「罪」
『共に都を造り、国を安寧に導こう』
『罪が消えることがないのなら、せめて出来るは過ちを繰り返さぬこと。
…そのために、私は伝え人となろう…』
『協力する』
──遥か遠い昔。
世界の右隅に、神に見離されし大地あり。
愚かなるは人なる生物。
神との誓約を破り、故に大地は踊り狂った。
草も木も、
町も城も、
全ては崩れ去り、
残されたは、それでもなお生き残る、
人ばかり。
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精霊王との誓約を破った天皇家の、ただ一人の生き残り、カレヴァリー=ルミガ=サリフォス。
世界を崩壊せしめた罪業をたった一人でその背に背負い、彼は生き残った人々に手を差し伸べて、力づけ、その強大なる力でもって、世界を平穏へと導かんとしていた。
彼の罪を知らぬ人々は彼を英雄と称え、止まった世界を羅り輪らす、戒めの王、「羅輪戒王」と呼び慕った。
──海明遼地方涯山。
「シュキエンシ?」
カレヴァリーはふと顔を上げ、傍らに立つ男を見上げた。
「はい。涯山より南で、そのような変わった名をした人物が、人々を助けているそうです」
「どのような字を?」
男は一つ頷くと、僅かに草の生えたものの、まだほとんどが土に覆われた地面に、指で字を書き下した。
──朱燬媛士。
「朱に焼き尽くす…か、その意味するところは血か焔か。物騒な名だな」
カレヴァリーは思わぬ同朋の存在に、やつれた顔をひっそりと綻ばせた。そしてはたと気付き、首を傾げる。
「…女か?」
媛士は女に付ける称名だ。
「さあ、そこまでは…」
男もまた首を傾げる。
そうか、と幾度か頷きカレヴァリーは「合流できれば心強いものだ」と独りごちた。
男はそんなカレヴァリーの横顔を彩る疲労の色に、不安そうに身を乗り出した。
「羅輪戒王。少し休まれてはいかがですか」
男の飢餓で落ち窪んだ目が、カレヴァリーの絶え間なく動かされる骨ばった手を捕らえる。
男の口調には英雄に対する敬意の他に、高位の人物に対した時の緊張のような色も交っていた。彼自身が「皇族である」ということを広言したことは一度とてない。しかし物腰からも判断つこうものだし、彼を知る官僚や目にかかる機会のあった僅かな民の中に、当然生き残っている者もある、いつのまにか自然と広まっているようだった。
カレヴァリーは確かに疲弊し、笑う気力すら失せた口元に、それでも清廉かつ頼もしい微笑みを浮かべた。
「再び大地に草木が芽吹いたならば、休むことにしよう」
何か言いたげな男から視線を外し、カレヴァリーは傍らに横たわる女の額に描きつづけていた祈呪を「還」の字で終わらせた。それを終えるとその側に涙も枯れた様子で座る子供を、そっと抱き寄せた。腕に抱いた子供の髪からは、汗と腐臭の混じった臭いがして、ひどく胸が痛んだ。
そして二度と開かぬ女の瞼に手を乗せて、目を伏せ、乾いた白く変色した唇をそっと開いた。
やがてその口から漏れいずる、不可思議で清廉な旋律。
カレヴァリーの腕の中で、子供がかすかに震えた。
横たわる女の遺体は、静かな唄とともに粉となって崩れ落ち、そして静かに、
土に還った。
世界崩壊から一ヶ月。
餓死者は涯山だけで百人を越え、また疫病が密やかに広まり始めていた。
「…っ…ぁぐ……」
カレヴァリーは大地に累々と転がる瓦礫を支えに、体をくの字に折り曲げた。
──ボタ…ッボタボタ…ッ
激しい咳とともに吐き出される、血。耐えようとして食いしばった歯から、それでもなお血が滴り続ける。赤土に散る吐血は地面に吸い込まれ、やがてどす黒く変色した。
胸を掻き毟り、臓器に幾本もの針が植わっているような耐えがたい激痛に、必死で声を押し殺す。
彼の体もまた、死の色に蝕まれていた。
先日までは口にした物を吐き出していたが、何も口に通らなくなった今、代わりに血を吐きだし続けている。
彼は乾いた唇を噛みしめ、力任せに瓦礫を殴りつけた。激昂は収まらず、伸びた爪が掌を裂くほど強く握りしめた拳を、擦りつける。
顔を上げれば目に映る、荒廃した大地。
かつては緑に溢れていた海明遼。この変わりようは何なのだろう。樹木は一本とて生えておらず、草も花も動物の姿もほとんど見られず、それどころか風のそよとも吹かぬ大地。かつては絢爛な建物であった瓦礫の山が、今はあちこちに散らばり、田園も庭園も人工物などほとんど残っていない。唯一変わらぬは、昇る陽射しばかり。
つい数日前まで、ここには死体が累々と転がっていた。
泣く気力もなく、呆然と立ち尽くす人々と、突然の惨事の理由すら知らずに死んでいった人々の死体。
彼らは何も知らなかった。
何の罪も存在しなかった。
何故だ。
幾度となく繰り返されてきた問い。
何故神は、罪なき人々までもを罰したのか。
何故神は、罪なき命を死に死に至らしめたのか。
何故、罪人である自分が、生きのびているのだ。
力なく崩れ落ちようとしたその時、どこからか自分を呼ぶ声が聞こえた。
羅輪戒王。
世界を羅り輪らす、戒めの王。
何も知らない民、何も知らずに自分を慕ってくれる者たち。
神は彼を罰しなかった。
罪の重さにも関わらず、かわりに罰せられたのは、罪なき人々。
──真の罪人を罰するのが、神でもなく、人々でもないのなら…。
カレヴァリーは焼けてざらついた腕で口元を拭い、不気味なほどに震え力の入らない足を叱咤し、声の方へと一歩踏み出した。
間近で土を踏みしめる音がした。膝を抱えていた子供は、不意に頭上に翳りがさしたことに気付き、力なく顔を上げた。
その目が驚愕に見開かれる。
子供の目の前には、大きな影が立っていた。日輪を背に従え、巌のように立ち尽くす大きな影。
「…穏やかな新芽だ」
影は心の内にまで響くような心地よい低音で呟き、身を屈めて子供の足元を見つめた。
そこにひっそりと芽吹いていたのは、小さな双葉。先ほどまで子供の母親が横たわっていた場所だ。双葉はそこかしこに漂う死臭など意に介した様子もなく、陽射しを浴びて碧い光沢を放っている。
「お前の母親か。さぞ気持ちの良い方だったのだろう。…お前に笑いかけている」
「…ほんとう?」
子供は無意識に口を開いていた。発した声はひどく乾いていて、実際にはまともな言葉にならなかったのだが、影はしっかりと頷いた。
「美しく育ててやると良い」
やがて身を翻した影の髪が、燃えさかる炎のように見えて、子供は感嘆の溜め息をついた。
カレヴァリーの周囲を、嬉々と顔を輝かせる男女が囲った。近くに池を見つけたという。
「池か、よしすぐに行こう」
廃墟にはかわりないが、完全崩壊は免れたいくつかの建物に、カレヴァリーが率先して向かう。鋤や鍬など、掘り出した道具を自らも手にし、十数人を連れ立って池のある方へと向った。
絶望的な生活の中で、民の顔は当初よりも明るいものに変わっていた。
彼らの顔には、どこか安堵があった。カレヴァリーのいつも変わらぬ力強い微笑が、彼らの支えとなっていたのだ。疲労の片鱗も見せず、率先して立ち回り、その不思議な力を使って大地を息吹かせる、彼らの王。
偉大なる、王。
池というのは、辛うじて形に成り始めた居住地より、東に少し行ったところにあった。乾いて皹割れた大地に忽然と姿を現す、腐った水を薄っすらと湛えた池。
「…まだ飲んだ者はいないな?」
カレヴァリーは思い思いの道具を手にした民を見渡した。人々の目は喉の乾きに爛々と輝き、今にも腐った水ですらも飲みかねない様子だったのだ。
カレヴァリーとてそうだ。渇きは深刻に、彼の身体を蝕んでいた。
誰もが首を小刻みに振るのを確認し、カレヴァリーは池の辺に立った。
人々が歓声を上げて、池の水を掬っている。ほんの少しずつの水を口に含み、他の者を呼びに居住地へと戻っては、新たに人がやってくる。すぐに尽きてしまいそうな浅い水面であったが、どうやら地下水脈と繋がっていたらしい。水は果てなく溢れ出し、人々に笑顔を与えた。
カレヴァリーは瓦礫に腰かけ、それを遠くから眺めていた。
瓦礫が陽射しを遮っているにも関わらず、ひどく暑かった。身体に水分がないせいで、汗すら流れない。熱が身の内に篭もり、炎を体内に抱いているようだ、カレヴァリーは重い目蓋を閉じ、力なく呻く。
不意に鼻先に水の香りが漂ってきた。薄く目を開けると、そこには小さな少女が立っていた。汚れた両の掌に水を湛え、それをカレヴァリーに差し出している。
「かいおうさま」
つたない言葉と共に、少女は手を更に伸ばす。
少女は明らかに、疫病にかかっている気があった。肌には緑色の斑点が浮かび、窪んだ目は真っ赤に血走っている。唇は白く乾いて割れ、血が凝り固まっていた。腕を持ち上げつづけている力すらもう残っていないのだろう、手の中の水が小刻みに振動し、水滴が零れ落ちて地面を濡らした。
カレヴァリーは重い頭を起こして、吸い込まれるように少女の掌に口を運んだ。温まった水が炎症を起こした喉を通って、身体を、心を潤していく。
濡れた唇を惜しむように舌で嘗め取り、カレヴァリーは顔を上げた。少女の嬉しそうな笑顔を下から覗き込み、カレヴァリーは自然と微笑んだ。
「…ありがとう。あとは君がお飲み」
骨ばった手で少女の痩せ細った手を包み込み、そっと持ち上げてやる。少女は嬉しそうに笑い声をたて、顔を近づけて子猫がするように水を嘗めた。
しかしカレヴァリー同様に一口だけ口に含むと、少女は残りの水をすぐ近くで芽吹いた小さな新芽に、そっと振り撒いた。清らかな水が滴となって、新緑の葉に落ち、弾かれ、美しく煌いた。
乾いた頬を伝う熱い感触。──カレヴァリーは、自分が泣いていることに気付いた。
彼の前にちょこんと座り、甘えるように身を寄せてくる少女を強く抱きしめ、カレヴァリーは泣きながら笑った。水がもったいないなと囁く彼に、少女は無邪気にくすくすと笑った。
神は彼を罰しなかった。
人々は何も知らず、彼を許した。
神も人も罪人を罰しないのならば、
罰するのは自分自身。
自らに課す。全てを捧げて、この世界を、人々を…この少女を救うことを。
たとえそれが荊の道であろうと。
この身を滅ぼすことになろうとも。
それが自らに課す──罰。
安らかな寝息をたて始めた少女を抱きながら、カレヴァリーは意識が遠くなってゆくのを感じた。それが死の眠りなのか、ひとときの眠りなのか、もう随分と区別がつかなくなっている。
──まだ、休むわけにはいかない…。
そう自らを叱咤しながらも、意識は意思とは無関係に遠のいてゆく。
その時。
柔らかな風が…決して吹かぬはずの風が、髪を揺らした気がした。微かに開いた瞳に、誰かの穏やかな微笑が映ったように思えた。
遠くに聞こえる人々の歓喜の声。涼やかな風の流れ。
赤い、風。
何故か深く安堵した。罪も罰も一時忘れることを、眠りにつくことを許された気がした。
カレヴァリーは口元に小さな笑みを浮かべると、ようやく目を閉じて、
そして意識を手放した。
清らかな風を纏った赤い髪の男は、瓦礫を背にして眠る少女と青年を腕を組んで見つめ、やがて小さく頷くとその微笑を深めた。
『再び大地に草木が芽吹いたならば、休むことにしよう』
これは永久に眠るその時までの、
ほんの一時の、安楽。
おわり