ホーバーの思いもよらぬとんだ一幕
12
「だから……何ていうか、その、シーパーズの船長にならないかって誘われたんだ」
食堂にわんさと集まった船員たちを前にして、ホーバーは口ごもりながら説明した。
呼びかけに応じたのは、ラギルニットとクロル以外の全員だ。
五十人が入るには狭すぎる食堂に、ぎゅうぎゅうに詰めかけておきながら、ホーバーと面と向かうのは癪らしく、全員が全員、床か天井か壁か、あるいは窓の外を眺めている。その不自然さたるや凄まじい。
「クロック船長ももう歳だし、後継者を心配しているらしい。それで何でか俺に白羽の矢が立って、今回の結婚話になったってわけだ。で、ちょっと色々と厄介な事情があって、簡単に断ることが出来ない。けど、解決方法は見つかってるから、とりあえず言っておきたいことは、その……」
ホーバーは首をぽりぽりと掻きながら、そっぽを向いた船員たちに、気まずく宣言した。
「結婚はしませんので」
「――はぁ!? 誰も聞いてねぇし!!!!!」
途端に、声を揃えて叫ばれた。
「言うと思った……」
徒労感にがくりとするホーバーだが、船員たちはもぞもぞと落ち着きがない。隠し切れない喜びで口端を引きつらせながら、その表情をホーバーにだけは見られてなるものかと両手で隠し、やいのやいのと騒ぎはじめる。
「つーか、何だよ。ただの結婚話にしちゃ、妙な空気だと思ってたら、引き抜きの話だあ!?」
「ふざけんな、ホーバー! 早く言えってんだよ! ……いや、別にどうでもいいけどよ、お前がどこの船長になろうが」
男性船員が、微妙な怒りをぶちまければ、
「ホーバー兄はこの船の副船長なんだから! 引き抜きなんて馬鹿じゃないの!?」
「そうさ、この腐れ碧頭。あんたはアタシら船員に責任ってのがあんだから。でれでれ、デトラナなんかに鼻の下伸ばしてんじゃないよ! 能無し副船長!」
女性船員が、徹底的に罵倒する。
しまいには五十人弱編成による、男女混声大合唱となって、
「クロックを殺っちまえェ!」
ホーバーは鼓膜が破れるほどのブーイングの嵐に、げそっとして耳を塞いだ。
「それが出来れば苦労はしない……あの樽じじい」
「おい、ホーバー。いまいち分からないんだが」
手を挙げたのは、血色の髪を炎のようにたぎらせた舵手のアレスだ。
「引き抜きの話なら、そもそも何で結婚の話が出てくるんだ。おかしいだろ」
さすがは若い船員より余裕がある、ゆったりとした挙動で火の点いていない葉巻を弄びながらの発言に、周囲は「確かに」と一瞬で静まりかえった。
「たかだか海賊の船長。船長にするってだけなら、娘と結婚させる必要はねぇ。違うか?」
「美女を餌に、ホーバーを釣ろうとしたんじゃねぇの?」
「てめぇらは「結婚」の二文字に心躍るか? ああ? 結婚なんざ束縛の最たるもんだろう。自由を愛する海賊さまが、んなもんに釣られるかってんだ」
アレスは馬鹿にしくさった顔で失笑し、続けた。
「どっかの国の玉座を継がせるってわけでもあるま……――」
言いかけて、アレスはポロリと葉巻を取り落とした。
「…………」
ホーバーは絶句するアレスを見返し、物凄く複雑な面持ちでうなずいた。
そういうことですか。ええ、そういうことです。
二人の間で無言の会話が交わされ、ホーバーは気まずく咳払いをした。
アレスが何に気づいたのか、他の船員たちはまだ分かっていないようだ。突然の沈黙にきょとんとしている。それを確認してから、ホーバーは改めて全員に目を向けた。
「実は、その「結婚」が問題だ。ただの引き抜きなら、とっくに断ってる」
「どういうことだよ……?」
「今は事情は話せない。話したら絶対……」
ホーバーは口を噤み、食堂に居並ぶ面々を見渡した。
――今でさえ、クロックへの怒りで煮えたぎっている船員たちだ。クロックの切り札の正体を聞かされれば、憤怒のあまり暴動を起こしかねない。
そうなれば最悪、バクスクラッシャーは壊滅する。
あの鳥籠の開き戸は、絶対に開けさせてはならないのだ。
「話すなよ、ホーバー」
アレスが一気にげっそりとした顔になり、投げやりに手を振った。
「洒落にならん。畜生、噂は聞いたことがあったんだがな……全く思い出さなかった。ああ、血に飢えた王、そういうことか……。しかも、あのテラとかいう乳母! 妙だと思ったんだ、海賊に乳母なんてよ。こんにゃろう」
ぶつぶつと一人悔しがるアレス。ホーバーは苦い顔で、再び口を開いた。
「ともかく、必ず解決する。だから心配しないでくれ。いや、心配はしてないってのは重々承知してますが……」
アレスの様子から、何かキナ臭いものを感じ取ったのか、船員たちは険しく顔を見合わせた。だがアレスが話すなと言った以上、追求は無駄だと判断したのだろう、ただ揃って不満げな目をホーバーに向けた。
「けど、呑気なこと言ってるけど、あと三十分ないんだぞ? 何をどう解決するってんだよ」
「あれか。誰か別の奴と先に結婚して、重婚になりますからお断りします、とか何とかか?」
「おーい、今すぐ誰かホーバーと結婚してやれや」
「よし、メイスー行け!」
「おや、光栄です、副船長。私、ウェディングドレスは出来れば、真っ赤な血の色がいいデス」
「……話振った俺が馬鹿でした、ゴメンナサイ。殺さないでください」
ホーバーは「いいから、とにかく!」と再度、話を打ち切った。
「もう種は撒いてある。あとは砂時計の砂が落ちきる前に、芽が出るのを待つだけだ」
「何とも頼りない話だな……芽は出るのか?」
「出る。絶対に」
副船長の断言に、船員たちはぶっすりとして、やがて肩をすくめた。
「分かった。で? 一応、説明しとけ。その解決方法っての。面倒臭ぇけど、……協力はするからよ」
そしてまた、気恥ずかしげに、床か天井か壁か、あるいは窓の外に目を逸らす船員たち。
過去に例のない、船員総出の協力の申し出に、ホーバーはこの場から逃げ出したい気分に陥りながら、「はい」とプロポーズを受け入れちゃった女子みたいな返事をした。
「ほうら、いつまで机の下にもぐってんだい?」
船長室に置かれた作戦机に魅力的な尻を乗せたクロルは、高々と組んだ足に頬杖をつき、うんざりと溜め息をついた。
机の下からは、盛大に泣きじゃくるラギルニットの嗚咽が聞こえてくる。
「う、え……だっ、て……うぁあ……っあ、う……っ」
泣きすぎて、もう声になっていない。
「もう、いいから出てきな。結婚しちまえだなんて、ホーバー、きっと傷ついたよ?」
「やだ……っやだぁ……!」
「何が嫌なんだい。謝るのが? 結婚が? 机の下から出てくるのが?」
「や、だ……っう、わぁあ……!」
「まったく。一ケタの子供かい、あんたは!」
いい加減に腹が立ってきて、短気なクロルは作戦机を上からごすごすと殴った。
その時、扉の開く音がして、クロルは眉を持ち上げた。晴天を背景にして、複雑な表情で立っていたのはホーバーだった。
「ほら、ラギル。ホーバーが来たよ。出てきな」
途端に、机の下の泣き声が止む。しかし這い出てくる気配はなかった。
「やれやれ……」
クロルは入り口に立ったまま動かないホーバーに、ふっと穏やかに微笑みを向けた。
「おう、ホーバー副船長。調子はどうだい?」
「……まあまあ」
「戸惑った顔しちゃって。――覚えてるかい? 昨日の夜、月見酒しながらあんた言ってたよね。自分が船からいなくなったら、喜ぶ奴の方が多いんじゃんかって」
ホーバーは立ち尽くしたまま、うなずく。
「あたしは答えた。消えたら寂しくなるのがうっさい存在だ、て。……当たってたろ?」
「……そうだな。当たってた、かも」
「結婚話一つで、連中があそこまで醜態を晒したんだよ? それでまだ、自分がこの船に必要じゃないなんて言い出すなら、あんたは救いようもないお馬鹿だよ」
困り果てるホーバーに、クロルは楽しげに笑って、作戦机を顎先でひょいひょいと示した。
「あたしは、ラギルが泣く前に、きっぱりと断れとも言った。約束破った罰だ、たっぷりと償いな」
ホーバーは許しを得たように、やっと船長室に足を踏み入れた。
クロルがにやにやと笑う脇で、ホーバーは机の側にしゃがみこんだ。
「ラギル。俺だけど」
返事はない。代わりに、かすかに鼻を啜る音が聞こえてくる。
ホーバーは一瞬躊躇し、しかし決意をこめて言った。
「ラギルがどう言おうと、俺はこの船の副船長を、辞める気はないから」
予想に反して突き放した言い方に、クロルが目を丸くする。
「けど、船長に解任を言い渡された以上、もう副船長ではいられない」
がたっと机の下で、動揺した物音がする。
それを答えと受け取って、ホーバーは立ち上がった。
「だから、今から行ってくる。復任を認めてもらえるよう、戦ってくるから……見ててくれ、船長」
机の下からは相変わらず返事はなかったが、ホーバーは気にせず、背を向けて歩き出した。
クロルは作戦机から飛び下りて、ホーバーの背に追いすがった。一緒に船長室から甲板へと出ながら、横目でホーバーをちらりと見やる。
「何だよ」
「あれ、あたしにも言ってくれないかい?」
唐突で、且つ意味不明な要求に、ホーバーは首を傾げる。
「何が?」
「だからさ、あたしにも“副船長を辞める気ないから”って言っておくれよ」
「……。なんで」
「なんではないでしょ。あたしも一応、不安だったんだよ?」
クロルは動揺するホーバーの鼻先を、つんっと突いた。
「“結婚しないでちょーだい? ホーバー副船長”」
棒読みの台詞は、船員たちの総攻撃、最後にして最強の一打。
ホーバーは散々視線を泳がせ、観念して、ぼそっと呟いた。
「……辞める気ない、から。クロル」
クロルはにんまりと笑って、ホーバーに飛びついた。
「よろしい!」
それを物陰から見ていたバザークが、「くぅっ」と一人男泣きしたのはまた別の話。
いつまでも腕が痺れている。
ホーバーのカトラスによって弾かれた右腕。鈍い痛みがまだ手首に残っていた。
デトラナは顔をしかめた。いつまでもホーバーの感触が残っているようで苛立つ。しかしその苛立ちはどこか鈍く、決して純粋な怒りだけではないように思えた。
「……気に食わない男」
本当に、気に食わない。
父を見返したい。誰にも明かすことなく、心の奥に眠らせていた願望をいとも簡単に見抜いて、見返す方策までをあっさりと提示してみせた、あの男。
許せない。気に食わない。今まで出会ったどの男よりも憎たらしい。
そして何よりも気に食わないことに――強いのだ。あの男は。
この心が、どうしようもなく昂ぶるほどに。
「気に食わない……」
太腿の上で固めた拳に、痛いほどの力をこめる。
『あなたを見限ったクロックを、自分の手で見返したくはないか?』
「本当に、気に食わない男……」
デトラナは気づけば浮かべていた好戦的な笑みを掻き消し、やがて決然と立ち上がった。
確信を持って、一人食堂で待ち受けていたホーバーは、入口に現れたデトラナの姿にわずかに息を飲んだ。
「見惚れていらっしゃるの? ホーバー様」
デトラナの居丈高な口調に、ホーバーは苦笑した。
「正直に言えば、少し」
毅然と背を伸ばした姿は、気高さを感じるほどに眩く輝いていた。研ぎ澄まされた深海の眼差しには、もはや何の迷いも見られない。
――では、決断したのだ。この傲慢なほどに誇り高い、海賊の娘は。
「お父様が甲板で待っていらっしゃるわ。どうするおつもり?」
「そうだな。……どうしようか?」
挑発的な態度に、ホーバーの蒼い眼差しにもまた闘志が宿る。
デトラナは自信に溢れた微笑を浮かべて、腰に吊るしたカトラスを鞘ごと引き抜いた。
「覚悟はよろしくて? わたくし、女だてらに、マヤメナ王国最強の剣士ですのよ」
ホーバーは壁に預けていた身を立たせると、同じく鞘とともにカトラスを手にした。
「海賊風情と手合わせ願えるとは、光栄です。姫君」
デトラナは顎を逸らし、床に刻まれたままのホーバーの名前を、靴裏で踏みにじった。
「ところで、さっきの儀式、何ですの? まるでなってませんわ」
「あー、やっぱり間違ってたか。付け焼刃だったから」
「ええ。刃で船を傷つけるなどもっての他。……わたくしが本当のやり方、教えて差し上げる」
デトラナは前触れもなくホーバーの胸倉を引き寄せると、その唇に軽やかな口付けをくれた。
「……っ」
刹那、ギリッと歯を立て、流れ出た血を獣のように舐めとる。胸が空くほど呆気にとられたホーバーを嘲笑とともに突き飛ばし、デトラナは高らかに宣言した。
「跪け、海賊よ! これより誓約の儀式を執り行う!」
凛と通る声が食堂中に轟くとともに、彼女の足元から海原の如き青い光が迸った。
「我は、海神カラ・ミンスに守護を受けし海賊王の娘。海賊の魂たるカトラスを見届け役として、儀式の誓いに破れえぬ絶対の縛りを課す!」
言葉は爆風となってデトラナの黄金の髪を激しく揺さぶった。青い光はさらに迸りを増して、床を、天井を、壁を真っ青に染め上げる。
――シャークが見出した、クロックの切り札を覆す唯一の方法。
タネキア大陸の海洋国家マヤメナに伝わる、古の儀式。
それは、カトラスによる正当な決戦。
勝者は、敗者に「絶対的な命令」を下すことができる。誓いの儀式は神術によって執り行われ、勝敗後の命令には何人たりとも逆らうことができない。逆らえば待ち受けているのは、海神カラ・ミンスの天罰だ。
ひとたび儀式が完了すれば、もはや絶対の命令権を賭けたこの勝負、誰にも止めることはできない。たとえ、クロックであろうとも。
カトラスを己の前に置き、その場に跪いたホーバーを、デトラナは悠然と見下ろした。
「名乗るがいい。誇れる名があるならば」
「ホーバー」
簡潔に答えた途端、カトラスの周囲に、青い焔で正円が描かれた。
海賊の魂たるカトラスを閉じこめる檻だ。同時に、柄の横にホーバーと、海神カラ・ミンスの名が燃え上がる。先ほどはカトラスの切っ先で刻んだものが、今は神術による焔で描かれていた。
デトラナはホーバーの真正面の位置に、彼と対になるよう跪いた。
「わたくしは、デトラナティアズラ・シルディエ・ローラント=バーガー」
同じく、彼女の手前に置かれたカトラスが青い焔に取り囲まれる。速やかに描かれたのは、正円と、海神、デトラナ自身の名前だ。
「目を伏せて……」
静かに囁きかけ、デトラナはホーバーの額に自らの額を合わせた。
両手を取って指を絡め、肩の高さまで持ち上げる。
「勝者は、敗者を支配し、」
閉じた目裏に、水底から見上げた海面のように透明な青が映りこんだ。
「敗者は、勝者に服従を」
まるで海の底へと沈んでゆくような静謐な感覚に、魂が研ぎ澄まされてゆく。
「その支配と服従は、何者にも覆すことはできない」
デトラナはそっと目を開き、深海の瞳を不可思議な色に輝かせた。
「……よろしいですわね、ホーバー様。もう後戻りはできなくてよ」
ホーバーは答えるかわりに、デトラナの指から手を離し、自らのカトラスを掴んだ。
――指先が離れてゆく感覚に、わずかな寂しさを感じて、デトラナは戸惑う。しかし深く考えるのはやめて、彼女もまたカトラスを手に取った。
柄を両手で掴み、鞘をつけたままのカトラスを、真っ直ぐに正円の中に打ち下ろす。
「わたくしが勝者となった暁には、貴方には問答無用で夫になってもらいますわ」
「俺が勝者となった暁には、バクスクラッシャーの副船長の座を貰いうける」
デトラナはわずかに目を見開き、ふっと彼女には珍しく面白がるような微笑みを浮かべた。
「では、行きますわよ。戦いの場へ」
決戦の火蓋は、切って落とされた。