眠る前のあの歌を…

04

 ホーバーの決意は、クロルの一言から始まった。

 バックロー号の二層目には、食堂がある。
 ぎゅうぎゅうに詰め込んで、二十人入るか入らないかの狭さだが、隅々まで掃除が行き届いた、なかなかに清潔な食堂だ。
 歪な形をした、木製のテーブルが四つ。船の揺れで動いたりしないよう、脚を金具で固定されたそれらの表面は、丸窓から差し込む朝の日差しを乱反射させ、食堂全体をやんわりと輝かせている。
 薄暗さが作り出す静謐な空気にまどろみながら、ホーバーはぼんやりと皿を拭いていた。
 水を張った樽の中から、洗いたての皿を取り出し、水気を丁寧にぬぐいとる。──今日の皿洗い当番なのだ。
 食堂を占めているのは、わずか二人分の人影だ。ひとつは厨房に立つホーバーの影。もうひとつは、テーブルにぐでーっと顎を乗せているクロルのものである。
 バザークの姿はない。朝食を終えるなり、さっさと出て行ってしまった。
 ホーバーとクロルを二人きりに出来る余裕めいたその行動が、やけに癪に障るのは気のせいだろうか。ホーバーは溜め息まじりに、汚れに布巾を擦りつけた。
「今日の夕飯、何食べようかねぇ」
 夕飯担当のクロルが、不意にぼけぇっと呟いた。
 ホーバーは半分上の空で、ぼけぇっと答える。
「……まだ朝飯食べたばっかだろ」
「んじゃ、昼飯、なんだろうねぇ」
「…………」
 どうやらクロルも上の空らしい。
「どうかしたのか?」
 物思いに耽っている様子のクロルに、ホーバーは新たな皿に取りかかりながら、声をかける。
 それに対して、クロルの返事はない。
 ホーバーは首を傾げつつも、特に気にせず再び仕事に集中し始めた。どうせ昨夜の酒でも残っているのだろう。
 だが。
『一歩リード、一歩リードー』
 恐ろしく嫌なタイミングで思い出したのは、バザークのあの一言だった。
(一歩リード……)
 何か不安を呼び起こすその台詞を反芻し、ホーバーはクロルにちらりと目を向けた。
 光筋の中で輝く埃をぼんやりと見つめるクロルは、心ここにあらずといった様子だ。
 気付けば止まっている布巾の動きにハッと我に返り、ホーバーは慌てて手を動かした。
『いいんだ? 好きにして。へぇー?』
 だがその動きも、畳みかけるように思いだした一言に、再び鈍くなってゆく。
 幽霊にでも憑かれたような暗い顔で、ホーバーはカウンターにぬぼーっと立ち尽くした。
(……まさかな)
 悶々とする頭をふるふると振って、ホーバーは一つうなずいた。
 それほど気にすることではないはずだ。一歩リード。バザークが何をしたのか知ったことではないが、クロルに限って有り得ない話だ。彼女の恋愛に関するガードは、巨大岩山デアモントロックなみに険しく高い。バザークのくっさい口説き文句によろめくような女ではないのだ。
 ホーバーは少し冷静さを取り戻して、再び布巾に力を込めはじめた。
 そう、クロルはいわば高嶺の花。
 誰もが恋焦がれ、誰もが触れることを恐れる、気高き、唯一無二の花だ。
 彼女が特定の男と付き合いを持つこと自体は、別に稀なことではない。つい最近まで、誰かと付き合っていたという話を、ホーバーはクロル自身から聞いて知っている。だが港の男たちの軽々しい口説きに応じたことは、知る限りでは一度もない。
 高嶺の花摘みが得意なバザークにも、クロルという花を摘むことはあまりに難しいだろう。いや、バザークが軽々しく口説いていると言っているのではない。奴が本気なのは、もう十分にわかった。そうではなくて……クロルが、おそらくバザークの本気を、冗談と受け取るだろうということだ。
 バザークや自分は、クロルにとっては「男」である前に、「友人」であり「仲間」なのだ。
 それ以上に見られることは、まずない。
 はずだった。
「バザークって、なかなかかっこいいじゃないか」
 クロルのその台詞は、凄まじく唐突で、そして予想外のものだった。
 反射的に顔を上げると、クロルはぽーっとした目つきで虚空を見つめていた。
「……なんだ? いきなり」
 戸惑いを笑顔の下に押し隠しながら、ホーバーはまた皿を拭きだす。すでに拭く必要がないくらいピカピカなことには、本人気がついていない。
「そう思わないかい? あのフザけたキザさがなければとは思うけど。ここの船員はみんなあいつが好きさ。年寄りにもガキんちょにも優しいしね。それに歌も上手い」
 ホーバーは困惑しつつも、確かにそれはその通りだ、と素直に思う。
 バザークは船内でも陸地でも人気者だった。それは誰に言われるまでもなく、皆が認めていることだ。
 まず人はその整った顔立ちに惹かれる。すっきりした目鼻立ちと、つややかで柔らかそうな黒髪。どこか幼さの残る優しい緑色の瞳が、ともすれば冷やかになりがちな美しい顔立ちに、優しさと柔らかさを与えている。
 だが彼の良さは、顔形などでは終わらない。外見以上のもの。性格というか気性というべきか、外面ではなく、内側の部分が驚くほどに澄んでいるのだ。
 奴はいい奴だ。
 酒場で飲んでいて、バザークの顔立ちにいちゃもんをつけてくる男たちがいる。彼らがしばらく口論と殴り合いをした結果、仲間にぼそっと耳打ちするのは、いつもそんな台詞だった。そして次に会ったときには、彼らはもうバザークの友人となっているのである。
 バザークは、いい奴だ。
 それは彼が親友と呼んで慕ってくれているホーバーには、何の卑屈さもなく、受け入れられる事実だった。
「そうだな……」
 ホーバーは笑ってうなずく。本人の前では絶対にうなずく気はないが、今はいないので素直に同意する。
「あんなにいい男もそうそういないだろうねぇ」
 ホーバーの同意を受けて、クロルが「だろう?」とばかりに首をうなずかせる。
 再び「ああ」とうなずきかけたホーバーだったが、その顔にふと亀裂が入った。
 ──いい男。
 クロルの言葉が、頭の中でぐるりと反芻される。
 ──いい『男』?
 何かすごい衝撃を受けて、わんわんと反響している頭の中にしつこく蘇ったのは、バザークの『一歩リード』の一言だ。
 皿を持つ手に思わず力が入る。
 クロルは、ホーバーの戸惑いなど少しも気づかずに、ぽーっと虚空を見つめた。
 その黒い瞳が不意に憂いを帯び、ふっと細められた。
「ほら、歌ってるよ」
 彼女は静かに目をつぶると、耳を澄ますように顔を上げ、そっと頬杖をついた。
 耳を澄ますと、確かに遠くのほうから歌が聞こえる。波の音に混じる柔らかな歌声は、素直に耳に馴染んで、心が和んだ。
 それはまるで、恋する者のまなざし。
「落ち着くよ……」
 ──パキッ。
「……ホーバー、今お皿割ったね?」


 タネキアの無人島群に、静かな歌声が風に乗って流れゆく。
 鳥の声に、波の音に、まるで大気そのものであるように、彼の声は大自然へと溶けていった。
 反響板も照明も、何一つない船のステージ。甲板から階段を上った場所にある舵台で、舵輪を背もたれがわりに腰を下ろしたバザークは、紙とペンを片手に歌詞のない歌を歌っていた。
「……低音の方がいいかな」
 時折歌を止めてはぶつぶつと呟き、紙に何かを書き連ねては、また歌う。
 途切れ途切れの歌声に、鳥たちが不思議そうに降り立って、催促するように彼の革靴を嘴でつっついた。
「バザーク」
 そんな彼に声をかけたのは、舵台への階段を足音小さく登ってきたホーバーだった。
「おー」
 紙面に目を向けたまま、バザークは背後のホーバーに、肩越しに手をひらひらと振った。
「クロルはー?」
 らりらりらーと小声で歌いつつ、バザークは呼びかけたまま黙りこくってしまったホーバーの気配に、特に答えを知りたがってる風でもない質問を向けた。
「……食堂でぼーっとしてる」
「ふーん」
「…………」
「…………」
 らりらりらー。
 バザークは気のない返事をするホーバーには気付かず、また一節歌っては、ペンを走らせた。
 物事に真剣になると、バザークは周囲が見えなくなる。特に作曲や歌詞を考えてる時などは、「お茶。熱いから気をつけて」と目の前に茶を置かれ「ありがとう」と答えておきながら、数時間平気でほったらかしにし、「……あれ?いつのまにか冷茶が……気がきくなぁ……あ、ぬるくなってる」と素でぼけたりすることもある。
 つまり、ホーバーから漂ってくる不穏な気配にも、まるで気がついていないのである。
「なにやってるんだ」
 ホーバーの抑揚のない問いに、バザークは目を紙に向けたまま、うーんと口を開いた。
「作曲ー」
「即興じゃなく、ちゃんと作曲するの、久しぶりだな」
 羽ペンで顎をひらひらと撫でながら、バザークは「そお?」と軽く首をかしげる。
「……もしかして、クロルへか?」
 ふんふふーん。
 またバザークが一節を歌う。
「そ、クロルへの愛の歌」
 キラリーン! 
 バザークの歯が光る! ホーバーの目が光る!
「バザーク!」
「っぐえー!?」
 背後から伸びてきた両腕が、突如ぐわしぃっとバザークを羽交い絞めにした。
「……っお、おま! くび……っ首っ首!」
「良く聞け! 今日から四日間、俺は、とことんお前の邪魔するからなー!」
 首に腕を巻きつけられて、ジタバタもがくのバザークの耳元で、ホーバーは声を限りに叫ぶ。からなー、からなー、からなー、無人の孤島に情けなくエコーする声に、何を勘違いしたのか海鳥がケーッと応える。
 何が何だがわからないバザークは、とりあえず本気の束縛から逃れようと、ぶんぶんと首を振りまくった。
「わ、わかった……! 分か……!」
「うそつけ──!」
「……っギ、ギブ! ギブー……!」
 ケーッ。

 真昼の無人島。
 静寂ばかりが際立った灼熱の大気に、二人の男の悲鳴が響きわたる。
 それを果たして、クロルが聞いたものか聞かなかったものか。太陽照りつける三人きりのバックロー号に、今、恋のバトルが切って落とされたのだった。

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