喉笛の塔はダミ声で歌う

第51話 最後の願い 下

 テーブルを挟んで対面に置かれた椅子を、ルピィは顎で示す。
 だが、オースターは椅子には座らず、その傍らに立ったまま口火を切った。
「前にぬめり竜の話をしたのは覚えている? 下水道で、大型のぬめり竜と戦ったって話だ。ルピィはその話を聞いて、ぬめり竜はもっと小さいって怒ったよね。でも嘘じゃない。本当に大きかったんだ」
「〈汚染〉による変異体か」
 さすがルピィだ。話が早い。
「それだけじゃない、僕自身も地下水道で〈汚染〉を見た。つい数時間前だ。それに、トマも何年か前に見かけたと言っている。これは確かだよ」
「……以前、おまえをこけにしたが、じつはぬめり竜が変異しているという話は、聞いたことがあった」
 過去のしくじりを悔いるように、ルピィは苦々しげにつぶやく。
「だが、重視はしなかった。研究者に調べさせたが、下水道を巣穴にするほかの生物には、変異が見られなかったからだ。ぬめり竜は行動範囲が明らかになっていない。〈汚染地帯〉直下の地下坑道を巣穴にしていた個体が変異し、首都の地下にまで侵入してきたのだろうと考えた。……なぜあのとき、もっと慎重に考えなかったのか」
 ぬめり竜のことを、一度、調べていた――。
 その事実に、オースターは小さくほほえみを浮かべた。
 トマに伝えたかった。トマはオースターのことを「いい公爵になる。大公にだってなれる」と言ってくれた。けれど――。
(ぜんぜん違うんだよ。ルピィは僕が足もとにも及ばないぐらい、すごいんだ)
 衛生局には、フォルボス局長がいる。今後、大公の座にはルピィがつく。
(ランファルドは僕がいなくなっても平気だ)
 悲しくて、苦しくて、けれど嬉しくて、これ以上ないぐらい安堵する。
「衛生局のフォルボス局長に、侵入経路の調査を頼んだ。職務に忠実なひとだから、夜を徹して調べてくれるはずだ」
「衛生局だけでは手に負えまい。〈北の防衛柵〉にいる〈汚染〉の専門家を派遣する。すぐに防護服のたぐいも手配させよう」
 職場体験学習先である〈北の防衛柵〉で得たのだろう人脈を利用することを、即座に提案してくれる。
 ひとつ肩の荷がおりて、そっと息をつくオースターを、ルピィが手で招く。
「これを見ろ。オースター」 
 ルピィが指で示したのは、テーブルの上に広げた地図だった。
「これは、〈汚染地帯〉の分布と、〈北の防衛柵〉の配置を示した地図だ。黒い範囲が〈汚染地帯〉。そして、東西に伸びたこの青いラインが防衛柵」
 オースターは地図を覗きこんだ。
〈汚染地帯〉は、首都ランファルド市の近郊にある街ペラヘスナの北側に広がっている。〈北の防衛柵〉はその中間にあるパインハーツ平原に置かれ、駐屯する機甲師団が〈汚染〉の監視と、時おり現れる変異体の討伐を行っている。
「十日前、〈汚染〉がとつぜん動いた」
 オースターは驚き、顔をあげる。
「昨日の時点で、〈汚染地帯〉の《《きわ》》はここまで達している」
 そう言って、ルピィがこつこつと叩いて示した位置は、〈北の防衛柵〉を示す青いラインを大きく突破していた。
 ぞっと背筋が凍りついた。
「〈北の防衛柵〉を突破したって言うの?」
「ああ。機甲師団はすでに後退済みだ。ペラヘスナが呑まれるのは時間の問題だろう。家の軒下から、黒い陽炎を目視できるほどだからな」
 あの黒い手が、現在のランファルドにおける最北の街ペラヘスナに到達しようとしている。
 純然たる恐怖が足もとから這いあがってくる。
「多くの民は知らないことだが、〈汚染〉は何年も前から再拡大をはじめていたんだ。じりじりとした動きではあったが、確実に南下をしていた。我が一族が所有する鉄鉱山のひとつも〈汚染〉に浸食され、先日、ついに閉山に追いこまれた。知っているだろう」
 神妙にうなずく。それこそが、ルピィが皇太子の座から降ろされた最大の理由だ。
「だが、十日前の動きはまったく異質なものだった。まるで波が押しよせるような劇的な動き……たった数分で〈北の防衛柵〉を突破し、ここで動きをゆるめた」
 地図上を、ルピィの長い指が大きく移動する。
「いまは動いていない?」
「いや、動いている。十日前の爆発的な拡大とはほど遠いが……止まってはいない」
「原因は――」
「知るものか。〈汚染〉の正体すらわかっていないんだぞ」
 正体。オースターははっとしてポケットを探ろうとする。だが、コルティスから返された電信を入れたのはコートのポケットで、そのコートは従者を挑発するために廊下に捨ててきてしまった。
「元老院はこの事実を世間に公表したくないようだ。混乱を恐れているのだろうが……そもそも打つ手がない。元老院は対策も立てられない無能集団だと、民に思われたくないのだろう」
 ルピィは渋い顔をした。
「とはいえ、私とて対策など思いつかないが」
 ふと、ルピィは首をかたむけた。
「おまえは、どう考える?」
 意見を求められ、オースターは困惑した。
「……僕も思いつかない。けど、〈汚染〉の正体ならわかる」
 その一言は、ルピィに大きな衝撃を与えたようだった。
 唖然とするルピィを背に、オースターはふらふらと部屋の扉に歩いていく。
「オースター、おまえなにを言って」
「そこで待っていて。コートのポケットに……廊下に置いてきちゃって――、っ」
 急ぐあまりに、オースターは自分の足につまづき、その場で転倒した。
 とっさに両手が出ず、顔面を床に打ちつける。
 絨毯だったからまだましだったが、それでも痛かった。しばらく動けず、オースターは目を閉じる。
(ああ……どうしよう。ちょっともう……限界かも)
 腕を床に突っぱねて、息を切らして身を起こす。
 すっと血の気が引いた。吐きそうになる。視界がかすむ。鼻の奥がつんとした。
「……おい」
 背後でルピィが呼びかける。オースターは「転んじゃった」と力なく笑い、辛うじて立ちあがった。
 呼吸を整え、今度は慎重に足を進め、なんとか部屋の扉にとりついた。廊下に出てコートを拾う。ポケットから紙切れを取りだす。部屋に戻り、ルピィのそばまで戻って、手のなかの電信を差しだす。
 ルピィは電信を受けとりながら呟く。
「拭け。鼻血が出ている」
「あ……、ありがと」
 如才なく差しだされたハンカチを受けとって、鼻血をぬぐう。
 物問いたげにオースターを見つめていたルピィは、しかし結局なにも言わずに電信に視線を落とし、その文面に素早く目を走らせた。そして、息を呑む。
「これを、どこで」
「バクレイユ博士が見せてくれたんだ。返さずに、勝手にもらってきた」
「勝手にもら……いや、いい」
「十年前に、科学大国フラジアの〈北部戦線戦略研究所〉から届いたものみたいだ」
「研究所で、謎の黒いエネルギー体が発生したとある」
「〈汚染〉のことだと思う」
「被験者であるホロロ族の叫びが生みだしたとある」
 オースターはうなずく。
「〈汚染〉は魔法の副産物、ということか?」
「確証はないけど、多分」
 オースターはこれまでに起きたことをかいつまんで話した。〈喉笛の塔〉の底で起きた惨事を、地下水道崩落事故の発端となった出来事を。
 さすがのルピィも言葉をなくす。ランファルドの民にとって、魔法は童話の世界の話だ。現実主義のルピィにとっても、冷静を欠くだけの破壊力があったようだ。
 だが、オースターも落ち着いてはいられなかった。
 恐ろしい予感に、体が勝手に震えだす。
「十日前、〈汚染〉が大きく動いた……。十日前といったら、地下水道で崩落事故が起こった日だよ。ルピィ」

 あの日、〈喉笛の塔〉が悲鳴をあげた。
 同じ日に、〈汚染〉が一気に防衛柵を突破した。

 もしかしたら――。

(〈汚染〉は、〈喉笛の塔〉があげた悲鳴に共鳴したんじゃないか?)
 
 震える手を額に触れると、気持ち悪い感じに汗ばんでいた。
(トマとラクトさんが言っていた。〈汚染〉はホロロ族を追ってきたみたいだって)
 十年前、ラクトじいじは〈汚染〉から逃げる最中、同胞に向けて「南へ逃げろ」と呼びかけた。多くのホロロ族がその呼びかけに共鳴し、その共鳴はひとりきりでは生みだせない規模の魔力を生みだした。はるか遠方にいるホロロ族の耳にまで届き、最終的には二百人以上のホロロ族が南の楽園を目指して歩きはじめた。
(けど、共鳴したのはホロロ族だけじゃなかったんだ)
 旧水道の闇のなかでトマが言ったとおりだ。〈汚染〉はまさに、ホロロ族に「ついてきた」のだ。
 だが、いま問題なのは、そのあと。
〈汚染〉はランファルド大公国の国土を三分の二まで呑みこんだところで、動きを止めた。そこに到達するまでの間に、動く速度はかなり減退していたという話だから、すでに拡大する力を失いつつあったのかもしれない。
 だが、それだけだろうか。もしかしたら、ランファルドの都に到着したホロロ族が、その時点で同胞に呼びかけるのをやめたからではないのか。
 もしそうだとしたら、なぜ数年前からふたたび加速をはじめたのか。

(ホロロ族のかわりに、〈喉笛の塔〉が歌いはじめたからだ)

 オースターは唇をひきむすぶ。
 戦争によって困窮したランファルド大公国に、〈喉笛〉は十年の繁栄をもたらした。電気文明が発達し、都市はかつてない繁栄の時代を迎えた。にもかかわらず、人々はさらなる豊かさを求めた。ホロロ族の喉からは、次々と〈喉笛〉が奪われていった。それに比例し、〈喉笛の塔〉の歌はどんどん力を増していった。
 止まっていたはずの〈汚染〉にまで、その歌声《ひめい》が届くほどに。

 ひどい皮肉だ。
 繁栄を追いもとめた結果、みずから破滅を招き寄せていたなんて。

(バクレイユ博士はこのことに気づいているのか)
 気づいていてなお、〈汚染〉を制御できると思っているのか。
 ――できるわけがない。
 トマが悲鳴をあげれば、〈喉笛の塔〉もまた共鳴による悲鳴をあげるだろう。そしてその悲鳴は、ふたたび〈汚染〉を呼び寄せる。
 かつて、科学大国フラジアに押し寄せた〈汚染〉は雪崩のようであったという。
 制御に失敗すれば、〈汚染〉はふたたび人智の及ばない災厄と化し、ここ首都にまで襲いかかってくるのだ。

「ルピィ。バクレイユ博士がトマを連れ去ったのは、〈喉笛の塔〉の底に生じた〈汚染〉の力を高め、利用するためだ――」

 そしてオースターは頭によぎった懸念のすべてを、ルピィに伝えた。
 ルピィは口もとに手をあてがい、厳しい顔で思案げに目をすがめる。
「……なるほどな。制御できなければ、この世の破滅というわけか」
 だが、とルピィは自嘲気味に薄笑う。
「制御できるのなら、そう悪い話ではないぞ。塔の底に生じた〈汚染〉だけでなく、いずれ地上の〈汚染〉すら活用できるというのならな」
 オースターはかぶりを振った。
「制御はできない」
「博士はあの科学大国フラジアですら名の知れた科学者だ。可能かもしれない」
「無理だ。博士が制御しようとしているのは、ひとの心なんだよ、ルピィ!」
 焦燥感から声が高くなる。感情論で物事を判断しては、ルピィは動かせない。それはわかっている。わかっているけれど、どうして、と思ってしまう。
 どうしてこんなに単純なことが、こんなにも難しいのだろう。
「〈喉笛の塔〉の歌も、〈汚染〉も、どれもみんな、ひとの心が生みだしたものなんだよ。それを、トマを使って制御しようなんて、どうしてそんなことができるって思うの? ひとの心を、誰かの魂を、自分以外のだれかが支配していいはずがない。力でねじふせ従わせるなんてこと、許されていいはずがない」
 オースターは肩で息をしながら、ルピィを挑むように見つめかえす。
「トマの魂は、トマのものだ。トマの心は、僕らの都合で好き勝手に動かせない。痛みを与え、無理に歌わせたとしても、それによって生みだされた魔法は、きっと恨みと呪いにあふれたものになる。そんな魔法、決して僕らに繁栄をもたらさない!」
「……魂だの、心だの、まるで理解でき――」 
「ひとの心が理解できないって言うなら、言い方を変える。もし今晩トマを助けださず、もしバクレイユ博士が力の制御に成功したら、博士はこれまで以上の力を得ることになる。大公よりもずっと強大な力を得て、この国の頂点に君臨するんだ。それを君は許しておくのか。ランファルド大公国は、大公と、大公を信望する臣民のための国ではないの?
 僕はあきれるぐらい馬鹿で、だから気づいてなかったけど、ルピィならとっくの昔に知っていたはずだ。この国を本当の意味で掌握しているのは、亡くなった大公殿下でもなければ、元老院でもない、バクレイユ・アルバスだってこと。今ですら、バクレイユ博士は大公という地位を軽んじているのに、さらに力を得た博士は、もっと思いあがる。そしてこの国は、彼の愉快な実験場に変わるんだ」
 オースターは、黙ったままのルピィに告げる。

「ルピィ。バクレイユ博士は、大公殿下のことを『木偶』って呼んだんだよ」

 ルピィは眉根を寄せた。
 思考を巡らせるように、黄ばんだ電信を手のなかで操る。
「……私にどうしろと?」
 オースターはルピィの表情を食い入るように見つめる。
(届いた――)
 オースターは座らずじまいだった椅子の背もたれに手を置き、崩れそうになる膝を支える。
「トマを助けるんだ。バクレイユ博士から奪って、君の手中におさめればいい」
「ふん。それで、おまえの願いも狙いどおりに叶うというわけか」
「そうだ、僕の願いはそれで叶う。けど、もしもトマ自身になにか願うことがあるなら、そのときは君とトマとで話しあってくれ」
「そしておまえは、トマとやらを私に押しつけ、死ぬというわけか?」
 オースターはくしゃりと顔をゆがめ、うつむき、歯を食いしばった。
 頭のなかに、父と母の顔が――亡き弟の顔が浮かぶ。捨てざるを得なかったアラングリモ領、美しい緑の大地、豊かな牧草地。いまは国営計画農産地に召し上げられてしまったアラングリモの純朴な領民たち。懐かしい光景が、次々と脳裏をよぎっては消えていく。
 三百年のあいだ、受け継がれてきたアラングリモの家名。それを引き継ぎ、さらに高め、次の代へと繋いでいくことこそが、貴族の誉れ、貴族の役目。
 母が心を壊してしまうほどに、それは貴族の存在意義そのものだった。
 それをいま、捨てるのだ。自分の、この手で。
(トマのことはもう大丈夫。ルピィはトマに興味を持ってくれた。助けてくれる)
 トマはルピィの確かな「益」となれた。オースターが立ち去れば、ルピィはすぐにもトマ奪還のために動くだろう。それでいったんは安全を確保できる。
 トマが本当の自由を得るためには、今度はルピィと戦わなくてはならなくなるだろうけど、それはトマの戦いだ。
 自分の役目は、これですべて終わったのだ。

「……トマのこと、任せたよ。ルピィ」

 オースターは震える息を吐きだし、目を閉じる。
(最後の、幕引きだ)
 話し終えたら、嘘を明かすと約束した。
 今がそのときだ。

「僕は、女だ」

 ルピィは押しだまり、ゆっくりとまばたきをした。
 透明な青い瞳が、不思議そうにオースターを見つめる。
「……なに?」
 長い時間が経って、ようやくルピィが言う。
「僕は女なんだ、ルピィ」
 まじまじとオースターを見つめ、ルピィはふっと嘲笑まじりの息を吐いた。
「ついにせん妄まで出だしたようだな、オースター。自覚があるかは知らんが、最悪な顔色だぞ。今夜は部屋に戻れ。あとのことはこちらで――」
 オースターは汚れた上着のボタンに手をかけた。
「ずっと君を騙していた。大公殿下のことも、民も、みんなのことも」
 上着を床に捨て、さらにその下のシャツのボタンも外していく。
「その罪をつぐなう」
 布を巻いた胸をさらし、さらにその布にも手をかけたとき、ルピィが長椅子から立ちあがった。
 立ちつくすオースターに迫り、その手首を乱暴に掴みあげる。

「――ライエニー・アラングリモ」

 驚愕に目を見開き、ルピィが愕然と呟いた、その名。
 墓廟に刻まれ、誰もが忘れさったはずの名前。
 すぐに反応を返すことができない。そしてルピィは聡かった。オースターの表情からすべてを察し、その目に激しい侮蔑の火をたぎらせた。
「出ていけ。その上着を拾って今すぐに」
「ルピィ」

「恥を知れ!」

 激昂され、心が震える。
 けれど、オースターは踏みとどまった。
「約束どおり、僕は逃げない。西棟の部屋で、君がくだす処罰を待っている」
 ルピィが椅子の背もたれに置かれたコートを取りあげ、オースターの腕に力任せに押しつけた。
 オースターはそれを受けとり、ルピィに背を向けた。




「あ、オースター!」
 廊下に出ると、そこにはコルティスが身を縮こませて立っていた。分厚い眼鏡をかけた顔を安堵にほころばせ、急いで駆け寄ってくる。
「よかった、心配で来ちゃったよ。ルピィとは、うまく話せ――」
 話せたかい?
 たぶん、そう問おうとしたのだろう。しかしコルティスの顔は笑みを浮かべたまま凍りついた。
 オースターは手にしていたコートで、力なく胸もとを隠した。コルティスは表情を消し、よろよろと後ずさる。
 なにも言うことができず、オースターはただ黙ってコルティスの横を通りすぎ、寮の西棟の方角へと歩きだした。
 
 たぶん、ほかには誰にも出会わなかったと思う。
 確信が持てないのは、ほとんど記憶がないからだ。
 どこをどう歩いたのかも、泥に沈んだように重たい足でどうやって階段をのぼりきったのかも。
 自分の部屋の扉には鍵がかかっていた。ラジェは母のそばにいて、まだ戻ってきていないのだ。
 同じ階にあるサロンに足を踏み入れた。同級生たちとの歓談のための部屋で、扉はいつでも開け放たれている。
 オースターは窓ぎわの長椅子の背中側に回りこみ、壁を背に、ずるずるとその場に座りこんだ。
(終わったんだ……)
 なにもかも。すべて。
 終わった。
 疲れた。もうなにも考えたくない。どんな感情もわいてこない。 
(トマ……どうか無事で――)
 オースターは手首に巻いた飾り紐を指でなぞり、うつろな瞳を静かに閉じた。

 窓の外からは、かすかな雨の音がまだ聞こえていた……。

最終章「楽園の涯」へ

close
横書き 縦書き