虹の翼

02

「そーらよっと……」
 やる気のないかけ声と一緒に、折り紙で作った鳥を空に飛ばす。青い色の鳥は、柔らかな潮風に乗ると、そのまま海へと飛んでいった。
 アッシュランブロ海を臨む、白壁の宿『船の帆亭』。レックはその二階の窓から、折り紙を飛ばして遊んでいた。
 目の前には昼の陽射しを浴びて輝く、紺碧の海。紙鳥はそのまま海にまでたどりつきそうだった。だが実際には、眼下の街路へと落ちてゆくだけだ。
 レックは溜め息をついて街路を見下ろす。白土の道や背の高い街路樹には、すでに色とりどりの紙鳥が散らかっている。道行く人が不思議そうにレックを見上げていた。
「つまんねぇ」
 室内へと顔を戻すと、光に焼けた目に、赤や青の光が躍る。
 部屋はかなり広かった。調度品から一目で分かるほどの、高級宿である。
 ここに泊まろうなどと分不相応なことを言い出したのは、言うまでもないがセインである。それも当然「泊まろう」と提案したのではなく、「ここ決定。文句あるヤツ殺す」と宣言したのだ。奇跡的にテスの訴えが通り、一人一部屋という超無駄遣いは免れて、ニ人一部屋となったのだが――つまり、一人一部屋、三人一部屋という意味だが、それにしたって広い部屋だ。
「その金があるなら、俺に貸せッ」
 レックはぎりぎりと歯を食いしばり、ここにはいない長身バカを、想像上で足蹴にした。
「脳みそにいくべき栄養が、ぜんぶ背丈にまわったんだ、あいつ……!」
「うわ、どうしたの?」
 1階までトイレに行っていたラギルニットが、扉代わりの仕切り布をかきわけ、部屋に戻ってくる。レックは「うんこ?」と儀礼的に聞いて、ポケットから革袋を取り出した。
「ラギル、有り金、ぜんぶ出せ」
「うはは、カツアゲだー!」
 どさっとその場に胡坐をかくレックに習って、ラギルもまたワクワクと床に座る。そして愛用のベルトバッグから革袋さいふを取り出し、中身を床にぶちまけた。何度も何度も袋を上下させ、最後の一枚まで出てくるのを確認して、二人は神妙に顔を突き合わせた。
「いくらある?」
「うーんとね……いち、にぃ、よん、ご……」
「バカ。三が抜けてる」
「二枚いっぺんに数えたの!」
 数え終えた二人は、同時に溜め息をついた。子供が持つには結構な金額だが、サーカスを観に行くには、ほぼ一人分のチケット代が足りない。
 レックは黒髪をわしっと掴んで、額をゴンッと床に打ちつけた。
「おかしい! 俺たちはたしかに一生懸命働いてるはずだ! なのに、なんでこんなに金がないんだ!」
「やっぱりこの間、最強カードがほしくって、お菓子屋にあったカードをすべて買い占めたのがいけなかったのかもしれません、レックさん……」
「しかも全部、雑魚カードでしたね、ラギルくん……」
 真面目くさるラギルに肩を叩かれ、レックは遠い目で頭を持ち上げた。
「サーカス高すぎだよな、くっそー」
「やっぱりちゃんと貯金しないとダメかなぁ」
「してんじゃん! スタフ船管理長に、いつも稼ぎの何割か渡してるだろ」
「あれは商業都市の銀行に預けてるんだよ。そのほうが将来のためになるからって。そうじゃなくて、貯金箱とかに貯めたほうがいいのかなーって」
「金を貯めるために貯金箱を買うって図式が、俺は許せねぇ!!」
 レックは吼えて、ばたりと背中から床に倒れこんだ。
 ともかく後悔しても後の祭りだ。サーカスの開演は今夜に迫っているのだ。
 それまでに、なんとか金を工面しなければならない。
「……やるしかねぇ」
 レックは天井の絵柄を見つめ、ギラリと黒い瞳を輝かせた。
 すでに計画は練ってある。ラギルニットと昨晩、寝言で彼女の名前を連呼するテスの鼻に鉛筆を突っ込みながら、寝ずに立てた作戦だ。
 まずは、サーカスに行くための最低条件を整理しよう。
 その一、テスかセインが、二人を連れて行ってくれること。
 その二、テスかセインが、入場料を貸してくれること、である。
 期待できるのは、テス。テスならばどちらにしても、二つ返事で「いいよ!」と言ってくれるだろう。
 だがこれには問題があった。
 テスは気のいい男だが、なんといっても臆病者だ。セインを相手にしたら誰しもが一歩ひくが、テスの場合、百メートルレーンを大逆走である。可哀相なことに、その逆走っぷりが逆に気に入られてしまったらしく、セインはやけにテスを猫可愛がりしている。もちろん体のいい下僕としてだが。
 港町についたときから観察していたが、セインは自分の買い物で、一度たりと自分の財布を出していない。全てテスの財布から金を出させていた。セインの中で、「お前のものは俺のもの。俺のものは当然俺のものだ文句あるかねぇよなそうだよな俺様帝王だし」という構図が出来上がってしまっていることはまちがいない。
 そしてテスはそれに対し、小声で文句を言いながらも従ってしまっている。金を貸してなどと言ったら、テスが慌てふためいて「セインに聞かないと!」と言うことは目に見えていた。
「せめてテスのアホじゃなくて、シャーク兄とかだったら良かったのに……」
 船大工のシャークあたりならば、うまいことセインを煙に撒けただろう。財布を二つ持ってるとか、あるいは買い物時には自分の金を喜んで使わせておいて、セインのアホが眠っている隙にこっそりセインの財布から取り返しておくとか。
 つまり結論は、やはり説得するならばセイン、なのだ。
「あ」
 その時、とんとんとんと廊下を歩く控えめな足音が聞こえてきた。続いて、ドカッドカッドカッという無遠慮な足音も聞こえてくる。
 考えるまでもない、前者がテスで、後者がセインである。
 レックはガバッと飛び起き、ラギルと顔を見合わせた。
「作戦通りにやるぞ、ラギル」
「う、うん!!」

+++

 一方、廊下を歩くテスとセインである。
「…………」
「…………」
 セインは朝から不機嫌だった。
 理由は、死んだって誰にも言いたくないが、夢見が悪いせいである。
 港町についてからというもの、毎晩のようにセインは夢を見続けていた。ただの夢ならいいが、いつも子供が泣きわめき、泣きやむとそれに安堵するというクソムカツく夢なのだ。
 夢に子供が出てくる時点で腹が立つというのに、自分がほっとするのがなおサイアク。
 不機嫌オーラが出すぎなほど出ているセインが怖いのだろう、さっきから前を歩くテスがチラチラと肩越しに振りかえってくる。セインは長い足をおもむろに持ち上げ、その背中を盛大に蹴った。
「うぜぇ、見んな! 恋する乙女かてめぇは!」
「す、すみません」
 なぜか謝るテスである。
「あーすっげ、ムカつく。テス、俺様を楽しませるため、今すぐ有り得ない方法で死ね」
「え、やだよ!」
「やだよじゃねぇよ! やるんだよ!!」
 ゲシゲシゲシッ。
 蹴飛ばし、蹴飛ばされながら、二人は廊下を賑やかに歩く。
 そして部屋の前に帰りついた二人は、布を払って部屋に入った。

「わー、セイン、テス、おかえり! 待ってたよ!!」
 途端、子供二人が両手を大きく広げて飛びついてきた。
「あれれ、どったの、二人とも。ご機嫌だね」
 テスは持っていたセインの大荷物を下ろし、ラギルの視線に合わせて床にしゃがんだ。ラギルが楽しいと自分も楽しいんだ、と言わんばかりの嬉しそうな笑顔を浮かべて。
(やっぱりテスっていいひとだなー!)
 ラギルは内心で感動し、ちらっとレックに横目をやった。
 一方、保父さん的な対応をするテスに対し、セインは盛大に顔を引きつらせていた。かがむどころかふんぞり返って二人を見下している。怒りのあまりに声も出ないのか、無言である。
(ちっせぇ男……)
 レックは内心で中指をたてながらも、ラギルに軽く片目を閉じてみせた。
 それを合図に、ラギルニットは両手を胸の前で組むと、きらきら輝く瞳をテスとセインへ交互に向けた。
「あのね! あのね! おれ、二人にお願いがあるんだ!」
「あ・る・ん・だー」
 ラギルに合わせて、レックも可愛らしいお願いポーズで、きゃっと首をすくめた。
((ッギャーッッ!!))
 セインとテスは同時に心の中で叫んだ。
(こ、これは、ユキちゃん(彼女)が良くやるおねだりポーズ!? 超可愛い~!!)
(ぐぇええぇ……っ、サイアク! なんだこいつら、殺したい! 今すぐ撲滅したい!! これだからガキはきも悪ぃんだよ、死ね死ね死ね死ね死ね!)
 すぐさま反応を返したのは、セインではなく、やはり頬を赤らめたテスであった。
「やだなぁもう、君のお願いなら何でも聞いちゃうっていつも言ってるでしょー!」
 すっかり子供たちに彼女の面影を重ねているらしい、テスは二人の額をツンっと小突いた。ラギルとレックは内心で不気味さを覚えながらも、ぱぁっと顔を輝かせ、テスに抱きついた。テスの顔がにへら~と歪む。
「わぁ、ありがとう! あのね、今夜ね!」
「うんうん今夜? 月の見える浜辺で二人でランデブー?」
「サーカスに連れて行ってほしいのー!」
「わーお! 空中ブランコで愛を語り合うんだね! あーもーどこにでも連れてってあげるから、ハニー!」
 あっさりと放たれた一言は、ラギルとレックが待ち望んでいた言葉だった。二人は背中ごしに勝利の拳を打ち合わせた。
 だが、問題はここからだ。
 二人はやかましくはしゃぐテスから、その背後に立つセインへと視線を向けた。
 セインは子供二人の予想を裏切らず、世界で一番気持ち悪い昆虫を見たときのような顔で、口元を引きつらせていた。
「……うぜぇ」
 セインはぼそりと呟くなり、血流を一気に上昇させて、あっさりと細い堪忍袋の尾を切った。
「うぜぇえええ――!!!」
 鼓膜がびりびり震えるほどの大音量が、セインの口から発せられる。
「…………」
「…………」
「…………」
 テス、ラギル、レックは一斉に口を噤んだ。
 セインは怒り狂い、床をダンッ!と蹴りつけた。
「ぬぁああああにが、サーカス連れてってぇ、あらいいわよ~、だ! ばかかばかかばかかばっかかお前らは! いやむしろ馬鹿決定っつーか、死ねタコ、ボケスカー!!」
 訳が分からない。
「しかも何、雀の脳味噌。お前いい加減育てって感じ? なんか大概ムカつくんだけど、そのガキっぷり!」
 雀の脳味噌とは、セインがラギルを罵る時に使う呼び名である。自分でも気にしている小ささのことを言われ、ラギルはむっとした。しかしここで怒っては計画が水の泡、口の中でセインの馬鹿を十回唱えて、どうにか悔しさを堪える。
 逆に怒りに顔を赤くしたのはレックである。自分がラギルをバカにするのは良いが、他人がバカにすると腹が立つ、複雑な親友心なのだ。
「金魚の糞みてぇにいつもくっついてやがる鶏チョップもよー、おまえ、自尊心とかないわけ? ラギルがいねぇと何もできないんでしゅか、ハー!」
 鶏チョップとはレックのことだ。チョップの意味はさっぱりだが、鶏というのはレックの黒髪がとさかのように逆立っていることからきている。
 ふつふつと怒りを沸騰させていたレックは、いよいよムッとして唇を噛んだ。
 それを真隣に感じたラギルは大いに慌てた。
 ――ラギルとレックの作戦は単純明快だ。普通にお願いをして、セインがはい、どうぞと言うわけがない。ならば状況に任せて言わせてしまおう、というのである。
 セインは鬱陶しいのが嫌いだ。子供が死ぬほど嫌いだ。ラギルとレックが子供らしさを前面に押し出し、しつこくおねだりをすれば、セインは鬱陶しさのあまりに「うぜぇ、勝手にしろ!」と根を上げるに違いない。そうすればテスとて、もう躊躇いはしないだろう。
 という寸法なのだが。
 レックは時々すごく短気だ。レックが怒って、もしセインを挑発でもしたら、ねだってねだってねだりまくる作戦は大失敗に終わってしまう。ラギルニットは慌てた。
「セ、セイン! うんと、あのね、でもサーカスすっごく面白いよ、きっと。おれたちまだ見たことないんだ、すっごく見たいんだよ、だからだから――」
 しどろもどろになるラギルを、セインは馬鹿にしくさった顔で見下ろした。
「はぁ? じゃあ自分たちで見に行けばいいだろー。二人で仲良く手をつないで行ったらどうでちゅか? テスは俺様の下僕なんだっつーの、持ち出し厳禁なんですー」
 セインはまるで相手にしない。ラギルは言葉に詰まる。金がないのだ、とばらしてしまったら、セインは絶対にテスに金を出させまいとするだろう。人の嫌がることをするのが彼の趣味なのだから。
「じゃ、じゃあセインも一緒に行こう!?」
「は? 死ねば、お前。行くわけねぇだろ」
「でもきっと楽しいよ! それにテスも行くって言ってるし……」
「テスも行かねぇっつーんだよ。誰が許可した? ああ? お前もさー、下僕はひとりで十分だろ? レック連れてけばそれでいいじゃん。そいつだったら、はいご主人さまってすぐに着いてくるぜー」
 その一言は、ラギルの奮闘にどうにか自分を抑えていたレックの忍耐を完全に崩壊させた。
「下僕…………?」
 嫌な予感がしてラギルが止めに入ろうとするのを振り切り、レックはセインに馬鹿にした笑いをくれてやった。
「そうだよな、あんたは下僕がいないと靴下も履けない坊やだもんな! ボタンのかけ間違いしてるぜ、セインさんよ!!」
「レ、レック!」
 ラギルは大慌てでレックの口を押さえたが、遅かった。
 セインは表情を険しくさせると、壮絶に笑った。
「……いい度胸じゃねぇか、クソガキ」
「セ、セイン、喧嘩は駄目だよ!」
 さすがのテスも子供たちの身の危険を感じたらしい、がむしゃらに腕を振り回し、へっぴり腰で両者の間に割って入る。セインはそれを氷点下の眼差しで見下ろした。
「……テス。こいつらサーカスに連れてくとか言ったら、てめぇ、殺す」
 大人気なさすぎ! と内心で思いつつ、テスは恐怖のあまりにコクコクとうなずいた。
 頼みの綱であるテスが承諾するのを見て、ラギルは絶望する。しかしそれでも何とか状況を打開しようと、一歩前に出た。
「セイン、サーカスって観たことある!?」
「はぁ?」
 セインは不愉快そうに耳をほじった。
「そんなガキが観るもんに興味はねぇ」
「ガキが観るもんじゃないよ。みんなみんな、子供も大人も観て楽しいんだよ!」
 そういうラギルだってまだサーカスを観たことがない。けれど港町のあちこちに貼られた、極彩色の広告。意匠を凝らした服装をまとい、ステッキを手に動物たちの指揮をとる団長。白塗りの顔に不思議な模様を描き、不器用に玉乗りをする道化師。美しい妖精の乙女が、魔法のような光輝く粉を操って踊る。
 見たこともない魔法でいっぱいの世界。
 サーカス団が町にやってくる。
「きっとドキドキするよ。ワクワクする。だって夢の世界なんだよ!」
 夢の世界。その言葉に反応して、セインはぴくりと眉根を寄せた。
「サーカス、観てみたいと思わない!?」
 畳み掛けられた言葉が、さらに不快感を呼び起こす。
 サーカスを観てみたい? 夢の、世界?
「虹の、翼……」
 気づけばセインは、ぽつりと呟いていた。
 ラギルは目をぱちぱちさせ、ぱぁっと顔を輝かせた。
「うんうん、それ、サーカス団の名前! セインも広告見たんだね!」

 真っ暗な闇の中で、子供が泣いている。
 暗くて、誰もいない夜。子供がひとりぼっちで。

「……っやめろ!」
 セインは気づけばラギルニンットを乱暴に突き飛ばしていた。
 ラギルはよろめいて、その場に尻餅をつく。だが当のラギルも、成り行きを見守っていたレックとテスも驚きのあまり、ただ呆然と彼を見上げた。
 セインの顔は驚くほど青ざめ、どこか自分自身でも愕然としているように見えたのだ。
 視線に気づき、セインは動揺して目をそらした。
「……勝手にしろ」
 三人はその言葉にとっさに反応できない。
「勝手にしろっつってんだよ!」
 セインはもう一度言い捨て、そのまま乱れた足取りで部屋を出て行ってしまった。
 足音が聞こえなくなるまで瞬きすら忘れていた三人は、やがておろおろと顔を見合わせた。
「ど、どうしたんだろう」
「嬉しいけど……不気味」

 よろめくように宿の外へと出たセインは、港町の岸辺をぼんやりと歩きだした。
 高級宿の並ぶ通りは、やがて人通りの多い繁華街と交わる。広い通りは家畜に曳かれた荷車や、大きな籠を天秤にひっかけて歩く商人、買い物客で賑わっていた。
 そんな中を、セインは行くあてもなく歩きまわった。
 なぜか胸がズキズキと痛んでいた。不快というよりは切なさが心を占拠している。
 ――切ない? この俺様が? いったい何に対して……。
 心地よい海風が通りぬける。黒髪が頬をくすぐり、彼は顔を上げた。
 そこでセインは目を見張った。
 視線の先にある壁に、「サーカス団・虹の翼」と大書きされた広告が貼られていたのだ。
 セインは近寄って、広告を嘗めるように見つめた。
 それは子供じみた娯楽が嫌いなセインですら目を惹かれるような美しい色で満ちていた。極彩色の巨大な天幕と、その前で奇術を繰りひろげるサーカス団の団員たち。天幕の後ろからは、名前の由来になっているのだろう、どういった意味があるのかは分からないが、七色の虹の橋が夜空にかかっている。
 その目が、ふと一人のサーカス団員に惹きつけられた。
 動物の姿をした者、顔を白く塗ったくった者、髭を生やした者、角のある者、手足が異様に長い者、様々な団員がいるが、その一番隅に鳥の翼を生やした女性が立っていた。
 セインは気づけば手を持ち上げ、吸い込まれるように、その女に指で触れていた。
 その瞬間、繁華街に歓声が巻き起こった。
 驚きにハッと腕を引いたセインは、まるで悪いことをした子供のように、きょろきょろと周囲に首を巡らせた。挙動不審な態度だったが、誰も目に留める者はいない。気づけば、通りを歩いていた人々は皆、道のずっと向こうを見つめていた。
 セインはつられて、顔をそちらへと向けた。
「虹の翼だ……!」
 誰かが叫ぶのと同時に、歓声と拍手が巻き起こる。
 直後、爆発音と一緒に、色とりどりの紙吹雪が頭上から降りそそいできた。誰もが人ごみの向こうを見ようと背伸びをする。子供たちは親に肩車をされ、ようやく不満げな顔を笑顔で輝かせた。
 セインには背伸びの必要がなかった。
 彼の目は、道の向こうからやってくるものに釘付けになっていた。
 奇妙な一団が、賑やかな音楽とともにやってくる。
 先頭を歩くのは長い三本の長い鼻を持つ、巨大な図体をした獣だ。金縁のある赤い頭飾りを被った獣の上には、小人のように背の低い人間が立っている。動物とは対照的に、つぎはぎだらけの、しかし鮮やかな色で作られた衣服を身にまとっていた。小人は手にした金色のラッパを高らかに吹き鳴らす。
 その後に続くのは、夢物語の登場人物のように、奇妙で妖艶で美しい人々だった。
 楽器を鳴らして歩く、おどけたそぶりの楽隊。滑稽な衣装をまとった道化師が、赤や黄、緑や青の玉をくるくると手で遊びながら、その後に続く。紙吹雪は途絶えることなく降りそそぎ、奇妙な一団が何か芸を披露するたび、人々は歓声をあげた。
「夜を渡り歩く、我らは奇なる世界に生きる者」
 掲げられた無数の旗の間から、シルクハットを被った男が現れる。男はステッキを打ち鳴らしながら、良く通る声で口上を始めた。
「お伽話の中に出てくる夢の世界は、昼の光の中では霞んで見えない。太陽が貴方たちから寂しさを奪ってしまうからだ。ただ夜の孤独だけが、お伽の世界を呼び覚ます……」
 セインは人波に押され、気づけば通りの一番先頭に立っていた。サーカス団の行列が、踊り、歌いながら目の前を歩き去ってゆく。シルクハットの男は道の両脇を交互に駆けながら、不気味な笑みを浮かべた。
「夜の孤独に苛まれた人々よ、さぁ、虹の翼に願いをかけよう……!」
 男の声はさらに大きくなる。朗々と響く声に、肩車をされた子供たちが手を振り上げる。

「今宵、虹の翼が、貴方を迎えにゆく……!」

 時間が、緩慢になった気がした。
 男の動作が間延びしたものになる。舞い降る紙吹雪もまた、のろのろと速度をゆるめる。
 同時に、音が消えていった。賑やかな音楽も、男の調子の良い口上も、すべてが遠くに去ってゆく。
 セインはただ、ゆっくりと歩く獣の上で、純白の翼を羽ばたかせる一人の女を見ていた。
 女の白い翼が、一羽根、また一羽根と、様々な色へ染まってゆく。
 歓喜に目を伏せ、女は恍惚と翼を広げてゆく。
 それは、虹の翼だった。
 目に焼きつけられるほど鮮やかで、美しく色。
 黄金の髪を靡かせ、女は大きく広げられた虹色の翼の間で、精霊のように美しい微笑を浮かべた。
 そしてその慈愛に満ちた瞳が、セインに向けられた。
 女は微笑を深め、セインへと白い手を差し伸べる。
 セインは立ち尽くしていた。
 歓声をあげる人々も、手を挙げる人々も、目に入らない。
 やがて女が視線をそらしても、一団が道から去っていっても、彼はいつまでも道の端に立ったままでいた。
 元の風景を取り戻した通りに風が吹き抜け、地面に散った紙吹雪がふわりと舞い上がった。

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