虹の翼

03

 潮騒が、暮れはじめた海岸線に響きわたる。
 賑やかな港町から小一時間ほど離れた場所にある、小さな海岸。
 周囲を覆う林によって、外からは目隠しされたその海岸に人気はない。ただ波ばかりが、満ち引きを繰りかえしている。
 その岸辺に一陣の生暖かい風が吹いたのは、太陽の下辺が水平線に触れた頃であった。
 風にあおられ、海面が白く泡立つ。
 そして、ふたたび静けさを取りもどした水平線の彼方に、不気味な黒点が浮かんでいた。
 朱色に染まる海面に、黒点からインクを零したような影が伸びている。

 それは闇のようにどす黒い、巨大な帆船の船影であった。

+++

「……んだよ、てめぇら、まだいたのか」
 セインが宿に帰ると、テスたちがまだ部屋で寛いでいた。
 外は夕暮れ時。沈みかけの夕陽が、港街に鮮烈な橙色の光を投げかけている。しかし一刻一刻とその光も弱まり、部屋の中はすでに薄暗かった。
「サーカスが始まるのは夜中の十二時。まだ早すぎるっつーんだよ、馬鹿」
 先ほどの一件をまだ怒っているレックは、つっけんどんに答える。テスとラギルはまた口論になるのではないかと冷や冷やするが、セインはキレるでもなく「ああそう」とだけ言った。
 寛大というよりも、どこか上の空といった様子だ。
 何となく、気まずい空気が流れる。
「えーっと……あ、セイン、腹減らない? これから夕飯、食べに行こうかって話してんだけど。この間、すっごい美味しい店見つけて、店の親父さんも最高でさっ」
「は? 何で俺様が下僕と同じ釜の飯を食わなきゃならねぇわけ? 冗談じゃねぇ」
「えー、えへへ。そうだね。言われてみれば確かに。ごめんごめん。アハッ」
 小心者の本能で場を取り持とうとしたテスだったが、あっさり断られてあえなく撃沈する。とっても情けない。
「……ほんとにセインは行かない? サーカス」
 そんなセインに、躊躇いながらもラギルニットが声をかけた。
「しつけぇな。行かねぇっつってんだろ」
「だって、きっと楽しいよ?」
「あっそ。そりゃようござんした。そんなに楽しみなら、さっさと行けば?」
 セインの態度はあくまでそっけない。むしろ話を蒸し返されて苛立っているようだ。
「でも、サーカスだよ。滅多に見れないんだ」
 しかしラギルニットは諦めず、しつこく食い下がった。
 床に寝転がっていたレックは、不思議そうにそんなラギルを見上げた。サーカス行きはもう決定したのに、何故まだセインにこだわるのかが分からなかったのである。
 だがラギルは、先ほどのセインの不自然な態度がどうしても気にかかっていた。
 ラギルとて自分を嫌うセインを、それでも好きだと言えるほど無邪気ではない。せっかくの楽しいサーカスだ、レックとテスの三人で観に行ければそれで十分だと心底思う。だができるならセインとだって仲良くなりたかった。同じバクスクラッシャーなのだ、嫌われて辛くないわけではないのだ。そしてラギルはあのセインの表情を見て、もしかしたら「虹の翼」が何かを変えてくれるのではと漠然とした期待を抱いたのである。
「うっせぇな」
 しかしセインは冷たく吐き捨てるだけだった。
「マジで鬱陶しい。いい加減にしねぇと殺すぞ、ムカつくな……」
「そうだよラギル、ほっとけよ。そんなつまんねぇ馬鹿なんてさー」
 成り行きを見守っていたレックだったが、セインがそろそろ本気で苛立ってきているのを感じて、止めに入った。だがラギルは頑なに首を振った。
「だってセイン、サーカス、観たことある?」
「ねぇっつってんだろ」
 投げやりに答えながら、セインは自分の言葉に違和感を覚えた。
 ない? 観たことがないだって?

『泣いているの……?』

 ぎくりとする。脳裏に声が響くのと同時に、あの女が微笑を浮かべた。
 七色の翼を背に生やした、サーカス団の女。
 自分を見つめた、あの優しい瞳。
 夜空に羽ばたく、虹の翼。
 あの眼差しをどこかで見た気がする。どこか。遠い昔に。
 固く蓋を閉ざした記憶の向こうで、懐かしい顔が微笑する――。
「もしもーし、セインさーん?」
 いきなり声を掛けられ、セインはハッと我に返った。
「セイン?」
 向けられた三人の視線。心の中を覗かれたような、本能的な羞恥心が込みあげてくる。同時に、羞恥などという感情を覚えた自分に、セインはひどく狼狽した。
 何故、こんなにも動揺しているのだろう。
 一体、自分は何を怖がっているんだ。
(こわい? 怖いだって!?)
 記憶の蓋がギシリと軋んだ。
「……同情でもしてるつもりかよ」
 側で聞いていたラギルニットはどきりとした。いつも高慢なセインのものとは思えないほど、その声音は暗かった。
「てめぇらがサーカスなんて馬鹿げたもんを見れて幸せなのは、大いに結構だ…………だからってその幸せを俺にも分け与えようなんてのは余計なお節介だ……!」
「おれ、そんなつもりで言ったんじゃ……」
「鬱陶しいんだよ! 何なんだよ、いつもうるさく騒ぎやがって! 近寄んじゃねぇガキどもが! てめぇらの存在自体が鬱陶しいんだっつってんだろ……!」
 ラギルニットはもはや言葉も出なかった。
 普段から聞きなれている罵倒なのに、この罵りは心底少年の心を傷つけた。
「消え失せろよ……!」
 セインは肩で息をしながら力任せて壁を殴りつけ、足音高く、部屋を出て行った。
 張り詰めた静寂が、室内に漂う。
「え、えっと……」
 テスはおろおろとラギルニットに目をやる。
 気遣わしげに肩に手をかけると、ラギルは涙の滲んだ目をこすった。

+++

 サーカス団「虹の翼」の開演が迫った港町は、いつも以上に賑やかだった。
 太陽の残滓が町を幻想的に染める一方、空の半分はすでに濃紺色に変わり、一番星が瞬いていた。静かだった酒場通りにも人が増え、町は徐々に夜の歓楽に包まれようとしていた。
 そんな中を、一人の、奇抜としか言いようのない女が歩いていた。
 何せ全身ピンク色である。高い位置で二つ結びにした髪もピンクなら、着ている服もピンク。しかもその服は、生物学者が着ているような白衣である。白衣を着ていることも謎だが、白衣なのにピンク色というのも大いに謎であった。
 異国人が集まる港町でもそうは見られない異様な姿に、道行く人々は好奇心たっぷりの眼差しを向けた。
 だが当の本人に、周りの視線を気にした様子は全くない。
「サーカス。うぅん、懐かしい響きだわ」
 女は通りの壁に張られたサーカスの広告を眺め、もはや自分がサーカスなことにも気がつかず、ふんふんと満足げにうなずいた。
 メルファーティー=ナンディレス。海賊バスクラッシャーが誇る、脅威の変人、船大工にして科学者のメル博士である。
「あ、これこれ、ラギっちゃんが楽しみにしてたやつ!」
 メルのピンクな白衣の脇から、ひょいと顔を出す少年がいた。
 彼の名はレイム=サッデス。メル同様に海賊バクスクラッシャーの船員で、ラギルニットとレックとは悪友の仲である。
「メル、一緒に観に行かない?」
 大きな紫色の猫目をメルに向け、レイムは見えない尻尾をふりふりと振る。
「行く行く、もちろん行く!」
 メルはラギルとレックの二人が見ていたら、世を儚みそうなほどあっさりと挙手した。
「ついでに……僕、お金が足りなくて……メル博士~」
「ふっふっふ、安心なさい。このあたしが入場料は経費で落としてみせるわっ」
「うわお! さっすがメル博士、話が分かるぅ!」
「私の名には、天才、若しくは偉大を付けなさい。……いいわよね? レティク君」
 箒のように巨大な二つ結びをぶわっと振って、メルは笑顔で背後を振りかえった。
 二人のすぐ後ろに立ち、無言で広告を見つめていたのは、端正な顔立ちをした男だった。彼の名はレティク。左目につけた物騒な眼帯がいかにも海賊らしい、水夫長補佐である。
 レティクは寡黙にうなずいた。
「面白そうだな……時間は?」
「えーっと……あら、夜の十二時だって。無駄に遅いわね」
「じゃあ先に飯でも食おうぜ。で、開演前にデザート食ってさ。もう、お腹ぺこぺこ」
「あ、賛成賛成! 夕飯後のデザートは欠かせないわよねー」
 三人は早めの夕食を取ることにして、手近な食堂に足を踏み入れた。
 食堂はなかなかの混み具合だったが、席はすぐに見つけることができた。早めに来たのは正解だったようだ。
「……メル、注文しててくれ」
 店の親父がテーブルに来たところで、レティクが席を立った。
「はいはーい。なに頼んでおく?」
「適当でいい……」
 無表情に呟き、そのまま外に出てゆくレティクを見送り、メルは困った顔で壁のメニュー表を見上げた。口紅もつけていないのにピンク色な唇が不満げに尖らされる。
「一番困るのよねぇ、それ」
「火ぃ吹くぐらいの超々激辛料理を頼んじゃおうぜ」
「イヤ。あたしが食べられないもん」
「レティクのだからいいじゃん」
「何を言ってるの愚か者! レティク君の分も、レイムの分も味見するの。決まってるでしょ。あたしの夢は港町のありとあらゆる美味美食を食べ尽くすことよ!」
「夢、ちっさいなー」
 何やかんやと言いながら、無難なところで親父のお薦め料理を三人分頼むことにした。
「……それにしても、ラギっちゃんとレック、大丈夫かねぇ」
 料理が来るのを待ちながら、レイムはぽりぽりと頭を掻く。
「なにか問題でもあるの?」
「問題も問題、大問題。あの二人ってば、よりによってセインと一緒なんだってさ。もう一人はテスらしいけど、まぁあんな脳みそ空っぽは放っておいて……ほら、セインって子供大嫌いじゃん? 何が気に食わないのか知んないけど」
「ああ、なるほど。そうよねぇ、セイン君って我侭で短気で自己中でほんっと最低男だもんね。あんな男と同じ組になるぐらいなら私は今すぐ灯油をかぶって焼身自殺を図るふりをして、国外逃亡を企むわ」
 散々な言いざまだったが、レイムはさもありなんとうなずいた。
「サーカス来れると思う? あいつらも入場料分の金、持ってないんだよ」
「それは厳しいわね。セインに金などねだってみなさい。痛い目見るわよ。たとえ、テスに話を持ちかけたところで、テスは俺様の下僕なんだっつーの、持ち出し厳禁なんですー、とか言い出すだろうことは目に見えているわね」
「他の組の誰かにお金を借りるって手もあるけど、基本的にそれは反則だし……」
 レイムは溜息まじりに頬杖をついた。実際、港町に下りた際には、問題が発生した時は組の中だけで解決することという決まりごとがある。それでなくても、金銭の貸し借りは、船上であっても禁止されているのだ。守っている船員はあまりいないが、金銭問題と、それからついでに恋愛トラブルは、狭い船社会で共同生活を送る彼らにとっては、仲間割れのきっかけになってしまうことがあるからだ。
「テスもほんっと最悪なまでにダメ男だしな。こいつらサーカスに連れてくとか言ったら殺すとか言われて、はい、って素直に引き下がってそう」
「全く、男のプライドってやつはないのかしら、テス君には」
 えらい勢いで、的をつきまくった会話を続ける二人である。
 ――その時、二人は気づいていなかった。
 彼らの会話を盗み聞きしている者が、すぐ近くにいるということに。
 それは食堂の角席に腰を下ろした、怪しげな二人組だった。灰色の外套を頭からすっぽりと被り、無言で酒を呑み交わしている。時々、小声で何かを呟いては、メルとレイムに視線をよこし、じっと二人の話に耳を傾けていた。
「ほい、お待たせさん。本日のお勧めメニューだよ」
「いやーん! 親父さん、迅速怪傑無敵の料理人じゃないの! よし、この偉大なるメル博士が貴方の食堂を、五つ星に認定してあげるわ!」
 食堂の親父が苦笑しながら皿を並べるうちに、怪しげな二人組はひっそりと席を立った。懐の皮袋から取り出した金をテーブルに置き、そのまま物も言わずに歩きだす。
 彼らが食堂を出たことを気に留める者はいなかった。
 ただ一人、レティクを除いては。
 レティクは食堂の脇に伸びる暗い路地で、一人煙草を吸っていた。
 港町の女どもがこぞって群がりそうな薄い唇から紫煙を吐き出し、吸いかけの煙草を地面に落とす。
 立ち昇る煙を足で踏み消したちょうどその時、路地から見える酒場通りを、外套を着た二人組が通りがかった。
 その一瞬。数秒にも満たぬ間に交わされた二人の会話が、レティクの動きを止めた。

「ラギルニット、あのガキを連れ去るなら今夜だ……」

 レティクは目を見開き、すぐさま通りへと飛び出した。
 しかしその時にはもう、二人の不審な男は人ごみに紛れて消えていた。

「あ、来た来た。料理冷めちゃったわよー?」
「美形でもウンコは長いんだなー」
「……あら? どうかした?」
 好き勝手に冗談を飛ばす二人だったが、普段から冷たげな雰囲気のレティクがいつも以上に冷ややかな空気をまとっていることに気づき、首を傾げる。
 レティクは眼帯に覆われていない右目で鋭く周囲を薙いでから、低く呟いた。
「店を出るぞ。……ラギルが危ない」

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