ホーバーの思いもよらぬとんだ一幕

07

「うぅむ」
 ハングリーキング号の人外魔境な便所に、クロックの唸り声がこもる。別にキバっているわけではないのだが、男子たるもの、便座に座れば自然こういう声が出るのである。
「さすがに出んのう」
 女船員が聞いていたら、「いやぁ! クソ親父ー!」と叫びそうな台詞だが、実際、クロックはこもりたくて便所にこもっているわけではない。彼らにああ言った手前、とりあえず便座に座っているだけである。
 クロックは手持ち無沙汰に、マイ・高級便所紙を手で千切る。臭いがひどいので、千切ったそれを両っ鼻に詰めながら、眉根を寄せた。
「だが、連中のクソも出るとは思えん」
 うんこの話ではない。クロックの用意したカードに対する対抗手段クソである。
 仮にもホーバーは、そしてバクスクラッシャーは、クロックが好敵手と認めた海賊だ。このまま黙って、クロックの脅しに屈するとも思えない。
 現に彼らは、動きはじめている――。
 クロックは目を細めて、床を見据える。
 不意に、その厚い唇が笑みでめくれあがった。
「血が沸き踊るわい」
 それは聞く者がいたら、一瞬にして己の死を悟るだろう冷酷な声だった。
 対抗手段だと?手段などあるものか。
 クロックには絶対の自信がある。
 この最強のカードは決して崩せない。
「どうやらまだ分かっておらんようだな、ホーバー殿は」
 クロックはクツクツと笑った。
『やっぱり、それを盾にする気か』
 耳によみがえる、未来の義息子の言葉。
 笑止。やはりあの男は、理解していない。クロックの真の恐ろしさを。
「ならば教えてやろう。お前が盾と呼んだものの正体を」
 クロックは散り散りになった紙吹雪をぱっと宙に散らし、降る白のなかで笑みを深めた。
 ――せ、船長、はやく出てくださいー! というか、はやく出してくださいー!
 ――も、もう限界です、マジ無理です、船長!!
「出んのう」
 外から聞こえてくる船員の悲鳴を無視して、クロックはふたたび高級便所紙を千切りはじめた。

+++

「ホ、ホーバー副船長、受け取ってください!」 
 場所は変わって、バックロー号の広々とした甲板上。
 麻袋を担いで歩いていたところで、すっとんきょうに上擦った声がホーバーを呼び止めた。振りかえると、シーパーズの女船員がカチンコチンに固まって立っていた。
「おー、おはよう、スー」
「あ、はい、おはようございま……いえっ、そうじゃなくていえあの!」
 いつの頃からか喋る機会の多くなっていた、スーレイという船員だ。何事にもめげない、前向きな性格をした彼女だが、今は心配になるほど激しいパニックに陥っている。
「どうかした?」
 麻袋を下ろして改めて向きなおると、スーレイはぐっと唇を引き結び、両腕をホーバーへと突きだした。その手に握りしめられているのは、宝石の類がついた飾り紐。
「あ、あの、よかったら髪とか腕とかにこれ……タネキアのお守りなんですっ」
 手が小刻みに震え、足までがガクガクと笑っている。解せないほど動揺している彼女を見おろして、ホーバーは不思議そうに首を傾げた。
「お守り? ありがとう……でも何で?」
「何で!? ええと! ハイ!」
 贈り物など、生まれてこのかた貰ったことのない男ホーバーは、察しわるく切りかえす。ついでにお守りと聞いて、俺はそんなに幸薄げかと切なさに暮れてみたりもする。
 スーレイは耳まで真っ赤になってうつむき、唇をぱくぱくと開いた。
「こ、これが最後のチャンスだなって思って! 気持ちをその、つ、つた、伝え……だってデトラナ様と結婚するんですよね、ホーバー副船長!」
 ホーバーは途端、げんなりと頭を抱えた。
「しません」
「……ええ!?」
 スーレイは驚き、思わず飾り紐を手から落とした。
 ホーバーがそれを拾おうとすると、それより先に脇から伸びた褐色の腕があった。
「気をつけて。大切なものなのでしょう?」
 拾った飾り紐をスーレイに手渡したのは、他でもない、デトラナだった。
 青ざめて、口を開閉させるスーレイを不敵な笑みで見つめ、デトラナはこれ見よがしにホーバーの腕へと自分の細腕を絡めた。
 スーレイを見つめる笑顔のなかでギラリと光るのは、女豹のような鋭い眼光。
「どなたへの贈り物なのかしら、ね?」
 スーレイの顔がみるみる白くなってゆく。
「ご、ごめんなさいー!」
 彼女は脱兎のごとく、逃げだした。

 甲板脇に置かれた小舟の側では、女軍団が目に炎をたぎらせ、デトラナを睨みつけていた。勇気を振りしぼっての告白が失敗に終わってしまったスーレイを、女独特の甲斐甲斐しさで慰めながら、キャムが剣呑な顔つきでぼそっと呟いた。
「ムカつく女」
 いつしかすっかり意気投合したシーパーズの女船員からも、賛同の声が上がる。
「他の男どもならまだしも、副船長と結婚ですって! 許せない!」
 料理番のリーチェが、その場で地団駄を踏んだ。
「しなって腕絡めてんじゃないわよ! ホーバー、振り払え! 振り払ってしまえぇ!」
「ちょっと! あいつ、副船長に話かけようとしてる! ね、ね、邪魔してやろう!」
 キャムは声をあげ、みんなの顔を見渡した。だがうなずきはするものの、実際に軍団の輪から飛びだしてゆく者はいなかった。
 認めたくはないが、正直なところデトラナはものすごい美女だ。全員ちらりと自分の体型を見おろして、ううんーと唸り声を上げる。
「まあ。みんなそんな狭いところに縮こまって、何をしてるの?」
 そのとき、春の陽射しのように柔らかな声が、背後から聞こえてきた。驚いて振りかえると、そこにはバクスクラッシャーが誇る船上の天使フィーラロム女医が、涙が出るほど優しい微笑みを浮かべて立っていた。
「え?」
 期待に満ちみちた眼差しを一斉に受け、フィーラロムは小首を傾げた。

「ホーバー様、こちらの船は騒がしいわ」
 スーレイが完全に去るのをギラギラした目で見送ってから、デトラナは絡めた腕にそっと身を寄せた。
「ハングリーキング号で、少し、二人きりの時間を作りませんこと?」
「いや、結構です」
 相変わらず、寄る瀬一つない男である。
 デトラナは瞬間的にイラッとする心を抑え、脳内で「わたくしは美しい」を十回繰りかえしてから、ホーバーの顔を凛とした眼差しで見つめた。
「ホーバー様、ひとつお聞きしてもよろしいかしら──よろしいですわよね」
 今までの経験上、許可を求めるとスパッと一刀両断にされることが分かってきたので、デトラナは強引に話を進める。
「ホーバー様はいったい、わたくしの何がご不満ですの?」
 それはデトラナにしては随分と弱気な質問だった。いままでは自分に魅了されて当然という態度だったのに――さすがに意表をつかれ、ホーバーは思わず「え」と首を傾げた。
「別に不満があるわけじゃないですが」
 それ以前の問題というか。
「では、どうしてこんなにも冷たい態度を? さきほどの娘には気さくに声をかけてらっしゃったのに、わたくしにはまるで」
 ホーバーが珍しく話に乗ってきている。たったそれだけのことなのに、唇が緩むのを抑えられないデトラナである。彼女は笑う口元を手で隠し、ふいっとうなだれた。もちろん傍目には、悲しみのあまりうつむいたと見えるよう計算して。
 ホーバーは健気に泣き伏すデトラナを食い入るように見つめ、遠い目になって答えた。
「警戒本能」
「……」
 野生的直感で、デトラナは危険人物と判断されていたらしい。
「俺もひとつ聞きたいことがあるんですが、いいですか」
 屈辱のあまりに歯噛みするデトラナに気づいてか気づかずか、今度は逆にホーバーが問いかけてきた。
「え」
 珍しい向こうからの問いに、デトラナは我知らず胸を高鳴らせた。聞きたいこと、いったい何を聞きたいというのか。ホーバーはいったい、自分の何を知りたいというのか――しかし次の瞬間、昨夜の腹立たしい問答を思いだした彼女は、我に返って、つんと顎をそらした。
「お断りですわ」
 ホーバーのやり口そのままで返してやる。今まで散々、無体な扱いを受けてきたデトラナの気持ちを少しは理解するがいい、この朴念仁め。デトラナは勝ち誇った気分で目を細めた。
 ホーバーは、カラッと笑った。
「そうですか。じゃあいいです」
「!!」
 驚愕のあまり、指が鉤爪になるデトラナである。
「ホーバー」
 そのとき、どこからか小鳥のさえずりにも似た優しい声が聞こえてきた。
 ホーバーが顔をあげた。デトラナもその視線を追って、前方を見やる。すると輝く陽光の向こうから、一人の女性がこちらへと近づいてくるのが目に入った。
 白い光を背に、ホーバーに軽く手をふる女性。
 デトラナは、思わず喉を詰まらせた。
 光の中からふわりと現れた、淡い金色の髪。天使のように優しげな微笑を浮かべ、若草色の瞳を穏やかに細めた女性。それはデトラナから見ても「美女」と断言できる――しかも嫌味さのまるでない美しい女性だった。
「お話中ごめんなさい、デトラナ」
 美女フィーラロムはふわりと微笑すると、デトラナに小さくお辞儀をした。そして、長年海風にさらされ続けてきたとはとても思えぬ、白く、しっとりとした腕を、ホーバーの空いた腕にそっと添えると、彼女は愛らしく小首をかしげた。
「薬品の入荷のことで少し相談があるのだけど……今、いいかしら」
「薬? ああ、いいよ」
 美女の眩い微笑みにうなずいて、ホーバーはあっさりとデトラナの腕からすり抜け、麻袋を担ぎなおして歩きだした。
 デトラナは割りこむ気すら失わせるフィーラロムの優美さに愕然としながら、何もできぬまま去ってゆく夫の背を見送った。

 陰からその様子を見ていた女軍団は、デトラナが呆然と立ち尽くしているのを見て、ぷぷぷっとひとまず溜飲を下げるのだった。

+++

「大変ね、ホーバー」
 船内の廊下を歩きながら、フィーラロムは言葉とは裏腹、楽しげに笑った。
 完全に他人事な笑顔を受けて、ホーバーは乾いた笑いをかえした。
「そう言うなら、代わってくれ」
「まぁ。私が代わったら、船内にいけない世界が広がっちゃう」
 くすくす笑うフィーラロムに肩を落とし、ホーバーは「ところで薬だけど」と用件を戻した。
 途端、フィーラロムは瞳を丸くし、やがて穏やかに微笑んだ。
「さっきのは嘘よ、ホーバー」
「え?」
「キャムたちに頼まれたの。ホーバーからデトラナを遠ざけてって」
 思いもよらぬ真相を聞いて、ホーバーは不可解たっぷりに首を傾げた。
「何だそりゃ」
「乙女の複雑な心理を理解しろなんて、あなたには酷な話かしら」
 さっぱり意味が分からず、ホーバーは眉間に皺を寄せる。
 そんなホーバーを真摯な瞳で見つめ、フィーラロムはふと唇を開いた。
「みんな、不安なのよ」
 その言葉は柔らかであるにも関わらず、やけに深く耳に響いた。目を瞬かせるホーバーを、船員の心の傷すら癒してきた船医フィーラロムは、深い眼差しで見つめた。
「今回の騒動はどこかいつもと違う。でもどこが違うのか分からない。けれどそれが不安なのではないわ」
「……」
「貴方が何も言わないことに、不安を感じているのよ」
 それは先ほどの真相以上に、思いもよらぬ言葉だった。
 ホーバーは言葉を失い、蒼い瞳をさまよわせ、眉根を寄せる。
「不安?」
 考えこんだ末に、口をついて出てきた言葉はそれだった。様々な疑問が頭をよぎったが、何よりもそこが一番引っかかったのだ。
 船員が今回のことを不安に感じているなんて、考えもつかなかった。
 フィーラロムは微笑する。
「愛されている者は、多々としてその愛に気づかない……クロルに借りたゲルドニーの本にこんな一節があるけれど、本当ね」
「な、なんの冗談?」
 ものすごく、怖気の走ることを言われた気がする。ホーバーは首筋にまで鳥肌を立たせるが、フィーラロムはあくまでも微笑むだけである。
「あなたが素直じゃないのだから、あの子たちが素直に言うわけないわ」
 それは以前にも誰かに言われた台詞だった。
『ホーバーが素直じゃないんスから、船員たちが素直に出るわけ、ないっス!』
 そうだ、シャークに言われたのだ。
 よりによって、あのふざけたコバンザメと同じことを天下の女医に言われ、ホーバーは気まずい気分で前髪を掻きむしった。
「そう」
 どう答えていいのか分からず、とりあえずホーバーは相槌を打つ。
「あー」
 しかし仮に船員が不安を覚えているとして、いったい彼らに何を言えというのか。「俺、結婚しませんので」とか言ったら、「うわ聞いてねぇし!」とか言われそうである。あげく「つーかさっさと嫁いで、クロックと一緒に消えうせろ!」とか詰られそうである。
 それに――。

『次に断ったら、本気にとる。分かるな?』

「言えないなにかが、ある?」
 表情の変化を機敏に感じとり、フィーラロムが声を低くする。
 ホーバーは躊躇いがちに彼女を見下ろし、やがて無言でうなずいた。
「そう、分かったわ」
 それは十二年という長きに渡って、命運を共にしてきた者だけが交わすことのできる、言葉なき会話。フィーラロムは何事もなかったように笑むと、じゃあまたあとで、とホーバーに背を向けた。ホーバーもまた軽く手を振り、やりかけた仕事をしに甲板へと戻ってゆく。
 フィーラロムはそのまま医務室へと向かうため廊下を歩き、洗面所の脇にある角を曲がった。
 危うく、悲鳴を上げそうになった。
「おはよう、麗しの天使」
「お、おはよう、バザーク」
 曲がったすぐ先で、天下の色男バザークがぬぼーっと突っ立っていたのである。
 バザークは緑色の瞳を悲しげに曇らせると、フィーラロムの細腕を流れるような動きで掬いあげ、そのまま踊るように身を反転させて、壁にやさしく押しつけた。
「先生、ぼく、胸の奥が疼くように痛むんです」
「まぁ、かわいそうに。切開して、見てみましょうか」
「ごめんなさい嘘です俺すっごい健康体です全身きわめて正常値です」
 喉元でギラリと光るメスにじりじりと冷や汗を零して、美男子は速やかに謝罪した。
 いつもの「挨拶」を終えたバザークは、不意にはぁと素な溜め息を落とした。
「しっかしホーバーの奴、やっぱりまだ何か隠してたんだな!」
「あら。バザークったら、立ち聞きしていたの?」
 フィーラロムは苦笑し、そうねと誰もいなくなった廊下を振りかえった。
「どうやら予想よりも、悪い事態になっているようね」
「うん」
 バザークはうなずき、うなずきながら自分の予想が、フィーラロムの予想よりもさらに悪い方向へ向いていることを確信していた。
 フィーラロムや他の船員は、まだ結婚話の裏に船長への引き抜き話があることを知らない。
 船員たちはすでに、この結婚話が冗談ではないと気づきはじめている。彼らの感じている不安は、そこから来るごく単純で漠然としたものだ。
 バザークの懸念はもっと深刻だった。
 彼は、紛れもなくクロックは本気であり、ホーバーを船長に引き抜く気であることも知っている。しかし――疑問はここだ。ラギルニットは、ホーバーが時おり思い悩むそぶりをするのは、長年の友の申し出を無下に断れないからだ、と推測していた。だがどちらにしろ断る気なら、いつまでも気を持たせておくのはおかしい。そしてホーバーの性格上、どちらにしろ断る話ならば、さっさと断っているはずなのだ。
 しかしその様子がまるでない。
 まだ何かがあるとは思っていたが、偶然立ち聞いてしまった話で、それが確かになった。
 ホーバーは何かをまだ、隠している。
 そしてそれを、奴は親友であるバザークにすら言わないのだ。
「まったく、こっちがどれだけ心配してるかなんて、ぜんっぜん気づかないんだからな」
 思わず出た独り言を聞いて、フィーラロムがふと茶目っ気たっぷりに笑った。
「なら、気づかせてあげる、というのはどうかしら? バザーク」
 意味ありげな提案に、バザークは「え?」と首をかしげた。

 そして二人が企み顔で作戦を練っているその頃。
 もうひとつの、「気づかせる」ための作戦が、開始されようとしていた。
 廊下に響く、重く、硬い足音。
 それは真っ直ぐに、バックロー号の船長室に向かっていた。

 十一時。掃除しゅうりょー! バックロー号も、ハングリーキング号も、ピッカピカになったよー! もうおなかぺこぺこー!
 料理番が、お昼ご飯を作り始めたみたい! バクスクラッシャーとシーパーズ、三つの船全部の厨房と甲板で、百人分のご飯をつくってて、すっごーく良い匂いがしてるよ!
 魚や鳥が集まってきて、味見して、ぜんぶなくなっちゃうかも!

ラギルニットの航海日誌より

「はぁ……」
 航海日誌を書き終えたラギルニットは、溜息を落とすと、開きっぱなしの頁の上に顎を乗せた。
「うー」
 無意識に、猫が喉を鳴らすみたいな呻き声が洩れる。声がぶ厚い日誌に反響して、やけに大きくなって耳に返ってきた。途端、自覚のなかった脱力感がどっと押し寄せてきて、ラギルニットはぎゅっと唇を引き結んだ。
「なんでだろう……」
 朝から心のどこかが沈んでしまっている。まるで宝物が海の底へと沈んでしまったみたいだ。海に潜って掴もうとしても、宝物が重すぎて持ちあげられない、そんな感じ。時間が経つにつれ、それはどんどん重くなってゆく。昨日はもっと元気だったのに。今朝はもう少し元気だったのに。今はこんなに重たい。
 何でだろう。何が引っかかっているのだろう。
 何がこんなに不安なのだろう。
「んん?」
 ふとラギルニットはふやけた顔を日誌から持ちあげた。顎を乗せていた頁を見下ろすと、空元気な文字がぐにゃりと滲んでしまっている。
「あ!」
 慌てて両手で顎を擦ると、小さな掌に黒いインクが滲んでいた。まだ乾いてもいないのに、顎を乗せたりなんかしたから、インクが擦れて顎に転写されてしまったのだ。
「うわーっもう! おれってばおっかし──」
 気恥ずかしげにくすくす笑って、いつもの習慣で寝棚を振りかえったラギルニットは、そこに空の寝棚を見つけて、ドクリと心臓を高鳴らせた。
 ホーバーは朝から船長室に戻ってきていない。
 船員たちに追っかけまわされているのか、クロック船長に詰めよられているのか、それとも、今朝部屋にいたデトラナにべったりとくっつかれているのか。
 いつもなら甲板や船内で仕事をしていても、何度か船長室に戻ってきて、寝棚で寝転がってラギルニットの色々な話を聞いてくれるのに。
(なんで? なんでこんなに不安なの?)
 ラギルはどきどきと不穏に高鳴る心臓に手を当て、自問する。
「……おかしいや」
 ラギルニットはしゅんと肩を落として、顎に写ってしまった空元気な文字をぐいぐい擦って消した。
 その時だった。
 ギィ。
 船長室の扉が軋んだ音を立てて開かれた。
「ホーバー!?」
 パッと顔を上げたラギルニットだったが、扉に立つ幅広の体躯を認めて、慌てて口を両手で押さえた。
 逆光を受けて、船長室の入り口に立つ不気味な影。
 黒い顔のなかで、赤い口が裂けるように笑みを作る。
「すまんな、わしで」
 クロック船長だった。

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