喉笛の塔はダミ声で歌う

第59話 凶暴な飼い犬

 小さなルゥが先導するように先を歩き、アキは手製のものか、不格好な木の杖をつきながら、一歩、一歩、転げるような足どりでこちらまで近づいてきた。

「〈喉笛の塔〉の話を聞きたいんなら、そいつらじゃ役立たずだ」

 アキが荒い呼吸の合間に、かろうじて言葉を発する。
「自分の頭で考えられない。考える力がないんだよ」
 すぐ間近まで迫ったアキの顔は、土気色に変色していた。額には汗がにじみ、いまにも倒れてしまいそうだった。
 ――そう思ったとき、本当にアキがよろめいた。がくりと膝から崩れ、車椅子のほうに倒れかかってくる。
「オースター様!」
 ラジェがすかさず車椅子の前に割って入り、同時にジプシールがアキを力任せに突き飛ばした。
 木の杖が床に転がり、アキもまたすぐそばに尻もちをつく。
「……はは。痛い痛い」
 アキはくっくっと笑う。
 オースターはアキからすこし離れた場所に立つルゥに目をやった。不思議と、ルゥに怯えた様子はなかった。ただ、透きとおった眼差しで、兄と、オースターとをじっと見つめている。
「本当いいよねー。そうやって、いつもだれかに守られてるやつはさー。殺してやりたくなるよ」
 アキが投げやりに吐き捨てた。オースターは視線をアキへと戻す。
「貴様――」
「なんだ、こいつは……!」
 ラジェとジプシールがアキに掴みかかるが、オースターはふたりの腕を両手で掴んで止めた。
「下がっていて。知り合いだ」
「オースター様、部屋に侵入しようとしたのはこの男です。同じ匂いがする」
「知り合い? 冗談だろう、オースター!」
 ジプシールとラジェは信じられないものを見るようにオースターを振りかえった。
「大丈夫だから。下がっていてくれ」
 冷静に命じると、ふたりは言葉を失い、アキを憎らしげに睨みながらも一歩、後ずさった。
 アキは薄く笑い、「そうそう、どけどけ」とふたりに嘲笑を向けた。
 ジプシールがカッとなって拳を振りあげるが、オースターが再度制止すると、今度こそ身を引いた。オースターの傍らに立つラジェが殺意を隠さずに控えているので、ラジェがいれば大丈夫だと判断したのだろう。 
 オースターは車椅子の前で座りこんだままのアキを見下ろした。
「ロフはどうしたの」
「どうしただって? 間抜けな質問だな。死んだに決まってんだろ」
 ルゥに目をやる。ルゥは小さくうなずいた。事実のようだ。 
「アキは生きのびたんだね」
「はっ。あいつがぬめり竜の餌になってくれたおかげでね」
 血走った目でオースターをじっと見つめたまま、アキは無事なほうの腕を伸ばして車輪を掴んだ。
 杖がわりにしようというのだろう、力を籠められた車輪がわずかに前に動き、かわりにアキの体が肘が触れあいそうなほど間近に立ちあがった。
 アキを間近にすると体が勝手に震えた。
 思いだしたくもないのに、地下水道でふるわれた暴力や無体が脳裏をよぎる。
(いいや、大丈夫だ。ルゥが連れてきたんだ、大丈夫)
 オースターは自分に言い聞かせ、アキをキッと睨みつけた。
 ――その瞬間、身のうちにあった恐怖があっけなく消えていった。
 アキは、前ほどに怖くはなかった。
 理由はすぐにわかった。アキの黒い瞳にあったのが、憎しみでも、怒りでも、狂気や殺意でもなく、途方もなく大きな慟哭だったからだ。
 アキが肘かけに乗せたオースターの腕を掴んできた。我にかえるオースターに顔を寄せ、耳元に囁きかけてくる。

「残念でしたねえ、オースター様。俺が死んでいれば、あんたの秘密は守られたのに。気丈なふりをしてるけど、表情が硬いよ、お嬢さん」

 頬が触れあう。冷たい頬だ。わざとだろう、耳を食むように唇を寄せてくる。
 けれど、気色悪さこそ感じても、怖いとはやはり思わなかった。
 オースターは小さく息をつき、同じように囁きかえした。
「ばらしたいなら、どうぞお好きに」
「へえ、大した強がりだねえ」
「強がりだと思うの?」
 頬を触れあわせたまま、互いに横目で相手と視線を交わす。
「怪我をおしてまで、いったいなにをしに来たんだ、アキ」
「なにって、わかってるだろ。あんたの秘密をドファール家に売る前に、親切心からそれを教えにきたってわけさ」
「さっきも言ったけど、どうぞご自由に。君が握っている秘密には、もう大した価値はない」
 昨日までなら、大いに価値はあったろう。ドファール家の当主にとって、オースターが女であるという事実は、オースターを第一大公位継承者から追い落とす絶好の理由になったはずだから。
 だが、オースターはすでにルピィに大公位を明け渡している。
 秘密が暴露され、オースターと母は死罪になれば、当主はすこしばかり溜飲を下げるだろうが、それだけだ。

(ううん、本当はそれなりに価値はある)

 約束をした。
 ルピィ・ドファールの紡ぐ治世を、男として傍らで見守りつづけると。
 ここで死罪になれば、その約束を破ることになる。

(それはやっぱり嫌だな……)

 オースターはしかしその心を悟られないよう、表面上では平静を装った。
「君はずっと権力者に媚びへつらって生きてきたんだろう、アキ。だったら、よく風向きをよく見ることだ。君たちホロロ族を講堂に呼んだのは、ルピィ。そして講堂で君たちを待っていたのは、僕。なにが起きて、どんな取引があったのか、もっと想像力を働かせてみろ。そして考えるんだ。君が後生大事に抱えてきたその秘密とやらには、まだ価値はあるだろうか、と」
 アキが身を離そうとする。しかしオースターはアキの胸倉を掴み、いっそう自分のほうへと引き寄せた。
「いまの君は、完全な役立たずだよ、アキ」
 血走った眼球に殺意が閃く。オースターはそれでもアキの首根から手を離さなかった。
 アキとロフのふたりはずっと「役立たず」という言葉に過剰に反応していた。
 だれかにそう思われ、侮られることを、ひどく嫌った。魔導大国アモンでの「飼育」生活が、ふたりにその観念を与えたのだろう。鳴かない鳥に待っているのは、死でしかなかったから。 
 だからこそ、アキはいま焦っている。フォルボス局長に見放され、ドファール家の庇護も失い、ともに辛酸をなめてきたロフも亡くして、アキは寄る辺を失った船そのもの。漂着場所を探して必死に足掻いている。
(だから僕を脅してる)
 欲しいのは、居場所。きっと、ただそれだけ。
 一言「居場所が欲しい」と言えば済むのに、これまでの人生でそれが叶った試しなどなかったから、唯一手元に残った「武器(ひみつ)」を手に、オースターを脅すしかない。
 それがわかるから、もうアキは怖くない。
 あとはただ、オースター自身がアキに望むものを与えてることを是とするか、否とするかだけ――。
「幸せになりたいって言っていたよね、アキ。人を傷つけ、人を殺せば、幸せになれるはずだと。なら、アキに聞きたい。いま、君は幸せ? 僕を殺そうとした対価に、ロフを失ったのに?」
「おまえ……っ」
「僕は君たちがしたことを許せない。ランファルドのひとたちにしてきたことも、ルゥに対してしたこともだ。たとえそれが、アモンの貴族たちが君たちにしてきたことの再現だったとしても。ふたりがずっと命を軽んじられてきた結果だったとしても。
 けれど、もしここで自分が役立たずじゃないと証明できるなら、僕が君を飼ってあげてもいいよ。アキ」
 アキが虚を衝かれた様子で息を呑んだ。
「僕の飼い犬になるなら、僕が生きているかぎりは君の身の安全は保障してやる。ただし、絶対にこれだけは守ってもらう。人は殺すな、傷つけるな、たとえ自分の命に危険が及ぼうとも、自分の身を守ろうとはするな。見返りもなにもない。名誉市民のバッヂもあげない。金も、権力も、君にはいっさいを与える気はない」
「ふざけやが――っ」
「かわりに、ロフに墓をつくるよ」
 ふいに、アキの瞳に動揺が走った。言葉をなくし、喘ぐように息をする。
「地上でも、地下でも、どこでも。いつか君が死んだときには、アキもおなじ墓に入れてあげる」
「……墓」
 アキがぽつりと反芻する。
 墓。墓。墓。はじめて口にした食べ物を味わうように、何度となくその語感をたしかめる。
 アキの体から力が抜ける。オースターは掴んでいたアキの襟首から手を離した。
 アキはのそりと身を起こし、「墓かあ……」ともう一度、呟いた。
 呆けた口調だった。全身から溢れだしていた毒気は消えてなくなり、アキはよろめくようにその場に膝をついた。 
「……なあ、あんたに理解できる?」
 床をぼんやりと見つめ、アキがぽつりと呟く。
「オレはさ、あいつがいればそれでよかったんだ。あいつさえ生きててくれりゃ、ほかのだれが死のうが、どうだってよかった。このクソ妹だってそうだ。あいつなんかいらねーのに、ロフがいなくなって、こいつが残って……ルゥが死ねばよかったのに」
「アキ」
 アキはオースターの叱責など欠片たりと気にした様子もなく、薄笑った。
「なんでここに来たのかって聞いたよな。あんたの秘密にもう価値がないなんて、とっくにわかってた。オレがここに来たのは、ロフを取りもどすためだ」
 アキは顔を悲しみにゆがめ、オースターをまっすぐに見上げた。
「トマの奴が言ってた。〈喉笛〉はホロロ族の魂だ、手放しちゃいけないんだって。くだらねーこと言いやがるって思ってた。〈喉笛〉のせいで、オレたちがアモンでどんな目に遭ってきたかのか、あいつはわかってんのか。……あんなもの、いらねえ。だから、さっさとランファルドにくれてやった。ルゥの〈喉笛〉も同じだ。いらねーからくれてやった。なのにあいつ、オレたちに食ってかかってきやがって……」
 吐き捨て、けれどアキは今にも泣きだしそうに顔をゆがめた。
「けど――もし、トマが言うように〈喉笛〉がオレたちの魂だってんなら、オレはロフを取りかえす。墓なんかいらねー。欲しいのは、ロフだけだ。ロフの魂を、おまえらから取りかえしてやる」
 アキはオースターを見上げた。
「役立たずじゃないことを示せって言ったな。いまあんたが欲しいのは〈喉笛の塔〉の情報だろう? なにが知りたい。さっさと言ってくださいよ、”ご主人さま”」
「……こいつ!」
 状況がわからないなりに、アキの態度に異様なものを感じたのだろう、ついに我慢の限界に達したジプシールが勢いよくアキに突進した。
 だが、その足は急に止まった。
 ジプシールが驚きに狼狽える。足にしっかと抱きついてくるルゥに、完全に動きを封じられている。
「な、なんだ、おまえ、離せ」
 動揺に声が上ずる。ルゥはうんと首をのけぞらせ、ジプシールを見上げてぶんぶんと首を横に振った。歴然とした体格差はあるのに、ジプシールは押しのけることができずに硬直する。
 オースターはおもわずほほえんだ。
「ルゥ、大丈夫。怖いひとじゃないよ。君のお兄さんを傷つけたりしない」
 自分に暴力をふるい、今ですら「クソ妹」と罵ってくるアキを庇うルゥは、とても強かった。
 腕力や、言葉の暴力に任せるばかりのアキなどよりも、よほど。
 オースターは心からの尊敬をこめて、ルゥにジプシールを紹介した。
「ルゥ。このひとはジプシール、僕の親戚なんだ。ジプシール、こちらはルゥ。僕の大切な友達」

 ルゥに会ってほしい。
 会って、それでもなおその娘を踏みにじる気なら、その覚悟を決めてほしい。

 かつてオースターはジプシールにそう訴えかけた。
 意図せずそういう状況が生まれてしまったが、ジプシールもまた「ルゥ」という名に覚えがあったのだろう、口をぱくぱくとさせながら、ルゥとオースターとを見比べた。
 そんな裏の事情などまるで知らないルゥは、「親戚」と聞いたからか、幼い顔をニカッと笑わせた。
 前歯の一本抜けた、いとけない笑顔。
 ジプシールの顔が見る間に真っ赤に染まる。歯を食いしばり、全身を震わせる。
 その目に涙がにじみんだ。ジプシールは急いで制服の袖で目元を隠す。
「……卑怯だぞ、オースター」
 ルゥは不思議そうに首をかしげ、小さい子どもにするようにジプシールの背中をぽんぽんと叩いた。
「卑怯だ」

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