老いた者たちの会合
02
ズガシャーン!
ゴロゴロゴロ……。
ガランゴロンガランゴロン……ズガーン!
「ひょっ!」
ラヴはしわっと身を竦めると、慌てて寝棚の隅によって、布団をばさっと頭からかぶった。
ズガー……ン!
ゴロゴロゴロ……。
「ひょっひょ!」
防水圧ガラスの小さな丸窓から、雷鳴と一緒に稲光が入ってくる。室内の白黒が反転し、船が不気味にきしんだ音をたてた。
突然の嵐だった。
タネキアのこの時季、フェクヘーラから吹いてくる季節風の影響で、通り嵐は決して珍しいものではない。だが今日の嵐はいつものよりも少しばかり底意地が悪いようだった。数時間上空に滞った雨雲が、いつもよりも長く激しく、海上を轟然と揺らしていた。
人の重みのない船は、このまま傾き沈んでしまいそうだ。
ラヴは堪えきれずに枕を抱えて寝棚を飛び出すと、猛然と扉に向かい、部屋を出た。
廊下は不思議と静まり返っていた。遠くから近くから、微かな嵐の音が聞こえてくるが、どちらかといえば船の軋む音の方がうるさい。
二つの船室を歩いて見送ると、ラヴは高鳴る心臓を必死で押さえながら、三つ目の扉に勢いよく飛びこんだ。
「ヴェ――スちゃ────ん!」
ラヴはぱっとジャンプすると、寝棚の一段目でぐーぐーとイビキをかいているヴェスの上に、どさっと飛びついた。
「ぐえ────!」
突然襲ってきた衝撃に、ヴェスは聞くに堪えない呻き声を上げると、コソコソ布団の中に侵入してくるラヴを足で蹴り出した。
床に落ちたラヴは、枕をぎゅっと抱きしめて、ヨヨヨ……とシナを作った。
「ひどいのじゃー! ヴェスぅー!」
「馬鹿者! せっかく良い夢を見ておったのに、起こすのが悪い! そもそもお前の部屋はここじゃなかろう!」
「だってだって、雷怖いんじゃもーん! 一人でグーグーずるいのじゃ!」
「…………」
なんつー幼児なジジイだろう。呆れて物も言えず、ヴェスは皺の刻まれた額を、鬱屈と押さえた。
そこへ、二人の来客が飛び込んできた。
薄暗い室内の入り口に佇んでいたのは、どこか緊張した様子のカヴァスとマートンだった。
「何だ? 先客万来だな」
「おぬしらも雷が怖いんじゃろー!」
ヴェスとラヴの呆れたような、からかうような言葉には答えず、二人はどうしてよいか分からぬように、口を開いたり閉じたりして、互いに顔を見合わせた。
「……どうした」
船長代理のヴェスは、彼らの様子から異変を感じ取り、すぐに布団から出て、暗がりに立ち上がった。
「実は……」
先に口を開いたのはマートンだった。
彼は窓の外を指差すと、恐ろしい言葉をゆっくりと、呟いたのだった。
「竜巻が接近しているようなんです……」
丸窓に顔を寄せたヴェスだったが、雨に濡れたガラスでは外の様子を上手く見通せない。
「竜巻はどの辺に?」
「わかりません。ここからではまだ確認は。ですが、港町から竜巻発生を知らせる信号弾があがったので……」
さすがに平素は肝の据わったマートンも、声がどこか上ずっていた。
ヴェスは難しい顔で低く唸ると、三人の不安げな顔をゆっくりと見渡して、噛み締めるように言った。
「逃げよう」
飾り気のない避難宣言に、マートンとカヴァスは安堵した様子で深くうなずいた。
「船の巣までは、歩いてもそうかかりません。とりあえずそこへ避難しましょう」
船の巣というのは、この無人島の南東にある巨大な洞窟のことである。大型帆船バックローが入っても、まだ余りあるくらいに大きく、そして頑丈だ。
「そうっちょ! 今からならまだ逃げれっちょ! 急いで小船をおろさにゃて」
カヴァスは身振り手振りを交えて熱弁をふるうと、言うが早いかぱっと身を翻した。
三人も慌てて、彼の後に従った。
甲板に出ると、頭上を夜目にも見えるほどの分厚い雨雲が、物凄い速さで駆け抜けていくのが確認できた。風が唸りを上げ、四人の老体を容赦なく打ち付ける。豪雨は視界を容赦なく遮断し、甲板に打ち付けては霧のような飛沫を上げていた。
だが、竜巻の気配はまだない。
「よし、船を下ろそう!」
轟音をたてる風雨に負けない声で、ヴェスが指示を出すと、老人たちは右舷の小船にに駆け寄って、固定綱をはずしにかかった。
強風のせいでなかなか外せずに苦労していると、マートンが不意に顔を上げて、首を傾げた。
「どうしたんです、ラヴェッシュ!」
その声に他の二人も顔を上げる。
振り返ると、船室の前でラヴが一人、今にも泣きそうな様子で立ちすくんでいた。
「何しちょってばぁ! 早くこっち来て、手伝っちょらえ!」
カヴァスが声を張り上げると、ラヴは風に浚われそうな小さな声で、ぼそりと呟いた。
「……に、逃げるのかのぅ」
「当たり前っしゃれぇ! 逃げんちょ、死んじまう!」
今更な問いかけに、カヴァスは苛立って叫んだ。
ラヴは拳をぎゅっと握りしめると、唇をぐっと噛んで──ふと声を張り上げた。
「手抜き工事じゃあ!」
「……へ?」
突如声を荒げたラヴに、三人は一瞬ポカンとする。
ラヴは透きっ歯をぎりりと食いしばると、いっそうの大声で彼ら三人に告げた。
「許してほしいのじゃ! わし、みんなと一緒に行けん! ここでお別れじゃ!」
それは唐突な別れの言葉だった。
呆気にとられる三人に、ラヴはぼろぼろと涙を流しながら、大きく首を横に振る。
「まだバックローの修理も終わってない。大事な大工工具もまだ下じゃ。……今、もしもここで、バックローを見捨てたら、わしの大嫌いな手抜き工事になってしまう! じゃからして、みなの衆……っさらばじゃあ!」
ラヴは叫ぶだけ叫ぶと、うわーんと号泣して、雨にかすむ船室の扉へと消えていった。
「……ラヴちゃん」
この切羽つまった状況下で、船室へと戻ってしまったラヴ。
三人は困惑して、互いの顔を見合わせた。
そしてどれだけの時間がたったか、ふとヴェスが立ち上がった。
「我輩も残ろう。……船をここまで汚し、その上見捨てるなど! もう二度と若い者に顔向けできん。おいぼれと呼ばれようと、我輩も船員のはしくれ。海の暴れ馬、バクスクラッシャー! 残って船を、船の巣まで回避する!」
強烈な暴風が、威厳に満ちた様子で背筋を伸ばすヴェスの薄い髪を、ひらひら~とそよがせた。
それを見て内心吹き出しつつ、カヴァスは覚悟を決めたようにうなずくと、思い切り良く立ち上がって、幾度も凛々しくうなずいてみせた。
「そうっちょ! それで死んじゃれど、わても本望っちょ! わてらの船、守っさえ!」
強烈な暴風に吹きつけられても、そよとも動かないカヴァスの固いピン髭に必死に笑いをこらえつつ、マートンもまたガバッと立ち上がって、二人にたくましい笑顔を向けた。
「では、ラヴェッシュを呼んできます!」
四人の老人たちは、大いに奮闘した。
ままならぬ老体に鞭を打って、帆を放ち、馴れぬ舵輪を握りしめる。次第に風は強まり、激しく船体を揺すり、舵輪を逆転させるが、四人総出でなんとか食い止める。
巨大な帆船バックロー号は、最低でもまともな操船に20人は必要である。たかが4人で動かせるような代物では決してなかったが、それでも帆は大きく風を受け、徐々にだがゆっくりと動きだしはじめた。
「カヴァス! 骨ばってるくせに、なかなか馬力を出しやがるじゃないか!」
「ふん! ……ぬしも、なかなか良い踏んばりっちょ!」
「ハッ、当然! ……今月の我輩のラッキーカラーは、青。貴様のせいで青くなった靴を、履いておるからなぁ!」
「ほっほー! 感謝するっちょ!」
「……ああ! 感謝してやるわい!」
しがみつくように舵輪を握るカヴァスとヴェスは、雨に顔を打たれながら、互いに顔を見合わせ、にやりと笑い合った。そこには、いつもいがみ合う険悪な様子など、微塵も存在していなかった。
「ここはわてらにまかせぃ!ラヴちゃんとマートンは、帆を頼むっちょ!」
「まかせたぞ!」
共に舵輪を支えていたマートンとラヴは、二人の言葉に一瞬ためらいを見せるが、舵輪を支える二人の顔に確かな強さと自信と、そして固い信頼の光を見出し、しっかりとうなずいた。
二人は舵台から駆け下りると、雨で滑る甲板の上を必死に走った。
「うっほ~う! 飛ばされそうじゃー……!」
「減帆しましょう! これでは帆が持ちません!」
今にも破れんばかりに膨らんだ帆布を見上げ、二人はマストと連結したロープを掴んで、甲板から帆を操った。
そのときだった。
二人は視界の隅に、何か灰色の影を見た気がした。
ラヴとマートンは、恐怖に顔を歪ませて、海を見た。
その顔が、緊張に凍りつく。
「……竜巻」
竜巻。
それはとうとう肉眼でも確認できる位置にまで、接近していた。
分厚く垂れこめる雲から、渦巻く風の塊が海を波立たせている。竜巻の足が海面を滑るように踊り、先の読めない動きで激しく逆巻いている。
だがそれは確実に、こちらに近づいてきていた。
近づいているのが、湿り気を帯びる肌ではっきりと感じられる。
乱れる風の流れ。それに海水が混じりはじめる。
「っくー……、うあ……!」
風に足を取られ、舵輪を支えていたカヴァスが後方になぎ倒された。
それをきっかけに、船は一気に風に支配された。
カヴァスとともに舵輪を支えていたヴェスが、逆転する舵輪に引きずられ、ついには手を離す。激しい勢いで舵輪は回転し、船がみるみるうちに傾きだした。
帆が裂ける音が、吹きすさぶ強風の中、やけにはっきりと響き渡った。
帆を操るロープがぐんっと風に引っ張られ、マートンとラヴの手を離れる。それはまるで鞭か何かのように、激しくしなりを打ちながら虚空を暴れまわった。
「……うわぁ!」
「ラヴェッシュ!」
うねり荒れ狂うロープが、ラヴの方へと迫ってくる。マートンは反射的に駆け出して、突き飛ばすようにラヴごと甲板に倒れこんだ。
頭上すれすれを凶暴に切り裂いて、ロープは再びうねりながら、上空へと飛んでいった。
「す、すまぬ、マートン!」
「貴方が無事で何よりですよ!」
ロープが戻ってこないうちにと、二人は手を取り合って立ち上がり、どうにかその場から逃げ出した。
だがもはや船は完全に、彼らの手では制御しきれなくなっていた。
「も、もう駄目じゃ……!」
荒れ狂う嵐。目の前に迫る竜巻。未だ遠い船の巣。傾き始める、愛しい帆船。
四人は舵台の側で、互いの手を、固く固く握りしめあった。
「カラ・ミンス……! どうか、船と我らをお救いください……!」
すでに岸辺は遠い。
いまさら小船をおろしても、助からない。
助かる術を失った四人にできることは、ただただ祈ることだけであった……。