影の円舞曲
06
甲板では、眠らずに残っていた船員たちが、酒を片手に談笑していた。
歌声はバザークのものだ。船べりに置かれた樽の上に腰かけて、先日の襲撃で手に入れた堕龍封の五弦琵琶という伝統楽器を、遊ぶように爪弾いている。
曲を奏でているわけではない。ただ、ぽろん、ぽろん、と単音を鳴らしているだけだ。
けれどその単純明快な和音は、単純だからこそ、キャムの疲れ切った胸の奥にすっと易しく溶けこんでいった。
「アイラート」
穏やかな歌声に、別の声が混じった。
かち、と響く硬質な音。目をやると、仄かなカンテラの明かりの下、小さな卓を囲って、ホーバーとクロル、シャークが北方諸国貴族の娯楽である盤ゲームに興じていた。
(シャーク……)
船内の廊下から甲板を見つめていたキャムは、無意識に一歩後ずさった。
「で、トワイリム……と」
「何だいそれ、ずるいねぇ!」
ホーバーが黒駒を盤のどこかに置くと、クロルが呻きながら頭を抱えた。ホーバーは意地悪く笑って別の黒駒を手にとり、盤上の白駒のひとつをかつんと盤外に叩き出した。
「正攻法です。……クロルほんと弱いな、このゲーム」
「うっさいね。こっからが勝負だよ!」
クロルは威勢よく吠えて、机に置いてある酒瓶を引っ掴んで、ぐっと呷った。
「っかあ、旨い! さあ、調子出てきたよー! 来い、来い!」
「じゃあ遠慮なく……もう一回、トワイリム」
「あんだってぇ!?」
ゲームの行くすえを眺めていた数人の船員が、どっと笑い声をあげる。ぐびぐびと酒を喰らい、赤ら顔を笑わせて、「そこだクロル」「いやあっちだクロル」と茶々を送った。
(いいな……)
キャムはぼんやりと、淡い光に照らし出された世界を見つめた。
ゲームならキャムも得意だ。特にあの陣取り盤ゲームは。
仲間に入れたらいいのに。けれど、他の船員が寝静まった夜のしじま、酒を豪快にあおりながら楽しげに寛ぐ彼らの姿は、今のキャムには入りがたい世界に思えた。
輪に加えてと言えば、きっと彼らは仲間に入れてくれる。けれど、
――お前は、レディじゃねぇだろ。
――鬱陶しいっつってんだろ、くそキャミラル!
――何なの、キャムったら。妬いてんじゃないかい?
――お前、ほんっとうっさい。遅くまでだーらだら寝こけて、あげく仕事の邪魔かよ。
――キャムもほれ、明日は舞踏会じゃ。船内で準備しているそうじゃし、行っておいで。
船員たちは、内心ではキャムのことを邪魔に思うに決まっている。せっかく楽しい時間だったのに、キャムのせいで台無しになってしまった、と。
キャムは唇を引き結び、ふと卑屈に曇った眼差しをシャークに向けた。本当は見る勇気がなかったのだけれど、大騒ぎしているクロルやホーバーの声は聞こえてくるのに、年がら年中馬鹿騒ぎのシャークの声がちっとも聞こえてこないことが気になった。
シャークは腕組みをして、どこか怖いような顔で盤を睨んでいた。
何を考えているのだろう。ゲームの成り行きが思わしくないのだろうか。それとも……。
シャークの怒った顔を見ているだけで、キャムの足は竦んでしまう。
これは最後のチャンスだ。舞踏会の前に謝ってしまう最後の機会。でも、皆の前で謝る勇気はとても出そうにない。ましてあの眩しい世界に飛びこむ勇気など。
キャムは小さく溜め息をつき、船内へと踵を返す。
「あ、ちょっと待った。俺、便所」
いきなり聞こえてきたホーバーの声。キャムは仰天した。まずい、ホーバーがこっちに来る。隠れなくては。逃げなくては。
「何だい、あたしの逆襲を恐れて逃げようってのかい!?」
「いやー残念ながら全然怖くないし……ん?」
動揺のあまりに凍りついてしまったキャムに気づいて、ホーバーが眉を持ちあげた。キャムはとっさに顔を背けるが、ホーバーは無神経極まりないことに、ぽんと肩を叩いてこう言った。
「キャム、ちょうどいいところに。続き、任せた。勝ちもぎ取っておいて」
「……っふえ!? や――ちょ!」
ホーバーは欠伸をしながら「よろしくー」と脇をすり抜けて、船内に入って行ってしまった。
絶句。
廊下の闇に消えてゆくホーバーの背を凝視しながら、キャムは口をぱくぱくさせる。どうしよう。どうすれば。今のでシャークもキャムの存在に気がついただろう。だが振りかえることができない。甲板に、シャークに背を向けたきり、もう一歩たりとも動けない。
「キャーム! 何だい、寝れないのかい!?」
「……っひゃあ!?」
いきなり首の両脇から二本の腕が伸びてきて、キャムは悲鳴をあげた。キャムに気づいたクロルが、背中から抱きついてきたのだ。
「も、もう寝るとこ! ちょ、ちょちょちょっと琵琶の音がしたから、誰かと思ってその!」
「なに言ってんだい、せっかく来たんだから加わってきな! 逃げやがったホーバーのかわりに、あんたがあたしの猛攻撃を受けるんだよっ」
(うわあああ離して離して離してぇええっ)
しっかりと首に腕を回され、ずるずると甲板に引きずり出されたキャムは、そのまま卓まで連れてゆかれた。クロルは言うまでもなく、卓の周りで思い思いに寛いでいた船員たちも相当に酔っぱらっているらしく、「よっ、天下無双の美少女キャム様!」「お、ホーバー、ずいぶんちっこくなって帰ってきたな!」だの、ちっとも面白くない合いの手を入れ、腹を抱えて笑い転げてくる。先ほど思ったようなキャムを邪魔に思う様子は少しもなく、ひとりひそかに安堵するキャムだが、しかし――。
「ささ、座んなさい。あんたからだからね」
「え、ちょ、ちょ……!」
シャークの真正面の席に、強引に座らされたキャムは、顔を真っ赤にしてさささっと前髪を顔の真正面に集めた。隠れ蓑がわりである。
しかし、隠れたい一方、シャークのことが気になった。シャークはいったい、どんな顔をしているのだろう。
キャムはがちがちと歯が鳴るほどに緊張しながら、勇気を振り絞って目線をあげた。
シャークは仏頂面でキャムを見つめていた。
――不機嫌そうだ。
(ど、どうしよう。どうしようどうしようどうしよう)
キャムはぱっと目を伏せて、黒駒と白駒の並んだ盤面に集中した。今は考えないようにしよう。ゲームが終わって、皆で「さあ寝るぞ」となってから、シャークにこっそり「ごめんなさい」と耳打ちしよう。そうだ、理由を聞かれたらどうしよう。いや、何とでも答えたら良い。ダンスを踊っていたら、シャークが足を踏んづけたのに気づきもしないで謝りもしないから怒ったのだとか適当なことを言えば良い。ほら、もう一個言い訳を思いついた。この調子なら口から出まかせなんて百個ぐらいずらずら出てくるはず、大丈夫大丈夫大丈夫。
「が、がが、ガルシュ!」
ひっくり返った声で宣言して、掴んだ黒駒で右隣のマスに置かれていた黒銀の駒を、カタリと横に倒した。
「ほほう、そう来るわけ。じゃああたしはこれをこっちで、次待ち」
酒が入って上機嫌のクロルが白駒を掴んで黒駒の間を移動させる。「ほれ、あんたの番だよ」と声をかけられ、押し黙っていたシャークが、手元の黒駒を盤上にあげた。
「右マスと、左マスでヒアグリン。ロックをかけて、ここにアイラートっス」
無愛想に宣言し、次々と盤上の駒を倒してゆく。それはあからさまに根性の悪い戦法で、クロルどころか周囲を取り巻く船員たちまでが「うわ」とどん引きした。
「何だい、いきなりそんなひどい手使って!」
「言っとくけど、今のでクロル負けっスよ」
「……はひ!?」
クロルは絶叫し、目を剥いて盤上の駒の並びを凝視した。
「……死んだ」
チーン。反論のしようもなくご臨終させられたクロルは、額に手を押し当て、椅子の背もたれに崩れ落ちた。
「じゃ、オレとキャムで頂上決戦っスね」
動揺するキャムをよそに、シャークはさらに駒を動かす。かつんかつんと硬質な音をたてて、駒の位置が次々と鮮やかに入れ替わる。
「はい、キャムの番っス」
キャムは顔を上げられないまま、青ざめた。
「お、おいおいシャーク、ちょっとひどすぎねぇ?」
「そうだよ。なんでいきなり、そんな卑怯技連発すんだよ」
「キャムは途中参加でしょ、かわいそうに。なに苛々してんの?」
あんまりな戦法に、船員たちがさすがに非難の声を上げる。
その通りだった。駒の配置を見れば、シャークが思い描く戦略が手に取るように分かる。クロルを負かしたのと同じ、容赦の欠片もない、否、もっと正確に言えば、とんでもなく大人げない卑怯技だった。
はっきりと理解した。
シャークは、怒っている。
それも、とんでもなく。
(あ……)
キャムは萎縮し、震える手で駒を掴む。
だが、置く場所を見いだせない。駒の配置はあまりに複雑で、根性が悪く、シャークの編んだ戦略を瓦解させるのは、キャムの腕前をもってしても小さな穴に糸を通すほどに難しく思えた。
動揺に心が震える。涙が出そうになる。
ひどい。こんな怒り方ない。あんまりだ。
確かにキャムはひどいことを言った。叩いたのに、謝ることもしなかった。けれど頑張ったのだ。謝ろうとした。何度も何度も。邪魔されてもそれでも何度も。
謝れない自分の臆病さを思い知らせ、深く傷つきもしたのに、今、ようやく分かった。謝るタイミングが掴めなかったのは、邪魔が入ったからでも、キャムの努力が足りなかったからでもない。なんてことはない、シャークが故意にキャムを無視していたのだ。
(ひどい)
怒っているなら、そう言えばいい。ゲームにかこつけキャムに苛立ちをぶつけるだなんてひどすぎる。こんなやり方は、あまりにあんまりだ。なんという……なんという、
(ただのガキじゃないの……!)
唐突にキャムの心に怒りが芽生えた。自分のことを子どもだ、子どもだと思ってきたが、シャークの方がよっぽど子どもだ。
卑屈になる必要などない。こんな根性ねじまがった拗ね男など――叩き潰してやる!
キャムはぐっと盤を見据えて、黒駒を掴んでがつんがつんと盤を叩くように移動させた。
「アイラート!」
声高に宣言して、最初に置いた駒を倒した黒銀の反対隣に回す。「トワイリム」、前の回に違うマスに置いた駒を、動かした駒の代わりに左隅に置いて、「ヒアグリン」、倒した黒駒を外へと弾き出す。
「おお……っ」
数人ばかりの観客がどよめいて、琵琶を奏でていたバザークも歌うのをやめた。
「いいぞ、キャム。正攻法で、卑怯技に勝ってやれ!」
「やっつけてやれ、キャミラルー!」
「――じゃあ、これ、ヒアグリンっス」
あくまで淡々と、シャークが白駒を動かした。キャムはむっとして、黒駒を移動させて、「ガルシュ」と宣言。すぐにシャークは打開策を講じて、動かした駒を叩き潰してくる。キャムはそれでも屈せずに、次々と多種多様な技でもって応酬した。
思いがけない名勝負に周囲が沸き立つ。
キャムもいつしかゲームに集中し、目の前にいるシャークよりも、シャークの指が操る駒に意識を凝らしていた。
そして、いったいどれほどの時間が経ったのか。
ついに打つ手をなくしたシャークが、「ふう」とため息をついた。
「負けっス」
盤に見入っていたキャムは、きっぱりとした声に、はっと我に返った。
思わず顔を上げると、シャークはまだ少し怒りの残った苦笑を浮かべていた。
「オレの負けっス。……キャムはやっぱり強いっスね」
途端、どっと周囲にいた船員たちが拍手喝采をくれ、呆然とするキャムをねぎらってくれた。
「すげぇじゃん!」
「やるなあキャム」
滅多に浴びせられることのない言葉が、容赦ない拳や抱きつきと一緒に降ってくる。
「……あ」
キャムは慌てた。縋るように見つめると、シャークはまるで「もういいっスよ」とでも言うように、苦笑してうなずいてみせた。
勝った。
大人げなくゲームで怒りをぶつけてきたシャークを負かしてやった。
なのに――ちっとも嬉しくないのはなぜだろう。
動揺するキャムの肩を、酔っ払いクロルががしっと掴んだ。
「さあさ、勝者さん。願いを何でもひとつ言ってごらん!」
「……え?」
突然の言葉に、キャムは戸惑う。
「賭けしてたんだよ。優勝者は、負けた奴らになんでもひとつ言うことをきかせられる、ってね。さ、あたしとシャークが、あんたの願いを何でも叶えてやるよ」
言いながら、クロルはキャムにしなだれかかって酒臭い息を吹きかける。
「こっ恥ずかしいのは、な、し、よーん?」
キャムは瞬きをして、やいのやいのと手を打つ船員たちを見つめる。
願い。シャークに。なんでもひとつ。
(なに、それ……)
キャムはようやく自分の思い違いを自覚した。
シャークは怒って当たり前だったのだ。ガキだなんて、そんなことをキャムが思う権利などなかった。怒って当然の人に腹を立てて、こてんぱんに打ち負かして、負けを認めさせて、無理に笑顔まで作らせて、許しまでもらって。
あげく、願いまで叶えてもらうのか。
シャーク。
私を踊りに誘ってください。
キャムはぞくりと背筋を震わせる。
欲しいものだけ手に入れ、浮かれ踊る自分の姿なんて、想像するだけでも気持ちが悪い。
「……私、いい!」
キャムは勢いよく立ちあがった。
「私、ホーバー兄の代理だから。それは、ホーバーの権利だから」
「えーいいんだよーあんな奴ー」
「いいの! おやすみなさい!」
口早に言って、きょとんとしているクロルやシャーク、船員たちを背にして、逃げるように船内に駆けこむ。
廊下の暗がりに飛びこんだ途端、誰かに真正面からぶつかった。
「あれ、キャム? ゲーム終わっ――」
「遅い……!」
キャムはその胸に拳を叩きつけた。
「帰ってくるの、遅いよぉ……!」
突然の行動にホーバーは驚いたようだったが、涙まじりの声に気づいたのだろう、キャムのするがままにしておいてくれた。
それがまた、腹立たしかった。