喉笛の塔はダミ声で歌う

第1話 くそったれ貴族

〈喉笛の塔〉が歌う。
 石膏で塗りかためられた、白く、細長い体を震わせながら。
 塔から歌が聞こえてくるたび、人々の皮膚はなぜか泡立ち、奇妙な気分にさいなまれる。まるで、自分がこの世でもっとも尊い生き物の首を、両手できつく絞めあげているかのような罪悪感と、そして恍惚感。

 塔は発電所だ。ランファルド市の中心にある断崖のうえにそびえた塔の内部では、毎日、莫大な電気エネルギーが生みだされている。その発電の副産物として、塔は朝六時から深夜零時まで、二時間ごとに「歌う」。
 ――十年前に終結した先の大戦は、人々の生活を大きく変えた。
 石炭資源を隣国からの輸入に頼っていたランファルドだが、戦後、隣国との音信がふつりと途絶え、資源をはじめ多くの輸入品がまったく流れてこなくなった。そればかりか、国境を接した隣国だけでなく、さらにその先の小国群や、世界大戦の当事国であったふたつの大国の存亡すらわからなくなってしまった。
 ランファルド大公国は、戦後、完全に世界から孤立してしまったのである。
 情報も入らず、輸出入も途絶えた。なかでも、蒸気機関によるエネルギー生産に頼りきりになっていた都心部では、石炭輸入ルートが途絶えたことは深刻な問題となった。自国にも炭鉱がないわけではないが、国を丸々まかなえるほどの埋蔵量はなく、質も粗悪なものだった。
 戦後一年は、備蓄の石炭を用いて、変わらぬ生活を維持できた。だが一年をすぎたあたりから、少しずつ、しかし目に見える速度で、日常生活からいろいろなものが消えていった。最初は、必要性の低いものから。次第に、生活必需品まで……。
 これからどうなるのか。
 備蓄の石炭が底をついたら、自分たちは生きていけるのか。
 まさか祖父母の世代のように、周辺の森林を切り開き、木炭をつくって、黒煙と肺病に悩まされて生きていけというのか……。
 そんな不安に震えていた人々の前に、突如、現れたのが〈喉笛の塔〉だ。
 塔は、わずか数年で国を復興させた。そればかりか、蒸気機関が主流だった戦前とは比較にならないほどの飛躍的な電気技術革新をもたらした。
 大戦はどうやら多くの国を破滅に追いやったようだが、ランファルドはかつてなく繁栄することとなった。そして、盤石な未来をも〈喉笛の塔〉は手厚く保障してくれているのである。
 ゆえに、人々は塔が歌いだすと祈りを捧げる。
 塔を築いた大公殿下に感謝を捧げるとともに、今後の変わらぬ平穏と、未来のさらなる発展を願うために。

 オースターは寮の自室の窓から聞こえてきた日没の歌声を耳にし、読みかけの本を閉じて祈りを捧げた。
(このまま明日がきませんように!)
 祈る。
(もう二度と下水道に行かないで済みますように!)
 熱心に祈る。
(ついでに、あのダミ声の掃除夫が下水に落っこちてしまいますように!)
 猛烈な熱心さで祈る。
「オースター様? ああ、こちらでしたか、オースター様。オースター様?」
 オースターは祈りに割って入った声に顔をしかめる。
 閉じていた目を開くと、ぬっ、と陰気な面をした青年が視界一面を覆った。
「……ラジェ」
 ラジェ・マニー。
 クラリーズ学園での寮生活を支える、オースターの忠実なる従者である。
 青白いを通り越して、緑にすら見える肌。慢性的な目の下のクマ。まだ二十代前半のはずなのに、額の生えぎわは寂しく後退しかけている。
 神経質です、を全力で主張してくる、暗い焦げ茶色の瞳でじっとりとオースターを凝視しながら、ラジェは首をかしげた。
「どうしました。不機嫌な面構えですが」
 ラジェにだけは面構えをとやかく言われたくない。
 オースターはこほんと咳ばらいをし、主君らしく渋面をつくって口を開いた。
「歌の最中に話しかけるなんて礼儀に反するぞ、ラジェ。以後、気をつけたま」
「歌はもう終わっておりますが? ご主人様?」
 えっと驚いて耳を澄ませるが、確かに歌声は聞こえなくなっていた。祈りにかこつけ、つらつら人を呪っているうちに終わってしまっていたようだ。
 オースターは気まずく主君面をひっぺがす。
「考えごとをしていたんだよ。昨日、職場体験学習で、あの下水道掃除夫にさんざんコケにされたからそれで……」
「ああ、例の下水道掃除夫の件ですか」

 そう、例の下水道掃除夫の件だ。ルピィに罠にかけられ、下水道掃除夫の職場体験をさせられることになった、例の件。
 それだけでも理不尽だというのに、そこで出会った掃除夫ときたら――。


「誰だ、あんた」
 化け物、もとい謎の子供にそう問われたオースターはぽかんとした。
 その特徴のある、ダミ声。
 喉の奥から絞りだすような、枯れた声。
「……て、あれ? もしかして君、男?」
 謎の子供がむっと顔をしかめた。
「おれのどこが女に見える」
「あ、いや、三つ編みなんてしているから、てっきり」
「三つ編みのなにが悪いっていうんだ」
「だって、それって女の子がするものじゃないか」
 三つ編みといったら、結婚前の少女がするものだ。結婚後でも、ご婦人が眠るまえに寝床などでするくつろいだ髪型であって、決して健全な男子のヘアスタイルではない。
 オースターは怖い顔で押しだまる少年を、しげしげと観察した。
 十四歳男子の平均身長よりも小さいオースターと比べても、わずかに高いだけの背丈。おかげで、ほぼ真正面から視線が合う。
(見たことのない肌色だ。顔立ちもなんだか異国的というかなんというか……)
 オースターはくるくる癖のある金髪で、瞳は黄味がかった緑色をしている。肌の色素は薄い。ランファルド大公国では、ごく一般的な姿である。
 一方の少年は、黒髪を女のように腰まで伸ばし、肩のところで三つ編みに束ねている。肌の色も浅黒い。瞳は、ネコ科の獣のように黒目がちで、目じりが鋭い。黒々とした眉毛は、体毛の細いランファルド人では珍しく見える。それに、頬に描かれた、輪をいくつも連ねたような模様も奇妙だ。
(もしかして……異民族?)
 にわかに興奮がこみあげてくる。
 ランファルド大公国は、ダヴィルンド半島に栄えた小国だ。
 北を三つの小国と接していたが、それらの国とは大戦後、交易がいっさい途絶えてしまった。南の海側も、潮流の関係で船の離着岸は不可能。大戦末期生まれのオースターにとって、肌色の違う異民族と出会うのはこれがはじめてのことだった。
「あんた……貴族か?」
「うん。君は掃除夫、だよね?」
 少年は作業着を着ていた。防水加工された薄緑色のズボンに、同じ色の頑丈そうな長袖の上衣。どちらも目に余るほど汚れて、袖口も擦りきれている。掃除用具だろうか、先端にブラシがくっついた長い針金を輪っかの形にまとめ、肩に通して持っていた。腰ベルトにも工具の詰まった皮鞄が重たげに吊され、鞄の脇ではなにかの計器が青色のランプを点滅させている。
 ふと、オースターの意識が少年の喉もとに吸い寄せられた。
 鉄製の首輪をはめている。
 正面には「208」と謎の数字が刻印されていた。
(なんだろう、これ)
 無意識に、オースターは手を伸ばした。
 少年は驚いた顔で一歩、後ずさった。
 オースターも自分の行動にびっくりして、手をひっこめるかわりに、少しためらってから握手のための手を差しだした。
「僕はオースター・アラングリモ。アラングリモ公爵家の跡継ぎで、クラリーズ学園の生徒だ。君の名前は?」
 少年はオースターの手をじっと見つめる。
 オースターは困惑する。握手を返さないのは敵意ありという意思表示だ。
 オースターは少年をこっそり観察した。作業着の汚れも目立つが、少年は手も顔も全体的に汚れていて、三つ編みも脂じみてぼさぼさしていた。
(……そうだ、彼は労働階級なんだ。礼儀作法を知らないだけかも)
 オースターが手を引くと、少年はやっと口を開いた。
「トマ」
「トマ。おもしろい響きだね。名字は?」
 トマはじっとオースターを見つめ、答えない。
「えー、と。……あ、これ、学園からの指示書……あ」
 トマは指示書をひったくって、その文面を疑わしげに見つめた。
「読めない」
 指示書を突きかえされた。オースターはきょとんとする。
「文字が読めないんだ」
 怒ったように言われ、オースターは「じゃあ、なんでひったくったんだ」と内心むっとしつつ、説明をした。
「授業の一環で、君たちの仕事を体験することになったんだ。教育係がふたり迎えにくるって聞いているんだけど、君はそのひとり……じゃなさそうだね」
 トマは眉を寄せた。
「貴族が下水道掃除を体験? 冗談だろう。どんな新手の道楽だよ」
 その乱暴な口調に、オースターはあっけにとられた。
「道楽って。学校の授業だよ。ひと月、掃除夫の仕事を体験して、最後にレポートを提出するんだ」
「レポート」
「そう。その出来によっては、元老院でも取りあげられ、特に優秀なレポートは大公殿下のお手元にも渡るんだ。そうなれば、殿下から直々にお褒めの言葉を賜ることができるかもしれない。君たちにとっても、とても名誉なことなんだよ」
「お褒めの言葉」
 あ、ばかにされている。
 日ごろからルピィの取り巻きたちに悪口を言われているせいか、敏感にそう察する。
「教育係はどこにいる。僕が用事があるのは君じゃない」
 強い口調で言ったとたん、トマはくるりとオースターに背を向けた。
「ちょ、待って。どこに行くの? 教育係はどこに」
「地上に帰れ、クソったれ貴族」
「……くそった……?、……」
 途方もなく下品な言葉づかいに、オースターの思考は一時停止する。
「な、なんだって!?」
 ようやく声をあげたときには、もうトマはトンネルの奥に向かって歩きはじめていた。

 トマの持つランタンの光が遠ざかるにつれ、周囲がどんどん暗くなる。オースターが持ってきたランタンは、さっき水没させてしまった。
(なんて最悪な場所なんだ!)
 くさくて、暗くて、汚くて、猛烈に下品な異民族の少年がいて、来るはずの教育係も約束をやぶってやってこない。
 帰るべきだ。明かりはなくしたけれど、今ならすぐ近くにおりてきた螺旋階段がある。ランタンがなくても壁伝いのぼれば地上に戻れる。
 オースターはきびすを返し、階段に足をかけた。
 刹那、ぱっと脳裏に浮かんだのはルピィの嘲笑だ。
「ううう……」
 その場でぐるぐる回転し、結局オースターはトマを追って濡れた歩道を歩きだした。
「待ってよ、トマ。君の失礼は許すから!」
 答えはない。トマは早足に進み、トンネルの横壁に設置された鉄梯子をのぼりはじめる。
 のぼった先には、また別のトンネルが口を開けていた。水がちょろちょろと流れだし、壁を伝い落ちていくさまが見える。
(あ、そうだ)
 オースターはあわてて背中の鞄をおろし、口を開けた。取り出したのは、ペン型トーチだ。ラジェが「オースター様はおっちょこちょいでいらっしゃるから、配給のランタンなどすぐに壊してしまうでしょう」と嘆きながら用意してくれた、非常用の明かりである。腹立たしいほど優秀な従者だ。
 どんどん暗くなっていく周囲に焦りながら、ペン型トーチの先端を紙蓋ごとちぎる。内部に仕込まれた薬品が化学反応を起こし、小さな明かりがともった。周囲の闇をのけるほどではないが、手元が見える程度には明るい。
 オースターはそれを口にくわえ、鉄梯子に手をかけた。
(うわ……)
 じゃりっとした錆の感触。一瞬、手を離しそうになる。背中が嫌悪感で震えるが、再度、勇気をふりしぼって梯子を握った。
(どうしてこんなことになったのかな)
 同級生は今ごろ、学校指定の正装――黒一色の礼装をまとって、歓迎式典に臨んでいるはずだ。なのに自分は同じ正装姿で、ひとり下水道の匂いに顔をしかめている。
 いつの間にか、トマの姿が梯子から消えている。頭上のトンネルの天井が光って見えた。中に入ったのだ。
 オースターは急いで梯子をのぼって、トマが消えたトンネルを覗きこんだ。
 円形の下水管だ。歩道はない。トマの明かりはまだ近くに見えた。ぱちゃぱちゃと水を蹴る音が反響して聞こえてくる。
 後を追うには、自分もまたこの水の中を歩かねばならないのか。
 この灰緑色をした、正体については考えたくもない汚水の中を。
(もうやだ)
 オースターは梯子からトンネルに移った。汚水のわずかな流れの上に靴を乗せた途端、ぶるぶるっと爪先から頭のてっぺんまで震えが走りぬけていった。
(もうやだ)
 トーチを手に持ちかえ、前に進む。底がぬめっていて、何度も滑りそうになった。
「ついてくるな!」
 追ってくる水音に気づいてか、ずっと先から例のダミ声が飛んでくる。
 是非ともそうしたかった。
 なのに、オースターの口は勝手に答える。
「ついていく! 君が止まるまでずっと!」
 返答はない。
 重たい静寂がのしかかり、オースターの心臓は鼓動をはやめていく。
(ああ、だめだ。どんどんトマが遠ざかる)
 トマの光が視界から消えた。トンネルが分岐したのか、それともまた梯子でも下りたのか。
 浅く流れる水を蹴って、急ぎ足でそこまで行くと、やはりトンネルは左右に分岐していて、左側に伸びたトンネルの先に光が見えた。だが、見る間に光は小さくなり、かわりに濃い闇が迫ってくる。
「ま、待って、ト――」
 ふいに視界が真っ暗になった。
 ペン型トーチの明かりが消えたのだ。
 非常用とは聞いていたけれど、耐久時間が思ったよりも短かった。

「トマ……?」

 完全な黒の世界。
 行先も、帰る道も、鼻の先になにがあるのかすらわからない。
 塊のような恐怖が迫ってきて、オースターは目をぎゅっと閉じる。
 大丈夫。壁伝いに戻れば、少なくとも元の場所までは戻れる。梯子がある場所は足で確認し、慎重におりればいい。
(途中、分岐したところ、どっちに曲がったんだっけ)
 考えた瞬間、喉元まで悲鳴がせりあがった。

 誰かに背後から肩を叩かれる。

「っぅひゃあああああ!」
 オースターは悲鳴をあげた。
 見開いた目にはなにも映らない。真っ暗なままだ。
 けれど、「うるせえな」とぼやいた声は、トマのダミ声だった。
「ト、トマ? トマなの!?」
「おれ以外に誰がいるってんだ。――いいか、お貴族様。ここは一歩まちがえただけで、帰る道も行く道も見失う迷宮だ。不衛生で、有毒なガスが発生し、病原菌にまみれたネズミがうろつき、噛まれればそこから壊死が広がって、下手したら死ぬ」
「死ぬ!?」
「あんたみたいな無菌室で育ったような奴、あっという間に死ぬね。もうわかっただろ。生半可な覚悟でできる仕事じゃないんだ。さっさと帰れ。明かりは貸してやるから」
 手になにかを押しつけられる。形状からしてランタンだとわかった。
 オースターは一瞬すがりかけたそれを、苦渋の思いで押しかえした。
「君の忠告には感謝する。でも――帰るわけにはいかないんだ。決して」
 沈黙が降りる。
 螺子を回すキチッという音がし、まばゆい光が目を焼いた。
「どうして」
 ランタンの強い光の中で、トマの黒い双眸が怪しく輝く。
「そんなに大公殿下に褒められたいのか。あんたみたいなおきれいな貴族が、こんな汚くて暗い地下にもぐりこんで。汚れにまみれた掃除夫の手に、いやいや握手まで求めて」
 オースターは青ざめる。トマは握手の意味をしっかり理解していた。わかったうえで、握手を返さなかった。けれど、それは敵意があったせいではない。
 ――”いやいや”。
 恥じ入る気持ちがこみあげた。たしかに、”いやいや”だったかもしれない。いいや、そうだった。トマの汚れきったありさまを見て、一瞬、手を差しだすのをためらってしまった。それをトマはちゃんと見ていた。だから握手を返さなかった。
(ちゃんと答えなくちゃ。トマは僕をよく見ている)
 オースターは心を決めて、顔をあげた。
「殿下からお褒めの言葉をいただけるなら、もちろんそれは名誉なことだ。でも、そのために来たんじゃない」
「なら、なんのために」
「誇り高きアラングリモ公爵家の名に恥じぬために」
 真剣にそう口にすると、トマは鼻で笑った。
「空っぽな答えだな」
 一瞬で、頭に血がのぼった。
「空っぽってなんだよ……!」
 その直後だった。
 遠くで、高く細い音がした。ふたりは会話をやめ、顔をあげる。
 最初は距離があるように感じられたが、音は次第に幾重にも反響しあって、下水管の奥から這うようにして伝ってきた。
 にわかに腕の皮膚が泡立つ。オースターは腕をさすりながら察した。
(〈喉笛の塔〉の歌だ)
 そうか、地下にいても、あの歌は聞こえてくるのだ。
 心細かった心が安堵感で満たされ、それとともに怒りが消えてなくなる。オースターは反射的に両手の指を組んで、感謝の祈りを捧げた。
 歌がやみ、ふたたび顔をあげると、トマがなぜかじっとこちらをにらんでいた。
 そして、ふと、ひどく冷たいダミ声で言う。

「ついてこい。くそ貴族」

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