TIME LIMIT~嗚呼、愛ゆえに~

06

AM11:30

「取り残されたなぁ」
 台詞とは裏腹に可笑しそう笑ったのは、倒れ伏し、おまけにセインたちに踏みつけにされ、背中に足跡を付けるはめになったテスの隣で、のんびりと甲板の乱闘を眺めるダラ金である。
「おーい、テスちゃーん」
 ダラ金は倒れた扉に抱きついたまま動かないテスの後頭部に、容赦ないげんこつを打ち下ろした。
「……ごふっ。つー……」
 テスは息を吹き返し、強打された後頭部を「何故か頭が痛いなぁ」とボヘボヘ撫でながら「あれ?」と上体を起こした。
「なんだか騒がしいな。何で?」
「つくづくとぼけた奴だな、お前って」
 声のした方を振り返り、テスはぎょっとした。
(目の前にダラ金がいる! いつもおれを苛めるセインの背後で、それを他人事のように笑って見ているダラ金がいる!)
「うわぁぁぁぁ!?」
「……お前、マジ天然だろ」
「て、天然! 天然ゴム!?」
「……。頭打って記憶でも失ったか? 今、俺ら手ぇ組んでんの。ユキ嬢んとこ行くために、船奪うんだろ?」
「ハッ!」
 その言葉に、テスはようやく自分を取り巻く状況を思い出した。
「そ、そうだった。そうだったんだった……」
「うーん、セインに気に入られる理由が少し垣間見えたぞ」
「ってことは、今、ダラ金は仲間。同志……」
「そ。んで、ついでにあっちでは、もう二人の仲間な同志が戦ってるってわけ」
「え?」
 ダラ金に甲板の方を指さされ、テスは今更ながら騒ぎの方に目をやり、唖然とした。
「な、何か、本当に大事になってるねぇ……」
「なってるねぇ」
 凄まじい大歓声が甲板を覆っていた。その中央では、バクスクラッシャーの手練たちが壮絶な乱闘を繰り広げているのが見える。
「セインとワッセルが勝てば、船は手に入る。ここで高見の見物でもしましょーよ」
 テスは訳の分からないうちに進んでいる事態に、「ラッキー」と頷きかけ、
 ふと口ごもった。
(高見の見物? ユキに会いたいのは、おれなのに?)
 テスは恐る恐る甲板に目をやる。甲板では、参加などしたら、間違いなくテスなど殺されるだろう乱闘が展開されている。
「……怖い」
 だが。テスは唇を噛む。自分がしなくてはいけないこを、人任せにしている自分の姿を見たらユキは何と言うだろう。
 目に見えるようだった。
 ──弱虫!
(そうだよな。そうだ。自分が戦わなくてどうするのだ。ユキの元へは、自分が道を切り開いて行くんだ。自分がユキに、笑顔を与えるのだ。勇気を出せ、この野郎)

 ──勇気を出して、テス!

「俺はやる!」
「……あ?」
「俺も乱闘に参加する……!」
 とりゃあっと勢いよく飛び起きると、ダラ金が目を丸くして止めに入った。
「アホか! 冗談じゃなく死ぬぞ! やめろって!」
「こ、ここで退いては、男じゃ……なぁぁぁあい……っ!」
「退くも……勇気ぞぉぉ……っ!」
「退くも何も……っまだ参加してもいないぃいいいいっ!」
 体格差はかなりあるはずなのに、テスは愛の力でか何でなんだか、背後からしがみついてくるダラ金をずるずると引きずり歩いた。
 数秒不毛な争いをして、先に根を上げたのはダラ金の方であった。
「っわぁった! わかったよ! ……けど待て」
 ダラ金はパッとテスから手を放すと、今度はテスの前に立ちはだかった。
「退いておくんなまし!」
 いまいち構えのなっていない手つきでカトラスを振りかざし、テスはダラ金に向かい合う。
 ダラ金はやれやれと疲れた様子で頭を垂れ、首根っこを指でカリカリと掻いた。
「退くよ。退くけど……」
 テスはこちらに向いた金色の頭の頂上にあるつむじをじりじり見つめ、ダラ金にもつむじがあるんだなぁ……と、かなりしょうもないことを考える。
「……あのさ」
 不意に底冷えする声が、下を向くダラ金から発せられた。
 テスはつむじに視線を縛り付けられたまま、ギクリと身を震わせる。
「……乱闘に参加するならよ」
 ダラ金がゆっくりと顔を上げる。そこにはもう人の良い笑みはなく、
「……おれを満足させてからにしな」
 身の毛もよだつ冷たい瞳があった。
 テスはだらしなく開けっ放しだった口を、ひくっと歪めた。
 そうだった。忘れていた。
 ──ダラ金が腰のベルトに手を掛ける。
 いつもは口は悪いくせして、実はすごい仲間思いだったりするが、
 ──ベルトホールに通された黒い紐が、しゅるりと抜き取られる。
 実はこの男は、
 ──黒い紐が右手から床に垂れ下がる。
 ダラ金もとい、ガルライズは、
 ──彼が軽く手首を振るうだけで、紐は鞭の様にしなり、鋭い音を立てて空を打った。
『カウントダウンジャック』と呼ばれる、
 ──ダラ金が、冷徹に微笑む。
 元殺人鬼であった。
「一分で死ね」

 ぎゃあぁぁぁっぁあ……っ!!!

 一方甲板もすごい盛り上がりを見せていた。
 メルの訳の分からない無差別攻撃爆弾の下、ワッセルとレティクが鮮やかにカトラスを打ち鳴らし、互角の戦いを繰り広げている。重なる刃、凶悪な煌めきを放つカトラス。二人は交差させた刃越しに顔を付き合わせ、その一瞬の間に互いを軽やかに罵倒し、にやりと極悪に笑い合って刃に力をこめた。
 異様なのはセインと死の一服グレイ、暗殺者メイスーと曲腕のアレスの戦いだ。
 グレイのダーツよりも威力のある煙草が、セイン目がけて放たれる。セインはカトラスを真横に一線させ、自分に辿り着く前に全て切り捨てた。両断された煙草が甲板に散る。ふと右腕に重みを感じて目を向ければ、グレイがセインのカトラスの刃の上に片足だけで立っていた。その口元には余裕の笑み。新しく銜えた煙草の先端を、火が衝くほどに素早くナイフで切って捨て、悠々とその味を味わう。だが挑発的なグレイの態度にも動じず、セインはあくまで冷静にカトラスをなぎ払った。後方へと飛び去ったグレイに、セインは素早く隠し持っていた三本刃を投げ打つ。
 暗殺者メイスーと曲碗アレスの戦いは、さらに訳がわからない。メイスーは得物の動きがまるで掴めないし、アレスの攻撃も全く読めるものではない。だが何か分からないがともかくすごかった。二人の体からは次々と鮮血が走り、彼らは互いに賞賛するような笑みを浮かべ、再び間合いを取って離れた。

 それらをホーバーは、船長室の窓ごしにぼんやりと眺めていた。
「……さっきワッセルが妙なこと言ってたな」
 同じく頬杖をついて外を見ていたクロルは、顔をホーバーに向けて首を傾げた。
「テスのために船を乗っ取る……ってやつかい?」
「ああ。事情は読める気がするけど。テス、見えるか?」
「んー、さっきから甲板のあちこちで、何故かダラ金と鬼ごっこしてるよ。まさに鬼の形相でね」
「テスは逃げ足だけは速いからな。ダラ金もまさか本気は出してないだろうけど……」
「中央は膠着してきたねぇ。勝負はつかなそうだよ?」
「ふーん」
二人はどことなく白々しい会話を交わす。二人とも大いにそれに気付いていて、ホーバーはどこか落ち着かなげに首を鳴らした。
「……シャーク、起きてるか?」
顔は向けずに声だけで聞くと、しばらくの沈黙の後、
「……起きても良いっスよー」
 寝棚の一段目からしっかり起きている口調で返事が返ってきた。
「じゃ、起きたきゃ起きろ。……出る」
最後の一言にシャークが飛び起き、クロルが椅子から立ち上がった。
「待ってました」
ホーバーは口角を笑みの形に持ち上げた。
「たまには、ね」

AM11:45

 甲板は一瞬にして静まり返った。
 全員の視線が、その人物に釘付けになる。
 船長室からゆっくりと進み出て来る、痩せた体躯。南海の波のような髪を風に靡かせる、一人の青年。
 副船長ホーバーだ。
「ホーバーだ、奴が出てきやがった……」
「姐御とシャークも一緒だ……」
 ひそひそとした声がさざ波のように広がってゆく。
 ホーバー。乱闘騒ぎには滅多に参加しないが、止めもしない副船長。その温和な性格や、目立つほど筋肉がついた訳でもない体格からは想像もつかないが、ホーバーはバクスクラッシャー最強の剣士なのだ。そしてクロルとシャークは、ホーバーの片腕に相応しい、剣と拳の使い手だった。
「いい加減決着をつけたらどうだ?」
 凛と響くホーバーの笑い混じりの言葉に、闘いの手を止めたセインたちが薄笑いを浮かべた。
「はーん。てめぇの登場をいつも待ってたよ」
 セインの憎々しく歪んだ言葉を受けて、ホーバーは殺気立った彼との距離をあっさりと縮めながら険悪に言い放つ。
「……待つなら、素直に待てよ。隙をついては、狙ってくるくせに」
 ホーバーとセインは昔から心底仲が悪い。
 セインはにやりと笑って、ぬけぬけと言ってのけた。
「お子様のお世話で、その誉れ高い腕がなまられちゃあ、俺が困るんでね」
「負けた時、言い訳のしようがなくなるからか?」
 鞘からカトラスを半分まで抜くと、ホーバーはいつもと変わらぬ平静な口調で言い放った。
「来い」
 甲板中が地響きのような歓声を上げた。
「あたしに掛かってくる奴は、一瞬でも躊躇するんじゃあないよ。ボロボロになるからねぇ!」
 クロルが一歩前に進み出て、腰に下がる宝石で美しく装飾されたカトラスに手を掛けた。
「おぉおぉ。怖いっスねぇ」
 苦笑を浮かべながら、一歩後ろに引いたままの場所で、特に武器を持つでもなく、シャークが丸眼鏡をキランと輝かせて指を鳴らした。
「副船長に一万! いや、一万五千」
「あっねごぉ! 応援してます、愛の三万だぁあ!」
「負けたらはっ倒す! 丸眼鏡に一万四千!」
「グーレーイー! 信じてるわぁ!」
「あーん! メッルちゃーん!」
「アレス、曲げちまえぇぇっ!」
「メイスー! 死ぬなら殺せぇぇぇ!!」
 もはや意味も分からない。
「ふん。昨日の敵は今日の友。一時休戦としようぜ」
 ワッセルの呼びかけに、今まで戦っていた者たちは、全員ホーバーたちに向き直った。
「言われなくとも……」
 そして彼らは一斉に武器を構えた。
「分かってらぁ……!」

「ぎゃああああ!」
 テスは甲板の乱闘騒ぎなどずっかり忘れて船内を逃げ回っていた。
 もうただひたすら無我夢中に廊下を走りまくる。その後ろにはダラ金。まるでテスの影であるかのようにひっそりと、足音も立てずにぴったりと離れずついてくる。
 最も、ダラ金に本気で追う気などサラサラ無かった。
 ともかくオレから逃げ回ってりゃあ、テスも甲板の連中に切り刻まれることはなかろう、というのが彼の考えだ。とりあえず乱闘が、さっさと大乱闘になれば良いのだが。そうすればいつもの騒動だし、せいぜい骨折程度で済む。しかし今飛び出せば、大げさでなく生きていられるかどうか……。
 船員たちは、彼らの中でも腕のたつ者同士が戦い、皆の賭の対象になる乱闘騒ぎのことを『乱闘』、船員たちが敵味方関係なく、ただストレス発散で近くにいる者を殴り倒すことを『大乱闘』と呼んで区別していた。大乱闘は大抵乱闘に興奮しきった船員によって、例えば肩がぶつかったとか、そんな些細なきっかけで開始される。乱闘は危険極まりない真剣勝負だが、大乱闘は殴り合いが原則で大した怪我人は出ないのだ。
 大乱闘になるまでオレから逃げ続けてくれれば……、ダラ金はテスの右脇すれすれを鞭で正確に打って、悲鳴を上げるテスの様子に満足げに笑みを浮かべた。
 だが。
 そうは問屋が下ろさなかった。
 テスは強烈な殺気から逃げながら、不意にハッとした。
(おれは何故逃げているんだ!?)
 たった今、戦うことを決心したのに。ユキのために戦うことを決意したのに。
(勇気を出す、と誓ったのに!)
「……っぎゃあああ!」
 テスは勇気を奮い立たせる怒号を上げて、突然方向転換をした。
 そして歯を食いしばって、ダラ金目がけて走り出した。
 驚いたのはダラ金である。
「おいおいおい! 何で歯向かってくんだよ……!」
「問答無用だ勝負勝負──!」
 ダラ金は慌てて身を翻す。今度は全力で逃げる番となった。
 しかし人間の底力とは凄いものだ。先ほどまで本気を出していないダラ金に全力で逃げていたはずのテスが、思い切り全力で逃げるダラ金に決して引けを取らず、後を追ってくるのだ。
「何で逃げるんだぁあ……!」
「逃げるわ、この野郎覚えてろよてめぇえ!」

「……ん?」
 ラギルニットは外から聞こえてくる歓声にようやく目を覚ました。
 しばしばする目をぐいぐいと擦り、ふぁああ!と大きく伸びをする。まだ覚めきらない赤い瞳を船長室内に漂わせ、あれ?と首を傾ける。
「レック、レイム」
隣でぐーぐーと寝入っているレックとレイムの頭をペシペシと叩くと、二人は鬱陶しそうにぎゅっと縮まり、しばらくして渋々と上体を起こした。
「あー? ラギル? どした?」
「外」
 ラギルニットは言いながら、船長室の扉についた窓に目を向ける。丸い形をした窓は、外の乱闘騒ぎを丸い形に象っていた。
 レックが飛び起きて、気分を害した様子で黒髪をくしゃくしゃと掻き回した。
「ひっでぇ、乱闘じゃん! 起こしてくれりゃあいーのに!」
「何があっても起こすなって言ってたくせに」
 大きく欠伸を漏らしながら、レイムが極めて的確に突っ込む。その間にラギルニットはとりゃあっと寝棚の二段目から飛び下りた。
「止めるのかぁ?」
 レックも軽々と飛び下りながら、耳の後ろを掻きながら聞いてくる。
 ラギルはニヤリと笑って、扉のノブに手を掛けた。
「まっさか! ……起こさなかったお仕置きをしなっくっちゃね?」

 ホーバーは大過振りだが隙のないセインの攻撃を紙一重で避けながら、左右から執拗に迫ってくる独眼コンビの刃を、カトラスの柄で適当に受け流して威力を削ぐ。
 クロルは科学者メルの意味不明爆弾から逃れながら、メイスーに自ら斬りかかってゆく。見えない刃を本能で避け、隙を見つけるまで間合いを保ちながらひたすら打ち合う。
 シャークはどこからともなく飛んでくるグレイの煙草を素手でなぎ払い、その隙に死角から攻撃を仕掛けようとするアレスを冷静に目で追って、先に拳を繰り出ては避けられ、それも予測済みで第二打を撃ち出した。
 甲板の興奮は一触即発の状態だった。きっかけさえあれば、すぐにでも船員総出の大乱闘になりかねない異様な雰囲気になってきた。

 キリがない。
 テスから逃げて船室から飛び出し、船尾にある舵台の階段を登ったダラ金は、珍しく舌打ちしてテスを振り返った。一体あんな力をどこに秘めていたというのか、テスの執拗さは尊敬に値する。
 ダラ金は素早く甲板を見渡し、その興奮しきった空気を肌で感じ取った。
 ──もう良いだろう。
 これなら大丈夫だ。きっかけさえあれば、もう日常茶飯事の大乱闘に変わる。
「待てぇぇぇ!」
 同じく相当に興奮気味なテスが、少し遅れて舵台を登ってくる。
 ダラ金はもう逃げなかった。
 ──そう、きっかけさえあれば……。
 いきなり逃げるのをやめたダラ金に、情けなくも一瞬怯んだテスを、彼は無気味な笑いで迎える。
 ニッと笑って、言ってやった。
「てめぇがきっかけになっちまえ」
「え……」
 訳が分からず立ち尽くすテスの胸ぐらを、ダラ金は容赦なく掴み上げた。
「……!?」
 悲鳴を上げる間もなく、テスの足が地を離れ、次の瞬間甲板へと投げ捨てられていた。

 カエルが馬車に轢き殺された様な哀れな音をたて、テスは顔面から甲板に突っ込んだ。
「……っくぅー」
 鼻血が鼻の奥の方を伝ってくる感覚に、テスは突っ伏したまま呻く。しばらく鼻血を引っ込めようと格闘しながら、不意にやけに静かだなぁ、と思う。
 妙な予感に駆られたテスは、嫌がる本能に打ち勝ってゆるゆると顔を持ち上げた。
 低い視線にたくさんの足が見える。
 それを辿るように顔を上げてゆき、
 絶句した。
「……い、愛しいひと」
「よう、恋しい人」
 目の前にホーバーが立っていて、こちらを腕を組んで見下ろしている。そろそろと顔を巡らすと、ホーバーに斬りかかろうとしたままの態勢で、こちらをポカンと見ているレティクやワッセル、セインの姿、それにその奥にはクロルやシャーク、その他もろもろ係わり合いになりたくない御人方が揃ってこちらに注目していた。
 つまりここは甲板の中央で、まさに乱闘の中心なのだ、ということに気づくのは、結構時間がかかった。
 テスはみるみる顔を青ざめさせ、意味もなく頭をふるふると振った。土下座でもして、謝罪してこの場を逃れたい気持ちと、あくまで戦うぞという気持ちとの間に板挟みにされ、何も言葉が出てこなかった。
 ポキッ。
 周囲から、そんな音が一つ聞こえてくる。
「ダ、ダラ金……!」
 助けを求めて舵台を見上げると、無情にもダラ金はそっぽを向いていた。
 ポキッ、ポキポキッ。
 骨を鳴らす音が、あっという間に広がる。骸骨がボディパーカッションをするがごとく、いっそ優雅なその音色。
「……話を聞いちゃあ、くれないのね……」
 力なく呟いた言葉に、今まで見学に徹していた船員たちが、憎らしいほど整然と頷いた。

「な、何でおまえら! 脱走か!?」
「おやおや?」
 騒ぎを聞きつけて階段を下りてきた舵手ルイスと船大工ウグドは、階段に足をかけたまま驚きの声を上げて立ち止まった。
 地獄の間にいるはずの三悪とテスが、凄い速さでこちらへと向かってきていた。
「どけどけどけぇ!」
 怒号を上げ、ワッセルがテスたちの先頭へと躍り出る。かと思えば、いきなり腰の柄からカトラスを抜き放った。
「道をあけやがれぇ!」
 あっという間に二人の間合いに入ったワッセルは、刃風を巻き起こしてカトラスを振り下ろした。
「な……!」
 こういう事態をまるきり想定していなかった二人は、唐突すぎる仲間からの攻撃を、慌てて横に避ける。しかし腐っても海賊、避けながらも自らのカトラスを抜き放つと、右へ避けたウグドと左へ避けたルイスは、双方からカトラスを十字に交差させて階段を塞いだ。
「あ、危ないだろうが、ワッセル!」
「速やかに武器を下ろしたまえぇ!」
 ワッセルは舌打ちすると同時に、膝を折って身を沈ませた。十字に交差したカトラスの中心目がけて、カトラスを下段から振り上げる。並大抵の力ではなかった。甲高い音ととともに、十字はあっけないほど簡単に弾き崩され、二人は反動で思い切り壁に叩きつけられた。
「弱い弱い!」
 ワッセルは鼻を鳴らして、障害のなくなった階段を足音高く登ってゆく。セインとダラ金も一発ずつ2人を殴ってから、それに続いた。
 テスはそれをぽかんとして見送った。
「ってぇ……!」
「痛いであります」
 テスはおろおろと、倒れ伏すルイスとウグド、そして階段とを見比べる。
「だ、大丈夫?」
「おう……。こ。これは一体何事だ……?」
「え……っと。なんだろ……?」
 ──テス、早く来きやがれ! てめぇとユキちゃんのために一肌脱いでやってるオレたちの足手まといになんな、ボケぇ! 
「……一肌脱がれているみたいです」
「……らしいですな」
「いってらっしゃい。俺リタイア。……何に巻きこまれたのか知しらんけど、ま、がんばれや、テス」
「おー?」
 いまいち状況の分からないまま、テスは仲間の同情めいた励ましにとりあえずうなずいて、階段に足をかけた。

「邪魔だてめぇらぁ!」
 地獄の番人たちは、廊下の両脇に立ち並ぶ船室の扉から、武器を手に手に飛び出してくる勇気ある船員たちを腕力でなぎ倒し、ひたすら甲板を目指して突っ走る。
 必死でそれを追いかけるテスは、ようやく一人のんびりと走っているダラ金の脇にたどりついた。
 ダラ金は三人の中では一番性格がまともだ。少なくとも一見は。テスは唇を噛んで悩みぬいた末に、思い切って彼に聞いてみることにした。
「ダ、ダラ金!」
「んー?」
「きょ、協力するって、一体何する気なんだ!?」
 ダラ金はその問いに、青く切れ長の目をまん丸に見開いた。
「何って……決まってんじゃん」
「……?」
「船を乗っ取るのさ」
「ああ、そっか……へえ」
 テスは納得し──盛大にズっこけた。
「……っ乗っ取るぅ!?」
 素っ頓狂な声を上げると、ダラ金は不思議そうに首を傾げながら、手を掴んで助け起こしてくれる。
「あ、ありがと。って、乗っ取るぅ!?」
 ダラ金はぬけぬけとうなずく。
「乗っ取りでもして針路変えなきゃ、時間通りにはタネキアに戻れないぞ?」
 テスは絶句した。
「乗っ取るって、あの、舵手に針路変えろってカトラス突きつけたり、船員たちをマストから逆さに吊るしたり、船旗を取り替えちゃったり──乗っ取るぅ!?」
「おもしろいな、お前」
 ははは、と笑いながら、ダラ金は再びのんびりと走り始める。
「まかせとけって。上手くやってやるよ。それともユキ嬢に会いたくないのか?」
「会いたい!」
 テスはとっさに即答する。ダラ金が愉快そうに笑った。
「んじゃ、いーじゃん。がんばろうぜ、相棒。ユキ嬢のために」
 相棒……。
 ユキ嬢のために……。
 テスはその言葉を反芻する。
 そうだ。絶望的だった状況に、とうとうユキちゃんに会えるかもしれないという希望の光が生まれたのだ。

 待ってるから……。

 そうだ。いつまで、グズグズしているんだ。せっかくタネキアに帰る手段が出来たというのに。
 そう、ユキちゃんのために。
 いや、ユキのために! 
(おれはやる! 船を、悪魔の巣窟を、我が物にしてくれる……!)
「おれは、やるぞぉー!」
「おー、ヤれヤれ」
 テスはもはや何度目とも知れない鋼鉄の決意を、固い拳に変えて振り上げた。

AM11:25

 熱い陽射しの降り注ぐ灼熱の甲板に、徐々に船員たちが集まり始めていた。
 何だかよく分からないが、セインたちがどうやってか地獄の間を脱走して、下で暴れているらしい。そして何でももうすぐで甲板に辿り着くとか。
 ここ数週間の順調な航海で、平和に満ち溢れていたバクスクラッシャーに、久しぶりの嵐が起こりそうな気配があった。乱闘騒ぎ、というとびっきりの大嵐が。
 集まり始めた船員たちの顔には、一様に悪人面な笑み。平和を掻き乱す脱走者たちを許しておくわけにはいかない……! というつもりで甲板に集まっているわけでは、まるで決して微塵もない。むしろ順調な航海にすっかり飽いて、これから起こるだろう乱闘騒ぎを更に盛り上げてやろうと、拳の骨をボキボキ鳴らしながら、脱走者たちを待ちわびているのだ。
 甲板は凄い盛り上がりを見せ始めていた。

「セインに、五千エルカ!」
「おいおい冗談だろ? やっぱグレイだぜ。グレイに二万エルカ」
 水夫が勝手に賭けを始め、
「はーい! リーチェ特製、超激辛激マズ最悪ポップコーンはいかがぁ!」
「はーい。マートン特製、お口直し用普通味ポップコーンはいかがですかー」
 料理番が勝手に商売を始め、
「いつでも準備万端でね。包帯は足りてる?」
 船医が簡易医療場を甲板の隅に造り、
「ううむー。腕が鳴るのー」
 方角見やら、倉庫番やら舵手やら、ともかく血の気の多い奴らが腕を鳴らし、
「愉快な曲でも、いっちょやるか!」
 少しでも歌心のある奴らが楽器を手にし、
「大人って、子供よねぇ」
 子供たちが悟り、
 そして。

「やれやれ」
 船長室では、副船長ホーバーが机の上に足を乗せ、呆れた様子で碧色の頭を指で掻いていた。
「元気だなぁ」
「いやに爺くさいじゃないか。ホーバーは乱闘に参加しないのかい? それとも止めるかい?」
 クロルが熱いコーヒーをカップに注ぎ、ホーバーの足の脇にカシャンと置く。扉一つ隔てるだけで、船長室は随分静かなものだ。
「ありがと。……止めるのは船長の役目だな」
 そう言って二人はチラリと寝棚に視線をやった。
 部屋の隅にある寝棚の二段目には、勉強疲れしたラギルニットと、何故か紛れこんでいる年齢の近いラギルの親友レイムとレックが、手足をがばっと広げて寝息を立てていた。寝棚の一段目に、やはり何故だか丸眼鏡のシャークまでがグースカ、イビキをかいているのが何だか憎たらしい。
「……いいんじゃない? たまには体動かすのも」
 他人事のように言いつつ、無意識に指を鳴らすホーバーを見て、クロルは片眉を上げて人の悪い笑みを浮かべた。

AM12:26

「ね、ねえ! 勝算あんの!?」
 何人目かの船員をぶちのめしたセインに、テスが走りながら尋ねる。セインはニヤリと笑って、くわえていた煙草を前歯で噛みしめた。
「愚問」
 どこからその自信は来るのか。今頃セインたちの脱走を知った船員たちが、甲板にひしめいているに違いないのに。
 テスは自分の腰に掛けられたカトラスの柄をぐっと握りしめた。見た目はヤワだか腕の方はそこそこだ。だが船員たちは全員、そこそこか、あるいはそこそこ以上なのだ。
(ひゃあ! 武者震いが……!)
 テスは走りながらも器用にもがく。緊張してきた。いつもはセインたちを迎え撃つ方──正確には、迎え撃つ船員たちとセインたちとの乱闘騒ぎを、甲板の端っこの端っこの端っこの方で高見の見物をする側なのだ。
「おいおい、大丈夫かよ」
 ダラ金が、擬音にするなら「カチーン」という状態でえっちらおっちら走るテスに、哀れみを覚えて思わず声をかけた。
「き、極めて努力します……っ」
「駄目だこりゃ」
 ごちゃごちゃ言っている間に、甲板に通じる扉はもう目前に迫っていた。
 閉ざされた扉の向こうから聞こえてくるのは、耳を塞ぎたくなるほどの大歓声。テスはいよいよガチガチに凍りついた。ダラ金が苦笑を浮かべて、こっそりテスの背後に回る。
 そして耳元にすっと口を近づけ、息を吸い、
「やっほぉ────っ!!」
「……っぎゃあ──────ああ!?」
 突然の「やっほー」に、テスは文字通り飛び上って、勢い余ってつんのめり、扉に盛大にぶちあたり、
 バキィ! バターン! 
「わお。さすが、テスちゃん」
 扉ともども、甲板へと倒れ落ちたのだった。

 船員たちでひしめく甲板に、どよめきが走る。
 何十人分もの視線が一斉に注視する中、脱走者セインとワッセルは悠々と甲板中央へと進み出た。
「よー。バクスクラッシャーの能無しども、コンニチワ」
「今日はちょいと事情ありだぜ。オレたちは、今回、テスのためになぁ」
 ワッセルはニッと笑うと、肩に担いでいたカトラスを青空へと突き上げた。
「この船を乗っ取るぜぇ!」
「ってのは実はどーでもいーが、ともかくそんな訳で、この船いただいてタネキアへ戻る。文句ある能ナシはかかってきな」
 再び甲板が騒がしくなった。困惑や非難の声ではない。大歓声である。
「いいぞいいぞー!」
「やれやれぇー!」
 退屈に飽きた船員たちにとっては、もはや敵だ味方だ、理由だ何だはどうでも良いのだ。乱闘騒ぎが起これば、楽しければそれでもう十分なのである。
 そしてセインたちが騒動を起こすと必ず出てくる者がいる。
「ほう。性懲りもなくまた出て来たか……」
「そんなに痛い目みてぇのか?ガキども」
 セインとワッセルの向かいに築かれていた人垣が割れ、二人の男が堂々とした足取りで前へと進み出た。
「フィーラロム。担架用意しといてやりな」
 しゃがれたバリトンを響かせ、大歓声を巻き起こしたのは、バクスクラッシャーのご婦人方に人気の高い「死の一服グレイ」だ。彼の得物は恐ろしげな通称通り、煙草だ。何本もの煙草を手品の様に出しては、敵の目を狙い、押しつけるのだ。
 渋みが滲み出るような笑みを浮かべて、彼はまだ火の衝いていない煙草を口端に銜えた。
「奴らに担架なんていらねぇ。てめぇの血で濡れた甲板を這いずって、自分でおうちに帰りやがれ」
 低く呟き唾を吐き捨てたのは、曲腕のアレス。錆色の赤毛を持ち、恐ろしく厳つい顔をした巌の様な男だ。その恐ろしさを助長させているのが、奇妙な形に折れ曲がった右腕。事故で曲げたものなのだが、それに不自由はしていない。彼の獲物は両刀。左手で繰り出す正規の攻撃に加え、いまいち動きの読めない右腕の攻撃に翻弄される。
「いけ! グレイ、あんたに一万だ!」
「ぶちのめしちまえぇ!」
 彼らの言葉にいよいよ盛り上がった甲板は、凄まじい歓声と足踏みとで音が鳴るほど激しく振動した。
「……一万か。安くないな」
「という事は、私は十万といったところですね」
「えぇ? じゃあ、あたし百万じゃん!」
 再びどよめきが起こる。セインたちの左手から三人の男女が現れた。
「ワッセルの相手は俺だ」
 左目を眼帯で覆った男が、無感情に呟く。水夫長補佐のレティク、ワッセルの悪友だ。
「がんばれ、兄ちゃん!」
「ああ」
 ちなみに、妹のファルに甘い。
「ふふ、守るものがあると人は弱いですよ……」
 目と口を三日月型にして不気味に笑うのは、現役の暗殺者の水夫メイスー。速すぎて見えない得物でもって、カマイタチの様に相手を切り刻んでゆく。武器の正体を知っている者は少ない。性格は「冷酷」の一言で言い尽くせる。これはセインも同様だが、何故バクスクラッシャーで水夫などという雑用係に甘んじているのか、さっぱり分からない男だ。
 そして……。
「ふふふふ。さぁ我が化学世界の浪費者どもよ。私に遠慮なく二百万をぶっ賭けるが良い。損はさせないぞ、科学の神マッドーに誓ってね……!」
 ピンク色の眼鏡をついっと掛け、用途不明な鉄の筒を両手に持ち、ピンクの髪とピンクの白衣を靡かせて変人笑いを口端に浮かべたのは、イカれ科学者メルである。
「やめとけやめとけ! 損はしねぇどころか、大損に決まってらぁ!」
 彼らの登場をにやにやと余裕の表情で見守っていたワッセルは、ゲラゲラと笑って、メルにこの上ない嘲りの笑いを向けてやった。
 メルが、笑った。
「ふん。片目のないダルマは夢の破れた証拠、縁起担ぎにもならないわ!」
「……だるま?」
「無知め! ケナテラ大陸の古代化学よ! これでも食らえ! タマネギ切り刻みながら突進する利口な爆弾……!」

 ドカーン!

 ──うおぉぉぉ……! 
 ──目がしみるぅぅ……! 

 これが乱戦開始の合図であった……。

07へ

close
横書き 縦書き