喉笛の塔はダミ声で歌う

第19話 ホロロ族の秘密

 準備をする――そう言って、ルゥとともに地下神殿の随所に開いたトンネルのひとつに入っていったトマ。

「座って待ってましょ」

 困惑するオースターにおおらかに笑いかけ、マシカが地べたに「よっこいせ」とあぐらをかいた。
 オースターもその隣に膝を立てて座った。マシカが貸してくれたゴワゴワの布で濡れた髪や手足はぬぐったものの、まだ服は濡れたままだったから、ぬくぬくした陽だまりがありがたい。
「すんません。勉強のために来たのに、いきなりサボりって言われても困りますよね」
「ううん、みんなだって仕事をサボりたい日ぐらいあるよね。僕もよくあるよ、つまんない教授の授業とかさ」
 真顔で答えると、マシカは「いえ」と苦笑した。
「実は今日のサボり、トマの奴がオースター様のためにって考えたことなんです」
「僕のため?」
「前回、下水道に来たとき、オースター様は体調を崩していたそうですね」
 前回というのは、オースターが薬の副作用で吐き気と腹痛に苦しめられた日のことだろう。トマに背負われ、マンホールをのぼって、旧市街にある〈針の沼公園〉で新鮮な空気を吸った――。
「その翌日からオースター様、下水道に来なくなっちゃったでしょう? あいつ、すっかりうろたえちゃって。あっちウロウロ、こっちウロウロ。落ちつきがないったら」
 最初は、物思いに沈んだ様子だったという。次第に、落ち着きをなくし、ついには「あいつ、具合悪いのかも」と言いだしたのだそうだ。
「次来たときは、無理やりでも仕事をサボらせる! なーんて、すっかり勢いこんじゃって。それで今日はここに」
「ここって……」
「俺とトマが仕事をサボるのに使ってる場所なんです。ただ、実は立ち入り禁止区域で……ルゥや、ちびどもには教えてあるんですけど、ほかのみんなには内緒にしてるんです。だからあいつ、わざわざ俺に、ここにオースター様を連れてきてもいいかって確認してきて」

 ――あいつなら、局にも内緒にしてくれると思うから。

 そう言ったという。
(なんだよそれ)
 オースターは心のなかでトマを罵る。トマってば、嬉しすぎるよ、それ。
 胸がじんと熱くなって、じっと座っていられずに膝を揺らす。だって、そんな風にトマが心配してくれるなんて、思ってもみなかったのだ。
「あれ? でも、僕が下水道に行かなかったのは、雨で授業が中止になったって連絡を受けたからだよ。そのあとは……皇太子の件で身動きがとれなくなっちゃったからで。けど、衛生局には伝えたし、トマにも伝言を頼んでおい……」
 さあっと血の気が引く。マシカが苦笑した。
「局の伝達不足は毎度のことです」
 聞かされていなかったのだ。オースターは唖然となった。ということはつまり、トマは毎日、いつもの待ち合わせ場所で待ちぼうけを食っていたということだ。
「ごめん!」
 トマがいないのに、思わずマシカ相手に頭を下げる。
 マシカは驚いたように眉を持ちあげた。
「謝ってくれるんですか。たかが一介の掃除夫に」
「貴族とか、掃除夫とか、関係ないよ!」
 力いっぱい反論すると、マシカが目を細めた。
「あなたに気を許すわけだなあ。トマの貴族嫌いは筋金入りなのに。――あ」
 マシカがあわてて手で口を塞いだ。
 オースターは近くにトマがいないことを確認し、顔を曇らせた。
「もしかして、僕たち貴族は君たちにひどい仕打ちをしているんだろうか」
「まさか。よくしていただいています」
「でも、トマは」

「誤解しないでください!」

 思いがけず大きなダミ声で遮られ、オースターはびくりとする。
「不満は――なにひとつ不満はありません。本当です。みなさんには感謝しかありません。だからどうか、ここにいさせてください。追い出さないで……どうか、あの恐ろしい〈汚染地帯〉には追いやらないでください!」
 マシカの反応の変化はあまりに劇的だった。
 大らかさは跡形もなく消え去り、残されたのは圧倒的なまでの、恐怖。
 その鬼気迫る姿に、オースターは動揺した。
「追いだしたりなんてしないよ。安心して、マシカ」
 かろうじて答えるが、マシカの恐怖や不安が伝染したみたいに、心臓が早鐘を打っていた。

 不満はない――つまり、あるのだ。
 それも、必死に隠さねばならないほどの大きな不満が。

「トマにはさっき話したんだけど、僕はホロロ族の置かれた状況をすこしでも改善できたらって思っているんだ。ここで聞いたことは、ぜったいに口外しないから、もしなにか困っていることがあるなら教えてくれないかな?」
「トマ……まさかあいつ、また余計なこと言ったんですか」
 オースターは言葉をなくした。マシカはトマが心から慕う掃除夫だ。マシカもまた、トマを遠巻きにすることなく気さくに接している。
 だというのに、「余計なこと」と吐き捨てたマシカの口調には、ほかの掃除夫がトマにするのと同じよそよそしさが感じられた。
「あいつは子供なんです。みんなの心を乱すようなことを衝動的に言っちまう。一年前の件だって、余計なことを言ったばかりに騒ぎになって、みんなからすっかり孤立してしまった。最近はずっとおとなしくしてたから安心してたのに」
 マシカの言いざまは、双子のアキとロフが言っていたこととよく似ていた。

『あいつ、変わり者なんです。みんなにも嫌われてる』

「一年前になにがあったの?」
 マシカは夢から目覚めたように、オースターを振りかえった。
 独り言を聞き咎められたばつの悪い顔で、「いえ」と押しだまる。
「……トマがなにかを言ったわけじゃないんだ。ただ、職場体験学習を通して思ったんだよ。ホロロ族を取り巻く環境は劣悪だ。ランファルドのために尽くしてくれている君たちを、僕らはあまりに蔑ろにしているんじゃないかって。だから、それを改善したいんだ」
「改善……」
「なにかあるなら、どんなことでもいいから話してみて。僕にできることなんて限られているかもしれないけど」
 不安と恐れ、そして期待。一瞬のあいだに、マシカのこわばった顔の上を、さまざまな感情があらわれては消えていく。
「ありません」
 ようやく答えたマシカの声は弱々しかった。
「なにひとつ、不満はありません。ホロロ族にとって、ここは楽園そのものです。だからこのまま、どうか今のままで……」

「おーい!」

 遠くからダミ声が飛んできて、オースターは飛びあがった。マシカもまたびくりとして、地下神殿の奥まったところにある脇道を振りかえった。
「いろいろひっぱり出してきた。手伝ってくれ」
 顔をのぞかせたトマとルゥは、それぞれ両腕いっぱいに荷物を抱えていた。マシカが「あいつら」と苦笑し、立ちあがった。
(ここが、楽園――?)
 小走りに去っていく背中を見つめながら、オースターはのろのろと立ちあがり、天井の割れ目から差しこむ幾筋もの光の帯を見上げた。


 床に広げられた色の褪せた絨毯は、トマが昔、地上の廃品置き場で拾ってきたものなのだという。
「こういうの敷いたほうが、気分的に楽しいだろう?」
 ほころびの目立つ絨毯のうえに、ルゥがふちの欠けた皿を置く。丁寧に並べられたのは、オースターが下水道に来るたびに持参しているラジェ手製の焼き菓子だった。地下神殿の暗所に、缶に入れて保管しておいたのだという。
「食べずにとっておいたの? 傷んでたら、おなか壊しちゃうよ?」
「傷んでたら食わねえよ、ばーか」
 トマが笑う。オースターは面食らった。トマはなんだか浮かれているみたいだ。
「ここに隠しておけば、ちびどもも自由に食べられる。町に持ってったら、馬鹿双子が目ざとく見つけて、ぜんぶ食べちまうからな」
 馬鹿双子とは、アキとロフのことだろう。トマの悪態に、実の妹だというルゥも真顔でうなずく。
 ちなみに今日の分の焼き菓子も工具鞄に入れて持ってきていた。中を覗いたら、ずぶ濡れになって、すっかり原型をなくしてしまっていて、全員で大笑いするはめになったが。

「で。さっき、話が聞きたいって言ってたよな。なにが聞きたいんだ?」

 焼き菓子をかじりながら、トマがさらりと言う。
 オースターはどきっとし、横目でマシカの様子をうかがった。
 先ほどの動揺がぶり返してくる。
 マシカの前で話をするのは気が向かなかった。
「マシカからも話を聞いたらいい。おれが冷静さをなくしたとき、いつもマシカが止めてくれるんだ」
「……ええと……」
 ルゥが口いっぱいに焼き菓子をほおばる。もぐもぐと満足そうに咀嚼するさまは、小動物みたいに愛らしい。トマの言葉は聞こえているだろうに、マシカはなにも言わずにルゥの口端についた菓子の屑を指でぬぐいとる。
(やっぱり、トマとふたりで先に話をすべきだったかも)
 後悔先立たずだ。気軽になんでも聞けるという雰囲気ではもはやない。
(なにか軽い話題から)
 オースターは話の種を探し、ふと、もぐもぐが止まらないルゥの左手首に目を留めた。
「ルゥ。その腕の、きれいな紐だね」
 ルゥは目をぱちくりさせ、得意げに腕を持ちあげた。
 黄昏色の糸で編まれた紐だ。同系色だが少しずつ色合いの異なる糸が、複雑な模様を描いて編みこまれている。
「その飾り紐、トマが編んでやったんですよ」
 マシカが以前と変わりなく気さくに言う。
 オースターは安堵しながら、調子をあわせるように笑顔でトマを振りかえった。
「へえ、器用だなあ。髪の三つ編みも自分でしているんでしょう?」
 トマは三つ編みの先っぽを手にとり、なぜか恥じらうように目を泳がせた。
「そりゃ……そうだろうが」
 首をかしげる。マシカがにやにや笑った。
「僕、なにかおかしいこと言った?」
「いやいや、もっと言ってやってください。こいつってば本当、色恋に興味なくて」
「うるさい、マシカ」
 色恋が、三つ編みとなんの関係があるというのだろう。
 オースターはトマの三つ編みを観察し、「そうだ」と顔を明るくした。
「聞きたいことと言ったら、まずそれ。トマはなんで三つ編みなの?」
「――っなんか文句あんのかよ!?」
 話の口火を切るにはちょうどいい話題だと思ったのだが、なぜかトマがすっとんきょうな声をあげた。マシカがブッと噴きだす。
「なんですなんです!? オースター様ってばこんな昼間から猥談《わいだん》っすか!? 貴族様でも、男子は男子なんですねえ」
「はいっ!?」
「おい、ふざけたこと言ってんなよ、エロ親父!」
 トマが頭から湯気を出す勢いでマシカの背中を叩く。
 目を白黒させるしかないオースターに気づいて、マシカが苦笑した。
「トマ、どうやらオースター様に悪気はないようだよ。たぶん、俺たちの風習に明るくないんだ」
「ばかで無神経なだけだ、こいつは!」
「なんだって!?」
 マシカは笑って、なぜかルゥの背後に回って両耳を塞いだ。
「簡単に言うと、三つ編みは未婚の証なんです。つまり、男女の夜の関係については未経験ってことなんですねえ」
「みけいけ……」
 意味を悟った瞬間、火をつけたように顔が赤くなったのがわかった。
「はじめて迎える共寝の夜、ちぎりを交わす女性にだけ三つ編みを解くことを許すんです。で、翌朝、ほどいた髪は短く切っちゃう。だから共寝の夜より前は、三つ編みは誰にも触れさせない」
「へ、へえ……」
「女性の三つ編みをほどくことができるのも、夫となる男だけで、翌朝からは編まずにひとくくりにするだけなんですよ」
「へええ……っ」
 オースターはパタパタと手で顔をあおいだ。恥ずかしくてたまらない。男女の秘めごとの話を好んでする同級生もいないではないが、オースターの周囲はどちらかと言えばウブ揃いだった。
「ちなみに俺が三つ編みを解いたのは、もう何年も昔です。部族一の別嬪と結婚しましてね!」
「聞くなよ。マシカののろけはすっごい長いんだから」
 トマが言うと、マシカが「照れちゃってー」とトマを太い腕で捕まえた。頬を引っ張ったり、髪の毛をかきまわしたりしながら、オースターに笑顔を向ける。
「タウが……あ、タウって名前の娘がいるんですけどね? 四歳になるんすけど、ちょっとずつ三つ編みのやり方を教えていってるとこなんですよ。でも全然できなくて、毎朝ぐっちゃぐちゃ!」
「ぐちゃぐちゃ」がどの程度のものかを身振りで表現するマシカ。娘をこよなく愛しているのが伝わってくる。
「マシカ、幸せそうだなあ」
「そりゃもう。オースター様もお相手は決まっているんでしたよね?」
 オースターは無理やり笑顔をつくった。
「うん。きれいなひとだよ。まだ、手紙のやりとりを何度かしたぐらいだけど」
「オースター様はきっと子供に好かれるお父さんになるでしょうねえ」
「そう……かな」
 返答に困った。冷え冷えとした気持ちがわいてきて、話を打ちきりたくなる。

(父上と母上は、ようやく生まれた子供が僕《おんな》と知って、たいそう落ちこんだと大叔母様が言っていた)

 自分もそうなるのだろうか。出産は命がけだ。妻が命をかけて産んでくれた子供が女児だったら、喜ぶのではなく嘆くのだろうか。父のように妻を罵り、手をあげ、無謀な不妊治療にすがってしまうほど追いつめられた妻を、無情に放置するのだろうか。女児の成長には興味を示さず、その後、男児が生まれたら、不要になった玩具のように部屋の隅に打ち捨ててしまうのだろうか。
 オースターがそうであったように。
 内臓を力任せに絞られているような痛みが走る。オースターは生唾を呑みこみ、こっそり重たい腹をさする。

「オースター」

 ふいに、名を呼ばれた。
 顔をあげるより先に、ルゥのものとよく似た飾り紐を鼻先に突きつけられた。
「あんたにやる」
「えっと、これは……」
「ホロロ族のお守りだ。あんたみたいな危なっかしい奴は、せいぜい後生大事に持っておけ」
「素直に、具合悪そうで心配なんだ、って言えばいいのに」
 もはや呆れた様子のマシカに、トマが「いちいちうるさいな」と噛みつく。
 戸惑って受けとれずにいると、トマが手をひっこめた。
「いらないなら、はっきりそう言えよ」
「違う、いらないなんて言っていないよ。ただ……そういう装飾品は女性のためのものだからびっくりして」
「女のためのもの?」
「ランファルドでは腕輪のような装飾品は女性のもので、男が身につけると軟弱だってばかにされちゃうんだ。というより、白い目で見られる」
 トマは首をかしげた。
「男だの女だの面倒な連中だな。きれいなものはきれい。きれいだから身につける。それでいいだろ」
 オースターは目を見開く。
(そんな簡単な話じゃないんだけど)
 けれど、そうあっさり言われると、とても簡単な話に思えてきてしまう。
 よく見ると、飾り紐は緑系色の糸で編まれていた。自分の瞳の色だ、とすぐに察する。トマはいつこれを用意してくれたのだろう。どういう想いで編んでくれたのだろう。
「ありがと……」
 恥ずかしさといっしょに純粋な嬉しさがこみあげてきて、おずおずと手首に巻いてみる。
 すると、不思議な感覚におそわれた。
 飾り紐を身に着けた瞬間、あたたかな風が体内に吹きこんだように感じたのだ。
 真綿でくるまれたみたいに、ぬくぬくする。心なしか腹の痛みがやわらいだ気がした。
(ホロロ族が魔法の民かもしれないって、もしかしたら本当なのかな)
 痛みが薄らいだからそう思ったわけではない。一瞬覚えた感覚は、はじめて下水道を訪れた職場体験学習の初日に聞いた、あの清らかな歌声がもたらしてくれた感覚とよく似ていたのだ。

(あれは、トマの声だったんじゃないかな)

 根拠などなにもない。けれど、いま感じている風は。
 涙があふれそうなほど優しく、穏やかなこの風は――。

 とん、と腕になにかが触れた。見下ろすと、ルゥが飾り紐をつけた自分の手首と、オースターの手首とを触れあわせていた。ふたりの手首を飾る紐を交互に指さし、にっこりとする。
「お揃いだね」
 オースターが言うと、ルゥは楽しげに肩を揺らした。
 けれど、その喉からは空気の漏れる音がかすかにするだけだった。

「ルゥは……もしかして声を出すことができない?」

 さきほどからルゥは言葉を発していない。思いかえしてみると、最初に会ったときにもルゥの声を聞いた記憶がなかった。
 ルゥはうなずき、喉もとの「528」と刻印された首輪を指で示した。
 オースターの戸惑いを察してか、マシカがなにかをごまかすように笑った。
「〈喉笛〉の摘出手術のときに、声帯を痛めてしまったみたいなんです。あ、声が出ないという以外は元気なんで、心配しないでください」
「心配するなってことはないだろ。ルゥは死にかけたんだぞ」
 トマが低いダミ声で言う。
 マシカが「トマ」と咎めるように名を呼ぶ。
 だが、トマは悲しげに目を細め、オースターに訴えかけるような視線をよこした。
「ルゥの〈喉笛〉は生まれついて小さかったんだ。摘出手術は危険だ、やるべきじゃない、せめて〈喉笛〉が完全に成長を止めるまで待つべきだ……そういう話も出てたのに、あのくそじじいが」
「トマ!」
「……バクレイユ博士が、〈喉笛〉が不足してる、逆らうなら〈汚染地帯〉に追いだす、ってみんなを脅して」
「脅されたわけじゃないと何度言ったらわかるんだ。俺たちがランファルドにいられるのは、博士のおかげなんだ。博士を悪く言うことは許されない」
 口を引きむすぶトマに、マシカが言う。
「ルゥのことはしかたなかったんだ。〈喉笛〉がとびきり小さくて、取りだすのに手間どって……」
「しかたなかったってなんだよ、マシカまでラクトじいじと同じことを言うなよ」
 トマはマシカを悲しげに見上げた。
「頼むからマシカ、想像してみてよ。タウの〈喉笛〉が、もしルゥのように小さかったら? 手術のせいで何日も高熱に浮かされ、生死の境をさまよったとしたら? それでもマシカは黙って耐えるだけなのか」
「それは……」
「手術を受けに行ったきり帰ってこなかった仲間もいる。下水のなかに、喉を裂かれた死体が浮かんでたって話、マシカも知ってるだろう? もし、タウがそうなったら、それでも『しかたなかった』って言うのかよ……!」
 オースターの手に小さな手が触れた。
 見下ろすと、ルゥが泣きそうな顔でこちらを見上げ、首を横に振った。『止めて』。口の動きだけでそう言う。
 だが――だが、オースターにはなにも言えなかった。
 彼らがいったいなんの話をしているのか、まるで理解できない。
 思考は完全に止まり、ただ膨大な情報を受け止めることしかできない。
「なら、どうしろって言うんだ」
 マシカがうめいた。
「タウの〈喉笛〉は渡しませんとでも言うのか? そんなことしたら、ランファルドを追い出されてしまう。そうなったら今度こそ終わりだ」
「臆病者」
 トマが短く吐き捨てる。マシカの目の色が変わった。
「タウのことが大切だって口では言いながら、守るためになにもしない臆病者だ。マシカだけじゃない、みんなそうだ。他人の命令に従うばかりで、自分では物を考えようともしない、ばかの集まりだ!」
「みんな追い出されないように必死なんだ。家族を守るために、懸命にこの国の規則を受け入れてるんだ。それを臆病? 家族を持とうともしないお前にはわかりはしない!」
「おれは家族は持たない。新しい〈喉笛〉を作るために、子供を産んで、育てるなんて、そんなのただの家畜じゃないか」
 マシカは目元を真っ赤に染め、トマの肩をぐっとつかんだ。
「おまえはずっと俺をそんな目で見てたのか? 家畜みたいだと? そうなのか、トマ」
 トマの黒い瞳が悲しげに揺らいだ。
「ごめん、マシカ。でも、マシカだけじゃない。みんなも、おれも、みんな家畜だ。子供を作ると、ひとりにつき一万ポイントがもらえる。どうしてポイントをくれるんだ? 新しい〈喉笛〉が欲しいからだろう? 地下に閉じこめられてるのは、ホロロ族の純血を保つためだ。万が一にも地上の連中とまじわって混血化が進まないように。〈喉笛〉の品質を保つために。それが家畜でないって言うなら、なんなんだよ!」
「俺たちは閉じこめられてなんかいない。いつだって、マンホールを抜けて外に出ていけるんだ」
 マシカは声を低くした。怒りはもうすでになく、聞かん坊の弟をなだめるように肩を優しくさする。
 けれどトマはかぶりを振って、その手を振り払った。
「どうしてみんな納得してしまえるんだ。出て行ったって居場所なんてない。番号で管理されて、地上に出てもドブネズミって蔑まれるだけだ。金もないから、住む家ひとつ借りられない。その外、都の外には〈汚染地帯〉が広がってる。――ここは、格子がないだけの檻だ」
 マシカは拒絶された手を見つめ、ふと、オースターに視線をやった。
 いいことを思いついたとばかりに笑い声をたてる。
「わかった。だったら、それをオースター様に相談してみよう。地上に住む場所が欲しいんだな? そうすれば、檻に入れられてるなんて馬鹿な考え、捨てられるはずだ。そうだ、それがいい。お願いしてみよう。町中は無理でも、どこか……排水路の脇とか、工場のそばとか、人が少ない場所ならもしかしたら」
 トマは途方に暮れた様子でうつむいた。
「そういうことじゃないんだ、マシカ」
「なにがだよ」
 マシカが笑う。ひきつった笑顔でオースターを振りかえる。
「オースター様、こいつに力を貸してやってください。俺は今の暮らしにはなにひとつ不満はありません。でも、こいつはまだ若い。きっと外の刺激が欲しいんだと思います。だから」

 オースターは呆然とした。

「ごめん……僕にはなんの話かまるで。君たちの〈喉笛〉が……なんだって?」

 マシカは「え?」と言った。
 トマがはっと顔をあげる。
 ゆるゆると目を見開き、「ああ」と嘆息した。

「そうか。あんた、なにも知らないんだ」

 オースターは答えられない。
 マシカが戸惑った様子で少年を振りかえった。
「トマ、どういうことだ?」
「もしかしたらって思ってた。話が噛みあわないことが何度もあったし、あんたの態度とか口ぶりからもそう感じることがあったから」
 たった数分前まで、確かにオースターとトマの間には信頼があった。
 けれど今、トマの瞳からは見る間にそれが消えていくのがわかった。
 ろうそくの火を消したように、トマの感情が煙となって薄れていく。
「詳しく知らないだけだろうって思った。でもそのうち、詳しくどころか、なにも知らないんじゃないか……おれたちの存在も、〈喉笛〉のことすら、まったくなにも聞かされてないんじゃないかって。やっぱりそうだったんだ」
「まさか」
 否定したのはマシカだった。
 急に老けこんだみたいに目の下が落ちくぼみ、唇がわなわなと震えだす。
「ラクトさんがいつも言ってるじゃないか。地上の人たちは、俺たちに感謝してるって。俺たちの〈喉笛〉のおかげで、ランファルドは戦後の困窮を逃れ、ここまで発展できたんだって。教科書にも載ってるし、新聞の記事にもなった、って」
「もしそれが本当なら、おれたちはドブネズミなんて呼ばれてない。オースターも、たぶんほかの貴族も、地上の連中はみんな、おれたちのことを知らないんだ」
 目が合わない。オースターはトマを凝視しているのに、トマはまるでそこにオースターなどいないかのように視線を合わせない。

 怖い。

 底の見えない闇が足もとに広がり、オースターを呑みこもうとしているようだ。
 だって、どう考えたっておかしい。
 敵国から〈汚染地帯〉を越えてやってきた異民族。旧知の友を迎え入れるようにラクトと握手を交わしたバクレイユ博士。下水道に閉じこめられたホロロ族。揃いの首輪、揃いのダミ声。〈喉笛の塔〉建造中の記念写真に誇らしげな笑顔で写っていたラクトじいじ。
 知らないのはオースターだけではない。同級生のジプシールやオルグ、博識なコルティスすらもがなにも知らなかった。
 不勉強だから知らないのではないのだ。
 知らされていない。
 誰に?
 大公殿下。バクレイユ・アルバス博士。フォルボス・マクロイ衛生局局長。元老院は、ドファール家はどうだ、ルピィは果たしてどこまで知っていたのだろう。
 知らないほうがいいのではないか――。
 そんな警告が脳裏をこだまする。
 けれど。

『おまえはなにもしていない。なにもしないし、なにも知らない。なにひとつ、おまえの手のなかにはない』

 オースターはぎゅっと目を閉じた。

『もう、おまえの薄っぺらな言葉に興味はない。無論、おまえにもだ』

 ――知らずにいるなんて、許されない。
 知らぬ間に、誰かを傷つけるのはもういやだ。
 オースターはぐっと唇を噛みしめ、勇気をふるいたたせた。

「そうだよ、トマ。僕はなにも知らない。知らないから、ここに来たんだ」

 両腕を伸ばし、トマのぬくもりを失った手を掴む。
「お願いだ。どうか心を閉ざしてしまわないで。力を貸すって約束したろう?」
 トマがオースターを見る。
 その瞳にわずかに光がともる。

「教えてほしい。〈喉笛〉って、いったいなに?」

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