影の円舞曲

08

 上衣を脱ぎ捨てた男たちが一斉に、海底に沈めた錨を巻き上げるための装置キャプスタンに取りつく。それとともに、船管理のレナが細腰に手を当て、厳格すぎる声音で号令を発した。
 男たちは「せぇ!」と同時に声をあげ、巻き上げ棒を押す。バックロー号全体が軋んだ音をあげ、船員たちの足元が危うく揺らぐ。筋骨逞しい肉体はあっという間に汗で濡れ、海賊たちの雄々しい歌が碧い海原に轟いた。
 出航の時間である。
「船をあんまり揺らさないでくださいよ! 厨房が斜めに傾いだら、私の血まみれの指が入った料理を食べていただくはめになりますからね!」
 錨の引きあげ作業に加わる必要のないマートン料理長が、笑いまじりに檄を飛ばす。巻き上げ棒を押しながら、海賊たちは「男の指をしゃぶる趣味はねえ!」「今日のスープには肉団子入れろよ! 絶対だぞ!」「人参入れないでー!」と声を張った。
 そんな慣れきった日常の光景を、キャムはくまの浮いた疲労困憊の目でぼうっと眺めた。
 これからバックロー号は無人島を離れ、タネキア大陸が見える辺りまで、短い航海をすることになる。そこで彼らは、港町から上がる花火を見る予定だ。
 花火は、夜遅くなってから。その前の時間、着飾った海賊たちは、マートン料理長や料理番たちが腕によりをかけた絶品料理に舌鼓を打ちながら、船上舞踏会を開催する。
 そう、いよいよ舞踏会が間近に迫っていた。
(吐きそう……)
 キャムは口許を押さえ、勇ましく錨を巻き上げる男たちを見つめる。
 具合が悪いわけでも、寝不足から来る船酔いになったわけでもない。極度の緊張が喉元までせりあがって、今にも吐きそうなのである。
(もういっそ、はやく今日が終わってほしい……)
 昨晩、ホーバーがクロルをダンスに誘ったのを見たときは、シャークを誘うなんてとても簡単なことのように思えた。頑張ろうと思えた。けれどホーバーと別れ、自分の船室に入り、寝棚の上で薄掛けにくるまった途端、恐怖で体が竦み、眠れなくなってしまった。
 一秒一秒がとんでもなく長く感じられるのに、丸窓の外はどんどん明るくなっていく。あと半日後には、シャークをダンスに誘っているのか。あと数時間後には、シャークをダンスに誘っているのか。あと、あと、あと。
 そこまで来ると、自分が本当にシャークと踊りたいと思っているのかすら疑問に感じられてきた。あのシャークと手を重ねて、体を添わせ、円舞曲を踊るなんて、本当にそんなことをしたいのだろうか?
(ぜんぜんしたくない! ううん、したい! したくない! したい! ……したくない!)
 キャムは「あああ」と呻いた。もうなんでもいいから、今すぐホーバーのところに駆けて行って、「なんでクロルを誘ったのよ!」と背後から足蹴にしたい気分だった。ホーバーが変な勇気を出したりしなければ、自分だって今日は壁の花でいることができたのに――。
「……!」
「お!?」
 どんよりとうなだれていたキャムは、「もう!」と顔をあげた途端、眼前に立ちはだかったものを見て、ガチンッと音がしそうな勢いで立ち止まった。
 目の前に、シャークが立っていた。
「あ、おっス。キャム」
 言葉を発することができないキャムに、シャークが遠慮がちに挨拶をしてくる。
「……う、お、あ、は」
 キャムは嫌な汗を流しながら、真っ白になった頭の中から必死に言葉を探す。
「お、おっす」
 辛うじて挨拶をしたキャムは、シャークの反応もろくすっぽ見ずに、両手両足をぎくしゃく動かしながらシャークの脇を通り抜けて逃げだした。
(なに、してんの。おっすじゃないわよー!)
 船内の暗がりまで逃げこんだキャムは、絶望のあまりに床に突っ伏した。
「やっと見つけた、キャム! あんたはまたなにしてんだい!」
 そこにクロルが呆れ顔で現われた。え、なにが、と答えるより早く、クロルはキャムの腕をぐっと引っ張り、強引に立たせた。
「ほら、急ぎな! 女はこっち!」

 キャムは上を下への大騒ぎとなっている医務室の入口で、ぽかんと立ち尽くした。
「いや。私は絶対に、ピンクのドレスじゃないといや! なによその緑色のドレス。メルファーティ・ナンディレスが緑色なんて纏ったら、え、だれおまえ、ってなるじゃないの!」
 衣装やお針子道具を片手に、どたばたと走りまわる女たちの向こうで、ピンク色の下着姿のままで腕組みして仁王立ちしているメルがいた。メルの傍らで、針を凄まじい勢いで上下させ、ゴールドベージュのサテンのドレスを裾上げしていたリーチェが、鼻を鳴らした。
「ピンクのドレスがなかったんだから仕方ないじゃないの! 我がまま言わないでよ、こんな忙しいときに! なんであらかじめ見ておかないの!」
「我がピンク色の双眸は、ドレスの色を見るためにあるのではない、日夜戦に明け暮れる世界に平和をもたらす方策を我が頭脳回路の中に見出すためにあるのだ! ……ピンクのドレスがないなら欠席するわ。世界を極楽に導くための最新エコ兵器でも作るとする」
「だめヨ、だめ! メルいない、ワタシ寂しい」
 唇を尖らせてそっぽを向くメルに、医療用の寝台の上に座り、愛らしい花のコサージュをこしらえていたミンリーが哀しげにした。と、ミンリーはあることを思いだしたように、花のような笑顔を咲かせた。
「そうだ、ピンクの布なら、あるノ。それ、今から、ドレスする」
「え、まさか今からドレス作る気!? 冗談でしょ、ミンリー。人が良すぎるよー!」
「大丈夫、私ノ民族、正装、簡単つくれる。簡単だけど、とても可愛いノ」
 欠席宣言をしつつ、どこかつまらなげにしていたメルの目がぱっと感嘆に輝いた。
「ミンリー、愛してる! んちゅー! ログゼなんて鼻の穴に羽根ペン突き刺して、ほら飛んでみろや飛んでみろや鼻に羽根生えてんだから飛んでみろやって脅されちゃえばいいんだわ!」
「私もメル、大好きヨ。喜んでくれて、嬉しいノ」
 大騒ぎするメルとミンリーを、リーチェは「好きにして」と手であしらった。
「ほらほら、あなたたち。まだ七人の女の子たちが、部屋に入りきらなくて待機していますよ。早く作業を進めちゃってちょうだいな」
 老いてもなお可愛らしい顔立ちのミス・トルテが穏やかに言った。メルとミンリーは早速、船倉までピンク色の布を探しに行き、リーチェは裾上げしたドレスを船員に着付けて、ウエストにバックルを巻きはじめた。
「さ、あんたもそこに座りな」
 クロルは呆然と突っ立ったままのキャムを促し、手近な椅子に座らせた。
「び、びっくりした。舞踏会は夜なのに、もう準備するの?」
「なに言ってんだい。髪の毛いじって、顔作って、ドレスアップしていたら、あっという間に二時間ぐらい経っちまうよ」
 目を白黒させるキャムに、クロルは笑った。
「そっか。あんた、前回まではドレス着て「はい終わり」だったね。でも、今年はそうはいかないよん? このクロル様が、徹底的に女を磨いてやるから覚悟しな!」
 確かに前回の舞踏会では、準備といえば普段着からドレスに着替えることぐらいだった。お化粧なんて唇に蜂蜜を塗ったぐらいで、五分もかからなかった。それが終わったら、「邪魔」とばかりに部屋を追い出されたものだ。だがそうか、キャムがファルやレイリ、年少の少女たちと一緒に「みんな準備遅ーい」とぶつくさ言っている間、女たちはこんな大騒ぎをしていたのか。
「よ、よろしくお願いします」
 キャムは呟き、おずおずと太腿の上で指をいじくりまわした。
 ふと、クロルが妹を見つめるような、愛情の籠もった眼差しを向けてきた。
「キャム。あんたなにか悩みでもあるんだろ」
 キャムの背後に回り、クロルはごわごわの黒髪を両手で掬いあげながら、小声で囁きかけてきた。反射的にクロルを振りかえろうとすると、頭の両脇をそっと押さえられ、「動かないの」と前を向かされた。
「ホ、ホーバーから……聞いたの?」
「ホーバー? なんだい、ホーバーと食堂でなにか話してると思ったけど、悩み相談会でもしてたのかい? 珍しいことするもんだね、あんたが」
 クロルはくつくつと笑い、キャムの髪に丹念に櫛を通しはじめる。ぐいっと髪を後ろに引っ張られ、キャムは「うぐ」と仰け反った。
「違うよ。あいつは口の軽い男じゃない。それは、あんたも知ってるだろう?」
「……う、うん」
「目の下にくまが出来てるし、なによりとても悲しそうな顔をしている。それに最近、あんたちょっと様子がおかしかったから」
「……」
「ああ、からかってやろうってんじゃないよ? ただ悩んでることは知ってるから、強がらないでって言いたかっただけさ。今だけでも目を閉じて、気持ちを落ち着けな。なにも聞かないから」
 他の船員に聞かれないよう気遣ってくれているのか、クロルの声は心地よさを覚えるほど静かで優しかった。揶揄する風でもなく、無理に話を聴きだそうとする風でもなくて、微風みたいにそっと耳を撫でてくる。
 キャムは唇を引き結び、少し迷ってから口を開いた。
「……ご、ごわごわでしょ。梳きにくいよね」
 なにも聞かない。そう言ったクロルに、キャムは自分から話しはじめた。
「私、その……すごく、自分の髪質が、嫌いなの」
 些細なことで悩んでいるとクロルに思われたくなくて、ずっとクロルには話せずにきた。けれど今は自然と口から弱音が零れ出た。
「んー? いやそうでもないよ」
 クロルは削るようにキャムの黒髪に櫛を通しながら、答える。
「うそだぁ……」
「いや、あんた、ちょっと髪質変わってきたかもね。去年は梳くの大変だったけど、今年は櫛の通りがいい。あ、もしかしてリーチェの薔薇油使った?」
 キャムは首を振りそうになるが、クロルの邪魔になるまいと「ううん」と口だけで答えた。
「リーチェ、勝手に薔薇油使うと怒るもん。高いんだからって。ケチ」
「――なんですって!?」
 地獄耳なリーチェが、部屋の隅っこから声を上げた。クロルは笑った。
「んじゃあ、本当に髪質が変わってきたのかもね。髪質って面白いよねえ、いきなり変わるんだよ。あたしも小さい頃はくるくるだったのに、今じゃ全然だからね」
 今度こそキャムは、後ろを振り返ってしまった。
「え、そうなの!?」
「あーもう、ほらほら前向いて。……母親が綺麗な直毛だったから、気にしたこともあったよ。でも十代半ばぐらいかな、急にくるくるが消えてさ、びっくりしたよ」
 そうなんだ、とキャムは小さく呟く。
 キャムと同じ。ホーバーとも同じ。クロルも、やっぱり悩んだりしたことがあったのか。
「……私ね、クロル姐に憧れてて……クロル姐みたいになりたいなってずっと思ってた」
 クロルは一瞬櫛を動かす手を止めて、「へえ」と驚きの声をあげた。
「そりゃ、あたしは誰もが憧れるお姉さまだからねえ! 無理もないよ!」
「……前言撤回しようかなー」
「うそうそ。それで?」
「クロル姐にはなれないって、もう分かってるの。けど、あの……今日いつもと違う感じに……できる? せっかくドレス、大人っぽいのをクロル姐が選んでくれたから。ちょっと、背伸び」
 したいな、って、とキャムはまごまごと言う。
 クロルは嬉しそうに笑って、「最初からそのつもりだよ。そう言ったろ?」と答えた。
「そうだねえ、髪の毛を耳の脇でおだんごにして、前髪は横に流して……ああ、細い三つ編みでカチューシャ作っても可愛いかも。さらさらした髪質じゃないから、髪型で遊びやすいと思うんだよね。どう?」
「えっと……分かんない。任せる」
 クロルは何かのクリームを両手にとって捏ね、キャムの黒髪に手櫛を通した。ほっとするようなミルクの香りがする。多分、髪に艶を出すためのクリームだろう。
 騒々しい室内の雰囲気とは正反対に、クロルはゆっくりと、丹念にキャムの髪型を作っていった。鏡がないので、キャムにはちっとも状況が分からなかったが、クロルが時どき入れてくれる説明によると、細い三つ編みを作って、それをカチューシャのように頭のサイドからサイドへと流し、三つ編みの端は左耳の後ろに作ったお団子のところで、白と紺の花弁でできた大振りのコサージュでまとめるつもりらしい。普段は真っ直ぐに垂らした前髪は、今日はクリームで梳いて斜めに流された。普段は出さない額が露わになって、なんだか視界が開けた感じがする。
「前髪を斜めに流すだけでも、かなり感じが変わるね」
「え、そ、そう? 見ていい?」
「まだだめ。魔法は途中で見ちゃいけないのさ」
 キャムの正面に回ったクロルは、どこからか引っ張ってきた椅子に腰かけた。身を乗りだし、腰のバックから取りだした白粉を、ぱふでキャムの肌に置いてゆく。白粉が舞うたびに、やはり甘いミルクの香りが鼻先をくすぐった。
 あ、これ、クロルがいつもさせている匂いだ。キャムはふいに気づいた。
(そっか、このお化粧品の匂いだったんだ)
「目、閉じて」
 閉じた目蓋のふちに、筆が走る感覚。なにをされているのかが分からず、キャムの瞼がぷるぷると自然と震える。
「開けて」
 次は、黒い鉱石を粉状に砕き、水で溶いて作った液体を睫毛に塗っていく。
「あんたの眉毛、いい形してるから、このまんまちょっと書き足すだけにするよ」
「え、う、うん? うん……」
 よく分からないけれど、褒められた。キャムは顔がかっと熱くなるのを感じた。いい形だって。眉毛が。本当に?
(自分では考えたこともなかったところを、人に褒められたんだ。そしたら自信がついた。そうか、自分には短所も山ほどあるけど、この人が認めてくれるような長所もあるんだって――)
 昨晩、ホーバーが話してくれたことが耳に蘇ってきた。
(これだあ……)
 キャムは唇をきゅっと噛みしめて、飛びあがりそうな心を必死で押さえつけた。
 最後にほっぺに柔らかな毛をくるりと当てられ、唇をクロルの指が伝った。
「よし、化粧完了! はいはい、次はドレス着て、そんで靴はこれね」
 ドレスを手渡され、キャムはおずおずと服を脱ぎ、ドレスに着替えた。クロルが素早く背後に回り、腰回りの紐をくっと結んで、腰から襟足まで連なる胡桃ボタンを順繰りに留めた。足にまとわりつく滑らかな絹の感触にどきどきしながら、キャムは先ほど渡された靴に爪先を通す。
 それは、6cmほどの高さの、猫足ヒールがついた白い靴だった。
「船が揺れると危ないから、走るんじゃないよ。ヒールには慣れてないだろうから、十分気をつけな」
 なんだか爪先立ちしているみたいだ。とても不安定だった。船はいつの間にか出航し、波に揺られはじめているので、一歩歩いただけでも転んでしまいそうだった。
 けれど。けれど――たった6cm分だけ踵が持ちあがっただけなのに、視界の高さが全然違う。一気に身長が伸びたみたいだった。
 高揚感が爪先から頭のてっぺんまで昇ってきた。
(知らなかった。靴を履きかえるだけで、こんなに世界が変わるんだ)
 これならシャークみたいな身長の高い男とでも、それほど違和感なく、踊れるかもしれない。
(ああ、ホーバーの言う通りだなあ……)
 自分は嘆くばかりで、なにかの努力をする前から、すっかり頑張ることをあきらめてしまっていた。ホーバーの言う通り、自分を変える努力をするよりも、嘆いている方がずっと楽だったからだ。だって、努力をしたって結果が伴うとは限らない。頑張った結果、なにも変わらなかったらと思うと恐ろしかった。
 ――だいたい、バックロー号という環境も悪いのだ。小さい頃からずっと同じ船員たちと生きてきた。キャムが今さら女らしくなる努力を始めたら、絶対に船員たちはからかってくる。「似合わないぞ、キャム」って。それを「いいじゃない、きれいになりたいんだもの。文句ある?」とはねのけるだけの気持ちの余裕は、キャムにはなかった。
(でも、それを言い訳にはしたくない。私はやっぱり努力をしてこなかったんだ。今ですら、私はまだなんの努力もしていない)
 衣装を用意し、化粧をし、髪型を作ってくれたのはクロル。自分はただ座っていただけだ。
(それでいいの?)
 キャムは唇を引き締め、太腿の脇できゅっと拳を握った。
「男は不憫だよねえ。武器といったら、カトラスぐらいしかないんだからさ。でも女の武器は、カトラスのほかにも、化粧道具や洋服、凜と立つヒールがあるんだよ」
 クロルは言いながら、キャムの手を取って全身鏡の前に連れ出す。
 キャムはそして――息を呑んだ。
「きれいだ」
 クロルの賞賛に、キャムは耳まで真っ赤になった。
「やっだー、クロルったら女殺し!」
 脇を通り抜けざまに、リーチェが手を叩いて爆笑する。けれどリーチェも鏡の向こうに立つキャムに気づくと、ふっと驚きの滲んだ笑顔を浮かべ、「うん!」と満足そうにうなずいた。
(本当に、これはいったい誰だろう)
 これまで見てきた、子どもっぽい自分とはまるで違う。
 クロルがそっと両肩に手を置いて、鏡の向こう側で微笑んだ。
「悩みごとがあるせいかね、今日のあんた、憂いを帯びてすごく色っぽいよ。不思議なもんで、悩みは女に深みを与えるんだよねえ」
 戸惑うキャムに向かって、クロルは片目をぱちりと閉じてみせた。
「さ、うちの海賊ども、骨抜きにしてやんな!」

 女船員全員が身支度を整え終えたころには、船はすでに目的地の沖合に到着し、投錨を終えていた。甲板の上空は、目を奪われるほどの美しい夕暮れ。絶好の舞踏会日和だ。
 キャムは胸元に手を宛がい、小さく息を吸って、深く吐きだす。
 相変わらず緊張は解けない。心臓が口から飛び出そうだった。鼓動が、襲い来る海軍艦隊を前にしたときだってならなかったぐらいに、ばくばくとすごい速さで脈打っている。
 足の指先にまで力が入って、歩こうとすると膝が固まって動けないように感じるのは、なにも履き慣れないヒールのせいだけではないだろう。
 作業を終えた男たちが汗を拭いながら、「さー俺たちも準備するか」とだるそうに伸びをしている。キャムは、そこに足を踏みだそうとしている。いつもと違う自分で。
(でも、心の根っこのとこは落ち着いてる。クロルが魔法をかけてくれたおかげかな)
 「眉毛の形が良い」。そう言われたからか、変な話だけれど、眉毛から勇気が溢れてくるような気がした。「悩みは女に深みを与える」。自分の醜い悩みごとさえ、今は彼女に力を与えてくれている気がした。
(今なら、きっと頑張れる)
 クロルはキャムの見た目を変えてくれた。憧れつづけた、大人っぽい雰囲気になるよう、魔法をかけてくれた。胸の小ささも、背丈の低さも、ドレスと靴とが見えなくしてくれた。
 それを戦うための武器にして、これからキャムは「理想の自分」に変わるための一歩を踏み出すのだ。
 キャムは甲板のあちこちに吊るしたランタンに火を灯して回っているシャークを、遠くから見つめる。胸元に引き寄せた震える手を、きゅっと拳にする。
 緊張に揺れる瞳の先で、シャークがふとこちらを振りかえり、動きを止めた。
 トレードマークの丸眼鏡の向こうで、シャークはどこか驚いたような顔をする。
 キャムはどきんと高鳴る胸に手を当てて、こちらを呆けたように見つめるシャークを、震える眼差しで見つめかえした。
 言うんだ。今度こそ。ずっと恋してきた、あのひとに。

 シャーク。
 私と踊ってくれますか。

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