ホーバーの思いもよらぬとんだ一幕
01
雲ひとつない、良く晴れた暑い午後のことだった。
海上は眠くなるほど穏やかで、海面が陽射しを受けてキラキラと光るのが、宝石のように綺麗だ。
時折、海鳥がマストを宿木がわりにして、一声鳴いては去っていく。
船員たちは皆、何事もない平穏は時間を、ぼーっと過ごしていた。
フと、見張り台に登っていた船員が、双眼鏡を取り上げた。
「船長! 南南東の水平線に、船影確認!」
甲板がにわかに騒がしくなる。
そして、それは同時だった。
見張り台の船員が、口元に笑みを浮かべるのと、
「船旗を確認しました!
黒地に髑髏、金の王冠! ハングリー・キング号です!」
澄み切った青い青い天空に、花火のように色鮮やかな信号弾が上がるのは。
針路は西北、海賊島を目指し、午前の航海は順調。
十二時! すごいことがあったよ!
なんとなんと、バクスクラッシャーとはすっごく昔っから仲良しな海賊シーパーズが遊びに来てくれたんだよー!
すっごくすっごく久しぶり! 今日は歓迎パーティーだね!
ラギルニットの航海日誌より
海賊「シーパーズ」。
船員八十五名、船二隻から成る、タネキア大陸ではかなり名の知れた大海賊である。
彼らはバクスクラッシャーと同じく、かつてはバクス帝国の公的海賊であった。戦後、一部の公的海賊が起こした自国への海賊行為により、無関係な公的海賊も含めた千数人の英雄たちは、「国家反逆者」として捕らえられ、処刑。あるいは逃げおおせたものの、国に追われる立場となった。
現在生存が確認出来ている公的海賊たちは、ほんのわずか。そのわずかな、シーパーズ、バクスクラッシャーを初めとした幾つかの海賊たちは、国を追われた後の数年間、幾度となく情報交換を行い、あるいは互いに援助しあい、危機を乗り越えてきた。
海の上での生活が安定した現在でも、時折こうして顔を合わせ、互いの無事を確認する。
久しぶりな仲間の無事な姿、開かれる賑やかな宴会、それは船員たちにとって、大変な喜びの一刻であった。
バックロー号の両脇に接舷された、二隻の中型帆船、極彩色の装飾が施されたハングリー・キング号から、懐かしい顔が続々とこちらの甲板に降りてくる。バックロー号の船室からも船員たちがあふれだし、彼らを出迎えた。
「きゃー! 久しぶりー!」
「元気そうじゃねぇか、腹立つぜちくしょー!」
シーパーズとの再会は実に一年ぶりのことである。違う名を持つ海賊たちは、肩をがっしり組んだり、抱きついたりして、お互いの一年の無事を心から祝った。
「おお、久しぶりよのう、ラギル船長」
歓喜の声に満ちた船員たちを押しのけて、のしのしとラギルの前にやってきたのは、船同様に派手な色彩の布を幾枚にも重ねる、タネキア大陸の伝統衣装をまとったシーパーズの船長、クロック・バーガーだ。
「ひさしぶり、クロック船長! 元気してた?」
ラギルは満面の笑みを浮かべ、クロック船長の差し出してきた、どでかくがっしりした手を、小さな手で握り返した。クロック船長は豪快に笑い、紅葉のような手をもげそうな勢いでぶんぶん振って、空いた片手で立派な太鼓腹をぼよーんっと叩いた。
「この通り! 張りよし、音よし、結構結構!」
「そ、そ、それは、よ、よかったー! わ、わ」
手どころか全身を振り回されながら、ラギルは何とか答える。
と、ラギルの両肩に、背後から誰かの手がぽんっと乗せられた。
「あなたの馬鹿力で握手されたら、うちの船長は全身骨折です、クロック船長」
苦笑まじりの穏やかな声がした。振りかえってみると、背後には副船長のホーバーが立っていた。
クロック船長の顔に、先ほどまでの底抜けに明るい笑みに変わって、どこか古びた笑みが浮かんだ。ほんの少し笑った後、彼は口元をにやりとゆるめた。
「相変わらず、柔そうだのう、ホーバー副船長殿」
「あなたの二の腕の柔らかさには、叶いませんけどね。みんな元気そうですね」
クロック船長の皮肉をあっさり受け流してから、ホーバーはもはや大乱闘でも始まりそうな勢いの甲板を見渡し、口端に笑みを浮かべた。
クロック船長はようやくラギルから手を離し、かわりに手の平に納まってしまいそうな小さな金色の頭をぽんぽんと叩いて、かかと笑った。
「ふふふん。このシーパーズ、そう簡単にくたばってたまるかい。そっちこそ、ひょろいお前といい、ちまっこいラギルといい、風に飛ばされそうな奴らばかりだっちゅーのに、よう生きとるわ!」
「あんたみたいなのばっかなそっちは、いつ重みで船が沈むかと心配でしょうね」
「はははははは上手いな」
「ふふふふふふどうも」
ラギルは殺気立つ二人の間に挟まれながらも、別段表情も変えず、腰のポシェットからミルクキャンディーを取り出し、ぱくりと口に放った。──慣れとは恐ろしい。
「ラッギルー!」
数人の小さな水夫たちが器用に人の障害物を縫って走ってきた。ラギルは顔を輝かせ、のしかかるように抱きついてきたラギルより幾つか上に見える少年たちを、ぎゅーっと抱きしめ返した。
「わーい! 久しぶり久しぶり久しぶり久しぶりー!」
「もう一声!」
「久しぶり久しぶり久しぶり久しぶりひっさしぶりひさりさぶ?」
「ぶはははははっ」
性もないことで馬鹿笑いしつつ、互いの肩をがっしり組んで再会を喜ぶ子供たちを見つめ、ホーバーとクロック船長は顔をほころばせた。
少年水夫たちは遅ればせながらホーバーの存在に気が付いたようで、にやっと笑って彼を指差した。
「あ、ホーバーだ! 相変わらず、超無意味な色の髪してんなぁ!」
「散れ」
とりあえず、お客様には笑顔で穏やかに応対するホーバーである。
「お前ら、ほら、水夫長さんたちにも挨拶してきなさい。この間はお世話になったろう」
クロック船長は口髭を指でしごきつつ、手でひらひらと少年水夫たちを追っ払った。素直に承諾の直立をして、ラギルに手を振りつつ去って行く水夫たちを見送り、クロック船長はホーバーを向き直る。その顔ににんまり笑顔が浮かんだ。
「さて唐突だがな、ホーバー殿。良い話を持ってきたんだが、一つ乗らんかね?」
言葉どおり唐突に切り出してきたクロック船長に、ホーバーはにこりと社交的な笑みを浮かべた。
「断る」
一瞬にこやかな沈黙が流れる。
次の瞬間クロック船長はばっとホーバーの胸倉を掴んで、左斜め35度下から顔を覗き込み、青筋の浮かんだ微笑を浮かべた。
「話くらい聴いてほしいなぁ。ホーバー君」
ホーバーは胸倉を掴んできた太い手首をぎりっと掴んで、右斜め35度から顔を見下した。
「過去の経験から察するに、あんたの『良い』の概念は、俺のとはかけ離れているみたいなんで、聞くにも値しないかと」
クロック船長は溜め息と一緒に、胸倉から手を離した。手首がホーバーの指の形に赤くなっている。
アンニュイな顔で遠くを見つめ、クロック船長は顔を横に振った。
「寂しいな。長年の友に信頼されぬとは。とほほ」
「ラギル、宴会の準備でも始めようか」
「うん!」
「聞けや、バクスクラッシャーままごと幹部」
その時だった。甲板にひときわ大きな歓声が上がった。
見ると、バックロー号に接舷されたハングリー・キング号の甲板に、一人の女性が現れたところだった。
「おおっ出てきたな出てきたな! ホーバー殿ぉ見えるかの、あの輝かんばかりの美しい娘が」
クロック船長がでぶっ腹をゆっさゆっさと揺らして、興奮気味にはしゃいだ。ついでに興奮余ってラギルの頭をべしべし叩いたので、「でっ!」とラギルは思い切り舌を噛んだ。
「奥さん?」
クロック船長の自慢げな様子からそう推測して、ホーバーは問い返した。クロック船長はぐはははと笑い、ホーバーの頭をばしぃっとはたいた。勢い余って、ホーバーは前につんのめる。
「美しかろう!? 美しかろうのう!」
「いつかその腹、かっ裂いてやる、この樽じじい……」
相当痛かったらしく、ホーバーは拳をぎりぎりと固めて、すわった声でぼそりと呟いた。
甲板にいた船員たちは、突然現れた美しい女性に色めき立った。一斉に口笛が飛んだが、それが一瞬で止んだのは、バクスクラッシャーの女性たちから非難の睨みが光ったからである。
だが、懲りない奴はどこにでもいる。
「ようこそバックロー号へ!」
バクスクラッシャーの誇る我らがキザ男バザークが、朗々とした声を響かせながら、船べりの方へと滑らかな足取りで歩み寄っていった。
「ああ、なんと罪な御方だろう、貴女の輝かんばかりの美しさを前にしては……」
バザークはどこからともなく一輪の薔薇を取り出し、悲しげに微笑んで、ふるふると首を振った。
「この薔薇も、もはや哀れに散るしかない」
哀愁と悲痛にいろどられた声に合わせ、薔薇の花びらがはらはらと散り始める。仕掛けつきの薔薇なのか、元々枯れかけていたのか、はたまたバザークのたらしサイキック(?)がとうとうイくとこまでイってしまったゆえの結果なのかなんだか良く分からんがともかく薔薇が散った。
「ずるいっス、バザーク!」
女どもの視線を物ともしないバザークに勇気づけられてか、尻込みしていた船員たちも我先にと船縁へ集まり始めた。
「どけよおい! 押すなって! あぁ、今誰かオレの足踏んだだろ!」
「良い女は全て俺様のものだって決まってんだろうが! なに人の女にたかってんだ!」
「ち、エスコートの仕方すら知らんガキどもめが。エスコートのうんたらはだな」
「いやはや、御指名とは、照れますな」
「最高だぜ、ねえちゃん! ヒュー!」
一人前に出ると、後はもう女どもの視線など気にしてはいられない。
シャークが、ワッセルが、セインが、アレスが、ウグドが、その他男船員たち、果てはじいさんSやガキどもまでもが船縁にわらわらと駆けより、あっという間に甲板中央はかなりの殺気を放つ女群だけとなった。
その女性は船と船の間を繋いだ板の上を、遥か下は海面であるということなどまるで気にしていない足取りで、こちらにやってきた。その歩み加減は、漣のようにしとやかで美しい。
──実際、彼女は美女だった。
日に焼けた褐色の肌は、太陽の光を浴びて滑らかに輝いている。すらりとした肢体は細すぎもせず、太すぎもせず、絶妙なバランス。クロック船長同様に色鮮やかな薄布を幾重にも重ねた服は、ぴったりと体のラインに沿うように優雅にまとわれ、彼女のほっそりとした腰を一層引き立てている。
胸元を下品でない程度に見せていて、豊満とはいかないものの形の良い胸を、魅力たっぷりに演出していた。そして布の間から出た足の長く美しいこと。その脚線美は筆舌に尽くしがたいものである。腰から下がる美しい装飾に彩られたカトラスが、脚にぴたりと寄り添い、やけに艶かしく見えた。
板を渡りきった彼女は、差し出された複数の手をじっと見下ろした。金色の睫毛で縁取られた切れ長の瞳は、深海から拾い上げた一粒の海の滴のよう、そんな美しさ極まりない眼差しが、彼らの手をじっと見ている。
船員たちは訳の分からないうははは笑いを上げた。
彼女は緩やかなウェーブを描く金糸の髪を手で後ろに払い──鼻で笑った。
「ご冗談でしょう? わたくしに、その汗臭い手を触れとおっしゃるの?」
一瞬、誰もが静まり返った。手を差し出した船員も、遠巻きに見ていた彼女に興味ないらしい船員たちも、シーパーズの船員たちも、殺気立っていた女たちも、狐につままれたような顔をした。
船員たちはもう一度うははと笑って、自分の服で自分の手を拭いて、もう一度手を差し出した。その伸ばされた複数の手の間を、それらには見向きもせず、彼女は悠々と甲板に降り立った。
「なにあれ」
中央に集まった女たちは、険悪に呟く。
「別にあの女は良いよいかにも意地悪げな顔だしぴったしって感じ」
ピンク色の手作りミニ扇風機を顔の前で回しながら呟かれた、変態科学者メルの言葉に、他の女たちもうんうんとうなずく。
「っつーかなにあいつら。アホじゃないの? 何手ぇ拭いてもっかい出してるわけ!?」
「かーなーりー、やな感じー」
海人のキャムと料理番のリーチェが、「ねぇ!」と顔を見合わせて、うなずきあう。
「前から思ってたのよねぇ、バクスクラッシャーの男どもってロクなのいなくない!?」
「あ。じゃ、もしよろしかったら僕らと合コンでもしま──ぐはっ!」
ここぞとばかりに寄ってきたシーパーズの船員を気晴らしに殴りつつ、姉御クロルがぼそっと呟いた。
「後で地獄を見させてやろう、あいつら」
──女どもは、かなりご機嫌ななめであった。
羨望と憎悪を一身に浴びながら、美女は甲板を優雅に進み、舵台下のクロック船長の側まで来て立ち止まった。
美女は蛇のようにしなやかな動きで、クロック船長のぷよぷよした腕に自分の腕を絡めた。そして悩ましげな視線で、ホーバーを足先から頭まで、撫でるように見つめる。
「……?」
女たちの何かを期待した眼差しと、男どもの羨望の眼差しを痛いほど感じつつ、更に美女の謎めいた視線に首を傾げつつ、ホーバーは軽く頭を下げた。ラギルもホーバーを見習って頭を下げる。
しかし名を名乗る前に、クロック船長がラギルの頭をぽんと叩いた。
「デトラナや、まずこちらがバクスクラッシャーの船長、ラギルニット殿だ」
デトラナという名らしい美女は、不審そうな眼差しでラギルニットを見下ろしたが、にっこり満面の微笑みを返され、思わずつられてにこりと笑った。
「そして、こちらが」
クロック船長はホーバーの肩をがしっと掴み、ぐいっと自分の方に引き寄せた。
「ホーバー副船長殿」
そのホーバー副船長殿を見つめ、美女はしばらく形の良い顎に手を当てて何かを考えている様子だった。その目にやがて馬鹿にしたような色が浮かぶ。
クロック船長は今度は美女を手で示し、満足げな笑みを浮かべた。
「こっちはワシの娘、デトラナ。美しかろう?」
『娘』。
その言葉に、野次馬化した船員たちは悲鳴に似た声を上げた。マジかよ冗談だろ養女だよな嘘つけデブめ。
「やかましいねぇラギル殿のとこの船員たちは」
クロック船長から只ならぬ殺気を感じ、ラギルは慌てて周囲を振り返り、「はーい、静かにー! しゃべるならこっそりねー!」と手をばたばたと振り回した。
と、クロック船長は突然、ホーバーの肩を引き寄せたまま、デトラナの肩を右手で抱き寄せ、船員全員を振り返った。
「さて、今日は良いニュースをお聞かせしよう!」
そして高らかに宣言したのだった。
「今日をもって彼らは、夫婦となる!」
誰もがキョトンとした。
ホーバーは額に手を押し当てて、クロック船長の言ったことを必死に吟味した。
デトラナはふんと顎を反らした。
クロック船長はニコニコ笑い、困惑しているホーバーのために丁寧にゆっくりと囁いた。
「な、良い話だろう?」
周囲に集まっていた船員たちは、ホーバー同様に呆けた。シーパーズの船員たちは、どうにも同情的な苦笑を浮かべていた。
「どうぞよろしくお願いいたします、ホーバー様」
デトラナが言葉とは裏腹に、ひどく見下した風にそう囁き、頭をわずかに左斜めに傾けてそっと頭を下げる、タネキア式の礼をした。
「え?」
ラギルは訳がわからず首を傾げ、静まり返った船員たちを、きょろきょろと見回すのだった。
バン!
船長室の扉が乱暴に閉められると、外の甲板の騒ぎも遠ざかる。扉の小窓には船員たちが窓所有権を争っているのか、様々な顔が突き出ては押しのけられを繰りかえしていたが、声は遠くに感じる。
ホーバーは荒々しい足取りで室内を横切り、作戦用の大きな机にぶつかるように背を預け、しばらく怒りを押し殺すように顔を片手で覆い、しばし沈黙した後、ようやく搾り出すように言葉を発した。
「今日のはいつもに増して楽しい冗談ですねぇ、クロック船長?」
クロック船長は底の見えない笑みを浮かべる。
「楽しかったかね? そりゃあ良かった。ま、どうだい、一杯」
険悪なホーバーの表情にも、クロック船長は図太く笑みを浮かべ続け、重ねに重ねた服がわりの布の中から、ホーバーの腕くらいの太さはある酒瓶を取り出した。
「……どこにそんなもんを」
「お、温かい」
「……」
思わずげんなりと頭を抱えるホーバーを無視し、クロック船長はちゃっかりと紛れ込んでいるラギルにも、やはり服の中からオレンジジュースを取り出して渡してやった。
「さて。今日はめでたい日だしの、互いの無事を祝って乾杯といこうじゃないか」
「ほぉ? 俺にはとてもあんたの頭の中身が、無事とは思えないんですがね?」
「おお、まだボケちゃおらんよ失敬な」
「大丈夫、時間の問題です」
ホーバーはすぱっと言い切って、作戦机の上にシャークやクロル、バザークあたりが昼間から呑んでいたのだろう置きっぱなしのグラスを、一つは自分用に、一つをラギルに渡し、もう一つはクロック船長に差し出した。
とぽとぽとぽ。
色のよいワインが、少しばかり注がれる。グラスから伝わる温度が人肌なのが、不愉快度倍増である。
「では乾杯!」
「わーい、かんぱーい!」
「……」
三人はグラスを鳴らすと一気に中身を飲み干した。クロック船長が不満げに眉根を寄せた。
「ぬるいのう、やはり股間は体温が高かったか」
ぶ!
ホーバーがワインを吹きだす。
それでもって、やっぱりクロック船長の腹から出てきた人肌温度のオレンジジュースを、真似して吹きだしたラギルをポカッと叩いた。
「何考えてるんですか、あんたは!」
「何かを考えているように見えるのかね」
「見えねえよ」
「否定してくれ」
ホーバーは口元をぬぐいながら、苛々と頭を掻きむしった。ラギルニットは叩かれた頭を両腕で抱え、涙目でうーと唸り、ホーバーを不満げに睨み上げ、強烈に睨み返され、あはっと強張った笑いを返して、逃げるようにとてとてと二人の間を駆け抜け、壁に備え付けられた寝棚の一段目にぽすっと寝転がって、ぐーぐーと寝たふりを始めた。
「で?」
すわった目で先を促すホーバーを見て、クロック船長は口元を手の甲で拭うと、クツクツと笑った。
「いやねぇ、ワシとしても可愛い美しいデトラナを手放すのは惜しいのだがのう」
「じゃあ、手放さなければ良いんじゃないですかねぇ?」
ホーバーは口端を冷笑で歪め、細めた眼差しでクロック船長を鋭く見据えた。
不機嫌度指数86%。まだ良い方だと時折薄目を開けて戦況を確認しながら、ラギルニットはきゃー!とつい笑ってしまう口元を手で隠した。
クロック船長はホーバーの様子にはっはっはとしばらく笑い、やがて、ラギルには分からない種類の笑みを浮かべた。
「ホーバー殿は随分と気性が穏やかになったと思ったが、不機嫌になると昔のままだのう」
ふとホーバーの表情にも、似たような色が浮かんだ。険悪だった顔が、少しばかり懐かしいものでも見たような穏やかなものになる。
「鬱陶しい反抗期小僧」
ホーバーは少し声のトーンを変えて呟き、片眉を上げて上目遣いに見てきたクロック船長に、微かに笑みを浮かべて見せた。クロック船長は密やかに笑い、どこか遠くを見る目付きでうなずいた。
「そうだったのォ。そう呼んでおったわ。懐かしいもんだ」
ホーバーがまだ中身の残っているボトルを掲げると、クロック船長は意を得て、空になったグラスを差し出した。
しかしホーバーが酒を注ごうと口を傾けると、クロック船長はついっとグラスを下げた。
「いや、やめておこう。もう歳を感じるでな」
ラギルは寝たふりをやめて、雰囲気の変わった戦場をあお向けに寝転がって見上げた。
ホーバーはしばらくボトルを持ったままでいたが、やがて自分のグラスと一緒にテーブルに置いた。
「何を弱気な。簡単にくたばってはたまるか、じゃないんですか?」
からかい笑いを浮かべると、クロック船長もクツクツと笑い、しかしまたどこか侘しい微笑みを浮かべた。
「近頃寂しいての。今じゃ船の上は居心地の良い自分の居場所だ。だがな、そう居心地が良いと思えば思うほど、故郷が遠ざかってゆく気がしてのう。もうこの老いた目には、かの国の姿はかすれてしか見ることができんよ」
扉の外の騒がしさが、先ほどより更に遠くに感じた。ラギルは思わず振り返って、窓から確かに船員たちの姿が見えるのを確認した。
「年寄りがちいとくたばったが、新しい船員も幾人か増えたし、まあ船は安泰だ。しかしうちの船員どもは気のいい奴ばかりだが、どーにもこーにも頭と野心と度胸がないんでなぁ」
「海賊としてそれはどうなんだ」
呆れ口調で応えつつも、それが実際大きな苦悩の種になっていることは理解できた。
バクス帝国の元公的海賊たちは、その出自の多くが、ごく普通の一般市民だ。愛国心の高い帝国の民が、国に忠義心を示すというただそれだけのために、海賊軍人となった。国を追われ、海賊として生きなければならなくなったとはいえ、彼らの心は未だ、ごく普通の生活を忘れていない。
「わしの後を継いで、船長となる者がおらんのだ」
やがてクロック船長は独り言のように呟いた。
──ホーバーはその一言に、わずかに目を見開いた。
突然の彼の娘との結婚話。その裏にひそむ、本当の話題が見えた気がした。
「あなたのとこの副船長は、結構若いし、切れる人物のはず」
「死んだ」
ホーバーの瞼がぴくりと震える。微かに見開かれた蒼い瞳が、クロック船長の伏せられた顔をとらえ、やがてその空のグラスに移された。
空のグラス、わずかに残された琥珀の滴が、内側を伝って浅く水面を作る。
「不安でな。今の船にはわしのように腹黒い奴がいないのだよ。支配者たる者は腹黒い奴か、よほど」
クロック船長の視線がラギルに向けられる。ラギルは慌てて寝たフリを再開した。
「腹の白い奴でなくてはいかん」
そして再びホーバーに向けられる、どこか古びた眼差し。
「ホーバー殿がどっちとは言わんがな、だが信頼しておる、お前さんの力は」
ホーバーはクロック船長の視線を受け取らなかった。ただ深く懸念するような眼差しで、クロックが玩ぶ空のグラスを、たゆたう薄い水面を見つめた。
「このままでは安心して、あの世への荷造りもできんのだ」
「クロック」
「ホーバー殿、わしの後を継いでほしい」
クロック船長は苦渋に満ちた声で、だがはっきりと言い放った。やはりと眉根を寄せるホーバーを、クロックは鋭い眼光で見据える。
「わしの娘と結婚し、そしてシーパーズの船長となってほしいのだ。ホーバー殿に」
言葉を返そうと口を開くホーバーを無視して、クロック船長は室内をぐるりと見回した。
ホーバーが副船長として過ごしている、船長室。地図や書物が、百冊近くにも及ぶ航海日誌が棚の中で散らかっている。そのどれもが使い込まれた様子だ。ひどく汚れているものもある、血と汗と涙と、苦悩の歴史を雄弁に物語っている。
「お前さんになら、任せられる。幾度となくこの船を救ってきたように、わしのシーパーズもきっと守ってくれる、そう信じることができる。そしていつかかの地へと、連中を還してくれると、そう信じられるのだ」
そう言って、クロック船長は再び「不安なのだよ」と呟いた。
「お前さんが娘の婿となり、わしの後を継いでくれれば、これほど安心することはないのだが」
溜め息をつき、ひっそりと俯く船長。
「悪い話ではなかろう? 船長の座、美人な花嫁。それにデトラナを娶れば、もっとたくさん良いものが手に入る」
頭に巻いたターバンが垂れて、顔に影を落とした。
「駄目かの、ホーバー殿。駄目かのう……」
いつになく力ない友の姿に、ホーバーは何も言うことができなくなった。
──寝棚に黙って寝そべっていたラギルは、すっかり状況の変わった二人を、赤い瞳で不思議そうに見つめた。はじめはホーバーを、次に俯くクロックを、順繰りに見つめる。
ホーバーは複雑な表情を浮かべ、項垂れる戦友を無言で見つめていた。深い思慮、深い懸念、ラギルにはまだ理解できない複雑な影が覆っている。
そして、深く俯いたクロック船長は──
「ホーバー」
ラギルはあお向けのまま、ホーバーに声をかけた。ホーバーは顔を上げ、寝棚の方を振り返った。
「どうした? ラギル」
ラギルは随分小さくなったキャンディーをカリッと噛んで、呟いた。
「あのね、おれのいる位置からだと、クロック船長の顔が見えるんだけど」
カリカリ。
「笑いこらえてるように見えるんだけど」
ガシャーン!!
底の割れた(割った)ワインボトルが、ホーバーの手に握られた。すごい剣幕で迫ってくるホーバーから、クロック船長はわたわたと必死に逃げ惑った。
「い、いや、ワシが悪かった! 謝るから、その物騒なもんしまっておくれ!」
「なぁにが。なぁ・に・がっ、荷造りだとぉっ?」
世にもおぞましい笑みを浮かべたホーバーが、転がるように部屋の隅へと逃げたクロック船長ににじり寄る。
クロック船長は後がないと分かっていながら、まだずるずると足を後ずらせて、壁にへばりついた。ホーバーの影がクロック船長の顔に落ちた。
「ぎゃー! 助けて我が船員たちよー!」
「お前は、殺しても死にゃあしないこのっタヌキがぁー!」
バキィッ!!
船長室の扉が、粉砕する勢いで開け放たれた。
窓にかじりついていた船員たちは、慌てふためいてその場から逃げ、近くの樽の陰や舵台の階段脇に身を隠した。
しばらくの沈黙の後、扉の枠を内側からがしっと掴む手があった。更にしばらくして、手の主ホーバーが、かなりキレた様子で甲板へと出てきた。
「……」
「……」
「……」
「……」
バクスクラッシャーの船員一同、加えてシーパーズの船員たちまでが、ホーバーの様子を食い入るように見つめる。生唾を飲み込む音があちこちで聞こえた。
ホーバーはしばらく立ち尽くした後、大きく溜め息をつき、頭をガシガシと掻いた。
それでどうにか気は収まったようだった。ホーバーはもう一度溜め息をつくと、いつもの顔に戻って、声を上げた。
「宴会の準備!」
その頃ラギルはといえば、
「それは地? それともちょっと自失状態?」
頭からほんの一ミリ離れた位置に突き刺さったボトルを見上げ、あははははと笑うクロック船長をツンツンつついて、その精神状態を確認していた。
だがクロック船長が、これで懲りるかと思ったら大間違いである。
宝のためならば、どこまでも、いつまでも執拗に追い求める。
そう、彼は飢えた王──ハングリー・キングなのだから。