龍と塩

 その娘は絶壁の上に立ち、はるか眼下を流れる蛇瘤じゃりゅう大河を見下ろしていた。
 褐色の肌を持つ娘だ。成長途上の体は細く、三つ編みを背に垂らしているのも、紅色の頭飾りを額に巻いているのも、アモア族においては成人前の少女にだけ許された装いだ。
 歳の頃は、十五、六歳。
 だが、黒く切れ長の瞳には、年齢に見合わぬ深い憂いが宿っている。
 河までは絶壁に穿たれた隧道を使って三時間。まっすぐに落ちれば――わずか十数秒。
 娘は両腕を広げた。目を閉じ、サンダルを履いた爪先を一歩前に進める。体は揺らぎ、額飾りの房が舞いあがって、そして、
「だめだ!」
 不意に、娘の肩を誰かが背後から掴んだ。
「早まっちゃいけな……うわっ」
 娘は振り返る勢いそのままに、背後の人物に体当たりした。
 男だ。仰向けに倒れる男に馬乗りになりながら、相手の様相に目を走らせる。金髪碧眼。腰から短刀を引き抜き、襟を掴んで動きを封じ、驚きに剥かれた眼球に刃を突きつける。白い肌。
「誰だ」
 男は硬直した体をびくりと揺らす。
「その面貌、ここらの者ではないな。答えよ!」
「お、王都から来ました。旅の者です。僕はただ、あなたを助けたくて……っ」
 突如、男の碧色の瞳から大粒の涙が零れ、娘はぽかんとした。
 驚きのあまりに飛びのいて、珍獣でも見るように男を眺める。
 部族の男衆に比べ、たいそう体の線が細い。瞳は仔山羊のようにつぶらで、それが涙で潤むさまを見ると、ひどい罪悪感に襲われる。
「お、男がめそめそと泣くものではない!」
「だって、これほどに若くして身投げだなんて、あんまりに悲しい話ではありませんか!」
 身投げ。その言葉に娘は顔色をなくした。
「……なにを馬鹿な。私はただ河を眺めていただけだ。それに、ここは神聖な儀式の場だぞ。よそ者が気軽に入っていい場所ではない」
 男は「え」と狼狽し、周囲を見渡した。
「何をしにこの集落へ来たのだ……?」
 娘はわずかに警戒を解きながら問うた。
「温泉に入りに……」
「……は?」
「ここらに地元の民しか知らない温泉があると聞いて、来たんです。近頃、王都では温泉巡りが人気で。未開の山野を旅し、まだ見ぬ秘湯を探し求め……」
 娘は目を丸くし、ぶっと噴きだした。
「温泉! こんな山深い集落まで、わざわざ湯に浸かりに来たというのか、お前!」
 男は途方に暮れ、爽快に笑う娘を見つめた。
「そうか、この地によそ者が来るなど稀でな、むやみに驚いてしまった。許せ」
「いえ、僕こそ早とちりをしてしまったみたいで。それに神聖な場と気づかずに……」
 男は視線を絶壁の際に建つ二本の柱に向けた。
 黒と紅の柱だ。
 門柱のようだが、対岸は遠く、柱を抜けた先には文字通り何もない。
 娘は倒れたままの男に手を差し伸べた。助け起こしながら、その左手首に釘付けになる。
 男も視線に気づいたようで、曖昧に微笑んだ。
「僕の名は、ルシェ・ガブリエリオス。ルシェと呼んでください」
 娘は顔を上げると、「ルセ」と慣れぬ発音で繰り返し、人懐こく笑った。
「私はダワ。この集落を統率する部族長だ」
 男は「部族長」と反芻し、絶句した。

+++

 一時間後、ルシェは集落の外れにある、石垣の中の温泉に浸かっていた。
 心地よい熱が全身をくるむ。長旅に疲れきった体から力が抜け、ふぅと息をつくと、湯気が揺らいだ。
「十五歳で部族の長かあ……」
 自分より五歳も下だ。それが、二百人ものアモア族を率いる長とは。
(シュレースと同い年か……)
 胸に走る鋭い痛み。
 ルシェは顔を歪め、左手首を右手で抑えこんだ。
(河を眺めていただけだなんて本当だろうか)
 崖っぷちに立ったダワは、確かに落ちる直前に見えた。
 黒柱と紅柱の間に立ち、その先、蛇瘤大河まで真っ逆さまの虚空へと。
「ちょっとお邪魔するよ、お兄さん」
 突然の声に振り返ると、石垣の戸を開け、数人の老婆が入ってくるところだった。
 ルシェは悲鳴をあげ、鼻まで湯にもぐる。
「なんだい、仔山羊の睾丸なんて料理の材料程度にしか興味ないよ。安心しな」
「こ、睾――って、仔山羊?」
 老婆は歯抜けた口を笑わせながら、湯舟の横を通りぬけて、奥の石垣の向こうに消えていった。
 慌てて服を着て隣を覗くと、老婆たちは湯舟に洗い物を浸し、洗濯をしていた。
「温泉で洗濯をするんですか。珍しいですね」
「ここは水が豊かな土地じゃないからねえ。できるものはなるたけ温泉でするのさ」
「温泉があるのに水が豊かでないのですか?」
「手の甲を舐めてごらんよ、仔山羊ちゃん」
 怪訝に思って舐めると、口に広がったのは塩の味だった。
 ルシェは首を傾げる。
「塩水……では、真水はどこから?」
「運んでくるのさ。男たちが蛇瘤大河からね。毎日、絶壁に掘られた隧道を三時間かけて下る。河で汲んだ水を担ぎ、今度は五時間かけて同じ道を上る。危険な重労働さ」
 道理で。ルシェは納得した。集落を通った時、一人として男の姿を見なかったのだ。
「断崖の岩質は脆くてね。毎年、何人もの男が河に落ちちまう」
「落ちた男の人たちは大丈夫なのですか」
 間抜けた質問だったようだ、老婆は「急流だからね」とだけ答え、静かに歌いはじめた。

 ――我らは龍の守り人。
 ――塩を捧げて、水を得る。
 ――ここは黒と紅の断崖。
 ――アモアは生きる、龍の恵み子とともに。

 独特の抑揚に聴き入る。
 魂を揺さぶるような美しい旋律だが、なぜだかひどく悲しい。
「……大丈夫。ダワ様はきっと成功する」
 息継ぎの一瞬、ルシェの耳に囁きが届いた。
 老婆は一斉に歌を止め、老いた眼を潤ませた。


 夕刻、真水を汲みに行っていた男衆が戻ってきた。
 出迎えに出た女たちに混じるルシェに気づくと血相を変えるが、ダワが「温泉好きの仔山羊だ」と説くと、呵呵大笑してルシェの背をつんのめるほど強く叩いた。
「仔山羊とはよく言った! ルセ、好きなだけ滞在していけ。俺たちが水汲みに行っている間、集落は女だけになる。男がいたら、女たちも安心するだろう」
「こんな華奢な男じゃ、安心も糞もあるかね」
 どっと笑いが起こり、ルシェは苦笑した。
「いい集落ですね」
 素直な感想を零すと、ダワは「自慢の民だ」と胸を張った。
 その夜、部族長の屋敷でルシェを歓迎する宴が開かれた。
 厨房から次々と大皿が運ばれ、ルシェはすっかり恐縮する。
「ただの湯治客にこのような宴まで……」
「何を言う。客人を全力でもてなすのは流儀だろう。さあ、食え。お前は痩せすぎだぞ」
 ダワを真似、手掴みで料理を口に放る。
 煮こんだ鶏肉が口の中でほろりと崩れ、頬も一緒にとろけた。なんとほどよい塩加減だろう。
「旨そうな顔してくれるねえ。アモアの塩はまろやかだろう。もう塩田は見たかい?」
 老婆が言うと、男たちが一斉に「婆様」と咎めの声を上げた。
 ルシェはびくりとするが、ダワが「よい」と張りつめた空気を手で払う。
「ルセ。近頃、近隣のタクダリ族が我らの塩田を狙っている。男たちは、女ばかりの日中に集落を襲われてはと案じているのだ。集落境の砦に数人警邏を配してはいるが、いかんせん真水汲みのために男手が足りていない」
「そうでしたか……海から離れた山岳地では塩は高価でしょう。他部族が欲しがるのも頷けます。とても質のいい塩のようですし」
「そうとも。アモアの塩は、龍の塩だからな」
 ダワはルシェに古の龍伝説を語りはじめた。
 蛇の体に、蝙蝠の翅を持った龍。神代から生きる龍は、版図を広げはじめた人間を嫌って、急峻な山峰に棲みついた。元々、龍は海の生まれ。たいそう塩を好み、見つけた山には塩泉が湧き出ていたため、移住先として申し分なかったのだ。
 龍は千年を山で暮らした。だが、いつしか老いに体を蝕まれ、塩泉を飲みにゆく力すら失った。
 そんな折、強い部族に土地を奪われた難民の一団がやってきた。
 一組の夫婦は弱った龍に気づくと、仲間を先に行かせてその場に留まり、龍の世話をすることにした。
 半年が経ったある晩、龍は心臓を覆う鱗の一枚を剥がし、夫妻に与えて言った。
『優しき番い。鱗を煎じて飲むがよい。さすればお前が腹に宿した娘は、生まれながらに龍の翅を持つだろう。我は間もなく果てる。力弱き流浪の民よ、我が最期に呼ぶ雨を糧として、この地に根を下ろすがよい』
 龍は力を振りしぼり、一歩、二歩と歩いて、その場にどうっと倒れこんだ。
 衝撃で裂けた大地の底に身を横たえ、龍は歌う。
 すると上空に雨雲が現われ、三日三晩降りつづいた雨は、龍の亡骸もろとも谷を真水で満たし、尽きることのない大河へと姿を変えた。
「夫妻が産んだ娘の背には龍の翅が生えていた」とダワ。「夫妻は仲間を呼び戻し、断崖の上に集落を築いた。翅を持つ娘は絶壁から大河へ飛び、真水を運んでは民の喉を潤わせた」
 不思議な物語に、ルシェはほうと息をつく。
「切なくも、美しいお伽話ですね……」
「……そうだな。だが、架空の物語だと思っているなら、それは違うぞ。ルセ」
 ダワの頬が松明に照らされ、陰鬱な影を落とす。ルシェは目を見張った。
「ルセはいつまで集落に滞在してくれる?」
 話題が変わった。困惑しながらも、長逗留を乞う口調に、こそばゆい思いで頬を掻く。
「ご迷惑でなければ、しばらく。塩田も見学したいし、温泉も気持ちいいですし」
「迷惑なものか。皆、外の話を聞きたがるだろう。ルセの故郷や、旅の話を披露してくれ」
 先ほどの影は消え去り、ルシェは弾けるようなダワの笑顔にひととき見惚れた。

『兄様。兄様は一族の誇りだわ。だって兄様の両手は人を助ける力を持っている』
 眩い陽光の中、シュレースが踊る。金糸の髪をなびかせ、病的にか細い手足を広げて。
 ルシェは手を伸ばして妹を捕まえようとする。
 いけない、シュレース。爪先の向く先に絶壁があることに気づいていないのか。
『私、不治の病を患い、誰のためにもなれないまま死んでいくのだと思っていたの。でも今、ようやく兄様の役に立てるのね』
 シュレースの裸足の爪先が崖のふちを踏み抜く。
 小柄な体は虚空へと投げ出され、ルシェは届かぬ手を伸ばしながら、悲鳴を上げた。
「大丈夫だ、ルセ。ただの夢だよ」
 優しいぬくもりが、闇に伸ばした手を包みこむ。
 ルシェは目を開け、自分を見つめるダワを凝視した。
「男たちが蛇瘤大河に発つのを見たいと言っていたろう。それで起こしに来たのだが……」
 ルシェは身を起こし、力なくうなずいた。
 離れるダワの手を咄嗟に掴まえ、「すみません」と頭を垂れる。
「もう少し……握っていてもいいですか」
 ダワは驚くでもなくうなずき、恐れに汗ばんだルシェの手を握りしめた。

 垂直の断崖まで這っていき、身を乗りだすと、壁に掘られた隧道を、男と驢馬の列が慎重に下りていくのが見えた。
 驢馬が道のふちを踏むたび、ぱらぱらと砂礫が落ちる。
 ルシェは背を泡立たせ、首を引っこめた。
 祠に塩を捧げ、額づいて一行の無事を祈っていた女たちが、「さて」と立ち上がった。
「塩作りにとりかかるよ。手伝いな、仔山羊」
 塩田は集落を挟んで大河の逆側にあった。女たちは平らに馴らした田に温泉水をまき、ルシェは天秤棒を担いで、温泉を汲みに行く。あっという間に肩の皮が擦り切れ、ダワや女衆に「仔山羊以下だ」と笑われる。
 夜になると、ダワや民に外の話を聞かせた。尖塔を持つ王宮殿や、海に浮かぶ白帆の船、華やかな社交界……そうして一日一日が積もり、それがアモアでの日常になっていく中、ルシェは、ダワが時折ふらりと姿を消すことに気づいた。
「ダワはどこへ」。集落の者に訊ねると、彼らは決まって沈鬱な顔をするので、不思議とルシェはダワの居場所を理解した。

 ダワは絶壁に立ち、虚空を見つめていた。
「ダワ。もう夕刻です、戻りましょう」
 躊躇いがちに声を掛けると、ダワは肩を震わせ、ゆっくりとルシェを振り返った。
 その瞳は恐れに曇り、ルシェは胸を衝かれた。
「ああ……そうだな」
 ルシェは確信した。
 ダワはあの日確かに、断崖から身を投げようとしていたのだと。
 そして二十日が経った晩、ルシェはダワの心に横たわる不安の正体を知る。

+++

 いつものように族長の屋敷で夕餉をとっていると、慌ただしい足音が廊下から聞こえてきた。
 何事かと顔を上げた瞬間、広間の戸が勢いよく開かれ、見知らぬ男が踏みこんできた。
 褐色の肌に長い黒髪、背丈は高く、肩幅はルシェの二倍はある。
 ダワが瞳を輝かせ、立ち上がって男を迎えた。
「パギ、戻ったのか! 砦に問題はないか」
 ダワを見る男の眼差しは優しい。
 だが、ルシェの存在に気づいた途端、その双眸は猛禽類に似た鋭さを帯びた。
 射抜かんばかりの迫力に、ルシェが思わず身を引くと、パギと呼ばれた男はダワに向きなおって言った。
「砦がタクダリ族の襲撃を受け、ロロが負傷した。まもなく集落に帰りつくが……」
 ダワは目を見開き、言い終わるのも待たずに広間を飛びだした。
 パギが続き、ルシェも一瞬躊躇ってから、彼らの後を追った。

 松明燃える広場には、人垣ができていた。砦の警護を任された男衆が、血まみれの少年を背から地面に下ろす。ダワは跪き、汚れるのも厭わず、その身を抱きしめた。
「ロロ、よくここまで無事に戻ってきた!」
「ダワ様……でも腕が……もう水を運べない」
 ダワは身を離し、慄いたように少年を見つめる。
 ルシェは人をかき分け、少年に駆け寄った。
 さっと視線を走らせる。怪我をしたのは左肩……ひどい怪我だ。ろくな医療設備がないアモアのような辺境では、死に至る傷だ。
「ダワ。――ダワ!」
 ルシェは自失状態のダワを揺さぶった。娘は我に返って、ルシェを呆然と見つめる。
「大丈夫です。だから、僕に任――」
 直後、星が飛ぶほどの衝撃が頬に走り、ルシェは地面に転げた。
 脳振盪を起こし、鼻から零れる赤いものを拭うこともできない。
「タクダリの奴隷か、どこぞの部族の斥候か。気安くダワに触れるな、よそ者め……!」
「パギ! ルシェは関係ない、私の客人だ!」
「――僕の身の上など今はどうでもいい!」
 瞬間的に頭が沸騰し、ルシェは叫んだ。パギは怯み、ダワは目を見開き、民は息を飲む。
 ルシェは鼻血を拭い、きっと眦を吊り上げた。
「僕は医者です。治療をさせてください。このままでは、この子は命を落とします!」

 興奮と喧騒が遠のき、民がようやく寝静まった深夜。
 ルシェは寝台に寝転がり、先刻まで血で汚れていた己の両手を見つめた。
「ルセ。入ってもいいか」
 ダワが静かに寝所に入ってきた。ルシェの腫れた頬に触れ、ダワは息をつく。
「許してやってくれ。パギは私の幼馴染なのだが、昔から血気に逸ったところがあってな」
「彼は、あなたのことが好きなようですね」
 何気なく言うと、ダワは狼狽えた。褐色の肌でもそうと分かるほど頬が赤らむ。
 聞かなければよかった、と不意に思う。
「ロロを助けてくれたこと、改めて感謝する。お前は素晴らしい医術の使い手だな」
 ダワはルシェを見つめ、口を開いた。
「それほどの力を持ちながら、なぜ自ら命を断とうとした。ルセ」
 ルシェは目を伏せ、左手首に残る自傷の痕跡を思う。
 最初に会った時に見られてしまったから、いつかは問われると思っていた。
「……僕も聞きたい。あの日、あなたはどうして崖から飛び下りようとしたのですか」
 ダワは眉根を寄せ、やがて顔を上げた。
「ついてきてくれ」

 向かった先は絶壁のふちだった。
 風はない。深遠の青の中、柱の影が沈黙して聳えている。
「一月後、私はここから大河に飛びおりる」
 ダワの言葉に、ルシェは呼吸を止めた。
「翅を授けられた祖先は民に真水をもたらした。以来、族長の血筋に生まれた娘の背には、龍の翅が生えるようになった。だが、龍の死から三百年を経て翅は小さくなり、祖母の代にはただ名残りがあるのみとなった」
 ダワは上衣を肩から落とし、滑らかな背をルシェに晒した。
「背に触れてみてくれ、ルセ」
 真剣な口調だった。ルシェは頬を赤らめながら、肩甲骨の辺りに触れる。
 肌の熱さと一緒に、指先に触れる突起物の感触。
 ダワは身を屈めて衣服を拾い、羽織る。
「成人すると、族長の娘は門柱から飛び立つ。真水を集落まで運びあげ、民に成長を示すのだ。だが翅が生えなくなってからは、儀式も行われなくなった。男は危険な真水汲みに出かけ……何十人もが隧道から落ちて死んだ」
 深く息をつき、ダワは黒い柱に手を置く。
「今宵のように怪我人が出ると、己の無力を呪う。翅さえ生えれば、男たちは集落にいられるのに。タクダリ族に侮られることもなく、女が不安を隠して、夫や息子の帰りを待つこともなかったのに」
 ダワは群青の空に散る星屑を見あげた。
「民は私を慕ってくれる。だが、私はあまりに無力な、役立たずの小娘だ……」
 役立たず。その言葉で脳裏に蘇る、妹の声。
『私、不治の病を患い、誰のためにもなれないまま死んでいくのだと思っていたの』
「あなたは役立たずなんかじゃありません!」
 咄嗟に声を上げると、ダワは驚いた顔をした。
 ルシェは顔を歪め、拳を固く握りしめた。
「……一年前、僕は最愛の妹シュレースを失いました。僕が愚かであったがゆえに」
 不治の病を患い、ほとんど寝たきりだった妹。
 ルシェは治療法を求めて医道に進み、必死で勉学に励んだ結果、思いがけず王家付き宮殿医に任じられることとなった。
 中流階級出の若い医師にとっては破格の出世。
 妹は「兄様の手は人を救う手だ」と喜んでくれた。
「けれど、それを妬んだ貴族出の同僚が、僕の医学書に短剣の刃を隠したんです。刃に気づかず書物に触れて指を落としたのは、僕を慕い、私室に遊びに来ていた幼い王子でした」
 ダワは目を見開き、ルシェは頭を垂れた。
「同僚は処刑されました。僕は死罪こそ免れましたが、同僚の嫉妬を徒に煽った咎で、十年の幽閉を命じられた。当然です。僕は実際、出自を驕る同僚を軽んじていたのですから」
 そして投獄から一月後、ルシェは妹が兄の釈放を嘆願し、橋から身を投げて自害したことを知った。
「妹の献身に胸を打たれた王は、僕を釈放しました。けれど、妹の病を治すため医者を志した僕に、その事実は受け入れられるものではなく、気づいたら僕は短剣を取っていました。……結局、死にきれませんでしたが」
 湯巡りなんて嘘だ。ただ、自分のせいで妹が死んだ地に留まっていたくなかった。
 そうしてルシェは、逃げ出すように旅に出た。
「そうか。だからお前、最初に会った時、私の身投げを止めようとしたのだな」
 ダワの声は労わりに満ちて聞こえた。
 ルシェは唇を噛みしめ、顔を上げた。
「ダワ。もしあなたが本気で崖から身を投げるつもりなら、僕は決してそれを許さない」
「……止めてくれるのはありがたいが、私はお前に許しを求める気はないよ。お前は結局のところ、外の人間なのだから」
「僕をよそ者扱いしようったってもう遅いです。民を想って泣くあなたを見たら、悪夢を見た僕の手を取ってくれたあなたの優しさに触れたら、放っておけないぐらい好きになっちゃうのは当然ってものでしょう!」
 勢い余って口を滑らせると、ダワは零れんばかりに目を剥き、ふと嬉しげに微笑んだ。
「そうか。そうだな。共に汗を流して塩を作り、龍に捧げたお前は、もう私の民だったな」
 私の民。その言葉にルシェは胸を打たれる。
 だが、ダワは決然として首を横に振った。
「けれど、それでも私は飛ぶ」
「ダワ!」
「違う、ルセ。私は死のうとしているのではない。生きるために、飛ぼうとしているのだ」
「生きる、ため?」
「ああ。私は、長らく行われなかった成人の儀を、復活させるつもりなのだ」
 ダワは両腕で己の体を抱きしめる。
「成人の儀に崖から落ちることで、この背で眠る寝坊助の翅を目覚めさせる。眠ったままの龍の本能を覚醒させる。決死をもって臨めば、きっと翅は生えるに違いないのだ」
「そんな……無茶です!」
「母は飛んだ。私を生んだ後に。飛べずに落ちて、濁流に呑まれたが、私は確かに見たのだ。最期の一瞬、母の背に翅らしきものが芽生えたのを。だから……今度こそ、きっと」
 言葉を失うルシェに、ダワは微笑みかける。
「役立たずに生きることは死ぬより辛い。誰かの役に立てた時、この命ははじめて意味を持つ。ルセ、お前の妹御も橋から身を投げた時、燃えるように生きたはずだよ。自分の命が無意味でないと知らしめるため、胸に決意を宿して飛んだはずだ」
 不意に、記憶の中で妹の笑顔が弾けた。
 目頭が熱くなって、ルシェは深々とうつむく。
「僕は……死んでほしくなどなかった。後に残される者の苦しみを知ってください、ダワ」
 老婆の憂い、断崖に立つダワに胸を痛める民、水を運べないことを嘆いたロロ、パギがダワに向けた優しい眼差し。
 ダワにだってそれが見えていないはずはない。だが。
「タクダリ族は日に日に力を強めている。男衆の力なくして立ち向かえない」
「なら、この地を離れて生きればいい!」
「龍に授かった地を離れることは、魂を捨てるということだ、ルセ」
 ダワはきっぱりと言い切った。
「流浪の果てに、我らはこの地にたどりついた。命尽きるまで、この地に留まる。だから、私は飛ぶ。それを覆す気はない」
 ダワはルシェをまっすぐに見つめた。
「けれど、約束する。私は決してお前の前で死んだりしない。必ず、飛んでみせるから」
 それはあまりに固い娘の決意。
 崇高な意思を曲げることなどもはやできず、ルシェは絶壁に佇む門柱の先を黙って見つめた。

+++

「なあ、先生。先生はダワ様の背から翅を出すことはできるか? おれの腕から矢尻の破片を抉りだしたみたいにさ」
「無理やり外に出した翅が使い物になるとは思えないなあ、ロロ」
 傷の予後を確認しながら答えると、ロロは「だよなあ」と溜め息をついた。
「おれ、嫌なんだ。縁起でもないけど、ダワ様が失敗したらって思うと夜も眠れない」
「うん、そうだね」
「そうだねって……冷静だなあ、先生」
 ロロはルシェをじろじろと観察する。
「なにか隠してない? 仔山羊のルセさん」
 鋭い。ルシェは思わず目を泳がせる。
 家を出てもロロが追ってくるので、ルシェは逃げるようにいつもの温泉に向かった。だが、それでも少年はついてきて、結局揃って温泉に着いてしまった。
 来た手前、服を脱いで戸を開けると、湯煙の中には先客がいた。
 パギだ。目を剥いて逃げようとした途端、ロロが戸口に立ちはだってそれを邪魔した。
「で、コレが何をする気か分かったか、ロロ」
「だめ。でも何か隠してるよ、パギ兄」
「な、何も隠してなんていませんよ! 僕は帰ります、ロロ、そこどいて!」
「ちょっとお邪魔するよー、お兄さん方」
 直後、いつもの老婆たちが入ってきて、ルシェは悲鳴を上げて湯舟に飛びこんだ。
 老婆たちは笑いながら足を止める。
 洗い場に行くものと思ったのに、そのまま「よっこいせ」と湯舟のふちに腰を下ろした。 
 ルシェは困惑し、そしてぎょっとした。
 気づくと石垣の周囲に大勢の民が集結していた。
「俺たちは誰も、ダワを失いたくない」
 ふと、パギが神妙な口調で言った。
「明日、ダワは飛ぶ。半年間、説得を試みたが無駄だった。となれば、あとはただダワを無事に飛ばせたい」
 パギは鷹の目を眇め、ルシェを睥睨した。
「言っておくが、俺はよそ者に易々とダワを譲ってやる気はない。だが今は、藁にも縋りたい。蚯蚓の糞のような細い藁であってもだ」
 パギの挑発に、「いいぞ、パギ」と歓声が上がり、ルシェは赤面した。
「穣るって。僕は別にダワをそういう目で見てはいません。妹のようにというか……その」
 我ながら往生際が悪い。ルシェは息をつく。
「僕がやろうとしていることは、医学とはなんの関係もありません。身勝手で、無謀で、ただの……自己満足な行為です」
「だが、自己満足でも、それがダワを救う手立てになると確信しているのだろう。ルセ」
 ルシェは顔を上げる。パギの言葉には、思いがけず信頼の響きがあったのだ。
 意外な相手からの仲間意識に触れて驚いていると、民の目にもまたパギと同じ輝きが煌めいていた。
 ルシェは苦笑して、天を仰いだ。
「仕方ないか……ダワには内緒ですよ――」

+++

 黒と紅。
 断崖の地層を写した二色の門柱には、龍を刺繍した旗が吊るされ、風を受けてはためいている。
 ダワは震える手を儀式用装束の袖の下に隠し、門柱の間に立った。
 背後に並ぶ民を振り返ると、隅にはルシェとパギの姿があり、心強さが込みあげる。
(私は、アモアを愛している)
 太陽に白く煌めく塩田を。
 命を奪う断崖を。
 遠き眼下の蛇瘤大河を。
 塩泉の湧く龍の地を。
 過酷な時を共に生きてきた、優しき民を。
 守りたい。民に報いたい。
 けれど、これは本当に正しい判断だったのだろうか。
 目を閉じると、大河に呑まれた母の姿が蘇る。
 母は確かに翅を生やした。だが、結局は飛べずに死んだ。
 ならばダワも飛びきれずに終わるのではないか。そんな不安が募る。
(ルセに威勢のいいことを言っておいて)
 蓋を開けばこのざまだ。
「……じゃあ、水を汲んでくる」
 ダワは強いて軽く言って、民に背を向けた。
 絶壁のふちに立つと、震えが爪先から這い上がってきた。
 ダワは呼吸を整える。
(塩の龍よ。私に民を守る力を与えてくれ)
 そしてダワは両腕を広げると、ゆっくりと体を前に傾けた――その時だった。
 左腕になにかが衝突した。
 え、と振り返ると、伸ばした腕それぞれに、ルシェとパギがしがみついていた。
 ダワは呆ける。だが、もはや引き返す術はなく、ダワの体は二人の男を伴い、ゆるやかに落下をはじめた。
 速度は急激に増した。三人は受け止めるもののない虚空に吸いこまれる。ダワは悲鳴をあげた。間近を過ぎゆく絶壁。渦巻く大河が急速に近づいてくる。頭が真っ白に焼けつき、声も、思考も散り散りになった。
 駄目だ。無理だ。やはり飛ぶことなど叶わない!
 ダワ、と、名を呼ぶ声がした。
 直後、流れる景色が止まった。
 音という音が、ふっと消え去り、目を開くと、ルシェとパギが両腕を掴み、ダワを射抜くように見つめていた。

 ――飛べ。

 二人の眼差しが、ダワに向かって叫ぶ。
 ああ、そうだ、とダワは気づいた。
 自分が飛ばねば、二人は死ぬのだ。
 川面に叩きつけられ。急流に呑まれ。自分が未熟なばかりに。
 そんなこと――絶対に嫌だ。
 直後、音が蘇り、再び景色が流れはじめた。
 ダワは叫んだ。龍の咆哮を思わせる声で。背に熱が集まり、皮膚が弾け飛ぶ。川面が迫る。歯を食いしばる。背に走る激痛をこらえ、二人を強く抱きしめ、そして――、


 ――意識を失っていたルシェは、誰かの泣き声を聞いた気がして、薄く目を開けた。
 白い光の中、シュレースが踊っていた。
 その背には白い翼が生えている。
 誇らしげに微笑むと、橋を蹴って空へと飛んでいく。
(そうか、お前はそんな幸せそうに飛んだんだね、シュレース……)
 やがて濁った視界が晴れてゆき、泣きじゃくるダワの横顔が映った。
「馬鹿なことを。なんて馬鹿な男たち……!」
 自分をきつく抱きしめるダワの背には、見惚れるほど見事な漆黒の翅が生えていた。
 ダワの向こうで、パギが安堵に笑んでいる。目が合うと、好敵手を見る目つきでルシェを睨んでから、ふっと笑った。つられて笑いながら、ルシェは満ち足りた想いで目を伏せる。
 上空から降ってくる歓声。翅が大気を掻く軽やかな音。ダワの嗚咽まじりの泣き声。
 ルシェは穏やかな気持ちで、笑む。

 瞼裏には、断崖の谷間を泳ぐ、美しい龍の姿が焼きついていた。


おわり

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