妖怪市場

「まじケンは、犬派? 猫派?」

 クラスメートの質問に、ぼくの顔は青くなった。
 ついにこの日が来たと思った。きっと鏡で見たら、漫画の主人公みたいに顔の上半分に縦の線が入っていたにちがいない。

 このころ、ぼくのいる小学三年一組ではちょっとした騒ぎが起こっていた。
 犬と猫。ペット二大巨頭のどちらが好きかを争い、クラスがまっぷたつに分かれて言い争っていたのである。

「猫は目がこわいからイヤ。ぜったい犬」
「犬はほえるじゃん。猫のほうがかわいいよ」
「おれさー、ちっちゃいときにさー、猫に手をひっかかれたんだよ。なでようとしただけだぜ?」
「わたしのいとこのお姉ちゃんなんか、犬に追いかけられて、転んで、傷を針で縫ったんだから!」

 次第に先生も呆れるぐらいに争いは過熱し、学級委員主導のもと、「犬猫どっちが好き戦争のルール」が発表された。
『犬か猫、かならずどちらかを選び、好きな理由も答えること』
 ちなみに犬猫以外でも、ウサギやハムスターはセーフとされた。ウサギは学校にもいたし、ハムスターを飼っている子もいたから、例外がつくられたのだ。
 けれど「どっちでもいい」だけはぜったいに許されなかった。初日に「どうでもよくねー?」と笑ったダイスケ君は、学級委員とそのトリマキに「一生、ペットは飼いません」という誓約状を書かされたのだ。
 そんなわけで、ぼくはすっかりおびえていた。
 なにしろ、ぼくが育ったマンションはペット禁止物件。エントランスには「知人から一時的に預かるなども含め、動物をマンション内に入れることをいっさい禁止します」と書かれたポスターが貼られ、ぼくはペットという存在にまったく接することなくここまできたからだ。どっちが好きかなんて語れるわけがなかった。
 ぼくは緊張にわななく唇を開いた。
「え、えっと……い、犬! かなあ」
「いいぞいいぞ、まじケン。さあ、理由を答えるんだ!」
 クラスの人気者で、犬派の中村君が嬉しそうに言う。
 理由。理由はなんだろう。犬のどこがいいか、まったく思いつかない。
「じゃなくて……そのう、猫、かも?」
「やっぱり猫よね! ケンくん、猫のどこが好きなの?」
 男子の半分が恋してる猫派の篠原さんが詰め寄ってくる。
 ぼくは顔を赤くしながら、目玉をぐるぐるぐさせた。
「猫……は、えー、あ、ううん、犬……、猫……、うーんと。えーっと」
 しどろもどろになるぼく。てきとうに答えればいいじゃん、と悪魔のぼくが囁く。でも、ぼくのあだ名である「まじケン」の「まじ」は、「まじめ」の「まじ」だ。あだ名になるぐらいまじめなぼくは、悪魔を必死に遠くに追いやる。
 けれど、はっきりしないぼくを見て、中村君と篠原さん、それにまわりを囲っていたクラスメートたちは声をそろえて言った。

「……ふぅ――ん」

 ああ、そのときのみんなの白けた目ときたら!


「犬か猫、飼いたい」
 その晩、ぼくはリビングのテーブルに突っ伏してぼやいた。
「だめなの知ってるでしょう?」
 アイロンがけをしていたお母さんが困ったように答える。
「でも、みんな飼ってるんだよ?」
「みんなはみんな。うちはうちです」
 出た。テストの点が悪かったとき、「お隣のくうちゃんは毎日勉強してるわよ」ってひとと比べるくせに、ぼくにはいつだって「うちはうち」って言うやつ。
「でも。でもさ。しんちゃんの家もマンションだけど、こっそり猫を飼っててさ」
 お母さんはため息まじりに言う。
「ねえ、ケン。ほんとはお母さんだって飼いたいのよ? 小さいころ、黒と白の猫を二匹飼っててね。膝のうえで丸くなって眠る姿のかわいかったこと!」
 ぼくはショックを受けた。つまりお母さんは猫派なのだ。
 どちらの派閥に入るべきかもわからないぼくの苦しみなんて、お母さんにはぜったいにぜったいにわからない。
「けど、こっそりなんてだめ。いけないことです。しんちゃんのお宅だって、けっきょく大変な騒ぎになっちゃったでしょう? ほら、ご近所さんから『鳴き声がする。匂いがする』って大家さんのところに苦情がいって」
「じゃあ、ウサギは? ハムスターは? 鳴かないよ」
「匂いがするでしょ。ゴミだって、けっこう皆さんに見られてるし……だめです」
「でも、でも」
「だめったらだめです」
「なあ――」
 そのときだった。
 ソファに座って新聞を読んでいたお父さんが、突然、会話に割って入った。
「妖怪市場、行ってみないか?」
 ぼくはぽかんとした。
「よーかいいちば?」
「そうだ。週末、天気予報をみると晴れるらしいから。行ってみないか?」
 ぼくはどうしてお父さんが突然そんなことを言いだしたのかわからなかった。
 もちろん、この世に妖怪という生き物がいることは知っている。でも、ペットを飼いたいという話をしていたのに、どうしていきなり妖怪の話になっ――、
「あ!」
 その瞬間、ぼくの体をビビッと稲妻が駆けぬけていった。
「お父さん、ありがとう! ぼく、妖怪市場に行く!」
 目を輝かせて言うと、お父さんは新聞をじっと見ながら「うん」と気のない返事をした。



 次の日曜日、さっそくぼくたちは妖怪市場へと出発した。
 軽自動車の後部座席の窓にしがみついて、ぼくは高速道路の外灯の列がびゅんびゅん後ろに遠ざかっていくのを見つめる。
(お父さんは頭がいいなあ。犬や猫はだめでも、妖怪ならだいじょうぶな子もいるかもしれないもんね)
 昨日の夜はねむれなかった。図書館で借りた『妖怪図鑑』を眺め、マンションで飼うのに理想的な妖怪を探した。
 鳴かなくて、匂いがしなくて、マンションで飼ってもばれないぐらいに小さな子。たとえば、「クサイクサイ」とか「夜泣き猫」とかはだめだ。
 リュックには、貯金箱。虫かごも詰めこんだ。すっかり探検隊の気分になって、方位磁石にトランシーバー、懐中電灯まで用意した。
 お母さんは呆れて「自分で背負えるなら、どうぞ」と肩をすくめたけど、ぼくはもう三年生だ。ちょっとよろめいたけど、ちゃんと背負うことができた。
「さあ、もうつくぞ」
 お父さんが言った。ぼくの興奮はピークに達した。


 幹線道路からドラッグストアの横道を入ってすぐ、赤いとんがり屋根の家の前で車は止まる。
 お父さんが車をおり、お母さんもあとに従い、ぼくは目をぱちくりさせた。
「……ここ?」
 とんがり屋根の家は、おとぎ話に出てくる小人の家のようにメルヘンチックだった。妖怪市場というおどろおどろしい名前とは結びつかない。
 ぼくは急に不安になった。お父さんは妖怪市場に行く気がなくなり、とつぜん違う場所に来ることにしたんじゃないかな。そう思った。だって前にも「ラーメン食べにいこう」と言って、なぜかお好み焼き屋に入ったことがあったし。
「久しぶり、兄さん。なんだ、また太ったか?」
 そのとき、とんがり屋根の家から伯父さんが現れた。
 伯父さんというのは、毎年、お正月にお年玉をくれるお父さんのお兄さんだ。
「ここが兄さんの洋食屋? ずいぶんメルヘンだなあ」
「家内の趣味だよ。さいきんのお客は料理の味より先に、まず外装、内装を重視するからって。ああ、ケンちゃん! 今日は遊びに来てくれてありがとう」
 ぼくに気づいて、伯父さんがふっくらした顔を笑わせる。
 返事をしないでいると、伯父さんは不思議そうにした。
「車酔いでもしたかな?」
「いや、この子は車は得意だよ」
「昨晩はしゃいでいたから、疲れちゃったのかも」
「はしゃいでたの? いやあ、うれしいなあ。さあさあ、立ち話もなんだから、どうぞ店のほうに。さ、ケンちゃんも」
 背中をやさしく押され、ぼくは心臓をばくばくさせながら、おもいきって伯父さんを見上げた。
「おじさんのお店が妖怪を売ってるっていうこと?」
 市場というのは、お店がたくさんあるものだと思っていたけれど、ちがったのかもしれない。おじさんのお店が妖怪を売っている市場なのかも。ぼくはよくわからない風に考えて、そう言った。
「え? ヨウカイ?」
 伯父さんがきょとんとし、しばらくして「あっ」と手を叩いた。
「もしかして、妖怪市場だね?」
「うん! そう、妖怪市場!」
 ぼくは安心するが、伯父さんは申し訳なさそうにした。
「そっかあ。勘違いしちゃったか。ごめんごめん、ここは妖怪市場じゃないんだ」
「兄さん、なんのことだ?」
「ほら、ここ八日市場だろう。よ、う、か、い、ち、ば。前に知り合いのお子さんも勘違いしてたよ。ガッカリさせちゃってねえ」
 お父さんも「ああ!」と叫び、大声で笑いだした。
「なんだ、だからケン、虫取り網をもっていきたいなんて言ったのか? 妖怪捕獲用に? ばかな奴だなあ!」

 千葉県匝瑳そうさ市、八日市場ようかいちば――。
 ぼくはその町の名を、「妖怪市場」だと聞き間違えたのだ。
 でも、それはもうちょっと大人になってからわかったことで、ぼくはそのとき自分の勘違いを理解したわけではなかった。ただ、なにかをまちがえ、笑われたのだということはわかった。
 悲しかった。悔しかった。
 だってぼくは本当に本当に、妖怪市場に行けることをたのしみにしていたんだ!
 ぼくはぱっと身をひるがえした。
 いきなり走りだしたぼくを、慌てた声が追いかけてくる。
 腕を捕まれそうになり、ぼくはとっさに伯父さんの店と隣の家の間にある、細い路地に飛びこんだ。
(お父さんなんてきらいだ! 犬も、猫も、妖怪も、みんなみんな大きらいだ!)
 ぼくはがむしゃらに腕を振って走った。

 そして突然、まっくらな闇に飲みこまれた。

「……えっ?」
 いきなりの暗闇に、ぼくはびっくりして足を止めた。
 あわてて背後を振りかえるが、路地の入口はもうどこにもなく、走ってきたわずかな道のりはすっかり闇に飲まれていた。
 昼の町も、追いかけてくるお父さんたちの姿も見あたらない。
 ぼくはぽかんとした。そのまましばらく立ちすくんでいたけれど、やがて「ちょうどいいや」と思った。だって、もうどうしたってお父さんたちには会いたくなかったのだ。
 ぼくはリュックサックをおろし、懐中電灯を取りだしてスイッチを入れた。
 帯状の光が闇を切り裂く。そこはどこかの森のようだった。
 ぼくは地面を照らす懐中電灯の丸い明かりを追って、森を歩く。この森がふつうじゃないことにはすぐに気がついた。
 だって、見上げた樹々のむこうに浮かんでいるふたつの白い円盤は、どう見たってお月さまだ。ふたつもあるなんておかしいし、お月さまの前を大きな翼を広げて横切っていったのは、まるでドラゴンに見えた。
 心臓が変なふうにばくばくとする。さっき会いたくないと思ったお父さんたちの顔が頭のなかに浮かんで、心細さでいっぱいになる。
 けれどそのとき、ぼくの耳がにぎやかな声をひろった。声だけでなく、前方に赤い提灯のあかりがいくつも見えてきたので、ぼくはほっとして懐中電灯のスイッチを切り、上着のポケットにしまった。

 闇の森にひらけた広場のような場所に、赤い提灯をさげた露店がずらりと並んでいる。ちょうど毎年、小学校の校庭でやる夏祭りの雰囲気に似ていた。
 いったいどこから来たのか、露店のあいだをたくさんの人が歩いていた。
「……餌はなにを?」
「やっぱり……は、妖怪にかぎる……」
「瓶に入ったやつはどうやって……を……」
 ぼくは足を止め、声のした方向にある露店を見つめる。
(いま、妖怪って言った?)
 店棚に並んでいるのは、瓶や籠、金魚鉢、さまざまな容器だ。防災頭巾のようなものをかぶった店主が、お客さんとぼそぼそ言葉をかわしている。お客さんはお金を支払うと、なにかの瓶を受けとり、持ち去っていった。
 ぼくは緊張しながら、露店の右脇に置かれた自分の背丈より大きな籠に近づいた。瓜みたいな形をした竹製の籠だ。
 格子の奥を覗きこむと、宿り木に鳥が留まっていた。
 鳥、だと思う。
 こちらに背を向けている、ペリカンよりも大きな鳥。長い尾は虹色に輝き、身体にぴたりと寄せた翼は、時おり、ネオンのように光輝いた。
 とつぜん、鳥がこちらに首をまわした。
『去れ、小僧。この爪でずたずたに切り裂いてやるぞ!』
 振りかえった鳥の顔は、怒りに目を吊りあげた白髭の老人のものだった。
 木工ナイフみたいに大きな爪を向けられ、ぼくはわっと逃げだした。
 そして逃げながら確信した。

(ここは、妖怪市場だ! 妖怪市場は本当にあったんだ!)

 じゅうぶん逃げたところで足を止め、ぼくは深呼吸をする。
 そして笑いそうになるのをこらえながら、今度はもっと慎重に市場を観察した。
 大きな籠はもう見なくていい。ぼくが欲しいのは、マンションでこっそり飼える、小さくて、鳴かなくて、匂いのしない妖怪なのだ。
 小さい籠。小さい籠。小さい籠……。
 ぼくは、真っ赤に塗られた木枠の露店の前で立ち止まった。
 店棚に置かれていたのは、両腕で抱えられるほどの大きさの鳥かご。
 覗きこむ。なにもいない。
 もっと顔を近づけて見てみると、籠の奥の奥で、お父さんの手のひらほどのサイズの妖怪が、ぶるぶると震えながらうずくまっているのがわかった。
 長い耳を持つ、白い毛をしたうさぎみたいな妖怪だった。
「そいつは五百円だよ。いきがいいからね」
 やっぱり防災頭巾みたいな布を頭にかぶった店主のおじさんが言う。
 五百円。貯金箱には、六百十三円入っている。この子ならぼくでも買える。
「鳴きませんか?」
 おずおずとたずねると、おじさんは笑った。
「妙なことを聞くね。サバくときのことを言っているなら、なあにうまくやるさ、心配ない」
「サバく?」
 ぼくは首をかしげる。
「匂いはする?」
「くさみはないよ。別名を『コーソーいらず』って言うぐらいだから」
「コーソーいらず……」
「コモチのメスもいるが、オスでいいのかい? ぷちぷち感を楽しみたいならコモチが断然おすすめだが」
 なにを言っているんだろう。ぜんぜんわからない。
 ぼくは改めて籠の奥にいる妖怪を見つめる。
 なんでこんなに震えているんだろう。けれど、こちらをじっと見つめる大きな瞳は真っ青で、ビー玉みたいにきれいだった。
 この子だ。この子がいい。ぼくはこの子が気に入った。
「この子をください」
 勢いこんで言うと、おじさんがにぃっと笑った。
 ぼくは急いでリュックサックを開け、持ってきた貯金箱を取りだした。
 そのあいだに、おじさんはなにかを用意していた。
 顔を上げると、ちょうどおじさんが籠に腕をつっこみ、妖怪の長いうさぎ耳をまとめて一掴みにするところだった。
 なんて乱暴なことをするんだろう。目をまん丸にしていると、おじさんがいきなり腰のベルトから包丁を掴みとった。
「すぐにサバくよ。挽き肉にもできるけど、どうするね」
「えっ?」
「ハンバーグ用かい? それとも鍋か、塩焼きか、唐揚げか。骨付きもいけるし、なんでもお好みのままだよ」
「ハ、ハンバーグ???」
「まさか刺身がいいのかい? 渋い子だねえ。悪いが、毒抜きのライセンスは持ってないんだよ。生食にするのは勘弁してくれ。オスだし、ハンバーグにして食べるのがいちばんおすすめだよ」
「食べる!?」
 ぼくは仰天した。
「ぼ、ぼく、その子を食べたりなんてしないよ、かわいそうなこと言わないで。ただ、ぼくはその子を、か、家族にしたいだけで――!」
 おじさんに耳を掴まれ、ぶるぶると震えていた妖怪がすがるようにぼくを見た。
 同時に、おじさんが恐ろしい勢いでぼくに詰めよってきた。
「かわいそう? 家族だって? なんてことを! よもや忘れたとは言わさんぞ。百年前、妖怪どもが鬼ノ国を侵略したとき、奴らが我らにいったいどんな仕打ちをしたかを。鬼姫様が鬼ノ国の奪還に成功するまで百年の長きにわたって、食用として飼育されつづけた屈辱の歴史を!」
 おじさんが妖怪をまな板の上にのせ、包丁を振りあげた。その拍子に、おじさんの頭から防災頭巾が外れる。
 あらわれたのは、額から角をはやした鬼の顔。
「やめて!」
 とっさに鬼の腕に飛びつくが、突き飛ばされて地面に尻餅をついた。
 ぼくは無我夢中で上着のポケットをまさぐり、なかから懐中電灯を取りだした。
 スイッチを入れた瞬間、白い光線が鬼の目を貫く。
 鬼が「ギャッ」と悲鳴をあげ、捕まえていた妖怪を手放した。
 地面に転がりおちた妖怪が、青い瞳からぽろぽろと涙を流しながら、ぼくを見上げて叫んだ。
『助けてくりゃあ……!』
 しゃべった! ぼくは驚くと同時に、わきあがる勇気といっしょに決意した。この子は、ぼくが守るんだ!
 ぼくは妖怪を拾いあげるなり全力で走った。鬼が追ってくる。怒号が迫ってくる。転びそうになりながら市場のぐるりを囲う森へと飛びこみ、必死に腕を振って、走って、走って、走って――、

 そして、ぼくは光あふれる人間の世界へと飛びだした。

「わっ」
 突然、路地から飛びだしてきたぼくに驚いて、お父さんが声をあげた。
「なんだ、路地に入ったと思ったら、すぐに出てきて! びっくりさせるなよ」
 ぼくは目をまたたかせた。
 そこは伯父さんの店と、隣の家との間にある路地の入り口だった。
「あれ? ぼく……ええと」
 お父さんと伯父さん、その背後にはお母さんも立っている。
 お母さんが目をまん丸にし、ためらいがちに口を開いた。
「ちょっと、ケン? その両腕に抱えているのは、なあに?」
 ぼくはきょとんとした。
 そして、両腕のなかでぶるぶると震えている長い耳の妖怪を見下ろした。


 妖怪「香草いらず」。通称、コウちゃん。
 それが、ぼくがペット禁止のマンションでこっそり飼いはじめた妖怪の名前だ。
 ぼくの考えていたとおり、コウちゃんは匂いもなくて、鳴きもしなかった。
 ただし、めちゃくちゃしゃべった。
『脳に髄の一滴も入っておらぬ愚昧な鬼人どもめが!』
 今日もつぶらな青い瞳を無邪気に輝かせ、コウちゃんは言う。
『二百年の昔、先に妖ノ国に攻め入り、神火より生まれいでし亜縹兎螺様の血脈たる我ら小妖族を食用たらしめたは鬼人のほうが先。ようやく国の奪還叶い、角以外には喰らうべき箇所なき鬼人どもを食用にしてやったは束の間の百年。千年に渡る報復をと祖先に誓ったというに、あな口惜しや、あな口惜しやぁー!』
 コウちゃんの言っていることは半分も理解できなかったし、お父さんとお母さんはなぜか「これは夢か現実か」「近所からご家族が増えたんですかって聞かれるの。どうしたらいいの」「弁護士に相談しよう。いや、役所か? 動物愛護協会か?」だのと頭を抱えているけれど、ぼくはコウちゃんが大好きだった。
 いつもフンフン鼻息を荒くして怒っているわりに、そばを離れると、『どこにいくのだ』とふるふる震えながら追いかけてくる姿は、かわいくって、愛しくって、胸がきゅんきゅんした。
『我の守護星、人ノ国に生まれし光の勇者ケンよ。いずれ共に妖ノ国に帰還し、我が祖国を占領せしめたきゃつら鬼人どもを血祭りにあげてくれようぞーッ!』
「うん、コウちゃん! ぼく、お祭り大好きだよ!」


 さて、ところで、三年一組の犬猫騒動についてのその後についてだけれど、コウちゃんを飼いはじめた翌週、ぼくはまたクラスメートにこうたずねられた。
「まじケンは、犬派? 猫派?」
「今度こそちゃんと答えてもらうからな、まじケン!」
 ぼくは「待ってました」とばかりに、力いっぱい答えた。
「妖怪派だよ。決まってるでしょう!」

 ああ、そのときのみんなの白けた目ときたら!



おわり

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