちた、その名。
 しかし彼は、敢えて頷いた。
「…そう。そう呼んでくれ」
 そうすればきっと、自分はいつまでも、歩きつづけることができるだろう。
 立ち止まりたいなどと甘えることなく、罪を償うために、その名を戒めの鎖にして。
 朱燬媛士は微かに歪んだカレヴァリーの声音に、気付いたのか気付かなかったのか、ただ静かに頷いた。
「では羅輪戒王、とりあえずさっさと饅頭を食ってくれぬか」
「…え?」
「腕が疲れるのだ」
 そこまで言われて、カレヴァリーはようやく朱燬媛士がまだ、饅頭を自分の目の前に差し出したままであることに気が付いた。カレヴァリーは堪えようとしたが堪えきれず、つい吹き出してしまった。
 朱燬媛士は憮然と口を引き結ぶ。それを見てさらに笑いを深めながら、しかしカレヴァリーは首を振った。
「…それは私以外の者に。食欲がない」
 朱燬媛士は肩を竦める。
「俺のいた幻爛には、炎喰現国から物資が届くようになっている。お前にはさっさと脳味噌以外も働けるようにして、早く物資をこちらへも回せるよう、知恵と手を貸してもらわねばならない」
 そう言って朱燬媛士は、更に手を伸ばしてきた。
 カレヴァリーはしばらく乾いた喉を鳴らして、それに手を伸ばそうとした。だが震える手はそれに触れる前に、力なく地面に落ちた。脂汗が額から吹き出した。気分が悪かった。空腹はとうに峠を越して、今や彼の身に共存してしまっている。食欲はとうにわかず、それを口にすると思うだけでひどい吐き気がした。
 朱燬媛士が、ひどく深い色をした目で自分を見つめて、やがて彼の手を引いて、どこへとも告げずに歩き出した。


 集落の者たちのほとんどが、泉の方へ向っていた。
 時折すれ違う者たちが、カレヴァリーに感謝をこめて頭を下げ、そして朱燬媛士を不思議そうに見ながら、去っていった。彼らの表情を見て、朱燬媛士が幾度か微笑みながら頷くのが、不思議だった。
 集落に戻り、煮炊きをする広場で、地面に埋まっていたへこみの少ない頑丈な鉄鍋を使い、饅頭をじっくり煮詰めながら、朱燬媛士とカレヴァリーは話をした。
 会ってほんのわずかだというのに、カレヴァリーには彼がずっと昔から側にいたように感じられた。
 朱燬媛士は不可思議なところがあった。
 彼の周囲には常に風があった。柔らかで穏やかな、決して吹くはずのない風だ。精霊たちが彼の周囲を取り巻いているのが、カレヴァリーには分かった。
 そしてまた、その圧倒的な存在感が、彼が人間ではないのではないかと、時折カレヴァリーに錯覚させる。だが同時に、彼はひどく人間臭くもあった。
「…何故、饅頭なんだ?」
 カレヴァリーが聞くと、朱燬媛士は棒切れで鍋を掻き回しながら、ふっと楽しげに笑った。
「俺はあれが、食い物の中で一等気に入っている」
「………それだけ?」
 朱燬媛士は聞いたこともないような深い声音で、豪快に笑った。
「それが大部分だな。俺はお前に会うためにここを目指していたが、まさかこんなに早く見つかるとは思っていなかったのだ。何度か幻爛に戻りながら、少しずつ探す範囲を狭めてゆくつもりだった」
 何せ地図が効かない。
「だが思いのほか早く見つかってしまった。ある程度目算をつけたら、物資も持てる限り持って来るつもりだった。だが自分の弁当用の饅頭しかない内に、要するに見つかるまいと思っていた内に、ここを発見してしまったというわけだ」
「…幻爛と涯山は、今、そんなに近いのですか」
「さてな。俺は人々に、一日にして千里を歩くと言われている。俺とは尺度感の違うお前に、近いか遠いかなど教えてやっても意味がない」
 不思議な男だ、カレヴァリーは何度目とも知れない感想を、心中で呟いた。
 やがて朱燬媛士は、鍋の中で溶けた饅頭を、用意しておいた木の器に盛り、差し出した。
「吐いてもいいから食うことだ。口に物を入れることに慣れろ」
 念を押されて、カレヴァリーは器を受け取った。甘い匂いを発するそれ、カレヴァリー は長い間器に視線を落とし、深く躊躇っていた。ふと朱燬媛士の視線を感じて、彼は後押 しされたように、器を無理やりに口に運んだ。
「どうだ、美味かろう」
 得意そうに笑う朱燬媛士の声を聞きながら、カレヴァリーは──結局はたった一口しか 口に出来なかったのだが──それをゆっくりと飲み込んだ。
 枯れた喉に落ちていったそれは、焼けるほどに熱くて、涙が出るほどに甘かった。


 朱燬媛士は数日涯山に留まり、カレヴァリーと集落の頭脳たちと幾つかのことを話し合った後、再び幻爛へ戻っていった。
 その頃には朱燬媛士の存在は、集落中の興味の的であり、頼れる存在であり、また畏怖の存在にも変わっていた。
 朱燬媛士は恐ろしい男だった。まるで怒りの風のようだ。時折集落の者が呟く弱音や、過ちに、彼は容赦なかった。そしてそれは、カレヴァリーにもまた。
 ともすれば無茶をするカレヴァリーを、彼は決して許さなかった。


 月日など関係ないのだと、カレヴァリーは思う。
 幼い頃からの朋友であるかのように、カレヴァリーは朱燬媛士を敬愛し、羨望し、純粋に好きになっていた。
 側にいるだけで心が安らぐのだ。彼が幻爛に戻った今、それが痛いほどに感じられた。
 カレヴァリーは溜め息を落とし、わずかに地面を覆う草の上に身を横たえた。
 不思議なことに朱燬媛士が現われてから、風がこの地を駆け抜けるようになっていた。緩やかで涼しい微風を受けながら、彼は頭上に無限と広がる満天の星空を見上げた。
 静かだ。草のざわめきもかすかで、虫の音もほとんど聞こえない。耳に痛いほどの静寂は、決して心地良いものではなかった。
 だがそれでも崩壊直後よりは、ずっとマシなのだ。何もない枯れた大地、音など一切なく、ただ永劫に変わらない星の輝きだけがのしかかるように重く、息苦しさと対象の見えない恐怖で、誰もが眠れない日々を過ごしていた。
 今はそれももうない。まもなく食料の心配も半減することになる。
「…かいおうさま」
 すぐ側で、つたない少女の言葉が聞こえた。振り返れば寝そべるカレヴァリーのすぐ側に、少女が膝を落として座っていた。
 あれ以来少女はカレヴァリーの側にいる。無垢な心が自分を慕ってくれることは、たまらなく嬉しく、たまらなく辛かった。
 無垢な心、優しい魂、小さく骨の浮いた手に、カレヴァリーはそっと自分の手を重ねた。
 せめて薬が届くまで、この子が生きていればいい。
 この子が生きているうちに、全てが元通りになればいい。
 少女は土気色の、死人のような疫病に冒された顔を嬉しそうに微笑ませ、舌ったらずに今日起きた些細な出来事を、語り始めた。
 カレヴァリーの作った泉がどんどんと水を吐き出していること、吹くようになった風に乗って植物の種子が舞い、数日のうちにあっという間に緑の絨毯が出来始めていること…。
 カレヴァリーは静かに微笑みながら、少しずつ息吹を取り戻してきている大地に思いを馳せた。
 やがて少女の声は、小さく、たどたどしくなっていった。
 少女はカレヴァリーの腕の中で、何の前触れすらなく、
 眠るように死んだ。


 星が煌いて、どこまでも見える地平線に落ちていった。
 カレヴァリーはふと人の気配を感じて、顔を上げた。
 そこにはいないはずの朱燬媛士が、悠久の夜天を背後にひっそりと立ち尽くしていた。
 風が吹き、夜目にも赤い炎の髪が、柔らかに舞う。
 何故ここに──聞こうとしたが、言葉が出なかった。言葉にするほど大して疑問には思わなかったのかもしれない。
 どこにでもいるのだ、彼は。
 この広い大空のように、いついかなる場所にも、彼はいるのだ。
 朱燬媛士が人ではないということを、カレヴァリーは自然と知った。
 彼は、静かに立ち上がった。
「…私が貴方が人でないことに気付いたように、貴方も私こそが罪人であると、気付いたろうか」
 溢れて止まらない涙が風に舞い、星屑に紛れて夜空に散った。
 朱燬媛士は何も答えずに、逞しい手を彼に差し伸べた。
 触れることを拒む──自分を嫌悪するあまりに、朋の手に触れることすら拒むカレヴァリーの手を、朱燬媛士は自ら捕まえて、静かに包み込んだ。


「共に都を造り、国を安寧に導こう」
 朱燬媛士の声はどこまでも澄み、夜空に溶けていった。
 カレヴァリーは頷くことも出来ず、ただ夜空を見上げた。
「…私にその資格はない…。私に出来るのは過ちを……この過ちを繰り返さぬこと…」
 カレヴァリーの言葉もまた、互い以外に聞く者もなく、消えていった。
「…そのために、私は罪の血を残し、この国の未来への、伝え人となろう…」


 風が吹いた。
 赤い風が、吹いた。


「協力する」

 広大に広がる星空の下、聞く者のない誓いをたてる二人の足元に、
 一輪の花が静かに揺れていた。





おわり