喉笛の塔はダミ声で歌う

第28話 二十六人の命

 頭の下に敷いた枕が熱い。
 身じろぎすると、湿ったシーツの感触が気持ち悪かった。
 カーテンの隙間から差しこむ日差しが弱々しい。夜明け前なのか、それとも天気が悪いのか。

「目を覚まされましたか」

 声のほうに目を向けると、ラジェが枕元に立っていた。
 ひどい顔色だ。目の下のクマがますます濃さを増し、陰気さは絶望的なまでにふくれあがっていた。今、ラジェに「ランファルドは本日滅亡しました」と言われても、きっと驚かない。
 名を呼ぼうとするが声が出ない。喉も舌もねばついて、妙な味がした。
「そのままで。ずっと高熱を出して眠りつづけていたのです。一時はお命も危ぶまれたほどで……、このまま二度とお目覚めにならぬかと――」
 ラジェは言葉を詰まらせる。続きを言うかわりに、オースターの汗で前髪のへばりついた額を優しく撫であげてくれた。
 顔を動かすと、こめかみが脈動にあわせ、ずきんずきんと痛んだ。
「何日……経ったの?」
 かろうじて声を発すると、「三日です」という答えがかえってきた。


 三日――そう言われてからも、しばらくは夢うつつの状態がつづいた。
 汗がうっとうしい。体をぬぐう蒸しタオルの感触が心地よい。右腕が時おり、ひきつれたように痛む。それ以上に耐えがたいのは、腹部の痛みだ。
 絶え間なく襲ってくる悪寒に震えながら、オースターは自分の状況を少しずつ自覚していった。
 薬害だ。ひと月半前と状況がよく似ていた。
 あのときは一週間、学園を休んだ。昏睡状態にまでは陥らなかったから、今回のほうがひどい。

「僕の体はどうなってしまったの?」

 ようやくまともに身を起こせるようになったのは、最初の目覚めからさらに二日が経ってからだった。
 寝台に上体を起こし、唇を湿らせるように白湯を飲む。
 ラジェは言葉を探すように口を開き、また閉ざす。
「もう動いても平気?」
「少なくとも、あと二日はこのまま安静になさってください」
「そのあとは?」
「学寮にお戻りいただいてけっこうです」
 学寮に戻る。その言葉に、オースターはカーテンの開いた窓に目をやった。
 床から天井まである大きな掃き出し窓からは、テラスと、秋色に染まった庭が見わたせる。
 ここはアラングリモ邸だ。領地にあった本邸とは別に、ランファルド市内に用意されたシティハウス――母が暮らす屋敷である。
「ただ……」
 固い声に顔を戻すと、ラジェが慎重に切りだした。
「薬の副作用による臓器へのダメージが予想以上に大きく、今後、日常生活に支障が出るやもしれません。たとえば、排泄の際に痛みが生じる可能性が。それから消化に悪いものを召しあがったときや、激しい動きをしたときなどに、下腹部に痛みが出るかもしれません」
 一息に言って、ラジェはオースターの顔色をうかがうようにしながらつづける。
「今後、注意すべきこととしては、食事にはいっそうのご配慮を。できるかぎり、消化によいもの以外は召しあがらぬように。普段の食事は私が用意するので問題ありませんが、やむをえず私以外の者の配膳を受けるときには、食後、ご自分で吐きだすよう努めてください」
「それはしばらくのあいだ? それとも一生?」
「……今後、医療技術が発達すれば、あるいは」
 曖昧に答えるラジェを、オースターは黙って見つめる。
 つまり、後遺症が出る、ということだ。

(どうしたんだろう、なにも感じない)

 頭にもやがかかっているみたいだ。本当ならショックを受けるべきなのだろうが、不思議なほどなんの感情もわいてこなかった。
 疲れきっているのだ。体も頭も重たくて、なんだかまだ夢のなかにいる気がする。
 なにも考えたくないと、頭が拒絶しているのがわかる。

(なにも考えたくないって……なにを考えたくないんだっけ)

 バチッ、と枕もとの電気式ランプが音をたてた。
 オースターは目を見開き、不安定に明滅をはじめるランプを凝視する。
 ぞわりと鳥肌がたった。血の気が引き、心臓がばくばくと高鳴りはじめる。オースターは動揺のあまり、唇をわななかせた。

 直後、室内に苦痛にまみれた絶叫が響きわたった。

「なに? これは……誰の声!?」
 ラジェは深刻な面持ちで、窓の外に目をやった。
「〈喉笛の塔〉の歌です」
「これが〈喉笛の塔〉の歌だって――?」
 ああ、そうだ。そうだった。
 なにも考えたくない? なんて馬鹿なことを。
 オースターは考えなくてはいけないのだ。
 地下世界で知ってしまった、すべてのことを。
「地下水道の崩落事故からずっと、この調子なのです。〈喉笛の塔〉監視所は、原因を究明中だと話していますが……不快きわまりない音です」
 ラジェは嘆息しながら、顔の前で両手の指を絡め、目を伏せる。オースターはラジェの腕をひっぱって、無理やり祈りを中断させた。
「オースター様? お祈りをしませんと……」
「ずっとこの調子ってどういうこと? あの塔はずっとこんな風に悲鳴をあげつづけているの?」
「悲鳴、ですか。……そうですね。悲鳴と言われれば、悲鳴にも聞こえますが」
 ラジェは戸惑った様子で答えながら、眉間にしわを刻む。
「オースター様がお眠りになっているあいだもずっとです。不定期的に、あの不快な音を発しては沈黙するを繰りかえしています。電気の供給もいまだ不安定で、上流階級の皆さまの居住地は優先的に停電から回復しましたが、市中では今なお停電が続いている区域が多いようです」
「新聞」
「はい?」
「僕が眠っていたあいだの分、全部。とってあるんだろう? 持ってきて」



 五日分の大手各社の新聞が、ベッドサイドのテーブルに並べられた。
 大見出しに目が釘付けになった。
 ――崩落事故による死者、十三名。
「死者が……」
「そちらは五日前の記事ですので、今はもっと増えています。たしか……ああ、こちらに記載が」
 昨日の新聞を手渡される。
『死者、二十六名』の文字が目に焼きついた。
 震える手で紙面を開く。そこには、地下にいたときには想像しえなかったほどの惨事が記されていた。
 道路が一区画分まるごと陥没した話。大穴が通行人や馬車を飲みこんだ話。建物が丸ごと消えたという話。事故直後には停電も起こり、いまなお全面復旧には至っていない。
 被害が大きかったのは、ティリア街道の西側にある〈死者の酒樽広場〉だ。大広場を中心に大穴が開き、噴水池がごっそり姿を消した。ここでは負傷者が九名出ている。
 それをはるかに上回る人的被害が出たのは、〈喉笛の塔〉がそびえる崖に近い区画だ。道路という道路が崩落し、地下水道が剥きだしになったという。三百人を超える負傷者、そして二十六名の死者はそこで出ていた。
(〈死者の酒樽広場〉は、トマが魔法を暴発させた場所の真上にあった)
 まさにその広場が「降ってきて」、オースターやマシカ、ルゥは怪我をしたのだ。
 だが、そこよりも被害が大きいのが〈喉笛の塔〉の近辺というのはどういうことだろう。
 ラクトじいじによると、あのとき、トマの叫び声に、〈喉笛の塔〉が共鳴したという話だった。その〈共鳴〉による被害が、この二十六名の死者ということなのだろうか。
 ラジェの言うとおり「原因は究明中」と書かれている。
「現在、大穴の開いた箇所にはバリケードがもうけられ、急ぎ、復旧工事が行われています。ただ、電気の供給が不安定なため、資材の運搬に手間取っているとか。資材の大半は、丘の麓にある工場地帯でつくられ、貨物電車によって町まで運びあげられますから。今は電車も動いておらず、馬車か人力で運ぶしかないので」
「アラングリモ家から、負傷者と、亡くなられた方のご遺族に見舞金を出してくれ。金額の設定と差配は任せる」
 固い口調で言う。ラジェは眉を持ちあげ、「大変けっこうなご配慮です」と言いたげに口の端っこを持ちあげた。
「皇太子からの見舞金となれば、民も勇気づけられましょう。直筆の手紙も添えてはいかがでしょうか」
 ラジェが提案するが、オースターの意識は記事の見出しに縫い止められていた。

『死者、二十六名』

 地下での記憶がめまぐるしくよみがえる。
〈喉笛の塔〉のこと。ホロロ族の過去――東の魔道大国アモンの奴隷として生きてきたこと。西の科学大国フラジアに捕虜として連行され、魔法のカラクリを探るための尋問を受け、そして人体実験を受けたこと。ラクトじいじとバクレイユ博士の出会い。「ともに楽園を築こう」と約束したこと。〈汚染〉の来襲をきっかけに逃げだし、南へとくだる過酷な旅のさなかに、ホロロ族が体験した絶望的な飢餓と、迫ってくる〈汚染〉の恐怖。ランファルド大公国に到着してからの苦難の数々……。
 地上に戻ってきたいまとなっては、すべてが熱に浮かされて見た夢であったかのように感じられる。
 だが、夢ではないのだ。
 二十六名の死者がそれを物語っている。
 十年ものあいだ、地下に封じられてきた物語は、いまや大口を開いて語りはじめていた。これがランファルドの真の姿だ。おまえたちが享受してきた平和と繁栄の日々は、ホロロ族の声なき悲鳴のうえに成りたってきたのだ、と。
 新聞紙をつかんだ手が小刻みに震えた。犠牲になった二十六人の命が重くのしかかってくる。かつて感じたことのないほどの無力感に、体が押しつぶされそうだった。
「オースター様、下水道でなにが起きたのですか」
「……わからない。いきなり天井が落ちてきたんだよ」
 ラジェがなにかを言いかえす前に、オースターはふたたび口を開いた。
「下水道掃除夫のなかにも大けがをしたひとがいる。彼らにも見舞金を送ってくれ。衛生局のフォルボス・マクロイ局長に話を通せば、いいようにしてくれるはずだ」
「……かしこまりました。ただし下水道のことはこれを限りにお忘れください」
 言われている意味を理解できず、オースターはまじまじとラジェを見つめた。

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