ホーバーの思いもよらぬとんだ一幕

08

 クロック船長の巨大な足が、バックロー号の船長室を一歩、一歩と侵してゆく。
 海底深くに響くような、重たい足音。ラギルニットは知らぬうちに、小さい頃に読んだ絵本の登場人物を思い出していた。
 闇の国の王さまだ。王さまは平和だった光の国に災いをもたらし、大切なものを全て奪いとっていってしまうのだ。
 ラギルニットは膝小僧の上で、ぐっと拳をにぎった。
「今、ホーバーいないよ」
 クロック船長はクククと喉の奥で笑った。
「ああ、知っておる。さっきそこで会った」
「……ふーん」
 ホーバーと何か話した? そう聞きかけて、ラギルニットは言葉を飲みこむ。それを聞いてどうしようというのか、自分でもよく分からなかったのだ。
 だが心に秘めた問いは、何故か見破られた。
「ホーバー殿とわしが何を話したか、気になるかね?」
 正体の見えぬ笑顔を浮かべ、また一歩、クロック船長が足を進めた。タネキアの色鮮やかな刺繍が施された靴。それが一歩一歩と進むたび、つま先からどす黒いものがあふれ出し、そこから闇が広がってゆくような錯覚を覚えた。
 ラギルニットはこくりと喉を鳴らして、赤い瞳に精一杯の力をこめた。
「……おれとはおしゃべり、したくないんじゃなかったの?」
「いっちょまえに皮肉なんぞ言うな、ちび船長め」
 呵々と笑って、クロックは樽っ腹をぶよぶよと震わせた。
 しかし目は少しも笑っていなかった。
「少しばっかり、この小憎たらしい爺の相談に乗ってくれんか。ラギル船長」
「……なぁに?」
 嫌だなんて言えなくて、けれど良いよとも言えずに、ラギルニットは問いかける。
 クロック船長は実に嘘くさい友好的な微笑を浮かべると、机に手をついて、ずいっと身を乗り出した。

「南下?」
 舵輪の側で、クロルから借りた船内一番人気の冒険小説なんぞを読んでいた舵手ルイスは、突然の申し出に首をかしげた。
 ラギルニットはその隣にちょこんと正座して、うん、とうなずく。
「南南西に舵をとってほしいんだ。ハングリーキング号がすこし先を行くから、それについていってほしいの」
 ルイスは冬眠中の熊に似た顔を不思議そうに傾け、「そりゃ……」と口ごもった。
「ラギル船長の指示とあれば、俺はどこでも行くけどね。でも何で南下?」
 現在バックロー号、ハングリー・キング号の三船は、一般の船舶が航行する航路からはだいぶ離れた辺りで停船していた。南南西に舵を向けるなら、今日の風では、総帆を広げておよそ三時間ほどで水平線の向こうにタネキア北大陸を見つけることができるはずだ。
 ルイスの問いに、ラギルニットは曖昧に首をかしげた。
「うーんと、クロック船長がなにか見せたいものがあるんだって。陸に上がるわけではないみたいなんだけど……まだ内緒なんだって」
「“クロック船長”が、“見せたいもの”ぉ?」
 二つの単語を強調して繰りかえし、ルイスはいやな顔をした。
「またクロック船長、変なことたくらんでるんじゃないだろうな」
 クロックが言うところの“見せたいもの”とは、つまり、この世のありとあらゆる宝石を目の前に積まれようがフィーラロムやバザークが裸足で逃げ出すような超美男美女を侍らせられようが絶対に見たくねぇからクロックは今すぐ海獣に食われて海の藻屑となれ!と同義である。
 だがラギルニットはルイスの険悪顔をよそに、不自然なほど涼しい顔をしていた。
「うーん、どうかなぁ」
「どうかなぁってラギル。クロック船長の提案がろくなものだったためしなんて、いままでなかっただろ?」
「むーん」
 ルイスの言うことはまったく正しいのだが、ラギルニットは半分上の空で相槌を打った。
 実のところ、ラギルニットはとても拍子抜けしていた。クロック船長が船長室に入ってきたとき、本当に本当に怖いと思った。相談に乗ってほしいといわれたときも、絶対にホーバーのことだと思って心臓がバクバクした。
 けれどクロック船長の相談とやらは、予想を大きく外れていた。

 船長は突然ぷぷうーっと怖気が走るほどかわいらしく吹き出した。
「実はな、ちょっと見せたいものがあるのだよ! 傑作なのだ、わしの最高傑作! あれを見たら、ちび船長、おぬしももちろん、あのむっつり不機嫌ったれのホーバー殿も小便たらしてびっくり仰天間違いなしよ、ふはっはっは!」
 それまで放っていた冷徹な空気など、木っ端微塵に吹っ飛んでいた。目の前にいるのはいつものちょびーっと楽しくて、絞め殺したくなるほど迷惑千万なクロック=バーガーだった。
「え? え?」
 ラギルニットは目をぱちくりさせる。
 クロック船長は目に涙をためながら、ラギルニットの頭をべしべしと叩いた。
「そこで相談なのだ、ちび船長殿! 一緒にちょいと、南下をしてみんかね?」
「な、なんか?」
 叩かれた勢いで噛んだべろを出しながら、ラギルニットは半泣きで首をかしげた。
「見せたいものはの、ここより南の海にあるのだ」
「見せたいものって……」
「おおっとまだ言わんよ、わしは言わんよー。すべては見てのお・楽・し・み!」
 そう言うクロック船長の言葉に嘘は感じられなかった。
 ラギルニットはようやくほっとする。だがまだ警戒を解いたわけではなく、すぐにクロック船長の提案に乗る気にはなれなかった。だから何となくこう続けた。
「うーんと、じゃあホーバーに相談してみるね」
 ラギルニットにとってそれは当たり前の回答だった。これまでも重大なことは全て副船長のホーバーを通している。船長とはいえラギルニットはまだ幼くて、大事な決定は下せないのだ。
 だがそんなラギルを、クロック船長は炯々と黒光る目で見返した。
 そして、言った。

 ……ふぅ。
 ラギルニットは真っ青な空を仰ぎながら、溜息をついた。
「ホーバーには聞いてみた?」
 まだブツブツ言っていたルイスは、船長の暗い顔には気づかずに首をかしげた。
 ラギルニットはどきりとして、ふるふると首を振る。
 ルイスはうーんと唸り声をあげると、手にしていた本の角っこで頭を掻いた。
「じゃあホーバーに相談してからにしたほうがいいな。ホーバーなら、さっき船室に入……」
「――どうしていちいち副船長に聞かなくちゃいけないの? 船長はおれだもん!」
 ルイスはきょとんとする。まじまじと見返すと、ラギルニットは頬をふくらませてプイッと横を向いてしまった。ルイスはしばらく驚いていたが、すぐに両目を楽しげに輝かせた。いかにも子供っぽい発言だったが、ラギルニットが船長としての矜持を持ち始めていると分かって嬉しかったのだ。
「アイアイ、船長! 南南西にある“面白いもの”に向けて、舵手ルイス、勇んで舵を取らせていただきます!」
「うむ、よきに計らえー」
 すぐに機嫌を直したラギルニットは、やる気満々のルイスににぱっと笑顔を向けた。
 だが、ルイスが持ち場に着くのを見送るラギルの眼には、またもやもやとした気持ちが膨れ上がってゆくのだった。

 ルイスの指令はあっという間に甲板を駆け抜け、思い思いにくつろいでいた船員たちは一斉に持ち場へと駆け出した。
 統率の取れた喧騒が船内を駆け巡り、各場のリーダーが的確な指示を飛ばす。健脚の海賊は素早く縄梯子を登り、帆柱のはるか上空にある帆桁に張りついた。下方からの指示とともに、くくりつけてあった帆が一斉に解き放たれる。
 青空いっぱいに広がる、つぎはぎだらけの白帆。海風を受けて帆はすぐさま膨れあがり、見る見るうちに船足を上げていった。
 深い色をした海面に、三隻の帆船の白い軌跡が描かれた。

+++

 その頃、船倉の隅の隅の隅っこに積まれた予備帆のさらに隅っこで、バーガー親子の眼を避けぐーすか居眠りをこいていたホーバーは、ゆるやかに悪夢から目覚めた。
 体の下に感じる振動から船が動いていることを察する。と同時に、体に妙な重みがかかっているのに気付いてうーん……と唸り声をあげた。ナイスな感じに言うなら、骨ばった女性に抱きしめられてる感じで、現実味たっぷりに言うなら、歯車式自動人形ホーバー君に抱きしめられてる感じだった。
 というかそのまんまだった。
「ぎゃあああ!?」
 目を見開いたホーバーは、そこに歯車式自動人形ホーバー君のカブな顔を見つけて悲鳴をあげた。死に物狂いで蹴飛ばすと、カブはパカリと赤い口を開け、ガタブルと小刻みに震え始めた。
『ボボボボボク歯ぐるぐ……ググググググマママママママ、自動にんぎょホホホホバ4号』
「怖――って音声付って何て無駄に高度な!」
「なーんちゃって」
 腹話術かーい。
 ホーバーはカブの後ろからてへっと現われたメルを、手近にあった砲弾を投げつけて退治した。
 メルはなぜか頭に常時設置の演劇用血糊から盛大に血を垂れ流しながら、カブもとい歯車式自動人形ホーバー君4号を抱きしめた。
「ふん、相変わらず生ぬるい突っ込みだな、ホーバーよ。いや、もはやホーバーなどという名前では呼んでやるまい。貴様はこの完璧すぎる4号の誕生により、」
「2号と3号はどうした」
「、すでにオリジナルという最大にして最強の肩書きを失ったのだ。この歯車式自動人形ホーバー君4号、すでにオリジナルよりも優秀にして、優美且つ耽美なエレガントのエクセレントで毎日とってもベジタブル! オリジナルを滅して、この者こそが真のホーバーとなるのだ! ふふふ……っふははははは! 嗚呼、天才すぎる自分が恐ろしくもかわい――いぃ!?」
 ぶしゅー。べちゃ。
 カトラスでカブ頭をブッ刺したホーバーは、さすがはメルの発明品、飼い主同様血糊を内臓してあったカブの返り血を浴び、頭から血を垂れ流した。メルは「もったいない!」と叫んで、懐から取り出したハンケチーフでホーバーの顔を丁寧にぬぐい、ついでに唐突な母性に目覚めて「はい、チーン」と鼻までかませると、そのハンケチーフをカブ頭の上でしぼり、血のりを再注入しなおしたところでようやくほっと息をついた。
「よし、これで大丈夫」
「…………何がだ」
 もう何だかさっぱりなホーバーは、義理で突っ込みをいれといた。
「それより、船、動いてないか?」
 それより、に強引なものを感じつつたずねると、メルは色眼鏡を鼻から外しながら何でもなさげに答えた。
「動いてるわよー。快適快速無敵にね」
「どこに?」
「さあ。くまルイスは、面白いものが何たらかんたらとか言ってたけど」
「面白いもの?」
 訝しげにするホーバーに、メルは「そ」と首をすくめる。
「面白いものに向けて、南下するんだそうよ」
 さっぱり要領を得ない説明に眉をひそめながら、ホーバーは引っかかるものを覚えて顎に手を当てた。
「南下……」
 しかし思考がまとまるより先に、メルが血みどろのスプラッタなカブを押しつけてきた。
「これで完成よ、ホーバー。感謝なさい。この私がタダで発明品を下賜してやるというのだから、末代までメル様万歳を唱えつづけることね。さもなくば蟻の子もびっくり仰天な恐ろしい呪いが、碧頭、また碧頭と脈々と続く子々孫々にまで降りかかるわよ。きっと。」
「完成してないだろ。どう見ても、完成してないだろ」
 1号と大差ない、カブに三本毛が生えただけの物体にいちゃもんつけるホーバーを無視して、メルは大義とばかりにピンクの髪を手で払った。
「これで私にできることはもうないわ。活用方法はじっくりと、そのすっからかんの脳みそで考えることね。…………しっかりなさいよね、副船長」
 メルはむっつりと唇を引き結ぶと、返答を待たず、足音高く階段を上っていった。
「なんだそりゃ」
 疲労がどっと押し寄せてきて、ホーバーは溜め息をついた。
 言うだけ言って、放置プレイもいいとこだ。メルのやることはいつも理解できない。
『メルちゃん、ホーバーがなんだかんだと心配なんっスよー!』
「……どこがだよ」
『分かってないっスねぇ。メルだけじゃないっス、みんなホーバーのこと心配してるっス』
「……ありえない」
 脳内に巣食らったシャークと寂しく会話を交わして、ホーバーはぽりぽりと碧頭を掻いた。否定しながらも、複雑なような、腹立つような、微妙に嬉しいような、妙な気分がした。
「どうしろっていうんだ、このカブ」
 ホーバーは気恥ずかしさを誤魔化すため、カブ頭をぽかっと叩いた。
 途端、天井からカンテラが落ちてきて、ガコンッと脳天を直撃した。
「メル様、万歳!?」
 思わず口走るホーバーだった。

+++

 突然の南下指令は、バクスクラッシャーの船員たちを妙ちくりんな空気の中に叩き落した。
 これまで我が物顔で闊歩し、船員たちに不安の種を撒き散らしていたクロック船長とシーパーズの船員たちが自船に引き返していった。そのことにより船員たちはどっと緊張を解き、同時に緊張していた自分に初めて気がつき、強烈な自己嫌悪に陥ったのである。
「くそ、ホーバーめ!」
 自分たちがこんなに心配しているというのにホーバーの奴は何をしてるんだ――いや、心配だなんてしてない、断じてしてない、何言ってんだホーバーのこの野郎! だいたいデトラナだか何だか知らないが、あの程度の美女なんて別にもったいなくないだろ、とっとと「うるせぇブス!」とでも言って追い返せよ何モタモタ好き勝手やらせてるんだ、クロックの野郎なんかすっかり調子づきやがって婿がどうの嫁がどうの……って別に言っとくけど心配してるわけじゃないからな勘違いすんな……!?
 というのが、大方の船員たちの思考回路である。
 不毛な葛藤の末、南下をはじめて半刻あまり、捻くれ者の船員どもは怒りと恥ずかしさのあまり船室に閉じこもってしまった。
「か、かわいい」
 予想外に可愛い反応をする海賊どもに、バザークは青い顔でよろりとよろめく。女性陣が拗ねる様子は可愛らしいが、男どもが同じ拗ね方で船室に閉じこもっているかと思うと、何だか世を儚みたくなる。
 しかしバザークは咳払いをひとつすると、キッと前方を睨みつけた。
「見てろよ、ホーバー。思い知らせてやる」
 眼前の廊下には、ずらりと並ぶ船室。この中に船員たちが引きこもっている。
 バザークは決意に拳を固めると、手近な扉を叩いた。
 そして変化の余波は、別の場所にも生じていた。
 バックロー号の二層目にある船員たちの食堂、その一角。
 デトラナが壁際のテーブルに腰かけ、沈鬱な面持ちで溜め息をついていた。

 食堂は閑散としていた。当直の船員は甲板で作業を行っており、非番の船員も船室で休んでいるようだ。食堂は元より、カウンターの奥にある厨房にも人の気配はない。
 デトラナの桜貝の色をした唇から、時折、音にはならない小さな吐息が零れる。たいそう官能的な溜め息だったが、床を虚ろに見つめる眼差しにはあの苛烈なまでの自信は感じられなかった。
「デトラナ様」
 ひっそりと控えていた乳母テラが心配そうに声をかける。だがデトラナは返事をせず、床につま先を走らせて意味もなく弧を描いた。
『南下とはどういうことですの、お父様!』
 脳裏によみがえるのは、ほんの少し前に交わしたばかりの父との会話だった。
『南だなんて。お父様、わたくしはまだ……!』
 足早にバックロー号の甲板を横切るクロックの後を必死で追うデトラナ。クロックは足を止め、娘に背を向けたまま低く笑った。
『まだ、なんだというのかの。わしはもう随分と待ったぞ、可愛いラナや』
 台詞とは裏腹に、その声には一欠片の優しさもこめられていなかった。それどころか骨の髄まで凍りつくような冷たい声音をしていた。
 絶句して手を伸ばしたデトラナを鮮やかに無視して、クロックは船べりを越えて接舷されたハングリー・キング号へと戻って行った。そしてそのまま、衝撃から立ち直れずに立ち尽くすデトラナを待つことなく、船はバックロー号から離れて行った。
「お父様」
 衝動的に、デトラナは拳を握りしめる。浮かんだ青筋が心の傷の深さを物語っていた。テラは慰めの言葉が浮かばず、元々小さな背をさらに縮こませた。
 その時だった。それまで散々探し回っても見つけることができなかったホーバーが、何食わぬ顔で食堂にやってきたのである。
 彼はデトラナの存在に気付くと、一瞬複雑な顔を浮かべたが、逃げるでもなくそのまま食堂に足を踏み入れた。
 デトラナは不気味なカブ頭の人形を壁に立てかけるホーバーの姿をぼんやりと見つめる。思考の闇に囚われていた彼女の頭は、それを現実の映像として認識していなかった。
 しかし徐々に意識が戻ってくるのと同時に、焦点の合っていなかった眼差しに驚きが、戸惑いが、そして燃え盛る焔のような激しい怒りが宿った。
「ホーバー、さま」
 デトラナは小刻みに体を震わせて立ち上がった。整った顔立ちが憎々しげに歪められる。彼女は激しい怒気を孕んだ表情でホーバーを睨みすえた。
「あなたがいけないんですわ……」
 安定の悪い人形に苦戦していたホーバーは、背後からの物騒な声に顔を上げた。
「え?」
「そう、あなたが、わたくしの魅力にとっととよろめいていれば」
 憎悪に震える声が唇から零れ、そして、
「――貴様が悪い……!」
 デトラナは歯を軋らせると、腰に揺れるカトラスに手をかけ、力任せに引き抜いた。

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