影の円舞曲
05
一睡もできなかった。
「だ、大丈夫? すごい目つき悪いけど」
寝棚から身を起こしたキャムの顔を見て、いつもと変わらず清々しい目覚めだったらしいファルが、ぎょっと顔を驚かせた。
「……あえ?」
キャムはぼへらっとファルを振りかえって、無気力に返事をする。途端、ファルがいっそう心配そうな表情になった。
「あー。だいじょーぶだいじょーぶ。あはは……だいじょーぶに決まってるって」
寝不足の頭に、ファルの不安げな顔がなぜだか可笑しくて、キャムはへらへらと笑いながら両足を床に下ろした。のろのろと寝乱れた衣服を整え、髪の毛を適当に手で梳いてから結いあげ、ふらふらーっと廊下へと出る扉に手をかける。
「キャ、キャム……」
おろおろと背中にかかるファルの声に、「だいじょーぶだいじょーぶ」とまた適当に返事をして、キャムは扉を開けて廊下によろめき出て、そのまま甲板に向かった。
そして、
「おいぼさっとしてんじゃねぇぞ気をつけろ馬鹿キャム!」
甲板に出た途端、キャムは誰かにふっとばされて尻もちをついた。見上げると、もうずいぶんと高く上がった太陽の中に、片目に眼帯をつけた筋肉男ワッセルの苛立った顔があった。
「……は?」
いきなり目が覚めた。
ぶつかられた腕がやたらと痛い。尻もちをついたお尻が痛い。体格差もあるうえに、ワッセルは大工道具を担いでいて、ただでさえ筋肉で重たい肉体がさらに重量を増していた。か弱い少女の軽い体に比べたら、ワッセルの重量は歩く凶器と言えた。
それを――ぼさっとしてるな、気をつけろ、馬鹿キャム?
睡眠不足のせいだろう、自分でも制御できないほどの怒りがこみあげてきて、キャムはさっさと立ち去ってしまったワッセルを走って追いかけ、その無防備な背中に強烈な跳び蹴りを食らわしてやった。
「……っな」
と言ってももちろん大した威力はなかった。むしろキャムが鋼の筋肉に阻まれ、甲板に転んでしまったわけだが、それでもワッセルの単細胞を刺激するには十分に不愉快な蹴りだったらしい。ワッセルは「イラッ」を顔一面に張りつけて、抱えていた大工道具を床に放り投げ、ぽきぽきと拳を鳴らした。
「いい度きょ」
「ふっざけんじゃないわよ、か弱い少女にぶつかっておいて気をつけろだあ? はあ? あんたの筋肉ガッチガチムッチムチすぎて痛すぎるんだっての、せめて脳みその中の筋肉ぐらい少しは削いだら筋トレ趣味とかマジで気持ち悪ぅ!」
いい度胸だなキャム、という言葉を半ばまでも発せぬうちに、怒涛のごとき罵声を飛ばされたワッセルは、話の半分も意味が理解できなかったのだろう、目を白黒させ――十秒ぐらい経ってから、「はぁあ!?」と声を上げた。
「てめ、早口すぎて何言ってっか分かんねぇけど、絶対ぇ俺の悪口言っただろ!」
「言ったわよ、言った言った超言った。聞こえなかったのーへー耳の中にまで筋肉詰まってんじゃないの? レティクに耳掻きでもしてもらえばー?」
「……っ気色悪ぅうう!?」
怒声の応酬に、帆桁の上に留まっていた鳥たちが逃げてゆく。甲板でトンカチ仕事をしていた船大工たちも、なんだなんだ、と二人を振りかえった。
ワッセルは、レティク耳掻き攻撃が相当効いたのか、日に焼けた顔を青ざめさせ、がたがたと盛大に震えあがった。キャムは勝利を確信し、は、とすっきりした気分で鼻を鳴らした。
「謝らないそっちが悪いのよ。せいぜい反省することね」
「――キャム。ワッセル兄は仕事中なんだよ、邪魔すんな」
舌打ちがした。反射的に振りかえると、縄梯子の辺りで明日の舞踏会の準備をしていた船大工見習いのキャエズが、苛立った様子でキャムを指さしていた。
「お前、ほんっとうっさい。遅くまでだーらだら寝こけて、あげく仕事の邪魔かよ」
「……ちょ、私が怒られる筋合いなくない? この筋肉馬鹿がぶつかってきたのが悪いのに!」
「どーせお前がふらふらしてたんだろ。ワッセル兄は働いてんの。手伝う気ねぇなら、黙ってすっこんどけってのー」
キャムが絶句していると、ワッセルは何歳だよと盛大にツッコミを入れたくなるような見事なあっかんべぇをして、再び大工道具を肩に担いで去って行ってしまった。
頭に血が上る。腸が煮えくりかえった。悪いのはワッセルなのに。どうして私が――。
「ばかワッセル!」
キャムは苛々と叫んだ。途端、ワッセルが憎らしげに振りかえってきた。
「まだやり足りねぇのかてめぇ!? ぶっ殺すぞこの野郎!」
「これこれ、仲良くするんじゃぞー」
甲板の隅っこにパラソルを出して、のんびりのんのん船大工たちの仕事ぶりを見るともなしに見ていた船大工長ラヴ爺――いいや見ていない。彼の目線は、両手にふるふると握りしめた、愛しのラギルニットが書いたラブ爺の似顔絵にしか向いていない――が、よぼよぼと声をかけてくる。
「キャムもほれ、明日は舞踏会じゃ。船内で準備しているそうじゃし、行っておいで」
やんわりと窘められ、キャムは今度こそ傷ついた。
なぜ自分が窘められるのだろう。悪いのはワッセルだ。誰も見ていなかったのだろうか。ぶつかられて、痛い思いをしたのはキャムなのに。仕事の邪魔なんてしていない。邪魔するつもりもなかった。不注意だったキャムも悪いが、それでも人にぶつかったら一言謝るのが筋ではないのか。謝らなかったから、それで腹を立てただけなのに。ただ一言「ごめん」と言ってくれれば、それですぐに許したのに。
なぜワッセルには何も言わないのだ。どうしてキャムにだけ、いつもみんな――。
キャムは呆然とその場に立ち尽くす。底の知れない孤独感が押し寄せてきて、もう一歩も動けない。じわりと目尻に涙が滲んできて、キャムは唇をぐっと噛みしめる。
そのときだった。
「ちゃんと謝らないとダメっすよ。キャムは女の子なんだから、痛かったはずっスよー」
左舷から聞こえてきた、その声。傍らを通りすぎようとしたワッセルに、船べりで黙々と作業をしていたシャークがそう声をかけた。それは、キャムに聞かせるつもりというわけではなく、もう少し甲板に人がいたら聞き取れなかっただろう、ただワッセルに向けただけの何気ない言葉だった。
「はあ? だから気をつけろって注意したんだろ。右の視界ゼロなんだから、あっちが気をつけてくれねぇと、オレは気をつけられねぇっての。それをいきなり跳び蹴りだぜ、あいつ。信じらんねぇ! 口で言えよ先によ!」
「昔オレ、ワッセルの不注意で、手の甲に酒杯落とされて、角あたって、超痛かったっス。別に謝ってほしいわけじゃなかったんスけど、あ、酒杯割れなくてよかったわー、って笑われてカチーンときたっス」
「……いつの話だそれ」
「あれは二年前の燦々と太陽が輝く夏の日だったっス。シャー子、二十七歳の春っス」
「夏っつっただろさっき」
「謝ってほしいっス。土下座して筋肉馬鹿でさーせんって三回叫んでワンしてほしいっス」
「それはできねぇ相談だな!」
くだらなさの極まった会話を、キャムは立ち尽くしたままじっと聞く。ささくれだっていた心が急速に鎮まってゆく。
庇ってくれた、のだ。キャムの痛みを理解してくれたのだ。
だが――少しばかり鎮まりすぎてしまった。庇ってくれた喜びに素直に浸っていればよかったのに、冷静になりすぎた心は、ある事実に気づいてしまった。
シャークが、こっちを見ない。
ひょろっとした背をこちらに向けたまま、ワッセルと顔を突き合わせてこそこそ話をしている。
いつもだったらどうだったろう。「キャムもいきなり跳び蹴りはだめっスよ」とこっちを振りかえり、馬鹿みたいにへらへら笑いながら窘めてきたのではないだろうか。
気のせいだろうか。自分が過敏になっているだけ?
――じゃあ、もういいっス。
けれど瞼の裏に昨夜のシャークが浮かぶ。昨晩、寝棚にもぐりこんで、声を殺して泣きながら、何度も何度も嫌になるぐらい思い出した、あの光景。
あの時、明かりを背にしていたために、シャークの表情は逆光になってよく見えなかった。けれどだからこそ想像してしまう。声音から、立ち去る足音から、シャークの自分を見つめる冷たい眼差しを。
怒らせてしまったのだと思った。
ほんの数分前まで、どぎまぎと胸を高鳴らせた、シャークの少し体温高めの大きな掌。心配して追いかけてきてくれたのに。呼び止めようと、自分の腕をしっかりと掴んだシャークの手は、キャムの暴言を聞いて、冷たく手放された。
(まだ怒ってる?)
振りかえってほしい。怒っていないことを、いつもの能天気な笑顔で教えてほしい。
けれど船べりで作業を続けるシャークは、やはり背を向けたまま、ワッセルと拳を小突きあっている。不自然なほどに、そう思えるほどに、キャムに背ばかり向けている。
一言ごめんと謝ってくれれば許すのに。先ほど思った言葉が自分自身に返ってきた。
――謝ってほしいっス。
(謝らなくちゃ……)
キャムは、不安に乾いた唇を噛みしめる。
(ううん。謝りたい)
でなければ、今度こそキャムは自分のことが許せなくなる。
(謝ろう)
キャムは、どれだけ待っても振り向かないシャークの背中を、じっと見つめた。
願うように、祈るように、じっとじっと見つめつづけた。
「だ、め、だ……」
それから八時間後、キャムは干からびた死体よろしく船室の寝棚に横たわっていた。
結局、散々の努力にもかかわらず、シャークに謝る機会を掴めなかったのである。
言い訳がましいようだが、断じてキャムのせいではない。タイミングが大いに悪かったのだ。シャークを見つけ、勇気を振り絞って声をかけようとすると、誰かしらから「おいシャーク、便所掃除しろ」とか「ちょっとキャム、クロルが探してたよ」なんて余計な邪魔が入る。謝罪という繊細極まりない行為を実行に移すには、この船は人が多すぎるのである。
いや、正直に明かせば、最後の二時間ぐらいはキャムが悪かった。邪魔が入らないだろう瞬間は、二、三度あったのだ。だが数時間も邪魔されつづけた結果、キャムの心にあったなけなしの勇気はすっかり枯渇してしまっていた。邪魔が入らなくたって、もうキャムには声をかける勇気がなくなっていたのだ。
「最悪だ……」
もううんざりである。自分にも、この状況にも、この船にも。
そもそも舞踏会なんてものがあるのが悪い。舞踏会をやろうなんて言い出した船員を絞め殺してやりたかった。ついでに今の状況の元凶である、踊りの練習なんてものをやりやがったあの碧色の髪の毛しやがった副船長やってやがるホーバーの野郎を、脳天に斧でも叩きこんでめっためたにしてやりたかった。
(明日はもう舞踏会)
出たくない。参加したくない。考えたくない。
もう、何もかもどうでもいい。
もうどうでも、いい。
キャムは悄然と枕に顔をうずめた。
いつの間に寝ていたのだろうか、ふと目を開けると、船室の薄闇のなか、同室の女たちの寝息が微かに聞こえていた。
(何時だろう、今……)
キャムは喉の渇きを覚え、ぼんやりと身を起こす。
同室の女たちが目を覚まさないよう、そっと足音を忍ばせて船室の外に出ると、思ったよりも遅い時間なのだろうか、廊下はしんと静まりかえっていた。両脇に並ぶ扉から寝息と寝言といびきと歯軋りのオンパレードは聞こえていたが、慣れきったキャムの耳にはそれらは静寂の内である。
そのとき、どこからともなく弦楽器の音が聞こえた。
ぽろん、ぽろん、という静かな音が、優しく鼓膜をノックする。
弦を爪弾く音に混じり、途切れ途切れに聞こえてくるのは、柔らかな歌声。
甲板だ。誰かの笑い声も聞こえる。まだ眠らず、甲板でお喋りをしている船員がいるのかもしれない。
ふと人恋しさに胸が詰まった。誰にも会いたくなかったはずなのに。
キャムは優しい弦の音に誘われるように、ふらふらと甲板へ歩いて行った。