眠る前のあの歌を…

03

 黄金の休暇、二日目早朝。
 何事もなく穏やかだった一日目の夜が明け、今朝も空は真っ青に晴れ渡っていた。
 緩やかな潮風がさざ波を作り、バックロー号の喫水線に当たっては、静かな波音をたてている。
 人気のない甲板は陽光を照り返し、空気を白く染めている。タネキア大陸の灼熱の太陽も、早朝ともなると幾分柔らかなもので、白い大気が焼けた肌に心地よかった。
 クロルは新鮮な朝の空気を、大きく伸びをしながら思う存分に吸い込んだ。
「あれ。早いね、クロル」
 ついでにどでかく欠伸もしたところで、明るい声が耳に飛び込んできた。
 大口を覆いもせずに振り返ると、バザークが白い光を眩しそうに見上げながら、こちらへと歩いてくるのが目に入った。
「ぁ~おぁようバザーク。そういうあんたもずいぶん早起きじゃないさ」
 暖かな陽光を手で遮って、バザークはクロルににこっと笑いかけた。
「朝の穏やかな陽射しの中、クロルの笑顔を一番に見てやろうと思って、ね……」
 クロルは身の毛をよだたせて、船べりに背を預けた。
「あたしゃ、あんたの歯の浮く台詞を、一週間も聞きつづけなきゃならんのかいな」
「あはは」
 本日の口説き第一号をあっさりとかわされたバザークだったが、それはいつものことなので別にめげたりはしない。
「お望みなら、一週間でも、一ヶ月でも。未来永劫、愛を囁いてゆきたいものだね」
 髪の毛まで逆立ちそうな台詞を吐きつつ、バザークはちゃっかりとクロルの左隣に背を預けた。
「やめとくれ! ゲロが出る!」
「ヘドだろ」
「まったくねぇ、もっと若くて可愛い子が残った方が、口説きがいがあったろうに……。同情するよ、色男」
 言葉通り、クロルは同情した風な表情を作って、バザークの肩をぽんと叩いた。
 バザークは首を傾げると、少年っぽい緑の瞳で、クロルの目を覗きこんだ。
「クロルだから、嬉しいんだけどな?」
 途端、大爆笑のクロルである。
「なんだそりゃ! 新手の口説き方法かい!?」
 ダメだこりゃ。
 冗談じゃなくて、本気でそう思ったので、本気の顔でそう伝えたバザークは、ガクンと肩を落としてしくしくと青空を見上げた。
 頭に過ぎるのは「後悔」の二文字。こんなことなら、普段からクロル一筋で口説きつづけてくればよかった。
 バザークにとってみれば、女の子というのは年齢を問わず、皆可愛いものなのだ。口説くのは一種、紳士の礼儀のようなもの。褒めれば褒めるほど、いっそう綺麗になってゆく女の子たちが可愛くてしょうがないのである。それはクロルを好きになる前も後も、変わらぬ心情で、いわばバザークたる証なのだ。
 だがクロル一筋であったなら、クロルも自分の台詞をいちいち冗談だとは受け取らなかったのではないかと思うと、珍しく自分の軟派な性格を悔やんでしまう。
 ──もっとも、そうもできない理由が、バザークなりにあったのだが。
 こっそりと溜め息をついて、バザークはふと正面に見える船長室の扉に目を向けた。
 あそこでは今頃、恋敵であるはずの副船長が、寝棚に寝転がってグースカ眠りこけていることだろう。
「あーあー、もったいないな、ホーバーの奴。こんなクロル日和の朝に、クロルの最高の笑顔を見逃すだなんて……」
「あーはっはっは! あたし日和かい!」
 クロルはもはや涙すら流して腹を抱えながら、首を左右に振った。
「奴は三度の飯より、あたしのこの素敵な笑顔より! 惰眠を貪るのが、なにより好きなのさ。しょうのない男だよ」
 バザークはクロルのこの言葉に、内心で両眼をギランと輝かせた。
(チャンス! )
「俺なら……」
 美男子と名高いバザークは、整った顔に静かな微笑みを浮かべ、そっとクロルの方を向き直った。
 もちろん普通に向き直ったのではない。まず片肘を船縁に乗せて、そちらに全体重を預け、身体ごとクロルに向き直る。次に片頬杖をついて、さりげなく顔をクロルへと近づける。相手に警戒心を抱かせない程度に、ほんの少しだけだ。そしてここで忘れてはいけないのが、この時わずかに首を傾げること。そうするとバザークの目線が、クロルの目線よりいくらか低くなる。──これはとっても重要なポイントだ。
 これらをごく自然にやってのけてから、バザークはクロルの黒い瞳を、わずかに下からそっと見上げた。
 そして深い深い、柔らかな微笑をふわりと浮かべる。
「君の笑顔を見るためならば、幾晩だろうと眠らずにすごせるのにな……」
 それは幼女であろうと、老婆であろうと、迷わずころりといってしまいそうなほどの、優しい優しい微笑だった。港町の若い娘たちが、ことごとくバザークのくさい口説き文句にやられてしまうのも頷けるというものだ。台詞がどうなのではない、バザークの最強の武器は、このどこまでも穏やかな笑顔なのである。
「そりゃ光栄だねぇ」
 バザークのくさい口説き文句には慣れているはずのクロルも、間近で向けられた、それも下から喰らった優しい笑顔に、さすがに照れくさそうに笑った。
「……どうしてそんなに、綺麗に笑うんだろう?」
 バザークはクロルの笑顔に吸い込まれるように、半ば独りごちるように呟いた。
 今までたくさんの女性の笑顔を見てきた。綺麗なものも、可愛いものも、艶やかなものも、沢山の素敵な笑顔たちを。
 けれどクロルほど輝いた笑顔は、一度たりと見たことがない。
 バザークは愛しげに目を細め、微笑した。
「どうしてだろうね……?」
「なんだい、いきなり真剣に。あたしに笑顔教室でも開いてほしいのかい?」
 クロルはバザークの一途な思いに気づいた様子もなく、いつも通りの茶目っ気たっぷりな口調で言った。
先生あたしに火傷しちまっても知らないよ?」
(火傷してぇ……!)
 せっかくの美男子っぷりな、心中での追想も台無しに、表の微笑の裏側でバザークはバシバシと膝を叩いて歓喜するのだった。

 そのまま二人だけの穏やかな時間が過ぎてゆく。
 波の音、鳥の囀り、木々のざわめき、音といえばそんなものだけの。
 クロルと他愛もない話で笑い合っているうちに、バザークはふと目を伏せて、風に身を任せた。
 風……さざめく……光……降りそそぎ……
 わずかに開いた唇から漏れるのは、静かな静かな、柔らかい歌声。
 そよ風の流れように、魚たちの吐息のように、海面が小波を起こすように。それは生まれた時から聴き慣れている自然そのものであるように、優しく耳に馴染んでくる。
 単語だけをただ並べた、ほとんど歌詞のない即興の歌に聴き入って、クロルは船べりに頬杖をついてそっと目を閉じた。
 吐息が消えるようにやがて歌が終わり、クロルは頬を紅潮させて、思わず拍手をしていた。
「こんなに温かい歌、朝から聞けて、あたしゃなんて幸せ者なんだろうね」
 バザークは照れくさそうに、少年のような幼い笑顔を浮かべた。
「あはは、ありがとう! でも君の笑顔にはとても敵わない、黒髪のお嬢さん」
 もはや無意識でつけ加えられた口説き文句に、クロルは額を押えて俯き、そのまま苦笑気味にクツクツと笑った。
「そのくっさい三流の口説き文句さえ吐かなきゃ、アンタ、本当に最高なんだけどねぇ」
 最高、という言葉だけを都合よく聞き取って、バザークは「っしゃー!」と吼えた。もちろん心の中だけで。
 しかし呑気に吼えていられたのも、クロルが顔を上げたその時までだった。

「……あ」

 俯いていた顔を勢い良く上げたクロルが、不意にぐらりと体勢を崩した。
「え?」
 前のめりによろめくクロルを、バザークは反射的に受け止める。
 とさ……っと軽い音を立てて、クロルはバザークの腕に抱きとめられた。

「…………」
「…………」

 心臓の音が間近で聞かれそうだった。
 背筋をいつも綺麗に伸ばしているクロルは、背が高く見られがちだが、実はそれほどでもない。バザークは端正な顔立ち同様に、すらりとした線の長身の持ち主である。足元のふらついたクロルを受け止めれば、クロルの頭はバザークの心臓辺りに埋まることになる。
 ──鼓動が早くなったのが、ばれたかもしれない。
 逆だったら良かったのに、とバザークは一瞬思った。自分の方が背が低ければ、クロルの心を知ることができたかもしれないのにと。
「……大丈夫? クロル」
 だがそう思ったのも、自分でもそう思ったことなど自覚しないぐらいの短い間だった。
 バザークは幸せ極まりない状況にいることも忘れ、胸に顔を埋めているクロルの頭を見下ろした。いつもの軽い表情もそこにはない。いきなりよろめいたクロルを、心配する表情があるだけだ。
「悪いねぇ、あたしゃ朝がとんと弱くて……」
 胸に顔を埋めたままクロルはごもごもと答え、苦笑しながらバザークの顔を見上げた。
「…………」
 すると不意に、クロルが言葉を切った。苦笑が見る間に消えうせる。
 黒い瞳と、緑色の眼差しが、間近で静かに絡み合った。
 ──ん? 
 しばらく流れでクロルを見下ろしていたバザークは、ふと我に返って困惑した。何で見つめられてるんだろう、と単純に混乱する。
 すぐ側にクロルの鼻先があった。もう少し近づけば、触れてしまいそうな位置に。
 抱きとめたクロルの背に回した腕が痺れたように動かない。
「……もう大丈夫」
 視線は唐突に逸らされた。
 クロルは緩やかにバザークの腕から逃れると、静かな足取りでその場を去っていった。
 その頬が少し赤く染まって見えたのは、色を持ち始めた太陽光のせいだろうか。
 バザークは両腕を抱きとめた時の形のまま凍りつかせ、去ってゆくクロルの背を首を傾げて見送る。
「……脈あり?」


 船長室の中は、甲板以上に静かだった。
 船の軋む音がわずかにするだけで、あとは静寂が支配している。
 窓に引かれたカーテンは、甲板からの陽光も、船尾にある窓からの陽光も遮り、室内は眠るのにちょうど良く薄暗い。
 ホーバーは二段になっている寝棚の一段目で、安眠枕にころりと碧色の頭を乗せて、静かに寝息を立てていた。
 どうでも良いが、見ている夢は、自分が寝ている夢である。
「っおっはよー、ホーバー!」
 バターン! 
 扉を乱暴に開く音と、朝っぱらから陽気すぎる朗々とした声が、ホーバーの安眠を木っ端微塵に粉砕した。
 夢の中と現実とで、二回分目を覚まして、ホーバーは寝起きの不機嫌そうな細い眼差しを、扉の方へと鬱蒼と向ける。途端、目を貫くあまりに眩しい朝の陽光。ホーバーは唸り声をあげて、寝ている間に蹴り飛ばしていた薄布を頭から被った。
「気持ちの良い、あ──さで──すよ──お!」
 美しすぎるビブラートを響かせながら、モーニングな歌を歌って、バザークはずかずか船長室に侵入を果たした。ついでに再び暗がりの中へと避難した、寝起きの悪さは船内一であるホーバーから、とりゃ! と薄布を奪い取ってやる。
「……殺す……てめぇー……」
「ちょ……っと待てうわ恐!」
 うにゃうにゃ言いながら、ホーバーは枕の下にいつも潜めてあるカトラスを引き抜こうと、柄にガシッと手を伸ばす。それを大慌てで止めて、バザークはホーバーの頭に容赦なくパンチを食らわせた。
 ゴス。
「…………おはよう」
「はい、おはよー」
 ようやく本当に目を覚ました親友に、バザークはクロルと対していたときとは大違いな、子供じみた笑顔を浮かべて、得意満面と親指を立ててみせた。
「はいはい、一歩リード、一歩リードー!」
「……あ?」
 いきなりの意味不明な台詞に、ホーバーは肘を支えに上体を起こし、剣呑な眼差しでバザークを見上げた。バザークは意味ありげにふふふ……と笑って、「クロルの話。一歩リードしたからね~」と繰り返す。
 ホーバーは溜め息一つ、再び寝棚にゴロッと横向けに転がった。
「何のことだか分からない……。好きにしろってば……」
「いいんだ? 好きにして。へぇ?」
 投げやりに吐いた台詞に、バザークは余裕たっぷりの声でそう返した。
「そうかそうかー、いいのかー。ははぁ」
 からかう口調のまま、散々安眠を妨害しておいて、バザークは至極あっさりと寝棚の側から去ってゆく。「いいんだー」という台詞をしつこいほど繰り返しながら。
 やがて再び扉が閉ざされ、船長室には暗がりと静寂が戻った。
 ホーバーはしばらくそのまま寝転がっていた。
 寝起きは頭が働かない。
 動く気がとんと──

 ──一歩リード? 

 ホーバーはむくりと起き上がった。
 チュンチュン……。
「…………」
 外からわずかな鳥のさえずりが聞こえてくる。扉の脇にある窓の、わずかなカーテンの隙間から、白い陽光が細い線を床の上に描いている。
 穏やかで、穏やかで──なんだか不穏な朝だった。

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