虹の翼

05

 夜にかかる虹の橋 星屑散らした夜の海
  漕ぎ出そう 帆がわりにした七色の風船
 手を放そう 港にとどめる操り糸から
  風に吹かれてきみの船 ゆらゆらお空に飛んでゆく 

 港町の広場に、突如魔法のように出現した巨大な天幕。
 サーカス団「虹の翼」の華麗で妖艶なサーカスが、今夜、この天幕の中で行われる。
 毒々しいまでの極彩色で塗られたそれは、はじめてサーカスを見るタネキア人の期待感を一気に高めた。開演までまだ一時間もあるというのに、こらえきれずに集まった人々が天幕を囲って、大歓声を上げていた。
「わぁ!」
 ラギルニットは広場に足を踏み入れるなり感嘆の声を上げた。
 広場の周囲には背の高い熱帯の樹木が迫っている。その枝々には無数のランプが吊るされていて、ぼんやりとした明かりは、まるで光の精霊が羽休めをしているようにも見えた。
「きれい……」
 何て妖しく幻想的なのだろう。ここがいつもあの雑多な青空市場が開かれるのと同じ場所だなんて信じられない。ラギルニットはぽやっとその場に立ち尽くす。
「おい、ラギル、あいつ見ろよ!」
 レックの楽しげな声につられて、ラギルニットもすぐにその視線を追った。そこには、北方大陸の楽器アコーディオンを演奏する奇妙な格好の人物がいた。
 もじゃもじゃしたオレンジ色の髪に、白粉で塗ったくった能面、赤くて丸い鼻にバッテン印の目。衣装もまた妙で、赤ん坊が着る産着に似た服に、レースやリボン、アップリケをこれでもかと貼り付けている。蛇腹の楽器を、おどけた動作で奏でるさまが、また笑いを誘った。
「あれは道化師って言うんだよ」
 テスが笑いながら説明をしてくれる。それに気づいたのか、道化師はきょとんと首をかしげると、突然その場をぴょんっと飛び跳ねた。どしんっとがに股で着地し、足をふんぬと踏ん張って、力任せにアコーディオンを引っ張る。でたらめに鍵盤を押したのか、ひどい不協和音が野太い音で放たれた。通りすがりの人々が驚いた顔で振りかえるが、そのときには何事もなかった顔で哀愁漂うワルツを奏でている。
 広場ではほかにもたくさんの道化師が遊んでいた――ラギルニットの目には遊んでいるようにしか見えなかったのだ。道化師たちは人々の間を跳ね回り、それぞれ異なる芸を披露する。どれも面白くて不可思議で、目移りするうちに目が回ってしまいそうだった。
「うわ、あれなんだろう!」
 隅に人だかりを見つけて、三人は走り寄る。何とか人の輪の向こうを見ようとぴょんぴょん跳びはねていると、近くにいたおじさんが前方まで押しやってくれた。そこにはお手玉をする道化師がいた。玉はどこから現れるのか、四つ、五つと数を増やしてゆく。それどころか、見ているうちに色までが変化していった。玉が十個にまで増えると、道化師はついに持ちきれなくなって投げやりに空に放ってしまった。見物人があーあと声をあげる。道化師はあちゃーと顔に手を当てると、軽やかな宙返りをひとつ、次々と落ちてくる玉を追ってわたわた駆け出し、かぶっていた帽子やぶんどった奥さんの手提げ袋を使って10個の玉すべてをキャッチした。
 見学人も三人も、気づけば無我夢中で拍手をし、すごいすごい!と連発していた。

「すごいねぇ……」
 思わずほわーっと溜め息をつくと、テスが笑った。
「ラギル、サーカスはまだこれからだよ!」
「うん。でもおれ、もうもっとすごいのなんて想像できない……」
 世界中の海を見てきたとはいえ、まだ八歳の子供だ、はじめて見る世界に圧倒されてすでに夢うつつ状態である。四歳年上のレックですらぼんやりしていて、
「すげぇ、あいつら……」
 なんてぶつぶつ呟いている。とても微笑ましい。
「……あ!」
 と、しばらく広場の喧騒を堪能していたラギルニットが何かを見つけて声を上げた。
「どったの?」
 首をかしげるテスに待っててと告げ、ラギルニットはレックを伴って天幕のほうまで走ってゆく。しばらくして戻ってきた二人の手には四つの風船が握られていた。
「はい、これあげる! テスのはオレンジ色だよ」
「え」
 先ほど二人が走っていった方向を見ると、たくさんの風船を抱えたエプロン姿の少女が立っていた。かすかに客寄せのための歌も聞こえる。
「もらっていいの?」
「うん! 今日はテスのおかげでサーカスに来れたんだもん、うんと感謝しなくっちゃ」
「いらねぇなら捨てれば? 義理で貰われてもうれしくねぇし」
「……っありがとうー!!」
 テスは感動で目をうるうるさせ、二人をガバッと抱きしめた。二人はうわー……と引きまくるが無言で耐えた。さきほどのことでテスには心配をかけてしまったようなので、二人なりに礼をしたかったのだ。というより、テスなんぞに借りを作りたくないというのが正直なところなのだが。
「あれ、でもなんで風船、四つもあるの?」
 二人の手には風船がそれぞれ二つずつ握られていた。
 一つは自分の分で、二つはラギルとレックの分。だとすると――。
 ラギルはてへへと笑った。
「うんっと……セインへ、おみやげ!」
 どことなく迷うような口調に、テスはああ、と力づけるように笑んだ。
「もらってくれるといいね! セインのは何色?」
 ラギルとレックが邪悪に笑った。
「ピンクだよ……」
「セイン様にお似合いの青春桃色白書だぜ……」
 テスはぶっと吹き出した。
「も、もしかして嫌がらせ……!?」
「当たり前だろ。嫌がらせじゃなくて、あんなバカ帝王にプレゼントなんか贈るか。……ほんっとあいつムカつくぜってぇ許せねぇ……。メル博士もびっくりな桃色風船様で、ネチネチ嫌がらせしまくってやる。覚えてろよでかいだけで脳みそ空っぽの非人類がっ」
「ねー。みんなの前で「はい、これ頼まれてたやつ」って言って渡すんだよねー」
「う、うわー」
 さすがは小さくてもバクスクラッシャーの船員である。根性がいやらしい。
「でもたしかに、セインってばざまぁみろだね! アイツってばおれの財布も勝手に使ってさ、くっだらないエロ本見せてきたり女の人はべらせてきたり……おれはユキちゃん一筋なのに、自分は独り者だからってセインはさー……ブツブツ……あ、おれのはオレンジだっけ?」
 セインの前では、口が裂けようが、頭カチ割られようがつけなかろう悪態をついて、テスはラギルニットから風船を受け取ろうと手を伸ばした。
「あ!」
 だがうっかりと貰いそこね、風船はゆらゆらと空に飛んでいってしまった。
「……あーあー」
 あっという間に夜空に消えていったオレンジ色を見上げながら、レックが暗い暗い溜め息をついた。その隣でラギルニットもまた悲しげに顔を曇らせる。
「捨てた……」
「やっぱりいらなかったんだ……」
「なんだよ、ほんとはセインのアホと一緒で、サーカスなんか来たくなかったんだろ……」
「どうせガキくさいもんね、おれたち……」
「ガキで悪うございましたねぇ……」
「いるだけでもうざくってごめんなさいねぇ……」
「ご、誤解だー!」
 テスは大慌てで腕を振り回した。
「た、ただ、なんか手元が狂って、ユキちゃんの名前を言ったらドキドキしちゃって手が震えちゃって……う、うわー! もうひとつ貰ってくるー!!」
 言うなりテスはぴゅるるーっと走り出した。天幕の横で風船を売っていた少女は、猪突猛進の勢いで迫ってくるテスに気づいてぎょっとする。奪われてなるものか!とばかりに風船を背に隠す少女に、テスが涙ながらに何かを訴えていた。
「ったーんじゅーん!」
 途端、ラギルニットがおなかを抱えて笑い出した。
「そもそもテスがしっかりしてねぇのが悪いんだ、八つ当たりぐらいさせてもらうからな……」
 レックが薄暗い笑顔を浮かべてぶつぶつと独りごちる。とことん捻じ曲がったガキどもである。
「さて、おばかなテス君はほっといて、遊んできちゃいますか、船長」
「そうしましょーか! レック君!」
 小悪魔二人は顔を見合わせにんっと笑うと、テスをほったらかしにして走り出した。

 サーカスの夜はゆっくりと過ぎていった。
 道化師たちは次々とすばらしい芸を披露し、精霊の羽を背に生やした少女たちがくるくると踊っている。集まった客はみな影絵のようで、自分たち二人以外には人間など誰もいないように思えた。
 風船売りの少女の歌が、耳の中でこだまする。
 不可思議で、どこか不気味なメロディ。
 踊るように駆けていたラギルニットは、ふと視界の隅に美しい色を見つけた気がした。
 首をめぐらせ、天幕のほうを振りかえると、そこには美しい女性が立っていた。
 少女たちのような精霊の羽根ではなく、鳥の翼を生やした金髪の女だ。
 優しい眼差しが、ラギルニットを見つめている。
 どきりとした。ラギルは思わず足を止める。
 女の慈愛に満ちた視線から目をそらせぬまま、手探りでレックを探す。
 だが側にいるはずのレックが、なかなか捕まえられない。
 ようやく視線を外して親友の姿を探したラギルは、あれ?と目を丸くした。
 レックの姿がどこにもなくなっていた。
「……レック?」
 ラギルニットはぽかんとして、立ち尽くす。
「ラギルニット」
 不意に背後から誰かに名を呼ばれた。
 だがそれはレックの声ではなかった。
 もっと低くて太い声――どこかで聞いたことがある気がする。
 不思議に思って背後に首を巡らせた直後、
 ラギルニットの視界は、真っ暗になった。

「お待たせー! ……て、あれ?」
 オレンジ色の風船を手に戻ってきたテスは、子供たちの姿を探して、きょろきょろと首をめぐらせた。
「……どこ行ったんだろ」

 さあ手を放そう 操り糸から手を放そう
  風に吹かれてきみの船 ゆらゆらお空に飛んでゆく……

 風船売りの少女の歌声が、ただ静かに聞こえていた。

+++

 繰りかえし、繰りかえし聞こえる波の音。
 波頭は見えない。輝く白い月も、蒼く光る海も、何も見えない。
 ただあるのは、どこまでも深い闇。

 気づいたら、セインはひとり闇の中に立ち尽くしていた。
 ぽかんとする。先ほどまで目の前にあった海面はどこかに消えてなくなってしまっていた。それどころか空も砂浜も、背後の森もどこにもない。
『……はぁ?』
 呟いた声が妙にこもって聞こえる。現実味がまるでない。
 ようやく察する。――あの夢の中だ。
『っな、なんだとぉ!?』
 セインは怒りのあまりガニ股になって頭を抱えた。
『夢ぇ!? つーかなにいきなり寝てんだ、俺!』
 帝王気質のくせして、“悩む”なんて前代未聞のことをしたせいで、いつの間にか疲れて眠ってしまったようだ。
『くそ、起きたら満ち潮で海の中なんてオチだったら、カラの野郎、目ん玉ほじくりだしてやる……!!』
 海の女神に対して何とも不遜且つ八つ当たりなことを喚いて、セインは辺りを見渡した。しかし闇はどこまでも深く、自分以外には何も見えなかった。ついでに言うと、目が覚める気配もまったくない。
『何で世界に君臨する帝王の俺様が、夢の中でさびしく一人ぼっちでおしゃべりしてなきゃなんねぇんだよ!!』
 それこそが一人ぼっちのお喋りだという事実に、気づかないお馬鹿なセインである。
 と、セインはビシッと凍りついて、口端を引きつらせた。
『……来る』
 悶々と青ざめ、わしゃっと頭を抱える。
『あのガキが、来る……!』
 子供の泣き声が聞こえた。

 うわーん……。
   うわーん……。

『今度こそあのガキを殺してやる……!』
 毎回、子供が泣きやむ姿に「よかった、よかった」とほっとするセインだが、今日という今日はそんな慈悲深いセイン様など演じてはやらない。首根を掴んで、空高く放り投げて、地面に投げつけて、血まみれになったところで踵落としを食らわしたかと思った瞬間に胸倉掴んで抱え上げ頭突きを食らわしぐわしゃっと肋骨突き破って心臓引きずりだしてバックンバックン「これ何か分かるか? 貴様の心臓だ!」ってなってぐあっはっはっは……! とセインは悲しく妄想を膨らませながら、泣き声の主を血眼になって探す。
 あの泣きじゃくる子供は、気づけばすぐ背後に立っていた。
『うわーん……! うわーん……!』
 いかにも子供らしい、脳みそに直接響くような甲高い泣き声だ。
 セインは乾ききった笑顔を作ると、ズカズカ子供の側まで歩みより、唐突に拳骨をその脳天に食らわせ、
『……っっっ!?』
 ようとして、その拳はスカッと子供を通り抜け、セインは頭から地面に突っ込んだ。
『い、痛くねぇ。痛くねぇ、俺様ちっとも痛くねぇ』
『……おじさんだれ?』
『お、おじさんだぁあ!?!?』
 こめかみから血を垂れ流すセインを、子供が驚いた顔で見下ろす。
 セインは怒りのあまり唾を飛ばしまくると、また子供を殴ろうとして、スカッ。
『何じゃこりゃ――!!』
 ふたたび空を掻いた拳を天に突き上げ、セインはやかましく吼える。子供はまだぽろぽろと大粒の涙をこぼしながら、またくしゃりと顔をゆがめる。
『う、うえぇ……っ』
『うるせぇっつってんだよ、殴ってダメなら刺すぞてめぇ』
『うわ――ん!!』
 逆効果だった。
 セインは苛立ちのあまりに地面をバシバシ叩きながら、まったく意味もなく、大の字になって地面に寝転がった。脇では子供が泣き続けている。耳を塞いでもちっとも遠ざからない声に嫌気が差して、セインはすぐにまた上体を起こした。
『っなんなんだよてめぇは!! 誰なんだよ! 何で俺様の夢に出てくるんだよ!?』
 言いながら、セインの目は子供の姿を自然と観察する。黒髪、黒い瞳。背はまだ小さいが、手のひらや靴は背に反して大きい。その顔に捻くれたところなど一つもないが、気の強そうな眉には見覚えがあった。
『みんながいないんだ。誰もいないんだよ……!』
 子供は鼻水まで垂らしながら、その場でじたばたと足踏みをした。
 どうやら迷子のようだ。セインはますます苛立って、頭を掻き毟った。
『ああ、そうかい。だから一人ぼっちで泣いてるわけ、あーかわいそかわいそ、かわいそーだからとっととあっち行っておかーしゃんとおとーしゃんを探してきたらどうでしゅかー!?』
『お母さんもお父さんもいない。置いてかれたんだ……!』
 子供はセインの言葉に顔をゆがめ、ますます癇癪を起こした。
『置いてかれたんだよ……!!』
 そして二度繰り返された言葉は、セインに妙な衝撃を与えた。
 ――置いていかれた?
『置いて、いかれた……』
 セインはぽつりと呟く。途端、胸の奥で何かがずきりと痛んだ。
 その正体を考えあぐねていると、不意に子供が泣きやんだ。きょろきょろと辺りを見渡して軽やかに走り出し、まだ首をひねっているセインの横を駆け抜けた。
『……!?』
 セインはとっさに顔を覆った。
 突然、少年の走っていった方向から光が迸ったのだ。
 光にやられた目を恐る恐ると開き、セインは息を呑んだ。
 真っ暗な闇の中、七色の光が浮かんでいた。七色の光は、それぞれ一色の帯状の光線の集合体で、それが地上から四方の空へと伸びていた。
『あれは――』
 少年がうれしそうに光へと向かってゆく。少年の周りを、光の精に似た小さな光が舞う。
 今まで聞こえてきた波の音が少しずつぼやけ、反対に賑やかな音楽が聞こえてきた。アコーディオンの楽しげでどこか妖しい音色。時折、空を割るようなラッパの音もする。
 闇の向こうに、毒々しいまでの原色で縞柄に塗られた天幕が浮かんでいた。
 周囲の木々には無数のランプが吊るされていて、ぼんやりとした明かりはまるで光の精霊が羽休めをしているようにも見える。
 幻想的な光景。
 あれは、サーカス団の天幕だ。
 そう、サーカス団、
 虹の翼。

 思い出した。

 セインは呆然とした。
 忘れていた記憶が、堰を切ったようにあふれ出した。
 そう、思い出した。思い出してしまった。
 遠い昔に封じた記憶。
 夜空に輝く虹の翼。
 ふわふわと舞う光の精霊。
 人生で受けた、最初の屈辱。
『お、思い出した……』
 セインは顔を引きつらせる。
『思い出したぞぉおお――……!』
 アコーディオンの音楽を背に、彼はぶちキレて叫ぶのだった。

06へ

close
横書き 縦書き