ホーバーの思いもよらぬとんだ一幕
02
波はかわらず、おだやか。視界も良好。
無人島ちかくにて錨を下ろし、一時航海を中断。
三時ごろから、夜の宴会のための準備がはじまったよ。みんなすごく楽しそう!
おれもバックローにいっぱいキレイな布しいたり、ヘンな形のランプ並べたりしたよ。タネキア大陸式の宴会なんだって。
でも、まだまだ準備はおわらない。おれもこれ書きおわったら、また準備のてつだいするんだー!
シーパーズの船のなかって、ヘンな宝物がいっぱいで、おもしろいんだ。ああーはやく宴会はじまらないかなぁ!
ちょっと、ホーバーが心配だけど。
ラギルニットの航海日誌より
ラギルは愛用の玉虫色の羽がついたペンで、日記帳と化している航海日誌にそう書くと、インク吸い取り紙できちんと乾かしてから日誌を閉じた。無人島ちかくにて錨を下ろし、一時航海を中断。
三時ごろから、夜の宴会のための準備がはじまったよ。みんなすごく楽しそう!
おれもバックローにいっぱいキレイな布しいたり、ヘンな形のランプ並べたりしたよ。タネキア大陸式の宴会なんだって。
でも、まだまだ準備はおわらない。おれもこれ書きおわったら、また準備のてつだいするんだー!
シーパーズの船のなかって、ヘンな宝物がいっぱいで、おもしろいんだ。ああーはやく宴会はじまらないかなぁ!
ちょっと、ホーバーが心配だけど。
ラギルニットの航海日誌より
バタン!
「ぎゃあ!」
日誌が予想外に大きな音をたてて閉じたので、ラギルは驚いて声を上げた。と一瞬思ったが、今のはドアの音である。
ドキドキしながら背後を振りかえると、そこにはホーバーが眉間にしわを寄せ、唇を引き結び、目を固く閉じ──ともかく何かを必死でたえているような顔で立っていた。
何か、というか、怒りである。
「ど、どうしたの、ホーバー」
ラギルの驚いた顔をじっと見つめ、ホーバーは押し殺した声で呟く。
「クロックが、鬱陶しい……」
あれから、三時間。
船長室での一件があったにも関わらず、クロック船長は少しも諦める様子などなく、しつこくしつこくねちっこくねちっこく、ホーバーの後を付きまとって、結婚しろ結婚しろと囁いてきたのだった。
三時間だ。この狭い船の中で、三時間もクロックの猛追を逃れつづけたホーバーに、もはや余裕や穏やかさなど欠片も見られない。
「周りも、鬱陶しい……」
ホーバーは忌々しげに吐き捨て、ふと顔を仰向けて固く目を閉じた。
しばらく無言でドアに後頭部を押し付けるホーバー。
やがて溜め息を吐くと、少しだけ普段の穏やかさを取り戻した顔で、ラギルに向き直った。
多分ごめんとでも言おうとしたのだろう、口が「ご」の形に開き、
──絶句した。
「……っ」
ホーバーは額に手を押し当てて深々とうつむき、やがて勢いよく顔を上げると、足取りも荒くラギルの座る作戦机の方へと歩いてきた。最近では滅多に見られない怒りに満ちた顔が迫ってくるので、ラギルはじりじりと冷や汗を浮かべる。
ホーバーは机の正面まで来ると、腕を振り上げた。その手が、机の正面に貼り付けられていた紙を引っぺがす。紙はあっという間にくしゃくしゃと丸められ、ゴミ箱へと投げ捨てられた。
「あの樽じじいっ」
ホーバーはイライラと碧白の頭を掻き毟って、勘弁ならないとばかりに罵ると、寝棚の方へとズカズカ歩いていって、ガバッと布団の上に寝転がった。そしてそのまま動かなくなる。
ふ、ふて寝? 一連の出来事を見守っていたラギルは、おろおろとホーバーの背中を見つめ、こちらを振りかえる気配すらないことを確認すると、こっそりとゴミ箱から紙を拾い上げた。
腕を広げたぐらいもある大きな紙を開くと、そこにはクロック船長の字で、でかでかとこう書かれていた。
『結婚おめでとうホーバー殿。クロック』
ラギルは絶句し、更におろおろして意味もなく首をあちこちに巡らせた。ホーバーは起きる気配もなく、こちらに背中を見せてふて寝している。
やがてふと「周りも鬱陶しい」というホーバーの言葉を思い出して、ラギルは船長室の外に出てみることにした。
ラギルはぽかーんと口を開けた。
甲板は凄まじい賑やかさだった。つい先ほどまでも準備で皆賑やかだったが、日誌を書きに船長室に入っていた一瞬の間に賑やかさ三割増である。
──初めはホーバーのあまりの不機嫌さに言動を避けていた船員たちが、宴会の準備の合間、一人の船員が勇気を振り絞って結婚話のことを口にしたことをきっかけに、いつしか両船の船員たちは結婚話について大声で話すようになったのだ。
そしてそれはいつのまにやら、
「賭け金最高額は、五千エルカ! しけてるわねぇ、お前さんがた。あたし悲しい!」
「そうそう。もっと勇気を出して、どかんと一発大物狙いだヘイカマーン! おおうおう5001エルカが出たぜー! てーか、微妙な金額だねぇ、グレイさん」
バクスクラッシャー恒例賭け大会にまで発展してしまっていた。
「ありゃあー」
人々の歓声とはったはったの声が耳に痛いほど響き渡ってくる。賭け大会の主催者はいつものごとく、ローズおじさん&サリス兄さんのコンビである。黒眼鏡にトゥーダ大陸の黒の社交服なんぞを身にまとい、金を入れるための籠を手に、船員の間を歩き回っていた。
「おれは五千五百エルカ出すぜー!」
頭上の見張り台から叫び声とともに、幾枚かの紙幣がひらひらと空を舞った。
「いいねいいね俄然盛り上がってきたわねぇ! ほらほらおどき!」
ローズが嬉しそうにうほほほと笑いながら、紙幣に群がる船員たちを殴り倒し、見事全部の金をキャッチし、籠に入れた。
「ええと」
ラギルはいつのまにやらどでかくなっている事態に口をあんぐりと開き、これはあのホーバーが、ふて寝なぞまでしてしまうのも分かる気がした。
「おお、ちび船長!」
騒ぎの中央からクロック船長が飛びでてきた。クロックはでっぷりした腹を愉快そうに揺すりながら、ラギルの肩を地面に釘でも打ち付ける勢いで、ばんばんと叩いた。
「い、痛いよ、クロックせんちょー」
「おお、すまんすまん、ついつい嬉しくてなぁ!」
ぐはははは! クロック船長は盛大に笑って、その辺にいた船員の首根っこを掴んで、無理やり肩を組んで左右に体を揺らし、陽気に歌を歌った。
ラギルはあははと笑いつつ、同情めいた視線を背後の船長室に向けた。
それを見たクロック船長は、ギラン!と目を光らせると、哀れな船員を投げ飛ばし、ラギルに詰め寄った。
「ホーバー殿は、船長室に隠れておったか!」
「へ! あ、え、あ、あのその」
ラギルがくちごもっているうちに、クロック船長はさっさと足取りも軽やかに、船長室の扉を開けようとした。ラギルはわたわたとクロック船長の太い腕にしがみつき、ぎろりと睨み下ろしてくるクロックを、えへへーと無邪気に笑って見上げた。
「おれ、船長さんと少しおしゃべりしたいなぁ!」
「わしはしたくない」
「ちょ、ちょっとでいいから」
「いやだ。わしは、ホーバー殿に用がある」
「俺はない」
唐突に船長室の扉が開き、ホーバーがひどく苛々した様子で出てきて、そう言い捨てた。
「おお! ホーバー殿!」
一瞬反応の遅れたクロック船長から素早くラギルを引き離し、ホーバーはラギルを抱えたまま船長室にさっさとその扉を乱暴に閉めた。
「……」
──ホーバー殿、なんと無礼失敬な! おい、我が船員たち、この扉を開けてくれ!
──ご自分で開ければよいでしょう、船長。石の扉でもあるまいし。
──開かんのだ馬鹿者馬鹿者! 能無しめ! 開かんから言っておるんだー!
──ええ? マジですかい? ぬううう!
船長室の外から、やかましい声が聞こえてくる。
ホーバーがあらかじめ扉脇に用意しておいた見た目よりも相当重い棚が、扉を塞いでいる。ラギルは何か面白いゲームをしてるみたいだね! と笑い、ホーバーはその後ろで、どんよりと頭を抱えるのだった。
それから数分して、ようやくクロック船長の騒がしい声が聞こえなくなった。さらにしばらくしてから扉が軽くノックされた。
──リザルトです。開けてください。
「あ、リズだ!」
ラギルが嬉しそうに手を振り上げる。ホーバーはひとまず安堵して、重い棚を苦労して動かした。ラギルは扉をほんの少しだけ開いて、甲板に顔だけを出した。そこには確かに、水夫長リザルトの強面があった。
「わーい、リズ! 助けてくれてありがとー!」
「いやいや、何のこれしき」
リザルトは黒い髭に覆われた口元をにっと笑わせた。
「ホーバー副船長もいますかな。あちらさんの水夫長が、備品交換をしたいと言っているんで、お二人ともちょいと話を聞いてほしいのですが」
「いるよ。でも今は、いないってことにしといた方がいいかも」
リザルトは一つ苦笑をすると、甲板に向かって声を張り上げた。
ラギルはその間に甲板の様子を見やる。リザルトからそう遠くもないところで、クロック船長がこちらの隙をじとーとした目でうかがっていた。
しばらくして、賑やかな船員たちの間を縫って、血色の髪を炎のようにたぎらせた舵手アレスと、スケベな眼差しでシーパーズの女たちを検分している船管理長のスタフと、煙草の煙を燻らせながら渋く笑っているグレイがやってきた。
ラギルはほえぇーと四人の船員を眺めた。何というか、全員ひどく物騒な顔と体格をしていた。
「ホーバー、出てきな、守ってやるよ」
グレイがしゃがれた渋い声で船長室の中に声をかけた。
しばらくしてから、ホーバーがラギルの上から顔を出し、扉を開けた。どんよりとうなだれ、ぼそっと呟く。
「……あんたら結婚しない方に賭けてるだろ」
四人は、にやりと笑った。
「ぐぬぬ」
クロック船長はせっかくホーバーが船長室から出てきたのに、四人の厳つい男たちが周囲を囲っているのを見て、拳を悔しそうに固めた。──小さいラギルは眼中にない。
「おい、我がシーパーズからもあのような船員を集めてくるのだ!」
「……」
クロック船長に指令を受けた船員は顔から血の気を引かせ、おそるおそると背後を振り返った。甲板の端の方でシーパーズ三大強面が、バクスクラッシャーの面々と豪快に笑い合っていた。豪快は豪快でもあはははは!なんて可愛いものではなく、くっくっく!という感じだ。怖い、かなり怖い。船員はぶるぶると首を振った。
「勘弁してください」
「何ぃ!?」
「こ、怖いっす!」
「仲間だろーが!」
「仲間は仲間でも怖いものも怖いです! 失礼します! すんません!」
船員はべこべこと何度も頭を下げながら、逃げるように走り去った。
クロック船長は追おうとしたが、伸ばしかけた手を下ろし、やれやれと溜め息を落とした。
──うちの船員たちは気は良いが、頭と野心と度胸がない。
ホーバーに言った台詞を脳裏で繰りかえし、クロック船長は渋い顔をする。
改めてホーバーを見やり、クロック船長は鼻息を落とした。
「諦めんぞ、ホーバー殿」
──たとえどんな手を使っても。
クロック船長はふとデトラナの姿を探して、人で埋めく甲板に視線を走らせた。
美しい娘の姿はすぐに見つけることが出来た。デトラナは宴会の準備を手伝う気配もなく、船縁にたおやかに腰かけ、男をはびこらせていた──というかはびこるままにしていた。男たちが自分の中で最高であると信じている微笑を浮かべ、話し掛けてくるのを一切無視して、デトラナはある一点を不満そうに見つめていた。
今度はそちらへと目線を動かすと、彼女の見る先にもまたホーバーがいた。
ホーバーたちは舵台の階段脇で、シーパーズの水夫長も含めて話し合いを始めている。
デトラナのあからさまな視線には気づいているはずなのに、まったく彼女の方は見向きもしない。デトラナにはそれがひどく不満でならなかった。
「デトラナよ」
と、クロック船長が堂々とした足取りでやって来た。デトラナがホーバーから視線を外し、ゆったりと顔を持ち上げた。クロック船長は娘にまとわりついていた船員たちを、手でしっしと追い払い、娘の横に立った。
「なんですの、お父様」
クロック船長は皮の厚い人差し指をくいくいと動かし、耳を貸すよう指示した。デトラナは右耳に掛かっていた黄金の髪を掻きあげる。クロック船長は形の良い耳に口を寄せ、こそこそと囁いた。
「ホーバー殿の説得はお前に任せるぞ、娘よ。わしではもう、あやつの不機嫌度を増すことしかできんようだ。何故かな」
ぬけぬけと言って、クロックは髭をしごく。
デトラナは目をかすかに見開き、少し不愉快そうに眉根を寄せた。
「お父様、本当にあの方が、わたくしの夫となる方ですの?」
クロック船長は思いもよらぬことでも聞いたかのように、太い眉を持ち上げた。
「不満か? ホーバー殿が」
「優男ですわ」
すっぱりと言ってのけ、つまらなそうに涼風のような溜め息をつくデトラナ。
「それになんなんですの、さっきからあの人、わたくしに見向きもしませんわ。目が悪いんじゃありませんの? それともよほど鈍感なのかしら」
クロック船長はクククと楽しげに笑った。海賊の船長らしく、余裕のあるふくよかな笑いだった。
「まあそう言うな、ラナよ。お前のような美しい女に見つめられれば、誰でも緊張し、ついついあらぬ方向を見て、自分を誤魔化してしまうものだ」
彼のフォローにもなお不機嫌そうにホーバーをねめつけているデトラナに、クロック船長はにやりと笑った。
「見た目はまあ優男だ。わしも初めて会った時はこんな脆弱な小僧が副船長か、と呆れ果てたものだ。だが違った。奴は……いや、よい、わしが詳しく説明するまでもない。すぐに分かることだ。あれはお前好みの、いい男だ」
「強く逞しく、優しく気品がありとてもそうは思えませんけれど」
あくまで不満げなデトラナだったが、人を見る目が厳しい父がこうまで誉める男に多少興味がわいたようで、彼女は「まあいいですわ」と囁き、やがて艶然と微笑んだ。
「わたくしが簡単に骨抜きにしてさしあげますわ、あの優男を。お父様」
「で、結婚する気なのか、若造」
アレスが事故で有り得ない方向に曲がってしまった腕で、階段の手すりを答えを促すようにこつこつと叩いた。ホーバーは憮然として、アレスの曲腕をべしっと叩いた。スタフがにやにやと笑いながら、ホーバーの頭をぐりぐりと掻き混ぜた。
「大した美女だぜ、あの女。っかー! 羨ましい話だ!」
「譲る」
ホーバーの心底不機嫌そうな声音に、グレイが「おいおい聞いたか、贅沢な提案だ」とにやっと笑った。
リズの太い腕を軸に、ぶらぶらとぶら下がりっこをしていたラギルは、心底珍しい気分になる。ホーバーがここまで長い時間、それもここまではっきりと不機嫌さを示すのは、本当に久しぶりだった。ラギルの古い記憶の中には、確かにむすっとした顔が記録されている。ホーバーは随分長い間反抗期で、無愛想な性格だったのだ。だが、ここ数年そんな顔もすっかり見られなくなった。いつも優しい目でラギルを見ている、それがホーバーだ。
もしや皆、久しぶりで嬉しいのかもしれない。すっかり人間丸くなってしまったホーバーの久しぶりの不機嫌な様子に、やたらとしつこくかまった。
その内会議が終わり、それぞれ違う仕事に向かうことになった。もう少しお守りしましょうか、ホーバーの若旦那、というふざけた申し出を一蹴し、ホーバーは船倉へ宴会用の茶葉を取りにゆくと言って船内へと入っていった。後を追おうとしたラギルだったが、他の子供たちの遊ぼうという誘いに、甲板の方へと駆けていった。
──デトラナは薄っすらと微笑し、優雅な足取りでホーバーの後を追った。
「はーい、旦那様っ」
バキ!
「ふ、副船長っ」
木の箱に入った亀裂を見て、ログゼは引きつった笑いを浮かべ、直ちに訂正した。
ホーバーは打ち下ろした拳を引き抜き、じっとりとした表情で背後のログゼを振り返る。
「茶葉がない。どこ」
見た目以上に不機嫌なようだ。久しぶりの不機嫌モードにログゼはたじたじしながら、手に持ったカンテラでホーバーの手元を照らした。
ここは船の三層の船倉庫である。倉庫番であるログゼの管理下にあるこの倉庫には、生活用品をはじめとした様々な物がしまわれている。盗んだ品も保管してある場所だ。
「あれ? ないなあ、ここにあるはずなんだけど」
ホーバーが探っている無骨な木造の棚を、ログゼも一緒に探しながら宴会で使う茶葉を探す。
「もう誰か持ってったんかな、上に聞いてくるわ、ホーバー探してて」
「んー」
ログゼはカンテラを天井につけられたフックに吊るし、荷や木の柱で雑然とした倉庫を慣れた足取りで通り抜け、ほとんど垂直な階段を上って出て行った。
ホーバーはログゼを待ちながら、ごぞごぞと木棚を探った。
「茶葉なら、こちらがご用意しましてよ。ホーバー様」
唐突に背後から聞き慣れない、というか聞き慣れたくない声がかかる。
ホーバーは茶葉を探す手を休めると、背後をいやーな気分で振り返った。
階段に細長い腕をもたれさせ、気怠げに立つ人影があった。上からの明かりに照らされた彼女は、まるでステージ上の歌姫のような按配である。
「タネキア産の茶葉ですの。王族愛用の高級茶葉ですわ」
しなっ。デトラナは何とも艶めいた様子で、長く細い足をもったいぶって絡めた。
ホーバーは明らかな挑発を気にも止めず、顔を戻して棚の中を探りながら、おざなりに頷いた。普段なら社交辞令だろうと笑みの一つも作るところだが、そんな気分にすらもはやなれない。
「それはどうも。うちの女どもが歓喜しますよ」
「貴方は?」
ホーバーの背中を、デトラナがじっと見つめる。
「はい?」
「貴方は、歓喜なさってないみたい。わたくしに」
ホーバーは疲れきった溜め息を小さく吐き出し、観念したようにきちんとデトラナの方に向き直った。背後の棚に軽く身を預けて腕を組み、ふと口端に冷笑を浮かべる。
「それはそちらもだろう?」
作ったような穏やかな口調に、冷ややかすぎる笑み。
デトラナは満足そうに微笑を深め、優美なラインの顎を軽く引き、彼を上目遣いに見つめた。
「当然ですわ。貴方みたいな柔そうな方好みじゃありませんもの。けれど貴方の方は」
気位の高いその目付き。自信をたっぷり含ませた笑み。
「わたくしのような女に、歓喜しない理由がありませんでしょう?」
それはどんな巨大な王国の、美女に見慣れた国王であろうと、魅了されずにはいられないような表情だった。
ツイ。甘美な脚が、一歩一歩とホーバーに近づいてくる。背後は棚、両脇の足元には木箱、ホーバーには逃げ場のないと承知で、デトラナは彼の首に柔らかな腕を絡みつかせた。
「ねぇ、ホーバー様?」
デトラナは男を落とす手管に熟知しているわけではない。何故なら微笑み一つで、その甘い声音で、それだけで誰もが落ちてしまうからだ。もちろんホーバーとて男だ、柔そうに見えても男だ、これで簡単に落ちるだろう、そうデトラナは思った。
だがホーバーは無反応だった。
「何ですか」
ホーバーは鼻先が触れるほど間近に近づいたデトラナの顔に向かって、そう呟いた。デトラナは一瞬何を言われているのか分からず、言葉を詰まらせる。
「何がかしら」
ホーバーは不機嫌そうに眉をひそめた。
「今呼んだでしょーに」
「……」
「……」
ホーバーは不可解そうに幾度も瞬くデトラナに溜め息を落とし、アホな子供に言ってきかせるように、ゆっくりと区切って言い直した。
「よ・う・け・ん・は・何・で・す・か」
デトラナは困惑して、まじまじとホーバーを見つめた。ホーバーはあくまで不機嫌そうだ。それ以外、彼の意図らしきものは読み取れない。
何を言っているのだろう、この男。用件って、この姿勢で用件も何も用件は要するにつまり。
「あ、貴方の方がわたくしに用件があるのではなくって?」
徐々にホーバーの不機嫌そうな顔に磨きがかかってゆく。何か妙に責められている気分になり、デトラナは自分でも自分が理解できないまま、言い訳でもするようにしどろもどろと言葉を続ける。
「た、例えば髪を触るとか頬に触れるとかそういう類の用件が」
「ない」
にべもない。
途方に暮れるデトラナの腕を、自分の首からやんわりと外し、再び背を向けて棚の方へと手を伸ばした。
「用件が決まったら、またどうぞ」
ぶっきらぼうにホーバーは呟く。
デトラナは「はぁ」と理解不能なまま頷き、ふらふらと船倉を出て行った。
彼女が出ていった途端、船倉隅にある地獄の間からの複数の大爆笑が巻き起こった。
「な、なにごと?」
甲板から帰ってきたログゼが、馬鹿笑いの聞こえてくる地獄の間を振り返り、首を傾げる。ホーバーはそれには答えず「茶葉茶葉」と呟きながら、棚の中を憮然とした表情で探った。