ホーバーの思いもよらぬとんだ一幕

04

 バックロー号と、ハングリー・キング二号船には、極彩色の布が幾重にも敷かれ、マストや船縁にも布が垂らされた。同じ色のクッションも幾つも並べられ、ハングリー・キング号の船倉の中身は全て布かクッションに違いないとバクスクラッシャーの船員の誰もが思った。
 また船内のあちこちにランプを置くための台が設置され、葉や鳥や魚といった自然の生き物を象った彫り物が蝋燭を支えるという、面白い形のランプが幾つも並べられた。
 日が沈みはじめると、ランプに火が灯され、甲板の敷き詰められた布の上には、貯蔵してある食材で出来うる限りの豪華な食べ物が並んだ。酒も、船倉に詰めてあった酒樽全てが並べられ、船員たちが隠し持っていたものまで掘り出された。
 男たちは甲板に置かれた、宴会には邪魔な物々を片付けたりと力仕事を終え、少々眠そうであったが、漂ってくる良い匂いに思わず笑い声を零した。女たちは料理を作り終え、果物もおおかた切り終えると、ほっと汗をぬぐって互いに自分は何を作っただの、どれを切っただの語り合う。
 子供たちは手が空く限り様々な仕事を手伝ったが、まるでタネキア大陸の宮殿が少しばかりこちらへ移動してきたような甲板のきらびやかな様子に、疲れた様子も見せずにはしゃぎ回った。
 夜も深まり、天空には白と青の星々を散りばめた濃紺のビロードが広がる。
 月光が島一つ見えない海上を照らし、波一つない穏やかな海面に、美しい象牙色の道を敷いた。
 ランプの火は一層輝きを増し、幻想的な灯火で船上を温かく照らし出す。
 海賊たちの宴が、始まる。

 十八時、宴会の開始だよ! みんな顔がキラキラしてるよー。
 今日はご飯も豪華、料理番のみんながうでにより(←チェック!
 意味をあとで、誰かに聞く)をかけたんだって! ご飯もみんなといっしょにさわぐのも、すっごく楽しい!
 でもねすっごく胸騒ぎがするんだよ。だってホーバーは
 楽しい! よ!

ラギルニットの航海日誌より
 ──カンカンカンカン!
 宴会の開始を伝える船鐘が、楽しげに打ち鳴らされた。
 甲板に歓声が巻き起こった。
 船員たちは皆大きな円をいくつも作り、車座になって目の前の料理にかじりついた。
 一度乾杯した後も、些細な祝い事を発見しては、「ヘーイ!」と瓶口を鳴らしあう。「再会を祝して!」「誕生日おめでとう!」「怪我の完治万歳!」「魚の目発見!」
 花咲く会話は、会わなかった間の報告。他愛もないことから、かなりすごい冒険話まで。円は次第に崩れ、船員たちは様々な人の間を、食べ物と酒を片手に行き合った。
 そんな中でも船員たちの視線を引いたのは、シーパーズの美女デトラナ嬢であった。
 誰もがその凛とした美しさに、胸をときめかせている。だが彼女の周囲に取り巻きはいない。みな遠巻きに彼女を見つめるだけだ。
 何故かといえば、デトラナがひどく不機嫌そうだからである。

 デトラナは実際かなり相当凄まじく、機嫌が悪かった。
 その理由は、賭け試合で「ホーバーとデトラナは結婚しない」の賭け数の方が断然多いせいであり、それにともない流れている噂「デトラナはホーバーを落とせなかった」のせいであり、何よりデトラナ自身が確かに自分があの優男にしてやられたという思いがあるからだった。
(冗談じゃありませんわ!)
 デトラナは幅広のクッションの上で組んだ胡座の上で、拳を握りしめた。綺麗に伸ばした爪が掌に食い込んで、少しばかり痛かった。
(何なんですの、あの男は! 何で少しもわたくしに心を動かさないんですの!)
 視線を向けても振り返りもしない、首に腕を回してみても無表情、他の男たちのようにかしずくそぶりもなく、必死で考えた文句で口説いてくるわけでもない。
 何故なのだろう。
 数時間悩んでみても、答えが出なかった。何故ならデトラナの中では、自分の魅力に落ちない男などいないことになっているからだ。
 デトラナは豪華な食事にも手をつけず、唇をぎりぎりと噛みしめた。
 と、そんなデトラナの肩を、背後から軽く叩くシワシワの手があった。振り返ると年老いた女が、首を傾げてこちらを覗きこんでいた。
「どうなさったのですか、デトラナ様。せっかくのお顔が歪んでおりますよ」
 デトラナは馴染みの老婆の言葉に慌てて表情を改め、噛んでしまった唇を指先でもみもみ揉みほぐした。老婆はシワの下に埋没した目を細め、クツクツと肩を震わせた。
「どうやらホーバー様は難しい方のようですねぇ」
「テラ、わたくし理解できませんの」
 デトラナは幼少の頃から彼女の側にいる老婆テラに、正直に打ち明けた。テラは勧められもしないのに、デトラナの右隣に腰を下ろし、幾度も幾度も頷いた。
 そしてふと老婆は、デトラナの耳元に小さな口を寄せた。
「実はあたくし、見てしまったんです」
 意味深げな物言いに、デトラナは興味を惹かれ、テラをまじまじと見下ろした。テラは辺りをはばかるように視線を巡らせ、誰も近くで聞いている者がいないのを確認すると、そっと耳打ちした。
「どうもあのホーバー様は、男色の気があるようです」
「──っな」
「お静かに!」
 思わず声を荒げたデトラナを、テラはぴしゃっと制した。声に出すことはどうにか抑えることが出来たものの、デトラナは妙に興奮する心を鎮めることはできなかった。
「ど、ど、どど、どういうことですの」
「どもっております、デトラナ様。実はですね、先ほど船の中で、見目の良い若者とホーバー様が仲睦まじそうに抱き合って、歌など歌っていたのでございます!」
「まあ!」
 デトラナは悲鳴を上げて顔を青くし、信じられないとばかりに口元を手で覆った。テラは更に続ける。
「それにそれを遠くで見ていた船員が、こう言ったのです! ……ラブラブだねぇ」
「きゃー!」
 仰け反るデトラナ。
 テラは納得した様子で、深くゆっくりと頷いた。
「だからですよ、デトラナ様。ホーバー様は、女になど興味がないのです。賭け試合の納得いかない賭け数も、あの若者とホーバー様の仲が公認であるからです!」
「────」 
 もはや声も出ない様子のデトラナ。テラは哀れむようにデトラナの頭を引き寄せて、子供をあやすように自分の肩の上で優しく髪を撫でてやった。
「ど、どうすれば良いのかしら、わたくし……」
「目覚めさせてあげるのですホーバー様を、貴女が」
「わたくしが?」
「そう、彼を人の道に戻して差しあげなさい。デトラナ様の美しさで。そうすれば彼は貴女様の魅力に気づき、そして虜になっておしまいになるでしょう」
 デトラナは複雑そうに眉根を寄せる。
「でもどうやって?」
 テラは目を輝かせた。
「男とは悲しい生き物。美しい女性が寝床で手招いていれば、ついつい理性を忘れてしまうものです。ホーバー殿は女には興味がない方、けれど他の女ならばいざ知らず、貴女の魅力の前では男にならざるを得ないでしょう。貴女だからこそできることです。分かりますか」
 デトラナはしばらく何も答えずにいたが、しばらくしてふっと口元を艶かしい笑みで彩った。
「そうですわよね。今度こそ、やってやりますわ」
「その意気です、デトラナ様!」
 激しく勘違いしている、女どもであった。

 数分後、テラがどこかへと消えるなり、バザークは遠巻きにデトラナの美しさを見つめている船員たちの間を縫って、怖じ気づいた様子もなく彼女の右隣に立った。タネキアでは左隣は夫以外は座れぬという風習がある。そこにきちんと気を配り、バザークは柔らかく微笑んで口を開いた。
「隣、いいかな」
 どんな堅物すらも饒舌にさせてしまう、暖かな表情と豊かな声。隣に立ってもちらりとも視線を送らなかったデトラナは、声を聞いて初めて顔を上げた。
「ご自由に」
 つい顔を上げてしまった自分に腹を立てた様子で、デトラナは棘々しく言い放つ。しかしバザークは気にした様子もなく、隣にのんびりと腰を下ろした。これがホーバーと噂の「見目の良い若者」だということは、もちろんデトラナは知らない。
「少しお話しません? デトラナさん」
 クロック船長からは離れていることをひそかに確認してから、バザークはどこか幼さの残る、警戒しようにも警戒しようのない優しい微笑を浮かべた。いつもの女性を口説く時のふざけた微笑ではなく、完全に無意識な彼の本来の笑みである。
 デトラナは自分まで無意識に笑おうとしているのに気づき、慌てて口を引き結ぶ。
「うちの副船長との結婚のことだけど君自身はどう考えているのかなと思って」
 単刀直入に、バザークは切り出した。
 デトラナは灯火に照らされ、豪奢に輝く黄金色の髪を掻きあげ、首を傾げる。
「おっしゃる意味が良く分かりませんわ」
「そうだね。そう、この結婚は君の意思だとは、俺には思えないんだけど」
 柔らかに切り返すバザーク。デトラナは華麗な刺繍を施したクッションの上の胡座を気だるそうに組みかえ、ふんと目を伏せる。
「ホーバー様も同じことをおっしゃっていたけれど、わたくしの意思など関係ありませんわ」
「どうして? これは君の将来の伴侶を決める、とても大切な問題だ」
 伴侶の候補者に俺が含まれるか否かという重大事でもある、とバザークは片目をぱちんとつむってみせる。
 すぐ側を水夫の子供たちが笑いながら走り抜けていった。恐らく盗品だろう、彼らの両手には、「光り砂」と呼ばれる貴族たちの玩具である。夜になると不思議な光を放つ粉末が山々と乗せられ、それが時折手の内から零れ落ちて、夜の空気に虹色の輝きを放った。
「わたくしに伴侶を選ぶ権利など、ありません」
 バザークは何故という言葉を飲み込み、デトラナの次の言葉を無言で待った。
 デトラナは随分経ってから、呟いた。
「逆らえませんもの、お父様が怖くて」

+++

「いや、あめでたいホーバー! まあ飲め飲め!」
 酒臭いスタフががはがはと笑いながら、酒をどぼどぼと注ぐ。すでになみなみと注がれている液体に気づいていない様子だ。銀製の杯に次々と酒が注がれ、次々と溢れ出していった。
「あんな美女と結婚! 組んず解れつったまんねぇなぁ!」
 ドボドボドボ。貯蔵云百年の高級ワインが甲板に吸い込まれてゆく。満足そうにバックローがぎしぎし唸ったのは、気のせいだ。
「返事くらいしろや、ホーバー。喜んでやってるんだからよう!」
 スタフは赤ら顔を陽気に笑わせ、ばしばしと「ホーバー」の頭を叩いた。

 その光景を遠巻きに見ていたメルは、完成率八十%とピンク色の丸眼鏡を光らせた。
「あー変人メルが変人チックに笑ってるー」
「ふふふ散りなさい将来愚民決定なお子らよ脳天にフラスコ刺すぞ」
 足元で指差して笑い飛ばしてくるシーパーズの見習い水夫をブツブツと追っ払い、メルはスタフの横でカタカタと動いている歯車式自動人形ホーバー君一号の動きをギラギラした目でチェックした。動力は水力がいいか、火力がいいか、実験途中の空気圧がいいか。やめろよせスタフ、叩くな殴るな蹴るな、世界的な大発明が壊れるではないか。
「さっさと行くが良い、私を愛した愚かな男よ」
 メルは視線はそっちへ向けたまま、アホな発明品のおかげでスタフの猛威から逃れることのできたホーバーに、ひらひらと手を振った。
 ホーバーは疲労困憊で半分閉じた目を気味悪げに細め、「一応あんがと」と言って背を向けた。歯車自動人形ホーバー君一号、後で必ずぶち壊す、と固く決意しながら。

「あれ?」
「おや?」
 賑やかな宴会の席を離れて、舵台への階段を登ったホーバーは、先客がいることに気づき、驚いて声を上げた。
  「あんたもお月見かい?」
 そこにいたのは、クロルだった。
 クロルは舵輪の側に足を投げ出して座っていた。その手にはしっかりと酒瓶。
「そ。月見がてらに、ちょっと休憩」
 ホーバーは乾いた苦笑を浮かべつつ階段を登りきって、クロルの側に腰を下ろした。
「ほい、月見酒」
 やはりホーバーも持ってきていた酒瓶をクロルの側にとんっと置くと、クロルは空を仰いで豪快に爆笑した。
「さすがだねぇ、ちょうどなくなって寂しい思いをしてたとこだよ!」
「は? あげるなんて言ってないけど?」
 そらっとぼけて肩をすくめると、クロルは更に笑ってホーバーの肩をばしいっと叩いた。
「嫌だねぇもう! ケチケチしないで、ちょこっとおくれよ!」<
「お前のちょこっとって、一升瓶軽く越すだろーが。これってどれくらいかなぁ。一升ないんじゃないのー?」
「あー! ムカつく男だよ! 何でもいいから、酒をおくれぇー!」
 ケタケタ笑いながら叫ぶクロルを見て、ホーバーは疲労も忘れてつられて笑った。
「やっぱ良いねぇ、仲間が無事ってのは。愉快な気持ちだよ。ほんと、嬉しいねぇ」
 クロルは両腕で上体を支えて、瞬く星々を見上げ、微笑んだ。
 それを見つめながらホーバーは頷く。
 と、クロルがホーバーにちらりと視線を送り、なんとも言えない笑いを零した。
「ま、今回はホーバーにとっては災難だったみたいだけどね。下はうるさいだろう? それでここに来たのかい?」
「……お見通しか」
 ホーバーは乾いた笑いを浮かべ、溜め息をついた。
 舵台の下の甲板の光はここにはぼんやりとしか届かない。賑やかな声も少し遠くて、ホーバーは少し疲れを忘れた。
「でもま、そう悪い話でもないんじゃないかい? 船長になるっていうの」
 突然のクロルの言葉に、ホーバーは思わず勢い良くクロルを振り返ってしまった。クロルはどこか遠くの星を見つめ、先を続ける。
「デトラナも美人だしね。性格は少々あれだけど、じゃじゃ馬馴らしも楽しいかもしれないよ?」
「……それは、本気で言ってるのか?」
 ホーバーは真剣に問い返す。
 クロルは目を伏せ、しばらく黙った末に、苦笑混じりに握っていた瓶でコツンとホーバーの頭を弾いた。
「そうなったらホーバーがいなくなったら、きっと、少しかなり寂しいけどねぇ」
 ホーバーは頬杖の下で、少し気恥ずかしげに微笑み「素直じゃないことで」と呟いた。
 しかしそこでふとホーバーは眉根を寄せた。
 船長になるってのも?
 この結婚話の裏に、船長への引き抜き話が隠されていることは、ホーバーとガルライズ、シャーク、そしてラギルニット以外の船員はまだ知らないはずだった。
 横目でクロルを見やると、クロルはホーバーの言葉を受け、豪快に笑っていた。
 だがホーバーが問いかけるより先、彼女はふと表情を改めた。
「じゃあ、素直に言うとするよホーバー。クロック船長の話は、断っとくれ」
 少し目を丸くし、ホーバーは首を傾げる。
「奴は本気さ。宣戦布告をしてきたよ。かわいそうにラギルもすっかり落ちこんでる」
 クロルは酒瓶を口につけ、高く掲げて中身を飲み干す。
 宣戦布告。不穏な言葉に、ホーバーは眉をしかめる。甲板に目をやると、光り砂を手にはしゃぎ回っている子供たちの中で笑っているラギルニットが、目に入った。
「そうか。ラギルが話したのか」
「どんな犠牲を払ってもいいよ。シーパーズを怒らせることになってもいい。行かないどくれ」
 クロルの夜空よりも黒く、夜空よりも綺麗な瞳が、どこか不安げに彷徨う。
「まだみんな、クロックのあれは冗談だと思ってる。結婚話の裏にある大事に、まだ気付いていない。だからあんなに適当にはしゃいでる。もし全てを察したら」
「どうなるかな」
 ホーバーは抱えた膝に顎だけ埋めて、船員で埋めく甲板を見下ろした。ふっとおかしそうに笑う。
「喜ぶ奴の方が多いんじゃないか? うっさい奴が消えて」
「消えたら寂しくなるのが、うっさい存在さ」
 クロルが眉を持ち上げ、目を細めてにんまりと笑った。それが妙に面白い表情だったので、ホーバーは笑った。
「あんたを嫌ってる奴もまぁいるだろうさ、セインとかセインとかセインとか。でも好きな奴の方がずっと多いね。それは情報通の女どもを取り仕切ってるこのあたしが、よーく知ってる。──もしクロックが本気だと分かったら。裏にひそむ後継ぎの話に気付いたら、確実にシーパーズと乱闘になる。だからその前にきっぱりと断っておくれ」
「……へーい」
「冗談じゃないよホーバー。ラギルが泣く前に。そんであたしがクロックの馬鹿を殴る前に」
 ホーバーは眠そうな目を細め、自分でも思わぬ柔らかな微笑を浮かべた。クロルは少し目を丸くし、「明日は雪だね」とからかった。

 舵台の下、上からは声だけが届く位置で、ガルライズはひっそりと笑った。

 クロックは舵台の様子をちらりと見てとり、隣で飲んでいる左目を眼帯で覆ったバクスクラッシャーの水夫長助手の肩をつんつんと指でつついた。
 眼帯の男レティクはクロックが指差す方向を見てから視線を戻し、静かな眼差しを細めた。
「彼女は何者かね?」
 クロックの言葉に、レティクは小首を傾げて静かに口を開く。
「……クロル。うちの船の女頭ですよ」
 レティクは無表情にグラスに口をつける。クロックは相好を崩し、身を乗り出した。
「そうかそうか。で、ホーバー殿とはどのような関係かね?」
「古くからの友人で、親友のようなものです。クロルはすでにバザークという男がいるので、あなたがご心配なさるようなことはないので、ご安心を」
 周囲のバクスクラッシャーの船員が、おや?と顔を見合わせたが、クロックは気づかず、レティクは気づかぬふりをした。
「おおそうか、話が早くて良かったよ、レチク殿」
「レティクです」
「レテク?」
「……別に何でも結構ですが」
 クロック船長の企みの裏にある大事に気づいた数少ない船員のうちの一人であるレティクの大ボラによって、危ういところ利用されるのを免れたクロルであった。

「どこ行くの?」
 突然立ち上がったデトラナを、バザークが驚いて見上げる。それを無視して、デトラナは軽やかな足取りで甲板を突っ切り、船長室の扉のノブに手をかけた。
 バザークは追おうとして腰を持ち上げたが、待ちかねていた様子のシーパーズの女船員たちに周囲を囲まれ、身動きが取れなくなってしまった。
 デトラナが扉を開けるなり、テラが船長室から出てきた。
「テラ」
「デトラナ様、準備が出来てございます。頑張ってくださいましね」
 テラは頬を興奮気味に紅潮させ、甲板の方へと走り去っていった。デトラナはそれを見送ってから、船長室へと入った。
 船長室に明かりは灯っていなかったが、そう暗くはなかった。正面の窓から、明るい月光が差し込んでいるのだ。
 ──バックロー号の船長室は、素敵なことになっていた。
 床一面に派手な色彩の敷物が幾枚も重ねて敷かれ、それに対し淡い色彩のクッションがあちこちに置かれている。わざわざ天井から、何か艶かしいものを感じさせる、薄い布が垂れ下げられ、扉や窓からの隙間風にさらさらと揺れている。
 デトラナは多少緊張した面持ちで布を掻き分け、柔らかな敷き物の上にゆったりと寝そべった。何を考えているのか、時折体勢を変えたり、脚を組みかえたり、胸元をはだけてみたりする。
 と、突如船長室の扉が押し開けられた。
「……」
 デトラナは艶っぽく目を細め、腰を微妙に動かしながら、緩やかに手招いた。
「入ってらして、ホーバー様」
 扉を開け放したまま立ち尽くしていた人物──デトラナからは薄布に遮られ、誰かが判別つかない──は、扉を後ろ手に閉めた。
 デトラナの心はにわかに緊張する。小さい頃から母に言われつづけてきた、夫となるべき者だけが貴女を手に入れることができるのよ、と。だから、男をはびこらせ、かしずかせることはあっても、褥の経験はなかった。
 ホーバーは優男な上、性格もどうにも嫌な感じで、加えて趣味が何やらアレなようだが、夫は夫だ。デトラナはホーバーのもの、そしてホーバーは今宵デトラナのものになるのだ。
 彼女には、そうなる自信があった。
 人影は招いた通りにこちらへと近づいてくる。そして大きな手が、デトラナの前に垂れ下がる薄布を掻き分けた。
 ──が。
「人違いでございます、お嬢さま」
 やがてひょいと顔を出したのは、薄い色の金髪をだらだらと伸ばした、背の高い青年だった。笑いを必死に噛み殺した顔で、彼はデトラナを見下ろした。
「ななんですの! だ、誰!」
 デトラナは呆気にとられた一瞬後、素早く身を起こすとキッと男を睨み据えた。男は軽薄な笑みを口端に刻み、小首を傾げた。
「ガルライズと申します。ガルでもダラでも、適当に略してお呼びくださいな。それにしてもまぁ、凄い有様なことで」
 ガルライズは楽しげに笑い声をたて、船長室をぐるりと見渡した。あの雑多な船長室が、今やタネキア貴族の王后の部屋と化している。デトラナは男の意図が掴めず、本能的に後ずさった。
「あ、ご心配なく。俺、貴女に興味ないんで」
 あっさり言い放ち、ガルライズは言葉通りデトラナを見向きもせず、部屋を眺め回した。
「……では、出ていってくださらない?」
 少々どころか、相当癪に障ったが、とりあえず計画の遂行のため、手でガルライズを追い払った。
 ガルライズは頭をぽりぽりと掻き、ふとデトラナを見据える。
 何となくぞっとするものを感じ、デトラナは口を引き結んだ。
「これは失礼。邪魔する気はなかった。邪魔するまでもない」
 ガルライズは薄布を分けた手を下ろす。布が彼の前に再び垂れ下がり、その姿を霞める。
「老婆心で一つ警告をしにきたのさー」
 ガルライズは扉を開けながら、呟く。
「ホーバーちゃんってば、見かけによらず激しいから、気をつけあそばせ」
 パタン。
 扉が静かに閉められる。
 後に残されたデトラナは、ほっそりした顎に手を当てて「まあ。激しいんですのね」とあらぬ想像をして、顔を気難しくさせた。

「限界」そう言い置いて、ホーバーは舵台を後にした。「おやすみ、色男」とクロルが声をかけてきたので、肩ごしに手を振り返す。
 眠くて死にそうだった。船員たちにどつかれまくったおかげの肉体疲労、散々からかわれ野次られた精神疲労、積みに積み重なりまぶたが今にも閉じそうである。
 手すりに掴まりながらのろのろと階段を降り、ホーバーは舵台下に並ぶ二つの扉の内、奥の船長室の扉に手をかけた。
 背後でクロック船長が凄まじい笑いを浮かべていたが、気づく由もなく──ホーバーはノブを回した。

「……」
 ホーバーは半目で変貌しつくした船長室を眺めた。
 一瞬ここはどこだろうと思った。ハングリー・キング号の船長室かとも思ったが、あそこよりは幾らか地味だ。
 ふと衣擦れれの音とともに人の気配を感じた。視線を走らせたホーバーは、「あーなるほど」と妙に納得した。天井からご丁寧にも垂れ下がる、本来寝台を囲うために使われる薄布。月光で黄色く透けた布の向こうに、うっとりと寝そべっている女の人影がある。
「ホーバー様?」
「はぁ」
 目頭を指で揉みながら、適当に頷く。人影がなぜか安堵した様子で、たおやかに手招きをした。
「今夜はじっくりと語らいませんこと?夫婦として」
「はぁ」
 ガシガシガシ。ホーバーは南海色の髪を掻き毟り、やがて敷布の上に足を踏み入れた。
「あー、靴は脱いだ方がいいんですかね」
「そうですわね……、その方が都合が宜しいかと」
 ホーバーは一度豪華絢爛な敷物から出て、濡れた甲板で滑らぬよう靴底に特殊な彫りが入れられた靴を脱ぐ。そして改めて敷布の上を歩いた。
 ついと薄布を掻き分けると、その中には猫科の動物を思わせるしなやかさで横たわるデトラナがいた。
「ホーバー様」
 デトラナが何ともいえない笑みを浮かべている。高貴さや恥じらいや緊張や懸念や興奮や妖艶さやともかく何もかもが綯交ぜににされた、男が興奮せずにはいられない類の、「女の微笑」を浮かべていた。
 こんな笑みをあんな姿勢でいかにもな場所で見せられて、手招きされた日には、理性など吹っ飛ぶというものだろう。
 ホーバーはデトラナが招くままに彼女の左隣に腰を下ろした。デトラナは「楽勝だわ」と思いながら、蛇のように腰を優美にくねらせながら上体を起こし、「男色の気がおありなホーバー様」の夜気に冷えた頬を暖かな手で包み込んだ。ふふと軽やかな笑い声を意図的に零しながら。
 デトラナは彼の唇に自分のそれを近づけながら、少し意外に思った。柔そうな男だと思ったが、意外にしっかりとした首筋をしている。それに髪の色に気を取られて、大して顔の造作に注目はしていなかったのだが、近くで覗き込んでみるとなかなか端正な顔立ちだ。南海色の細い髪、北海の蒼く透明な瞳──その目が自分の目をじっと覗き込んでいることに気づき、デトラナは顔を赤らめ、思わず動きを止めた。
 ホーバーは彼女の睫毛に縁取られた眼差しを覗きこみながら、デトラナの手をさりげなく外した。
「一つ聞いていいかな」
「何ですの……」
 自らの声が少しばかりうっとりとかすれていることに気づきつつも、デトラナは目の前の夫となる男に見とれずにはいられなかった。ひっそりと開く唇が愛しくさえ感じられる。状況に酔っているのだろう、この優男をそのように感じるなんて。
 だが悪い気分ではなかった。
「クロック船長を説得する気はない?」
 声も深く柔らかだ。囁き声はなおのこと、甘美な響きすら持っている気がする。
 デトラナは微笑した。
「無理ですわホーバー様。お父様に逆らうなど出来ませんもの」
 ホーバーはそうと頷くと、今一度デトラナを見つめた。
「もう一つ聞くけど、タネキアでは夫は左隣?」
「そうですわ」
「そ」
 ホーバーは目を細めて幾度か頷き、おもむろにデトラナの肢体の上に跨った。
「まあ、大胆な方」
 デトラナは思わず目を閉じ、思いのほかあっさりと陥落した夫の体温が彼女を覆い被さるのを待った。あの腹の立つ男が言った「激しい」情況に、少々心をときめかせつつ。
「……」
 が、いつまでもそんな情況は訪れない。一瞬体の上を熱が通り過ぎたように感じたが、それだけだった。
 デトラナは不審げにちらっと片目を開ける。その目に映るのは夫の顔ではなく、天井。慌ててもう片方の目も開け、左隣を見るとそこも空。焦って視線を走らせ──彼女は絶句した。
 タネキアで夫は左隣。右はそれ以外。
 ホーバーは自分の隣にいた。右隣に。
 右隣でホーバーは、デトラナに背を向けて、寝ていた。
「???」
 状況が理解できず、デトラナはホーバーの肩をとりあえず揺すった。
「ホーバー様?」
 ホーバーは「んー」と唸り、半目を開けると、デトラナをぼんやりと見つめた。
「ホーバー様その」
「うん、おやすみー」
 すでに寝ぼけきった様子の、例の深く柔らかい甘美な声が、そう告げた。ホーバーはそれだけ言うと、目を閉じてとてっと顔を床に落とした。
「……」
 あはははは! 扉の外で子供たちが笑っている。
「」
 カタカタカタ。隙間風に吹かれ、窓枠が微かに音をたてている。
「……」
 すー。
 ホーバーの静かな寝息が、聞こえてきた。
「……」
 困惑して呆然と座り込むデトラナは、数分後、まったく相手にされていなかったのだと思い当たり、自分の思い違いへの羞恥と、小馬鹿にされプライドを傷つけられた怒りと、一瞬でもこの男に見とれた屈辱とで、顔を真っ赤にした。
 元々吊り気味の目を更に吊り上げて、音が鳴るほど歯噛みする。
 やはりこの男は、女に興味がなかったのだ!
 そしてその「女」の中に、この自分も含まれていたのだ!
「……っ」
 げしっ!
 デトラナは腹立ちのあまりに、美女に有るまじき強烈な蹴りを、ホーバーの背中に入れてやった。
 ──が、それが悪夢の始まりとなった。
 ホーバーが蹴りにうながされたように寝返りを打って、ごろりとあお向けになった。かと思いきやそれを皮切りに、部屋のあちこちをごろごろごろごろと寝返りを打ちながら移動し始めたのだ。
「な、な、な、何ですの!?」
 デトラナはずるずると後ずさり、部屋の隅に置かれた作戦机に背を押し付けて、奇妙な生き物と化したホーバーを恐怖に彩られた目で見やった。
 色気より食い気より、眠気。
 そう、ホーバーはバクスクラッシャー1、「寝相」が「激しく」悪い男なのだった。

「あれ? ダラ金だぁ」
 ラギルニットは船長室の扉の前で噛み煙草を噛んでいるガルライズを見つけ、子供たちの輪から外れて、ぱたぱたと駆け寄った。
「どうしたの? 楽しそう」
「うん、死にそう」
 実際目尻に涙を浮かべながら、ガルライズは肩を震わせた。
 そしてふと顔を上げ、ラギルニットの頭をぽすぽすと叩いた。
「ラギル、今日俺の部屋で眠らん?」
「え? 何で?」
「いやならいいんだけどしょぼん」
「え! いやじゃないよいやじゃないよ! 寝る寝る寝る寝る!」
 ガルライズはにやりと邪悪に笑った。
「ありがとさん」

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