TIME LIMIT~嗚呼、愛ゆえに~

07


「あ、大乱闘が始まった」
 見晴らし台へと伸びる縄梯子をするすると登りながら、レックは眼下の甲板を見下ろして言った。
「今日は早いなぁ。もうちょい久びさのホーバー兄貴、見てたかったなー」
 レックの上を猿のようにウキキと登ってゆくレイムが、ちぇーっと指を鳴らした。
「おれたちゃ海賊、海の貴族ー! 宝と勇気を肩に担いで、目指すは風の向くところー! よ……っと」
 更にその上をゆくのは、楽しげに歌を歌うラギルニットだ。二人より早く見晴らし台に辿りついたラギルは、二人を手で急かした。
 見晴らし台からは、濃淡鮮やかな果てない大海と、広大な薄青色の空、それに船員たちがごちゃまぜになって殴り合っている甲板が見渡せる。
「教育上よろしくないよな、ホント」
 円形の見晴らし台を囲む頑丈な柵に馬乗りになったレイムが、額に手を翳して甲板を見下ろした。下の歓声と奇声とがつむじ風に乗って巻き上がってくる。レイムはぶわっと反り返る前髪を、両手でわしっと押さえこんだ。その挙動がいよいよ猿に似ていたので、ケタケタとラギルが笑う。
「で? 何をなさるんで? 船長殿」
 ふざけた口調でレックがにやりと笑って、ラギルを振り返った。
 船員たちが乱闘騒ぎに気を取られている隙に、船長室をコッソリと抜け出し、ここ船首にある見晴らし台へと登ってきたのは、ラギルが「何も言わずについてこーい!」と下手なプロポーズのようなことを言ったからだ。もはや二人の期待ははちきれんほどである。
 ラギルはそんな二人を、子供特有の「小悪魔の微笑み」を浮かべて見比べ、背中に下げたリュックサックを足元にどかっと下ろした。
「……見たい?」
「見たい!」
「見せろ!」
「まあまあ、待ちたまえ、しょくん」
 好奇心いっぱいにリュックに近づこうとする二人を偉ぶって手で制し、ラギルはもったいぶった手付きで口紐を持ち上げた。
「……どうしても見たいというのだね?」
「見せて下さい、船長!」
「お頭! 我等の安眠のために!」
 ラギルは大きな赤い瞳を自信でいっぱいにし、舌をぺろりと出した。
「……こっそり、見てね」
 口元に人指し指を当て、ラギルは慎重にリュックの口を開く。
 二人は中身を覗きこむなり、大仰に顔をしかめた。しかし口元は笑っている。
「うげぇーっ」
「お頭ってば、罪なお人!」
 クスクス笑い合って互いを見合い、三人は誰からともなく頷いた。

「い、う……っ、わぁ!」
 人ゴミでもみくちゃにされながら、テスはあちこちから向かってくる拳を、危うげながらもどうにか避ける。
(い、一体全体、どうしてこんな事に……)
 今更ながら、テスは今日の出来事を反芻した。
 多分、テスの人生史の中でも記録に残る厄日に違いない。今朝はあんなに幸せな気分だったのに、どうしてこんなことになったのだろう。
 そう、そもそも突然のトゥーダ大陸行きがいけないのだ。あれさえなければ、自分は余裕でユキとの待ち合わせに間に合ったのだ。
 一度もデートに遅れたことがない。どんな時も、彼女を待たせたことはなかった。彼女が遅れてくることは実は結構あったが。
 そう、遅れてはいけない。彼女を失望させてはいけない。
 何故? それは……。
「それは、愛のためだあああ!!」
 テスは張り叫ぶ。その声は乱闘の声にかき消されたが、テスの勇気を奮い立たせるには十分であった。
「ふはははははははは……!」
 テスはがむしゃらに拳を振り回し、周囲の船員たちを誰彼構わずなぎ倒した。
 しかし倒す先から、新たな船員がテス目掛けて拳を振ってくる。
(動きが読める!)
 テスはそれをあっさりと受け流し、勢いで前につんのめった男の首筋を、手でなぎ払った。男はたたらを踏んで、違う船員たちの群れに突っ込み、殴りかかられている。
「か、火事場の馬鹿力……」
 舵台で傍観を決め込んでいたダラ金は、呆れ半分感心半分に口笛を吹いた。
 テスは調子づき、次々にかかってくる男ども女どもを、誰かも確認することなく倒していった。
 やがてテスの周りにぽっかりと空間が出来た。自然船員たちは乱闘を止め、テスに注視しはじめる。テスはそんな周りを見回し、顔を紅潮させた。
(すごい! 強いじゃん、おれ!)
 テスは感嘆の余りにぎゅーっと拳を握りしめ、天へと強く振りかざし、勢い余って雄叫んだ。
「この船は、おれがもらうぞぉー!!」
「ほー……?」
 ギク!
 間髪入れずに、すぐ近くから聞き慣れた声がした。手を振り上げたまま、重い顔を声の方に向けると、一体誰に殴られたのか口から血を流し、額に青筋をクッキリと浮かべた、どう考えても怒り狂った様子のワッセルとセインが、周囲に築かれた人垣から悠々と進み出てくるのが見えた。
「や、やぁ、同志たち……」
 テスはとりあえず笑いながら、二人から一歩身を引く。それに気づいてか、二人もまたテスとの距離を縮めた。
 ワッセルが芝居がかった仕種で、眼帯にかかった赤い前髪を掻き上げた。
「なあ、テス。オレたち、お前のためにがんばったわけだけどさぁ……。なあ、セイン?」
「どうにもその苦労が報われてない気がすんだよ。なあ、片目……?」
 ワッセルの言葉を継いで、セインが更に一歩前に出る。同時にテスは一歩後ろに下がろうとしたが、無情にも鋼鉄の人垣にぶつかってしまった。思わず後ろを振り返ると、そこには穏やかに青筋をたてた、水夫長のリズがいた。
「……!」
 テスは慌てて身を引く。が、そのせいで、セインたちの方へ一歩踏み出す結果となってしまった。
 二人はニコニコと更に近づいてくる。
「人が副船長と戦ってる時にゃあ邪魔をしてくれて」
「大乱闘から親切にも救い出そうとすれば、思い切り殴って下さって」
 テスはぎょっとする。乱闘の邪魔をしてしまったのには、心当たりがある。しかし2人を殴った?覚えがない。だがもしかしたら、がむしゃらに手を振り回した時に、気づかず殴ってしまったのかもしれない。
 血の気が音をたてて引いてゆくのが、はっきりと分かった。
「さっきは鬼ごっこ、楽しかったよ」
 背後から、リズの声が聞こえてくる。
「同感っちょ。今度はこおり鬼でもやるっちょえ」
 新たな声が上がり嫌々振り返ると、予想を裏切らず、カヴァスじいが髭を撫でながら、テスを囲う人垣に参加していた。
 テスはようやく気づいた。テスの周りに空間が出来た。だがそれは別に自分を守ってくれる空間ではなくて……囲まれたのだ、ということに……。
 テスによって殴られた船員たちが、ゾンビよろしくむくりと起き上がる。同時に人垣が音もなく縮まってゆく。
「あ……、あはは」
 乾いた笑いが、乾いた空気に乗る。
 テスは力なく周囲を見回し、へへへーと鼻の頭を掻いた。
「許してって言ったら、……殴るよね……?」
 恐る恐るの問いに、船員たちはまたも仲良く、一斉に頷いた。
 空気がビシィッと張り詰める。
 テスがズザザッと後ずさる。
 人垣がズズイッと縮まる。
 まさに一触即発の、その時だった。
「船長警告、船長警告!」
 静まり返っていた甲板に、頭上からの大声が響きわたった。何だ何だと、船員たちがワラワラ顔を上げると、太陽をバックにして見晴らし台に立つ、悪役ポーズで決めた小さな船長のシルエットがあった。
 船長ラギルニットは、その小さな体からは想像もできない大声で言った。

「これよりウンコの雨が降る! 気を付けたまえ!」

 は?
 甲板上の誰もが、間抜け面をした。
 美女クロルも、美青年バザークも、猿山の頂上で毛繕いしてもらってるボス猿の様な顔をした。
 ──ウンコ警告。その意味が理解できたのは、見上げた頭上から、

 ボタ……ッボタボタボタ……ッ

 ……茶色のドロドロした物体が降ってきてからだった。

 船員たちの阿鼻叫喚が、静かな海にこだました。


「わぁお……地獄絵図……」
 ちょっぴり気の毒そうなのと、必死に笑いを堪えてるのとがごちゃまぜになった顔をしたレックが、下で繰り広げられている、茶色く染まった船員たちの狂気の乱舞を見下ろして呟いた。
「実はウンコがただの泥だって事に気づくまで、何秒かかるかなぁ」
 罪なさげな様子で、ラギルはワクワクと体を揺らした。レイムが隣で空を見上げて、雲の動きを確認する。
「賭けよう。ぼく、あの雲がマストに着くまで」
「え。じゃおれはー、あの丸い雲が、長い雲になるまで!」
「んじゃ、オレはー……あのあっちの雲がー」
 船上の小悪魔たちは、天使の顔で賭け雑談に花を咲かせるのだった。

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