ホーバーの思いもよらぬとんだ一幕

09

 宝飾だらけのカトラスが、疾風のごときうなりを上げる。ホーバーは反射的に手にしていた人形をデトラナへと投げつけた。木が粉砕されたような恐ろしく凶暴な音とともに、カブ頭の首が根元から折れて虚空を舞った。人形の胴体が首とは逆方向へと吹っ飛び、ついでにメルの仕込んだ血のりが盛大に飛び散るが、そのあっぱれな死に様を見取るより先に、デトラナの第二撃がホーバーを襲った。ホーバーは後ろ跳びに、脇腹を狙ったその剣先を避けるやいなや身を屈めて、デトラナへと足払いをかけた。
「……っ」
 攻撃に集中していたデトラナは、足をとられて前のめりに倒れかけた体勢を、カトラスを地面に突き立てることで強引に整え、今度は下段から上段へと振りあげた。しかしすでに剣の届かぬ位置まで逃れていたホーバーには遠く及ばない。
 デトラナは怒りに目をぎらつかせ、地面を蹴って間合いに飛びこんだ。
「抜け、卑怯者……!」
 憤怒に駆られ、明らかに冷静さを欠いているのに、それでもデトラナの剣は乱れていない。それは一朝一夕で仕上げた剣ではなく、幼い頃から呼吸をするのと同じぐらい自然に身に付けてきたものだった。ホーバーは口端に笑みを滲ませ、望み通り、腰に下げたカトラスを引き抜いた。
 研ぎ澄まされた刃が擦れあって、閃光を放つ。流れるように弾き返された刃に、デトラナは目を見開いた。すぐさま続けざまの攻撃を繰り出すが、それすらあっさりと受け止められて、デトラナは今度こそ驚愕に顔をゆがめた。
 デトラナの強さは本物だ。だからこそ相手の実力は、一、二撃もあれば十分に読み取れる。
 それまで理解ができなかったのだ。なぜ、クロック船長がホーバーをあそこまで評価するのか。だが彼女はその一瞬ですべてを理解してしまった。
 そう、確かにホーバーは強い。
 デトラナが考えていたよりも、はるかにずっと。
 もしかしたら、クロック船長が感じているよりもさらにずっと。
 彼女の体内に宿る野生が高揚する。口端に好戦的な笑みが宿る。
 この狭い船室が憎たらしかった。低い天井が恨めしかった。
 ああ、もっと、もっと、広い世界そらの下で、
 この男と――
「デトラナ様!」
 デトラナがハッと動きを止めるのとともに、ホーバーもまた目を見開いた。
 場が沈静化し、二人の視線が交えたカトラス越しに絡んだ。
 その瞬間、デトラナはカッと顔を赤くした。ホーバーを受け止めたままの刃を自ら引いて、一歩、二歩と後ずさる。
「お気をつけくださいませ、ラナ様。このような狭い場所で……珠のお肌に傷がついたらどうするおつもりですか!」
 そのまま言葉を失うデトラナの横で、テラが憤慨した様子で鼻を鳴らした。何だか微妙に論点がずれている気がする。
「……失礼を」
 デトラナはしばらくして毒気の抜かれた顔でカトラスを鞘に戻した。
「いたしましたわね……」
 気の抜けた音をたてて、柄が鞘と重なりあった。
「……いや」
 ホーバーもまたカトラスを鞘に戻す。デトラナは気まずい思いで目をそらした。
 奇妙なことに、驚くほど気分が落ち着いていた。それまで感じていたホーバーに対しての憤りが、凪いだ海のように鎮まりかえっている。あれほどこの男の無頓着さに苛立っていたというのに。あれほどこんな優男に何故自分が、と腹立たしく感じていたのに。
 デトラナは不可解な感情をごまかすように、形のいい顎をフンッとそらし、いつものつっけんどんな口調で言った。
「お許しくださいまし。今のはわたくしが無作法でしたわ。正直に申しますと八つ当たりですの。忘れてくださいまし」
「何かあったんですか?」
 この男、聞いてほしくないときには聞いてくる。デトラナは目尻をぴくりとさせて、傍目にもはっきり分かるほどやけっぱちな笑顔を浮かべた。
「ええ、ありましたわ。わたくし、お父様に見限られましたの。いつまでたってもホーバー様を落とせないものですから、お父様がわたくしに期待することをやめてしまわれたんですの。ええ、それでホーバー様を憎むだなんてお門違いもいいところですわよね。分かっていますわ八つ当たりですわ。すべてはわたくしが悪いんですもの。わたくしに魅力がないのが原因なんですもの。ごめんなさいまし」
 平坦な口調で矢継ぎ早に言って、言いながらデトラナは否定してほしそうな眼差しをホーバーにちらりと向けた。途端、ホーバーが吹き出した。
「なんですの!?」
 過敏に目を吊り上げるデトラナに、ホーバーはなおさら笑いを深める。
「開き直りすぎだろ……!」
「ば、馬鹿にしてるんですの!?」
「っくくく! 魅力がない、ぶくくう……っ」
「――やはり殺しておくべきでしたわね!」
 再びカトラスに手を伸ばしたところで、不意にホーバーが笑いを止めた。
 まだ口端にこらえきれない笑いを残したまま、ホーバーがこれまで見せたことのない表情を浮かべる。デトラナは目を見張った。それは挑発とも期待とも取れる、それでいて意図のまるで読めない、含めた意味があまりに深い微笑だったのだ。
「……何ですの。薄気味の悪い男」
 つい先ほどの剣戟でホーバーの思わぬ強さに触れたデトラナは、強さだけではない新たな一面を次々と見せてくる未来の旦那に激しく狼狽した。
「あなたが最初に船に乗ってきた時から、カトラスを持ってるのには気づいてた。だからもしかしたらと期待はしてたんだけど……予想よりもずっと強いんで驚いた」
「……だから、何がですの?」
 不明瞭な物言いに苛々するデトラナだったが、ホーバーの口調がこれまでの他人行儀なものとは異なり、親しみのあるものに変わっていることに気がつき、思わず口ごもる。
「その剣、クロックの教えじゃないな」
「わたくしの家に伝わるものですわ。女の身にはお父様の剣術は重すぎるんです」
「道理で。見たことのない太刀筋をしてる。――聞きたいことがある」
 蒼い瞳に真っ直ぐ射抜かれて、デトラナは息を止めた。
 ホーバーは腰から飾り気のない鞘を外し、カトラスをもう一度抜くと、床に片膝をつき、鞘を己と平行するように置いた。そしてカトラスの切っ先で鞘の周囲に歪んだ正円を描き、柄の側に海神カラ・ミンスの名と自分の名前とを刻んだ。
 デトラナは深海に沈んだ海の雫のような美しい瞳を、わずかに見開いた。
 それは、タネキア大陸の一部の国に、デトラナの祖国に伝わるある儀式に似ていた。
 いや、あるいはそれそのものだ。
 剣士にとっては命とも言うべき剣を「檻」に閉じこめる。そして、海に生きる者たちの魂が宿ると言われる柄に、己の身の証をたてる――すなわち、この剣の持ち主、柄に宿る魂の主は誰であり、その誰かは海の神に命を捧げた海の者であるという証を。
「デトラナ」
 本来ならば、この後にもさらに幾つかの動作が続くはずだ。だがホーバーはそこで手を止めると、跪いたままデトラナを見上げた。
「もう一度聞く。クロックに逆らう気はないか?」
 デトラナは食い入るように剣の柄を見つめたまま、答える。
「逆らえませんわ」
「それは、クロックに従うという意味だ。でもどうやって? もうクロックはあなたを見限っている。俺もあなたに屈するつもりはない」
「それでも、わたくしはお父様の意思に従い――」
 そこでようやく、デトラナはこの儀式の、それを行うホーバーの意図を理解した。
 言葉を詰まらせるデトラナに、ホーバーは挑発的な笑みを向けた。
「あなたを見限ったクロックを、自分の手で見返したくはないか?」

+++

「ホーバー様」
「……!?」
 血まみれ死体と化したカブ、もとい歯車式自動人形ホーバー君何がしの体と頭を引きずりながら廊下を歩くホーバーの足元から、いきなり老婆の顔がにょきっと現れた。
 数々の修羅場をくぐりぬけてきたホーバーだったが、突然の皺くちゃ老婆攻撃にはさすがに凍りついた。しかしそんなホーバーなどには目もくれず、テラは彼の腕を掴むと、小さな目をギラリと輝かせた。
「え、ええと。そういえば、どちら様、ですか?」
 さりげにテラとは初対面のホーバーは、腰ほどの背もない老婆を見下ろす。テラは憤慨した様子で、人差し指を未来の若旦那様の鼻先に突きつけた。
「わたくしラナ様の乳母をしておりますテラと申しますがそんなことより一体ホーバー様は何のおつもりです!? あの愛らしくて、思わず抱きしめてキスしてさしあげたくなるデトラナ様に、あんな野蛮な提案をなさるなど……嘆かわしい! いくら男好きとはいえ、これではあまりにデトラナ様がおかわいそうですっ」
「お、男好き!?」
 とんでもない言いがかりをつけられたホーバーの悲鳴を無視して、テラは「おいたわしや!」とホーバーの服の裾で涙をぬぐった。
「ま。柔らかい。洗剤はどこの製品を?」
「……自船製です」
 バクスクラッシャーの船員も変だが、シーパーズも大概おかしい。ホーバーはくらりとする頭を押さえた。
「野蛮って……“そちら”の風習にならっただけだから、あれが野蛮かどうかまでは考えてなかったんだけど。野蛮なんですか?」
「大いに野蛮です! か弱いラナ様がもしもお引き受けになったら! 赤子の頃より柔布で磨きに磨いてきました珠のお肌が。ああ、嘆かわしや!」
「か弱い?」
 さっきの剣さばきが見えていなかったのだろうか、と心の底から訴えたいところだが、他船からの客人なだけにホーバーの突っこみもどうにも弱々しくなる。
「ともかく、デトラナはまだ引き受けるとは言ってないわけだし。考えさせてほしいと答えただけで」
「当たり前です! お優しいラナ様は今ごろ、あなた様を傷つけずに遠まわしに断る方法を考えておいでなのですから!」
「はぁ」
 何だか苦手なタイプだった。
(だが、まあ……)
「でも、たとえ引き受けたとしても……」
 ホーバーは食堂の方を振りかえり、わずかに微笑んだ。
「彼女なら、問題ないと思う」
「ん、まぁ!」
 テラは怒りの炎に目をたぎらせ、ホーバーの柔らかい服のそでをキィッと噛んだ。


 そんな二人のやり取りを、影から見つめる船員たちがいた。
 彼らは顔に影を作り、ハァハァと変質者みたいな呼吸を繰りかえして、互いに互いを小突いている。時おり、「お前行けよ!」「お前が行けって!」「いやだよお前が行けよ!」「お前が行けっつってんだろ殺すぞてめぇ!」とひそひそ声で罵り合っている。
 その背後で、バザークがあまりの不気味さに顔を引きつらせていた。
 船員たちは怒りと羞恥で顔を真っ赤にして、バザークをぐわっと振りかえった。
「おおおおお前やるかこの野郎!? お前が、おま、っお前が言ったんだからな!? 俺たちは別にこんなことやりたくもクソもないんだからな、言っとくけどぉお!?」
「はいはい、分かってるって」
 船室を出てから何百回と聞いた「言っとくけど」に、バザークはおざなりに返事をする。船員たちはあっさりとうなずかれ、まごまごと口を開閉させると、再びホーバーとテラをのぞきみて、ハァハァ言いながら、「お前が行け……!」「いやお前が先に……!」と脇腹をつんつんしはじめた。
 バザークは額に手を押しあて、はぁと溜息をついた。
「みんな。そんなことしてる間に、ホーバー、結婚しちゃうよ?」
 途端、責任をなすりつけあっていた船員たちが、ふたたびギラッと振りかえってきた。
 なぜか涙目である。
「それは困……っいやいや俺困らねぇし、ぜんっぜん歓迎だし! 結婚めでてぇー!」
「そ、そうだよ、あはは、結婚めでてぇー! 俺、仲人さんやっちゃうし!? なぁ!? 俺、仲人さん決定だもんな!?」
「そうそう、お前、明日から仲人さんだぜ! レッツ仲人さんだぜ!! なっこうどっ、なっこうどっ、そら、なっこうど!」
「ブーケとか用意しちゃってよ、うっかりお父さんがキャッチしちゃってよ……、そんでもって、お、俺たちが……俺たちが仲人……う、う、うわーん、ホーバーが結婚しちゃうよーっっ」
「オレを置いてあんな女と結婚しないでぇ……って、えぇえ!? か、悲しくねぇ、悲しくねぇし!? 何言ってんのオレ!?」
「あれ、おかしいよ!? 目から酒が出てくるよぅ!?」
「お、落ち着いてくれよ、みんな」
 不慣れなことをしようという緊張感からパニック状態に陥った海賊たちに、さすがのバザークも哀れみを覚えた。
 まあ実際、無茶な要求だとは思う。我ながら馬鹿げているとも思う。
 普段から「出てけ」とか「ホーバー死ね」とか言っている船員たちに、
「ただ、結婚しないでくれ、って言うだけだろ?」
 スパコーン!
 途端に吹っ飛んできた人数分の靴を、もろに美しい顔で受けとめたバザークは、ついでにゴンッと後頭部を壁にぶつけて悶絶した。
「無神経野郎! そんな単純な話じゃねぇんだよ、もっと繊細な心の問題なんだ!」
「便所でションベン引っかけた靴でもくわえてろ、用途のねぇ美形めぇ!」
 涙をほとらせながら、「いいんだ、ホーバーなんかとっとと結婚しちゃえ!」といじけ始める船員たちに、バザークは心底からの殺意を覚え、靴をギリギリと握りしめた。
 不意にその横を、普段とまるで変わらぬ様子の水夫長補佐レティクが横切っていった。
 むさくるしい男どもが、恋に悩む乙女のように打ちひしがれているというのに、彼の無表情っぷりはピクリとも歪む気配がない。そんなレティクを心底尊敬しつつ、それもそれで異常へんだよな……と思いながらぼんやりしていたバザークは、ハッと顔を上げ、泣き伏す船員たちを置いて、レティクの背中を追った。
「レティク!」
「…………」
 呼びかけに足を止め、レティクは冷やかな隻眼を肩越しに向けてきた。
「あ、えっと」
 船員たちとは打って変わって物静かな様子に、バザークはしどろもどろになる。他の船員にならともかく、このレティクにあんな馬鹿げた提案をするのは、いよいよ馬鹿な気がした。
 だがここで怯んでいては事態は変わらない。
「あー、あのさ、ほら、ホーバーとデトラナの結婚の話が出てるだろ?」
 何を今さら、とでも言いたげに、レティクは目を細める。
 バザークは動揺のあまりに、手にしたままの汚い靴を握りしめ、女性相手にはありえないたどたどしさで続けた。
「何て言うかオレ、あの話、ちょっと不安で。クロック船長っていつも余計な話しか持ちこまないし、厄介なことになるんじゃないかって。なのにホーバーの奴、分かってんだか分かってないんだか、全然いつも通りだろ?」
「…………」
「鈍感つーか、無頓着っていうか。だからオレたちが心配してるってこと、ちょっと気づかせやろうかと思って。えー、それで――まあ、要するに、結婚すんなよーってことを、みんなに言ってほしいと思ってんだけど、あはははは! は、は……は」
 北海の流氷みたいな冷たい眼差しに、バザークは笑いを引きつらせる。
 終了だ。撃沈だ。これ以上、何も言うことはない。バザークは負け戦覚悟で返答を待つべきか、「ま、そういうことだからヨロシクッ」と脱兎のごとき戦線離脱を図るかを、冷や汗だらだら本気で悩む。
 レティクは細く息を吐き出し、踵を返して廊下を歩きはじめた。
 バザークは慌ててその後を追った。
「も、もちろん馬鹿げてるのは分かってるんだけど、ホーバーってこういうストレートなのが一番効くと思うんだよ。だからレティクも」
「いいんじゃないか?」
「そう、馬鹿らしいのは分かってんだけど……はい?」
 レティクは足早に歩きながら書類の束を顎先に当てて、もう一度言った。
「いい案だ。やってみるといい。俺も協力する」
 バザークは驚きのあまり、思わず立ち止まる。
 数歩先に進んでいたレティクもまた、足を止めた。
 空気を薙ぐようにバザークを捕らえた彼の右目は、予想に反した鋭い光を宿していた。
「バザーク。どんな手を使ってでも、ホーバーを奪われるな」
 バザークは目を見開いた。
「クロックが仕掛けてきたのは、紛れもなく”戦い”だ。ホーバーを奪われれば、バクスクラッシャーは崩壊する。……この船には、まだあの男が必要だ。何としても死守しろ」
 ぞくりとするほど低い声で言い捨て、レティクはバザークから視線をそらして、再び歩きはじめた。今度はバザークも追うことはしなかった。いや、追うことができなかった。
 バザークがホーバーに去ってほしくないと思うのは、単純に彼が大切な友人だからだ。
 背筋があわ立つ。船の策士とも言うべきレティクが放った一言に、初めて、友人としてではなく、副船長としてのホーバーの存在の重さを認識する。
 クロックが奪おうとしているのは、この船の心臓だ。
 奪われれば、バクスクラッシャーは崩壊する。
「そんなこと、させるもんか」
 バザークは固く、固く拳を握りしめた。
 そして彼は虚空を睨みつけると、いまだにうじうじ悩んでいる船員たちの後頭部に蹴りをかますためにきびすを返した。


 その頃、ハングリー・キング号の豪奢な船長室では、クロック船長が静かな微笑を浮かべていた。
 その太い指の先には、美しい曲線を描く竹組みの鳥籠。止まり木には七色の翼を持つ南国の鳥が羽を休め、首の下を撫でる指にうっとりと目を細めていた。
「そうかそうか。分かっておる、お前もはやく籠から出たかろう?」
 鳥は答えるように、その身の美しさにそぐう鈴の音のような声で鳴いた。
 クロックは黒い笑みを浮かべ、ひっそりと、呟いた。
「もうすぐだ、もうすぐだぞ。のう、ホーバー殿?」

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