ホーバーの思いもよらぬとんだ一幕
13
それは「昔々あるところに」で始まるほどには、遠くない昔のこと。
海洋国家マヤメナの王家には、不思議な約束ごとがありました。
それは神聖なる玉座に、必ず「海賊」を据えること――。
最初に生まれたのが王子ならば、王子自らが海賊となって玉座を埋める。
姫であったならば、海へと出て、王に相応しき海賊を求める。
それは海神カラ・ミンスを厚く信仰するマヤメナ王家の、絶対の掟でした。
さて、今から十八年前のこと。第百二十四代国王の第一子として生まれたパーキラ王女は、定めに従い、大海へと漕ぎ出しました。マヤメナが誇る百万艦隊を引き連れ、幾年も航海をつづけた王女は、ついにひとりの海賊と出会います。
――おお、海賊よ。お前の名を聞かせておくれ。
海賊は、王女の誰何に対して、こう答えました。
――名乗るならば、女、お前が先に名乗るがいい。俺は海の王者だぞ!
なんと豪胆な海賊だろう。王女は早速、男の資質を見るために、こう申し出ました。
――ならば、わたくしと勝負なさい。尋常なる決闘のすえ、わたくしに勝つことができたなら、お前にわたくしの純潔と、マヤメナの玉座を捧げましょう。
――ほほう?
――ですがわたくしが勝ったなら、不遜な物言いの代償に、お前を海神の生贄にしてくれる。
海賊は呵呵と笑って、答えた。
――良かろう、美しい王女。未来の我が妻よ。
そして王女と海賊は、百万艦隊が見守る中、互いにカトラスを抜き放ったのです……。
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砂時計の最後の一粒が落ちきり、クロックは静かに立ち上がった。
威風堂々とした姿は、まるで玉座から立ち上がる王に似て、海賊たちはごくりと喉を鳴らす。
彼はバックロー号の甲板にいまだ副船長の姿がないことを確認すると、無言で鳥籠の開き戸に手をかけた。
そして今しも、戸を開かんというその時。
突如、海面にどんっという衝撃が走った。
「な、なんだ……!?」
海賊たちはどよめき、船べりへと走った。暗礁にでも乗り上げたかと慌てて下を覗きこむが、そこには水底まで透き通った海があるばかり――いや、違う。
「クロック船長! 妙なものが……巨大な何かが海底から上がってきます!」
クロックは目を眇め、鳥籠を船員に押しつけると、悠然とした足取りで船べりへと向かった。
見下ろすまでもなかった。わずかな距離を置いて停船したハングリー・キング号とバックロー号の間の海面が、突如、轟音を上げて盛り上がった。巨大な波に襲われた船体が大きく揺らぐ。海獣か、はたまた魔物の類かと船上が一挙に慌しくなる中、クロックは無言で眉を引きつらせた。
海水を割って現れたそれは、生き物ではなかった。
巨大な岩場だ。
表面が平らに研磨された、石造りの円形舞台という表現が正しいであろう人工の建造物。
突然の異変に、バックロー号の海賊たちもどよめき立っていた。
船内から飛び出したホーバーは、唖然とデトラナを振りかえった。
「これは……」
デトラナは海上の円形舞台を見ることもせず、嫣然と微笑んだ。
「わたくしたちの決戦の舞台ですわ。まさか、こんな狭い船上で戦うおつもりでしたの?」
「これもデトラナが? こんなすごいことが……」
「マヤメナの民は、ことごとく海神カラ・ミンスの信者ですわ。大なり小なり、神術を使います。わたくしほどにもなれば、海底の岩盤を持ち上げ、舞台に相応しいよう体裁を整えることなど赤子の手を捻るようなものです」
神の力を借りて行われる神術は、信仰心が厚ければ厚いほど、強大な力を操れるという。だが今、目の前で起きた奇跡は、ホーバーが過去に見てきたどの神術とも比較にならない。桁違いの凄まじさである。
「鈍感な貴方もようやくわたくしの凄さが分かったようね?」
いつも涼しい顔のホーバーが動揺しているので、デトラナは少しばかり得意な顔になった。
そして、腰に帯びたカトラスを引き抜くと、その切っ先を舞台へと向けた。
「海賊どもよ、聞くがいい!」
天高くまで響き渡るデトラナの声に、海賊たちがぎょっと彼女を振りかえった。
「わたくしとこの男は、これよりカトラスによる決闘を行う。お前たちはそこで勝敗の身届け役となるがいい!」
バクスクラッシャーの海賊たちはこの事態を予測していたのだろうか、一瞬目を丸くした後、驚喜の歓声を上げ、大きく足を踏み鳴らした。
「いいぞいいぞー!」
「待ってました、デトラナ嬢ー!」
「万歳、高慢ちきクソ女ー!」
デトラナはじっとりとホーバーを睨みつけるが、気を取り直して今度は海に向かって叫んだ。
「海神カラ・ミンスよ。我らが神聖なる決闘に対して、公平なる審判を願う!」
円形舞台の側で、ふたたび海面がどうっと盛り上がった。現れたのは、三人がかりでやっと腕を回せるほどの巨大な岩塊だ。岩塊は、まるで濡れ犬のようにぶるりと身震いすると、水飛沫のかわりに岩飛礫を周囲に撒き散らした。
「あ、あれは……っ」
不要な岩屑を篩い落とした後に現れたのは、一頭の獅子であった。
否、魚の尾を持つ魔性の獅子、海神カラ・ミンスに仕えるとされる神獣シェルリーヴである。
「うおお、シェルリーヴ様だ……!」
「神獣様だぁ……!」
海賊たちはこれでなかなか迷信深く、海神への信仰心も陸の者よりはるかに厚い。突如現れた神獣の姿に、今にも船から飛び降りんばかりになった。
「は、派手だー……」
ホーバーは口を引きつらせる。
「見かけ倒しではございませんわよ。勝敗が決した後、もしどちらかが誓いを破れば、神獣シェルリーヴが裏切り者を牙にかけ、殺します。比喩ではなく、文字通りの意味ですわ」
「あの岩の牙に食われたら、かなり痛そうだな……」
「ご安心なさって。いざとなれば、わたくしが介錯してさしあげます」
ホーバーはとほほと頭を抱える。
その時であった。
『デトラナ。どういうことだ……』
拡声器越しに、クロックの声が響き渡った。
デトラナはびくりと肩を震わせた。
クロックの声音は、静かで、平坦だった。しかしその奥底には、煮えたぎるような憤怒が隠されている。獅子が隠し持つ牙よりもなお凶暴な、殺意すら感じる激怒の声。
――二人の傍らに立っていたガルライズが、ちらりとシャークに目をやった。シャークがうなずくのを確認すると、彼は海賊たちの中に紛れ、姿をくらました。
それには気づかず、クロックは再び拡声器を掲げた。
『もうお前には期待せぬと言ったはずだ。それを……己に与えられた仕事も満足に出来んばかりか、わしの邪魔までするとは』
無様な、と吐き捨て、クロックは侮蔑を篭めてデトラナを睨みつける。
デトラナはさっと青ざめ、無意識に後じさった。
その背を、軽く叩く手があった。
「怯むな、デトラナ。見返してやるんだろ? 自分の手で」
デトラナははっと留まる。
唇をぐっと引き結び、決意を持って船べりに立った。
「お父様、この男はわたくしが連れて帰ります。どうかそこで見てらして」
張り上げた声ではあったが、クロックにはきっと届かなかった。
だがデトラナは毅然と顎を上げ、ホーバーを振りかえった。
「無様な姿はこれきり。もう貴方に醜態は見せません。――励ましなど、二度となさらないで」
ホーバーはデトラナらしい忠言に小さく微笑んだ。
それを合図とばかりに、石の獅子が咆哮を上げた。獅子は逞しい後ろ肢で舞台を蹴りあげると、空中を飛びぬけ、どうっとバックロー号の甲板に下り立った。
デトラナは躊躇なく石の獅子にまたがり、ホーバーに手を差し伸べた。
ホーバーもまたその手を掴んで、獅子の背に飛び乗る。
二人は、口をぽかんと開けたままの海賊たちを残して、円形舞台へと飛び立った。
クロック船長は砂時計を力任せに掴み上げ、床に叩きつけた。
砂時計は木っ端微塵に砕け散り、ただ木の枠だけが砂の中に没する。
「おのれ……」
クロックは罵声を吐きだすと、傍らに控える船員の襟首を掴み上げた。
「ひ……っ」
「鳥を放て」
「……え、し、しかし!」
「鳥を放つのだ」
「で、ですが、鳥を放てば……マヤメナから”彼ら”が――」
「わしの命令に従えぬのか?」
船員は血の気を失くす。だがクロックに逆らうことなど出来るはずもなく、彼は震えながら鳥籠の開き戸に手をかけた。
開き戸がわずかに開かれる。
極彩色の鳥が開いた隙間に嘴を差し入れ、焦れたように鈴の音で鳴く。
クロックは歯を剥き出しにして、微笑み――。
「はーい、ちょっと待った」
首根にちり……っと鋭い痛みが走った。
目を見開き、しかし反射的に振りかえるなどと愚かな真似はせず、クロックは鼻を鳴らした。
「背後を狙うとは、薄汚い海賊め」
「あらー、それって褒め言葉?」
その言葉に笑ったのは、いつの間にかクロックの背後に立ったガルライズである。
全身、濡れ鼠となった彼は、周囲を取り囲む海賊たちを牽制するため、クロックの首根に押し当てた短剣にさらに力を篭めた。
「でも汚いのはどっちよ。こっちは三十分って約束をちゃーんと守って、答えを出したってのに……問答無用で切り札を切ろうなんて、いくらなんでもひどすぎません?」
「何のことだ。わしはただ鳥を放とうとしただけだ。籠に閉じこめたままでは可哀相だからのう」
「この後に及んで空っとぼけるなんて、度胸が据わってますこと。さすがは、血に飢えた王ハングリー・キング。――いや」
ガルライズは薄ら寒い表情で笑う。
「マヤメナ王国、第百二十五代国王クロック=バーガー閣下?」
周囲を囲う海賊たちが気色ばみ、腰のカトラスに手を伸ばす。だがクロックがそれを手で押し留めた。
「まるでお伽話みたいですよねー? マヤメナの王女に見初められ、王様にまでなっちゃった海賊……この世は呆れるほどに広いが、一国の主になった海賊なんてあんたぐらいなもんだろうよ」
クロックは黙して答えない。ガルライズはさらに言い募る。
「で、玉座だけでは飽き足らず、今度は他海賊の副船長まで奪ってやろうって? クロック船長、あんたは一体何を考えてるんだ?」
クロックは目を細め、無表情に呟いた。
「お前には分からんよ。命を預かる者の重圧などな」
「……かもね」
ガルライズは短剣を構えなおした。クロックは微動だにできず、顔をしかめる。首に食いこむ短剣以上に、背中から直に伝わる殺気こそがクロックの動きを制していた。
「あんたが抱えるもののことは、俺には分からない。だが、あんたがその鳥を放つなら、俺はあんたを殺す。生憎とこちとら薄汚い海賊なもんで、王様ひとり殺すのだって躊躇いはしねぇんだよ。……ま、もっとも」
ちらりと海上に目をやると、円形舞台に二人を下ろした獅子が、赤く光る双眸をクロックに向けていた。
「決闘を邪魔する者は、物騒な石獅子様が退治してくれそうだけどな」
クロックは怒りにぐっと頬の肉を歪ませた。
14へ続く…