喉笛の塔はダミ声で歌う
第12話 きれいな世界の下
作業着に防水加工が施されたズボンを重ね履きし、くるぶしに届く深さの汚水に浸かる。ゴム製の手袋をはめた両手で押すのは、樽の載った台車だ。前方では、トマがその台車を縄で引っ張っている。
今日の作業は、ホロロ四号の入らない狭い下水管の底に溜まった土砂をスコップですくい、樽に入れて、廃棄物置き場まで運搬するという力仕事だ。
(うう、気持ち悪い……)
朝、ラジェが母に電報を打つと、さっそく返答があった。
――薬の量を増やすように。
簡潔で、事務的な指示。ラジェは即座に従い、オースターに注射を打った。
朝からの腹痛に吐き気が加わったのは、注射の後からだ。
(吐き気止めを飲んで、少しはよくなったと思ったのにな)
午前の授業は問題なかったのに、午後、下水道に来たら吐き気が戻ってきてしまった。意識をそらそうとしても汚水臭が強烈すぎて、たびたび胃液があがってきては喉を焼く。
「や、やる気がないわけじゃないからね!」
トマの視線に気づいて、オースターはあわてて弁解した。
この半月で、汚水に浸かることへの抵抗はやわらいだ。もう最初のころのような嫌悪感はない。
――いや、そう思いこむようにしているだけだ。本当はやはり我慢している。
オースターはちらりとトマに目をやり、思いきって質問してみることにした。
「トマはいやだと思うことはない? 汚水に入って作業するの。匂いもきついだろう?」
「これで食って生きてるんだ。いやもなにもねえよ」
「それは……そうなんだろうけど」
トマはじろりとオースターをにらむ。
「下水道で毎日働いてる人間に向かって、汚いだの、くさいだの、平気で口にするあんたの無神経さのほうがよっぽど不愉快だ」
「ご、ごめん、無神経だった!? そんなつもりはなかった!」
驚いて謝ると、トマは拍子抜けしたように怒らせていた肩を落とし、ふと思案げに虚空を見つめた。
「そもそもおれは排泄物を汚いと思ってない」
「え!?」
オースターは度肝を抜かれた。トマは小首をかしげる。
「なんで汚いって思うんだ? ここを流れてるのは、あんたの体内から出てきたものだぞ」
オースターはぽかんとした。
「違うのか? あんたはくそとか小便をしないのか」
「す、するけど……下品だよ、トマ!」
「おれはする。あんたもする。なんで当たり前にすることが下品ってことになるんだ」
「そ、そうじゃなくて、く、く……そ……とかそういう言い方が」
「排泄物って言いかえれば、汚くなくなるのか?」
「そういうわけじゃないけど……」
トマは本当に理解できないといった顔をする。
「あんたが食べたもんだぞ。野菜や動物、魚……それが体内で消化されて、外に排泄されただけだ。それをなんで汚いって思うんだ」
「だって……くさいし」
「確かにくさい。チーズと同じぐらいに」
チーズが食べられなくなるからやめてほしい。
「見た目が」
「なら、虹色のくそならきれいだと思うのかよ」
本物の虹を心からきれいと思えなくなりそうだからやめてほしい。
うーんうーんとうなるオースターを、トマがまっすぐに見つめる。
「あんたの住む世界は、きっと塵ひとつなくきれいなんだろうな。自分で手を汚す必要もなく、自分が出した汚れは、誰かが気づかないうちに処理してくれる。そういう世界に生きてる」
オースターは目を見開いた。
「そんなこと」
「そんなことない、か? けど本当なら、自分で出したくそは自分で処理するもんだろ。なのに、あんたが地上で垂れ流したくそを掃除してるのは、赤の他人のおれたちだ」
「僕が、自分で処理……」
「そうだよ。あんたは今、本当なら自分がすべきことを、やっとやってるってだけだ。そう考えたら、汚いとか、くさいとか言われるたび、おれがどれだけ馬鹿らしい気分になるか、ちょっとはわかるんじゃねえの」
そっけなく言って、トマが台車を止めた。スコップを掴み、下水管の底からすくいあげた堆積物を樽のなかに放りこむ。
オースターは灰緑色の汚水に浸かった防水加工のズボンを見下ろした。
「……そんな風に考えたことなかった」
この下水管を流れているのは、オースターの排泄したもの――もちろん他人のものだってたくさん混じっているけれど、一部はまぎれもなく自分のものだ。
それを、自分ではない赤の他人が処理してくれている。
もちろん対価は支払っている。ランファルド市民には公共設備を維持するための税が課せられているし、貴族も例外ではない。だが、自分から出たものを「汚い」と言い、その「汚い」ものの処理を他人に押しつけて、自分はそれがどう処理されたかも知らないまま、きれいな世界で清らかに生きている……それはいったいどういうことなのだろう。
「トマ。毎日、僕にかわって掃除をしてくれてありがとう」
思わずそう口にすると、トマが呆れた顔をした。
「礼を言ってほしかったわけじゃ……まあいいけど」
それからはふたり黙々と作業をつづけた。けれどオースターの手はたびたび止まってしまう。吐き気のせいだけではなく、いま聞かされたトマの話のせいだった。
(自分で手を汚す必要もなく、自分が出した汚れは、誰かが気づかないうちに処理してくれる。僕がいるのは、そういう世界……)
オースターは太陽の光がわずかも届かぬ下水道の闇を見つめる。
(誰かが、僕の気づかないうちに……)
ふと、オースターは首をかしげた。いつも「ぼーっとすんな」「油断が怪我を招くんだ」と口を酸っぱくして注意してくるトマが、自分と同じように作業の手を止め、ぼんやりと突っ立っていたのだ。
「トマ、元気ない?」
トマがはっと顔をあげる。
「君も具合悪いの? 平気?」
「……べつに。ただ、気になることがあって」
「仕事のこと?」
トマはわずかに躊躇してから、つづけた。
「朝、ラクトじいじの様子が変だったんだ。長老会でこそこそ会議を開いて、なんだかいやな感じがした」
「長老会? へえ、そんなものがあるんだ」
「ラクトじいじのほかに三人。最初にランファルドにやってきて、大公に移住の交渉をしたひとたちで……」
と、トマがオースターをまじまじと見つめてきた。オースターはもっと話の続きを聞きたくて身を乗り出していたが、トマは眉を寄せた。
「『も』ってなんだよ」
「へ?」
「君『も』具合悪いのか、って今――」
トマは台車を回りこんでオースターの前に立った。ゴム手袋を外し、作業で冷えきった手でオースターの顎をほっぺたごと掴む。
「むぁ! ひょ、ひょっほ……っ」
「顔色、すげえ悪いじゃねえか! しかもなんだよ、この汗」
反論する間もなく、トマはオースターの腕を掴んだ。
「体調悪いなら早く言え、ばか!」
「あ、またばかって言ったな! ちょっと吐き気がするだけだよ。薬の副作用で」
ぱっと口から出た言葉に、オースターは「あ」と口を閉ざす。
「なんの薬だ? 病気か?」
「あ、ちが……えーとーそのー、ともかく新鮮な空気でも吸えばすぐに」
腕を引っ張られ、トマの背中におぶわれる。あまりに突然のことに、オースターはぽかんとなるが、太ももをしっかと抱えられてはじめて「ひゃ!?」と声が出た。
「な、なななな」
トマが、あれ、という顔でオースターを振りかえってきた。
「な、なに!?」
「いや……べつに」
「なんだよ!?」
「ていうか、あんたやたら軽いな? 飯ちゃんと食ってるか?」
「く、食ってるから、おろしてくれるかなあ!?」
動揺する間にトマはじゃぶじゃぶと汚水のなかを突きすすむ。歩道に上がると、一番近くにあったマンホールの梯子に手をかけた。
人ひとり背負っているとは思えない早さで、するすると梯子をのぼっていく。びっくりするほどの強力だ。
オースターはトマにしがみつき、こわごわと遠ざかる地面を見下ろした。
天井につくと、トマが腕を伸ばしてマンホールの蓋を押し開けた。
「顔出せ。ここらは人気がないから、見られる心配はない」
オースターはおろおろと穴の外に顔を出し――ふうっと胸が広がるような爽快感を覚えて目を見開いた。
「わあ……っ」
地上だ。
いつもよりも視界が低いから変な感じはするが、見覚えのある景色だった。
たぶん旧市街のショル断崖の上にある〈針の沼公園〉の中。ずっと遠くの木立の間を人が歩いているのが見えたが、こちらには気づいていないようだ。
「本当に僕ら、地下にいたんだね!」
「どこにいたと思ってたんだ。ばか」
「あ、またばかって言っ――」
トマを振りかえる。鼻先が触れるほど間近に顔があって、オースターは凍りついた。自分を見つめるトマの眼差しは、思いがけないことに、オースターを心から案じているみたいに揺れている。
急に恥ずかしくなって、オースターは顔をそむけた。
「ぼ、僕、上にあがるよ。トマも外の空気を吸ったらいい。そうだ、ベンチでも探して休憩にしよう!」
ともかくトマから離れようと、なかば強引に地上へと這いあがってからマンホールを振りかえると、トマは穴から半分顔を出したまま固まっていた。
「どうしたの? はやくおいでよ」
「おれはいい。楽になったら戻ってこい。下にいる」
「ええ? 仕事熱心なのは知ってるけど、トマを下に待たせていたら気になってゆっくり休めないよ。そら」
ゴム手袋を外して手を差し伸べるが、トマはかぶりを振った。
「雨も降ってないのに地上に出たのがばれたら、局から懲罰をくらう」
「懲罰? まさか。どうして?」
「地上に出ることは禁じられてるんだ。前にも言っただろ」
オースターは呆気にとられた。
たしかに、前にもそのようなことを言われた。地上には出られない、地下の町で暮らしている――そんな話だったはずだ。
けれど、「禁じられている」?
「地上に出ないの? まったく?」
「出ない。降雨のせいで下水道の水位があがったり、有毒ガスが発生したりしたときには、一時的に地上に避難することは許されてるけど」
「なんで?」
「なにが」
「どうして地下から出ることを禁じられているの?」
「どうしてって……おれたちの役割のためだろう?」
困惑する。言っている意味がよくわからない。
オースターはふたたび胃液があがってくるのを感じ、トマの腕を掴んだ。
「ともかく地上に出よう。懲罰なんか、僕がさせやしないから。ほら!」
トマは言葉ほどには抵抗しなかった。ふたりは汚れた靴で枯れ葉をかさかさと踏み鳴らしながら、整然とした公園の中をゆっくりと歩いた。
地上の空気は清く心地よかったが、下水道に比べるとさすがに肌寒く、オースターは作業着の襟元をたぐりよせた。そうして、さっきの話について考えこむ。
役割、とトマは言った。
トマの役割とは下水道掃除夫――下水道の保守だろう。
けれど、下水道掃除夫だから地上に出ることを禁じられている、というのはいったいどういうことだろう。
(下水道掃除のために、ずっと地下にいなければならない理由はない)
だとしたら、役割のためなんかではない。
(地下の町に住んでいるっていうだけならまだわかる。戦後の宅地不足はそれだけ深刻だったんだろう。移民であるホロロ族が、ランファルドの民よりも冷遇されたのはしかたのないことだったろう。でも、地上に出ることを禁じられているだなんて……いったいどうして――)
地下の町で暮らしていて、地上に出ることを禁じられているというのは、言い方を変えれば「地下に閉じこめられている」ということだ。地下の町がどんなところかは知らないが、地上に出ることを許されていないだなんて尋常ではない。
(まさかトマたちが異民族だから?)
すぐに思いつく理由はそれだった。
歴史の授業でも習った。種族の違いによる差別、身分の違いによる差別。ランファルドでもたびたび起きたとされる、人種差別と、異民族迫害の歴史。
(けれど、こんなにも発展した現代社会で人種差別だなんて……)
それに大公殿下は労働階級の地位向上のために労働法を制定するなど、弱き者に手を差し伸べてこられたお方だ。その殿下が、ホロロ族を軽視し、地上に出てこぬよう命じたというのは、にわかには信じがたい話だった。
(でも、殿下の労働法がトマたちには適用されていない)
トマはランファルド市民ならば誰もが受けることのできる初等教育を受けていない。トマだけでなく、大人の掃除夫ですら「文字は読めない」と言っていたではないか。それだけでも十分、ホロロ族が軽視されていることがわかるというものだ。
ふと、オースターは考えごとに夢中になって、トマの存在を忘れてしまっている自分に気がついた。クヌギの根もとで足を止めて、背後のトマを振りかえる。
トマはずいぶん後ろのほうを、重々しい足取りで歩いていた。
トマには新鮮な空気を味わったり、秋の公園を楽しんでいるような様子は少しもなかった。顔は恐れにやつれて見え、瞳は怯えた小兎のように落ち着きなく泳いでいる。
オースターはショックを受けた。
その不安げな姿と、下水道でのたくましい姿とは、あまりにかけ離れていた。
「懲罰って、この間みたいに懲罰労働をさせられるの?」
よほど懲罰が恐ろしいのだろうか。そう思ってたずねるが、返事はなかった。
オースターはたまらずトマのところまで戻り、その手を掴んだ。
「トマ。大丈夫だよ、僕がついているから」
力をこめて言うと、ようやくトマが顔をあげた。
オースターは、ゆるゆると目を見開いた。
――あれ?
心臓がどくんと脈を打つ。
トマの手を握る自分の指が、動揺に汗ばむのを感じる。
釘づけになった視線の先にあるのは、トマの首を戒める鉄製の輪だ。
――この首輪、なんだ?
なんだ、だって? なんて間抜け。トマは最初に出会ったときからこの首輪をしていたじゃないか。
けれど、下水道で目にしたときは深く気に留めなかった。肌の色、目鼻立ち、三つ編み、頬の刺青、それに特徴的なダミ声……オースターにとってトマはなにもかもが奇妙で、首輪を格別おかしなものとは感じなかったのだ。
だが、清らかな日差しの下で見るそれは、明らかに異質だった。
赤錆の浮いた、鉄製の輪。
肌が白くないから目立たないが、首輪が当たるあたりの皮膚は赤くただれ、あるいは黒く変色し、慢性的な皮膚炎を起こしているように見えた。
なぜ、気づかなかったのだろう。
そのおぞましい首輪は、どう見たって人間が装飾品として身につける類のものには見えなかった。
「その首輪、なに?」
オースターは震える声で問う。
「その首輪の数字って、なにを意味しているの?」
トマは答えた。
「個体の識別番号。おれは208。208人目のホロロ族」
まともじゃない。こんなむごいことを、いったい誰が。
「誰に、そんなひどい首輪をつけるよう言われたの」
衛生局、元老院、あるいは大公殿下……どんな答えであったとしても、こんな首輪をトマにつけた誰かを許しておくわけにはいかない。オースターは拳を握りしめ、トマの答えを待つ。
だが、トマの返答はそのどれとも違った。
「あんただよ」
トマはまっすぐにオースターを見つめて答えた。
「あんただろう? おれたちを必要とし、おれたちがいなくちゃ生きていけない、ランファルド人のあんたたちが、おれたちに首輪をつけ、地下に閉じこめ、使い勝手のいい家畜にしたんだ」
オースターは言葉をなくした。
トマはそんなオースターをじっと見つめ、ふと口を開いた。
「あのさ……オースター」
名を呼ばれ、つないだ手に力がこめられる。
「もし、もしも、おれが力を貸してくれって頼んだら……あんた、どうする?」
オースターは答えられなかった。理解が追いつかなかった。首輪。家畜。個体の識別番号。僕の力――トマが、僕の力を必要としている? 僕の、なんの?
オースターの混乱をどう受け止めたのか、トマは恥じるように手を離した。
「……なんでもない。忘れてくれ」
「ま、待って――」
離れた手を掴みなおした、そのときだった。
トマがはっと顔をあげた。おののいたように周囲に首を巡らせ、色づく広葉樹のてっぺんに視線を釘付けにする。
樹冠の上から顔を覗かせていたのは、清廉なまでに美しい白亜の発電所――〈喉笛の塔〉だ。
オースターの肌がぞわりと泡立った。
歌うのだ。塔が。
本能的にそう直感したとき、果たして塔が高らかに歌いはじめた。
(ああ、祈らなくちゃ)
オースターが習慣的に思ったとき、
「なんだ、この悲鳴……」
オースターはトマの狼狽した顔を振りかえった。
「歌だよ、塔からの。地下でも聞こえていただろう? ……ああ、そうか。下水道ではずいぶんくぐもって聞こえるものね。僕も最初、すぐには塔の歌声だってわからなかった。でも、地上ではこんな風に聞こえるんだよ」
目の端に、木立の向こうの人影が入った。両手を組んで、塔のある方角に祈りを捧げているようだった。
「いけない、僕らも祈らなくちゃ。話はあとにしよう。トマ、いっしょに――」
「どうしてだよ」
トマが顔をゆがめた。
「なんでこんなむごたらしい悲鳴を毎日聞きつづけて、あんた、そんな平然としていられるんだ?」
「トマ?」
「あんた言ったよな。おれたちの命はあんたたちと同じだけの価値があるって。でも、おれにはやっぱりあんたが同じ人間だなんて思えない。あんたはきれいな世界にいて、おれは、ずっと、あの塔の下で叫んでる……っ」
トマがダミ声を荒らげた。
直後、突風が逆巻いた。
耳を聾する轟音。体がちぎれそうなほどの強風。オースターはとっさに、トマの手を掴んでいないほうの腕で顔をかばった。なにかが手の甲に当たる。細めた目を頭上に向けると、地上から吹きあげられた枯れ葉が異常発生した虫の大群のように、青かった空を、黒く、暗く、埋めつくしているのが見えた。
視線を転じる。
逆巻く風のなかで、トマが片手で口を塞いで、立っている。
指の隙間から、開きかけた口が見えた。
不意に、音が途切れた。
オースターは、檻のなかにいた。
同じ檻の内側に、幼い、三つ編みの子供がうずくまっている。
首には、鉄の首輪。
数字はない。首輪からは鎖が垂れさがり、檻の格子に繋がれている。
――さあ、歌え。
誰かが檻の外で言った。
――歌うしか能のない、醜いホロロ鳥。
格子の間から、熱せられた鉄の棒が差しこまれる。
子供は嫌がって檻の隅まで逃れ、唇を開き、死にものぐるいで歌っ
風は始まったときと同じように、突然、静まった。
オースターは呆けた。立ちつくし、目をまたたかせ、ようやく周囲に視線を巡らせる。
(あ、あれ?)
そこは〈針の沼公園〉だった。当たり前だ、そこ以外どこであるというのか。けれどいまの突風で、赤く色づいていた広葉樹はすっかり葉を落とし、真冬のような裸木に変わっていた。枯れ葉はいったいどこまで運ばれてしまったのか、地面は黒い土を剥きだしにしていた。
トマは、そこに立っていた。
いつの間にか手は離れ、すこし距離を置いて、突っ立っている。
「す、すごい風、だったね……」
間の抜けた感想をこぼすと、トマはまじまじとオースターを見つめ、どこか安堵したように、それでいて疲れきった様子で小さくうなずいた。
「……もう地下に戻る。今日の仕事は終わりだ。あんたもこのまま帰れ」
「え、でも」
「公園の外に、斜行トラム線の〈針の沼公園前〉駅があるはずだ。それに乗れ」
「けど、制服も鞄もまだ下に」
「局の人間に渡しておく。今日中に学園の寮まで届けさせる。じゃあな」
「トマ、待って!」
トマは待たなかった。踵を返し、なにかから逃げるように走りだす。
汚れた作業着姿はすぐに木立の向こうに消え、オースターは伸ばした腕をゆるゆるとおろすしかなかった。