獏の夢

「スイッチを押しに行こうよ」

 鼻は象、目はさい、尾は牛、体は熊。
 人間の悪夢を喰らう、それは獏──バク──。

「スイッチ、ですか?」
 獏はのそりと顔を上げ、突然目の前に現れた少年を見た。
 少年はにこりと笑う。
「そう。一緒にスイッチを押しに行こう」
「どうしてでしょうか」
 少年が目の前から消える。背中に軽い重みを感じたので何かと首を回したら、少年がゆったりと寝そべっていた。
「君が死んじゃうから」
 獏はきょとりとする。
「死にますか」
「死んじゃうよ。だって夢を見る人間は、もうどこにもいないんだもの」
 獏はますますきょとりとする。
人間ひとは夢を見る生き物です。見ないなんてことがありましょうか」
「あるよ。スイッチを押しちゃったからね」
 スイッチ、スイッチ。何のスイッチだろう。獏には分からない。
「夢のスイッチさ」
 少年は愛らしい瞳を楽しそうに細めた。
「世界の果てにあるスイッチは、人間の夢をコントロールしているんだ。スイッチを押すと、人間は夢を見なくなる。青くて、丸くて、キラキラ輝いた…、あまりに綺麗なので僕はついつい押してしまったんだ」
 青くて、丸くて、キラキラ輝く、夢を司るスイッチ。
 獏は困り果てて、おろおろと少年を振りかえる。獏の背の上で、少年はただただ無邪気な顔で頬杖をつき、足をパタパタと交互に上下させていた。
「獏は夢がないと死んじゃうんでしょう?だからスイッチを押しに行こう。そうすれば人間はまた夢を見るよ。君の大好きな悪夢もね」
「世界の果てまで何日かかりましょうか」
「さぁて。ほんの少しか、永遠か」
 頭上の桃色の空に、淡い黄色の雲が流れてゆく。
 獏は絶望した。
「ああ、無理です。だって獏は──」
 ──えさがないと死んでしまいます。

 少年を背に乗せて、ゆっくりゆっくりと。
 虹の橋をくぐって────太陽が一回昇る。
 雲の階段を上って────太陽が五回昇る。
 おもちゃの王国を抜けて────太陽が二十回昇る。
 ガラスの街道を通って────太陽が…ああ、もう何回昇ったろう。
 地平線はどこまでも果てない。
 夢のスイッチを押すために。

 獏はよろめきながら、ひたすら歩く。
 旅立ってから一度も止まらない足は、熱を帯びて棒のよう。
 じっと地平線を見てまたたきもしない目は、カラカラに乾いてチリチリ痛む。
 そしてずっしりとのしかかる、耐えがたい空腹。
 ──もう何ヵ月歩き続けているだろう。
 ああ、夢。夢が食べたい。
 あのフワフワで、綿菓子のようにホロホロな、けれどとっても苦い悪夢。
「ねぇ、獏。君はどうして悪夢を食べるの?」
 重さを感じさせない少年が、いつものように話しかけてくる。気の遠くなる道のりで、それだけが救いだ。
「獏は食べないと死ぬのです」
「悪夢でなくてもいいでしょう?ねぇ、悪夢はマズくない?」
 ああ、夢。夢が食べたい。
 獏はぐらぐら揺れる地平線をそれでも見据え、一歩一歩を踏みしめる。
「悪夢はとても苦いです。けれど悪夢を食すのは、獏の定めなのです」
「ふぅん。それはとても偉いことだね。人の悪夢を食べてあげるんだものね」
少年は獏のどっしりした腹を、労るようにポンポン叩いた。
「悪夢はマズいでしょう。悪夢ばかり食べてた君のお腹の中は、どんなに薄汚れてしまっているだろうね。きっと真っ黒になっているよ。心もいつか真っ黒に染まってしまうかもしれない」
「そうかもしれません」
 苦痛、恐怖、狂気、憎悪、──悪夢はとても苦い。
「それでも悪夢を食べてあげるんだね。獏は偉いね。きっと神様は、君が死んだら天国へ召してくれるよ」
 天国…、ああ、そうだったら良い。
 獏はきっと世界の果てにはたどりつけない。きっとこのまま死ぬのだ。
その時迎えてくれるのが天使だったら、どんなに良いだろう。
 獏はふと、背中の上の少年が天使なのかもしれないと思った。
 ああ、きっとそうなのだ。
 世界の果てにたどりつけなかったら、きっと少年がもっと素敵な所へ連れて行ってくれる。
 獏の心は、少し安らかになった。
 少年が呟いた。
「けれど、幸せな夢の味を知りたくないかい」
 獏は足を止めかけた。
「きっと、とってもとっても甘いよ。幸せでいっぱいになるよ」
 甘い、夢。
 フワフワで、綿菓子のようにホロホロで、そしてとってもとっても甘い夢。
 忘れかけていた空腹がよみがえる。
「それは獏の最大の罪悪です。人の喜びを食べるなんて」
 獏の声は震えていたかもしれない。
 ──なんにしろ、誰も夢を見ていないのだ。
 獏は朦朧とする頭を振って、ありやしない夢の固まりを捕らえるかのように鼻を丸め、よろよろ歩く。
「世界の果ては、どこでしょうか」

 空は濃い緑色に変化する。旅立ってからもう百数回目の、夜の時間。
 頭上では五角の星が、チカチカ輝いている。
 地平線はどこまでも果てしなく、相変わらず終わりなど見えやしない。
 夜は苦しい。
 夢を食べる時間なのに。鼻を動かしても、カケラすら夢は手に入らない。
 ──フワフワで…
 足が重い。ひきずって歩く大きな足は、地面に擦れて血を流す。
 ──綿菓子のようにホロホロな…
 見開いた目から、染み入る空気がガンガンと頭の奥を突き通す。
    とってもとっても甘い夢──

 獏はいつのまにか恐ろしいことを考えている自分に気づき、慌てて頭を振った。
 けれど少年の言葉が、わんわんと頭の中で繰りかえし繰りかえし反響する。
「獏は、悪夢を食します」
 狂えるほどの空腹。
 ──甘い夢。
「人の喜びを、幸せな夢を喰らうのは、最大の罪悪です」
 心を苛む、夢の魅惑。
 ──甘い夢。
「けれど」
 背の上から、小さな寝息が聞こえてくる。
 安らかで穏やかな、柔らかい音色。まるでそれは、母が子に歌って聞かせる子守唄。
 少年が、眠っている。
「けれども」
 夜が来るたび、少年は眠る。
 夜が来るたび、空腹は増す。
 なんて安らかな寝息だろう。なんて穏やかな…。
 ──夢を見ているんだ。
 獏は唐突に思った。
 ──少年は夢を見ているに違いない。

 獏はとうとう足を止めた。

 だって少年は人間じゃない。天使なのだから。
 世界の誰もが夢を見なくても、背の上の少年はきっと夢を見る。
 それも極上に甘い夢を。
「獏はもう耐えられないのです!」

 獏はとうとう目線を地平線から外した。
 首を回して背後を振り返る。
 獏の目が捕らえたのは──。

「ねぇ、何をしようとしたの?」
 少年の真っ赤な眼が、鋭く細まる。
「君、今、僕に何をしようとしたの?」
 少年のおぞましげに笑う口端から、チラリとのぞく鋭い牙。
 少年は眠ってなどいなかったのだ。ずっと自分を見ていたのだ。
 獏は愕然と息をつまらせた。
「もしかして『幸せな夢』を、食べようとした…?」
 途端、世界がガラガラと音をたてて、崩れ落ちた。
 緑の夜の天幕も、美しい星屑も、あんなに果てることのなかった地平線も、すべてが崩れていった。
 後に残ったのは、真っ暗な真っ暗な、上も下もない闇。
 獏は少年を凝視したまま、息を飲んだ。少年が笑って身を乗りだす。
「ねぇ、僕を天使とでも勘違いしたかい?」
 背の上に腹這いに寝そべる少年、あんなに軽く感じたのに、今は恐ろしく重い。
「僕は死神さ」
 獏は混乱して、首を振った。
「スイッチ……」
「スイッチなんてどこにもありはしないよ。だって嘘だもの」
 青くて、丸くて、キラキラ輝く、夢のスイッチ。
「夢がどこにも存在しないのは、人間が夢を見ないからでなく、これが君の夢の中だからだよ」
「獏は…夢を見ません」
 かすれた声で、辛うじて反論する。
 少年がカラカラと笑い声を上げた。
「そう、獏は夢を見ない。見るのはただ一度きり。──死ぬ時さ」
「死」
「この旅は、最初から君の夢なんだよ。現実の君が、死ぬ直前に見ている、ほんの一瞬の夢」
 ──悪夢だ。
「獏は偉いよねぇ、人の悪夢を食べてさ。神は君を天の国へ召すつもりだよ」
 少年の小さな背から、闇よりもなお暗い、大きな翼が生えた。
「けれどおかしいじゃない。君の体の中は、真っ黒なのにさ」
 小さな手に、恐ろしく大きな鎌が現れる。
「真っ黒に汚れた獏が、清らかな天へと召されるなんてさ!」
 狂ったように笑う少年から、獏はもう目が離せない。ひどく目眩がした。
「けれどやっぱり心も汚れてたんだねぇ。幸せな夢を食べるのは、最大の罪悪なんだろう?ねぇ、獏」
 フワフワで、
 綿菓子のようにホロホロで、
 とってもとっても、甘い──
「あなたは、獏を罠にかけたのですね……」
 ──甘い甘い罠。
 獏は見事に魅了された。
 自分の心は、こんなにも汚れていたのか。こんなにも醜い生き物だったのか。
「おやすみ、獏。地獄で待ってるよ」
 少年は獏の額におやすみのキスをし、巨大な鎌を獏の首にかけた。
「悪夢ばかり食べていたせいですね。はじめて見た夢が、悪夢だなんて」
 獏は瞳を幾度かまたたかせた。涙がこぼれ落ちて、頬を伝った。

「おやすみなさい」

 涙の雫が地面を濡らす。
 それはあくまで清らかだった。


おわり

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