虹の翼

04

 夜も更け、通りには泥酔しきった船乗りが、二軒目を目指して千鳥足で歩いていた。
 レイムはそんな動きの読めない酔っ払いの間を器用に縫って駆ける。
「よ……っと」
 両脇にはずらりと酒場が並んでいる。夜空にはすでに無数の星が瞬いているが、酒場から漏れる明かりのおかげで通りは随分と明るかった。地面に伸びる入り口の形に切り取られた光の上を、飛び石を踏むように走りぬけ、レイムはある店の前で足を止めた。
 軒先には「海の遊び人」という看板がかけられている。レイムは迷うことなく賑やかな酒場へと足を踏み入れた。
 ぽい。
 一瞬後、レイムは地面に尻もちをついていた。
「ってぇ! 何すんだよ!」
 お尻をさすりながら見上げると、そこにはたった今自分を放り出した男が仁王立ちで立っていた。
「ここはてめぇみてぇなお子様が入るとこじゃねぇ。ガキは母ちゃんのボインにしがみついてろい」
「なにをぅ!? うちの母ちゃんはぺったんこだ!」
 男は鼻で笑うと、酒場へ戻っていった。レイムはぴょんっと跳ね起き、男の鋼のように硬いおケツに飛び蹴りを食らわせ、上がる罵声を尻目にその場を立ち去った。
「あーもう! 緊急だってのに……お?」
 文句を言いながら走っていたレイムは、前方から見知った二人組が近づいてくるのを見つけ、にんと口角を持ち上げた。
「おーい、うざ太郎、クマ男ー!」
 前方の二人はレイムに気がつくと、苦笑を浮かべて足を止めた。

「レイム、お前あんまり人前でクマとか言うな。いや、人前じゃなくても言うなよ!」
「うざ太郎もできればやめてほしいんですが……」
 二人ともレイムとは別に港町に下りていたバクスクラッシャーの船員である。「クマ男」と呼ばれたのは“嵐を支配する男”との異名名高い天才舵手のルイス=ベッサイドだ。舵取りの腕前は一流だが、冬眠中の熊のようなのんびりとした顔から、クマ男だのクマだの、尊敬とは程遠いあだ名で呼ばれている。一方の「うざ太郎」と呼ばれたのは、クステル=フォルロイツ=リーファント・レムアといううざったいほど長たらしい名前を持つ船医で、年の頃は三十半ばほど、ぼさっとした茶色の髪と、やぼったい眼鏡が何とも垢抜けない男だった。
「だって、うざいもんはうざいし」
 ガーン。うざ太郎がうざったくショックを受け、クマ男がその肩をぽんと叩いた。
「で、どうした? 緊急事態か?」
 港町に下りる際にいつも組み分けを行うのには理由がある。単純に全員で一緒に行動することが不可能ということもあるが、何よりも海賊だとばれないための、あるいはばれた時のための処置なのだ。船員の誰かが海賊と見破られれば、側にいた全員が危険な目に遭うことになる。少人数に組分けをしておけば、仮にひとつの組が捕まっても、他の組が何らかの策を打てるというわけだ。だから船員たちは港町に下りて以降は、極力他の組と合流しないようにしている。先に述べた、問題は組の中で解決する、という決まりごともここから来ているものだ。
 そしてルイスの心配もまた、そこからきていた。レイムがおおっぴらに違う組の二人に声をかけてきたことに、妙な胸騒ぎを覚えたのだ。
「そうそう、それなんだけど……!」
 レイムは置かれた状況を思い出すと、急いでいた理由を彼らに伝えた。
 瞬間、空気がピシリと音をたてた。
「つ、連れ、連れ去るだとぉおお!?」
 声も出ないクステルの横で、冬眠中のクマが吼えた。
「俺たちのラギル船長を連れ去るって、ど、どこのどいつがそ……っふが!!」
「しー!」
 ルイスのでか口を平手打ちで封じ、レイムは慌てて辺りをきょろきょろと見回した。さいわい側を通った通行人はやかましい酔っ払いがいるとしか思わなかったようだ。
「ともかくそんなわけで、今、レティク兄やメル姉と一緒にラギっちゃんを探してるんだよ。でも見つからなくて……泊まってる宿も聞いてないし」
「そんなアホなこと抜かした奴らはどこのどいつだ!?」
「そっちも見つからないんだ。レティク兄も声を聞いただけで、顔を見たわけじゃないみたいで。んでさ、ラギルって今回、セインのアホと一緒の組なんだよ。セインってほらそこの酒場によく行くだろ。他の酒は馬のションベンだーとか言って、他の酒場には行かないじゃん。じゃあてめぇは馬のションベン飲んだことあんのかって感じなんだけど……ともかくその店、ぼくが行っても入れてくれないんだよ。だから二人で見にいってくれない? セインなら宿の場所わかるし、ラギルたちの居場所知ってるかも……!」
 急ぎ口調で言うと、クステルがルイスを見上げてしっかりとうなずいた。
「それなら急ぎましょう、ルイス!」

 場所は変わって、酒場「海の遊び人」である。酔客で混雑した酒場では、案の定というか単純明快というべきか、渦中の人物が麦酒ジョッキを苛立った様子で傾けていた。
「なーるほど、それでぷっつんとキレちゃったわけっスか」
 食べやすい一口サイズの唐揚げをはむはむ食べながら言ったのは船大工のシャークである。
「……キレたっつーか」
 隣の席に長身を埋めたセインは、憮然と眉根を寄せた。
「ふーむ。で、反省してるわけっスか」
 ガッコーンッ!!
 シャークの言葉に、セインは持っていた麦酒ジョッキをテーブルに叩きつけた。木のジョッキは木っ端微塵に吹っ飛び、破片がシャークの脳天に突き刺さった。
「や、これはけっこう痛いっス!?」
「反省なんかするかよ! あんな乳臭ぇガキどもに!!」
 心底おぞましげに吐き捨て、セインは「くそ!」と一声、テーブルを下から蹴飛ばした。相当機嫌が悪いようだ。
 シャークは卓上の鶏肉がぴょんっと飛び跳ねるのを口でキャッチし、もごもごと口を動かした。
「乳臭いガキって、昔はセインだって”乳臭いガキ”だったんスよ~? なぁんでそんな子供が嫌いなんスかね。可愛いじゃないっスか」
「はぁ!? 頭くさってんじゃねぇの!? どこが可愛いって!? っつーか俺様的にそのかわいさを売りにした態度がイヤッ」
「だから昔はセインも可愛かったんスてば。あぶあぶして周囲に天使の笑顔を振りまいてたっス。ねぇセインちゃん? いいコいいコっスねぇ?」
「やめろ殺すぞてめぇ――!!!」
「お、やるっスか!? オレは忍法鶴亀拳法の達人っスよ!? ひょう!」
 言いながら、シャークはシュシュシュッと唐揚げを持った手を縦横無尽に動かした。セインは馬鹿らしさのあまりそれ以上反論する気が失せて、珍しく溜め息なんかついちゃったりした。
 バクスクラッシャーの中で、唯一セインを手玉に取って遊ぶことのできるシャークは、一部で「猛獣使い」と呼ばれている。セインにとって、何を言っても余裕しゃくしゃくで笑っているシャークは唯一苦手な存在であり、また悩み相談なんかもできちゃう酒呑み友達であったりもした。もっとも、セインに悩みなど、そうそうないのだが。
 だが酒場でばったり会ったシャークに先ほどのことを話す気になったのは、別に悩んでいたからというわけではない。ただ――ひどくむしゃくしゃしていた。
「まぁ、セインの子供嫌いも分からないでもないっスけどね。世の中には子供嫌いの皆さんがけっこーいらっしゃるし。オレは兄弟多かったっスから、好きも嫌いもないんスけど」
「俺様は子供好きとか言ってるアホの脳みそ、かっさばいて検査してやりたくなるわけ。どんな環境で育ったら、子供が好きとかほざく脳みそが完成するわけ?」
「じゃあ逆に聞くっスけど、どういう環境で育ったらそこまで子供嫌いな脳みそが育つんスか?」
 セインは眉毛をぴくりとさせて、シャークを剣呑と見下ろした。
「……真っ当な環境に育ったらに決まってんだろーが」
「えー、セインの真っ当ってどんなんスか」
「てめぇの育った環境よりマシって意味だ」
「あ、ひどいっス。オレのうちはものすごく真っ当っス。13人の兄弟がいて、ちょびっと怖い母ちゃんと明るい父ちゃんがいて」
「まさかその13人プラス爺ぃ婆ぁが全員、っス、っス、言いやがるんじゃねぇだろうな……つーかお前その口ぐせ何とかしろよ、感染率高すぎっス……っうわぁあああほらうつっただろうがマジで殺す!?」
 変ないちゃもんをつけられ、シャークは「知らないっス、勝手に使われてむしろ心外っス。使用料とるっス」とひとしきりぶつくさ言った後、不意に目を輝かせて身を乗り出した。
「そういえばオレ、セインの小さい頃って聞いたことないっス! どんな家で育ったんスか!?」
「はぁ? だから真っ当な環境だっつってんだろ」
「親兄弟の話っスよ。一人っ子だからそんなワガママ大王なんスか? それともきれいなお姉ちゃんがいたりするんスか。うひゃー、セインの小さい頃ってさっぱり想像つかないっス。近所でも評判のガキ大将とか……まさか意表をついてラギルみたいに天真爛漫な天使みたいな子だったり!? ぎゃー! きしょいっスー!」
 言い放題に言って、シャークは「きゃあ!」とテーブルの下に身を隠した。怒りの鉄槌が飛んでくるのを恐れてのことである。
「……あれ?」
 が、いつまで待っても拳骨が降ってくる気配がなかった。おそるおそると席に戻ると、セインはなぜか呆けた顔をしていた。
「セイン?」
 顔の前で手を振ってみる。
「セイン子ちゃーん?」
 一秒、二秒、セインの顔が徐々に引きつってゆく。
 そして――ドカッ。
「~~~~~!!」
 シャークは声にならない悲鳴を上げて、頭から唐揚げの皿に突っ込んだ。テーブルの下で向こう脛を思いきり蹴飛ばされたのだ。
「っ痛いっス!!」
「……は。そりゃおめでとうゴザイマス」
 気のない風に言ってセインは席を立った。シャークが涙目で見上げる。
「どこ行くっスか!」
「お散歩。勘定頼むぜ」
 慈悲の欠片もなく去ってゆくセインに唐揚げをひとつ投げつけて――届かず、隣の禿げたおっさんの頭をつるんっと滑って床に落ちた――、シャークはしくしくと弁慶の泣き所を撫でた。猛獣使いといえど、泣き所はやっぱり泣き所なのである。
 そしてルイスとクステルの二人が酒場に入ってきたのは、それからすぐのことだった。
「ど、どーしたんです? シャーク」
 おいおいと泣きながら突っ伏しているシャークに、クステルは緊急事態であることも忘れて声をかけた。シャークはクステルの服を引っ張って丸眼鏡を当て、すすり泣いた。
「ひどいんスひどいんス。僕の彼女ってば、ヒールのかかとで向こう脛を蹴ったんス……」
「そ、それはお気の毒です。ってシャーク、彼女いたんですか!? そ、それはびっくりです……」
「どういうイミっスか、うざ太郎……」
「い、いえ、他意はその……」
「彼女の名前はセイン子ちゃんって言うんス。極悪非道の極道の女っス」
「へぇー……え!? セインですか!?」
「セイン子っス……」
「セ、セイン子は今どこに!?」
「散歩に行くって言って出てったっス。セイン子ってばほーんとに悪い女で……」
「ル、ルイス、行きましょう!」
「あ、ああ!」
「でもでも……そこがまた可愛いんス!」
 ドタドタドタドタ!
 シャークのアホな呟きは二人の足音によって完全にかき消されたのだった。

 セインは酒場を出ると、町を歩く気にも、他の酒場に入り直す気にもなれず、何とはなしに町外れへと足を向けた。
 徐々に闇深くなり、町の喧騒が遠くなる。代わりに耳を打ちはじめるのは波の音。
 町の明かりがぼんやりと遠くに見える辺りまで歩き、雑然と並ぶ木々の間を抜けると、白砂の広がる浜までたどりついた。
 セインは夜の海を前に腰を下ろした。
 黒い海面は穏やかで、まるで水平線まで絹を敷いたようだった。月と星とが海面を照らし、夜だというのにずいぶん明るく感じる。
 だが周囲を取り巻く美しい光景とは裏腹に、セインの心は乱れに乱れていた。
(反省してるのか、だと?)
 セインは舌打ちする。冗談じゃない。これまでにも散々バクスクラッシャーのクソガキどもを詰ってきた。いや、もっとひどい扱いだってしてきた。何を今さら反省などする理由がある。
 だが気を緩めた瞬間、ラギルニットの今にも泣き出しそうな顔が脳裏をよぎる。
 いや、ラギルニットではないかもしれない。
 ラギルの顔に重なるように現れるのは――別の子供の泣き顔だ。
 目を真っ赤にして泣きじゃくっている。
 暗い暗い闇の中、ひとりぼっちで。
 胸がずきりと痛む。そして痛みを覚える自分に動揺する。
 そうだ、反省しているわけじゃない。
 ただ……。
「っあ――!!」
 癇癪を起こし、セインは踵で砂を蹴飛ばしまくった。
 苛立ちのあまりに死にそうだ。虹の翼。夢の国。泣いている子供。港町に着いてから見続けてきた夢が頭から消えない。
 あの夢は一体何なのだろう。ただの夢ではないのか。何故、あんな意味の分からない夢を見るのだ。何故、夢にでてきた単語の数々が現実にまで登場するのだ。
「……虹の翼だと?」
 セインは砂浜に寝転がりながら、昼間見た行列のことを思い出した。
 幻想的なパレードだった。見たこともない獣に艶やかに奇人怪人の列。見せ方が凝っていて、確かにラギルニットの言う通り子供だけでなく大人も見て楽しめそうではあった。
 だがそれよりも印象に残ったのは、あの女。
 綺麗な女だった。
 セインはむくりと上体を起こし、落ちつかなげにポケットから煙草を取り出した。心臓が高鳴っている。知らず知らずに顔が熱くなるのを感じてセインは頭を抱えた。
「なんなんだよ……!」
 どうかしてる。
 これでははじめて恋をした少年みたいだ。
 初めて会う女に、この俺様が。
 セインは煙草の禁断症状に違いないと、震える手でポケットからマッチを取り出す。闇の中で小さな炎が揺らぐさまはひどく幻想的で、煙草の煙に変えてしまうのが惜しい気がした。とメルヘンに考えた自分に絶望して、セインは煙草も火のついたマッチも砂の上に投げ捨てた。
「あーもー俺様すっげぇ自分が気持ち悪いぃ!」
 港町に着いてからずっと、自分の意思とは無関係に感情が暴走している。
 恍惚と目を伏せる美しい横顔。記憶に焼きつけられた鮮やかな色彩。黄金の髪を靡かせ、背から虹色の翼を羽ばたかせ、精霊のように美しい微笑みを浮かべていた。
 そしてその慈愛に満ちた瞳は、不意に、セインへ向けられた。
 女は微笑を深め、細い腕を真っ直ぐに彼へと――。
 本当に初めて会うのだろうか。
 あの女の深い微笑は、まるで自分を知っているかのようだった。
 いや、それだけではない。セインもまた、あの女を知っている気がした。
 だがどこで会ったのかまるで記憶にない。
『セインってどんな家で育ったんスか?』
 笑えた。言われるまで気づかなかったのだ。
 セインには、自分の小さい頃のことをまったく思い出すことができなかった。
 記憶喪失と言ってもいいほど脳みその中は空っぽだ。親の顔も兄弟の有無も、どんな家に住んでいたのかすらも思い出せない。
 ただ心を占めるのは、虹の翼。
 激しく感情を揺さぶるのは、闇の中、ひとりぼっちで泣きじゃくる子供。
 そして、美しい、あの女。
『なぁんでそんな子供が嫌いなんスかね』
 セインはまたシャークの言葉を思い出しながら、ぼんやりとつぶやいた。
「何でだっけ……」

『今宵、虹の翼が、貴方を迎えにゆく……!』

 視界いっぱいに広がる星屑の夜空の向こうで、サーカス団の団長が朗々と声を上げるのを聞いた気がした。

+++

 そして話はレティクが怪しげな男たちの会話を聞き、食堂を出た直後まで遡る。
「はーら減ったー!」
 サーカスの開園まではまだ随分と時間があるので、散歩がてら外に出たテスとラギル、レックの三人は揃って腹を押さえていた。
「そーだねぇ。おれも腹へっちゃった……」
「どっかで食べよっか。あ、そうだ! さっきセインに言った食堂、あそこに行かな――あ」
 テスは慌てて口を閉ざした。しかし時すでに遅し、セインという単語に反応してレックは不機嫌に顔をしかめ、ラギルニットはしょぼんとうなだれてしまった。
「……何なんだよな、あのやろう」
 レックが憎たらしげに吐き捨てた。
「あれっぽっちのことでぶちキレやがって……ほんと小せぇ男」
 テスはセインがさりげなく陰から見ていたら怖いのでうなずきはしないものの、内心ではレックの意見に同意していた。
 あれっぽっちといえば、本当にあれっぽっちである。ただサーカスに誘っただけだ。そりゃちょっとしつこかったかもしれないが、あの怒り方はないと思う。
 ただ思うのは、普段のセインと、何か様子が違っていたということだ。どこがと聞かれると分からないのだが、少なくともテスはセインがあんなに必死な形相で怒っているのをはじめて見た。
「おいラギル、気にすんなよあんな奴のことなんか!」
 レックはうなだれているラギルニットの背中をバシッと叩いた。
 しゅんとしていたラギルはぶすっと頬を膨らませた。
「気にしてないよ。セインのバカのことなんか」
 二人はそのまましばらく黙りこんでいたが、テスが目当ての食堂を前方に発見すると、彼らの顔も自然と明るくなった。
「ほら、あそこあそこ! あそこのチキータン料理がすごいおいしいんだよ」
「何それ! なんかよくわかんないけど、おいしそう!」
「おいしいよ、もう今からよだれが出そう……」
「うわー、はやくはやく行こう!」
 二人の元気な様子を見てホッとしながら、テスはひょいと店を覗いた。多少混んではいたものの、壁際の席がうまい具合に三つ空いていた。
「おし、レック、ラギル、今夜は食べまくるぞー! おれがサーカスもろとも奢ってあげるからねー!」
「よしきたぁ!!」
 三人は歓声を上げると、空席へと駆けていった。皮肉にもそこが、つい数分前までレティクたちが座っていた席とは知らずに。

 その様子を、灰色の外套を頭からかぶった二人組が外からじっと見つめていた。
「俺たちはついてる、ヴァイズ」
 一人が低く呟くと、もう一人が瞳に暗い色を宿らせた。
「ああ、宿に行く手間が省けたな」
 視線に気づく様子もなく、食堂の中の三人はやかましい声で料理を注文をしている。
 二人はひっそりと顔を見合わせると、口端に殺意のこもった笑みを浮かべた。
「悪く思うなよ、ラギルニット。……これもキース船長の命令でな」

 皮肉な偶然から誰一人ラギルニット、レック、テスを見つけられぬまま、時計は十一時を回る。
 サーカスの夜が幕を開けた。

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