雪の香を焚きしめる

 皐月は肩で息をしながら雪原を歩いた。踏みしめるたび、雪がぎゅいぎゅいと鳴く。降雪の少ない県で生まれ育った皐月の不慣れな足どりを、笑っているかのようだった。
 瑛太ならきっと雪に足をとられることなどなかったろう――皐月は歯を食いしばり、首に巻いたマフラーを鼻先まで引き上げた。

「皐月、不思議な匂いがする。温泉、みたいな?」
 瑛太がくんと鼻を鳴らす。皐月は慌てて紅紫色のマフラーを鼻までたくしあげた。
 匂いの正体はマフラーに染みこんだ硫黄臭だ。
 先日、母と箱根旅行に行った。昨年の箱根山の小規模噴火が原因で、いまだ客足が戻らない箱根。その現状をテレビで知り「ちょっと応援に」なんて言って遊びに行ったのである。
 一番の目的は大涌谷。荒涼とした岩場から硫黄臭のきつい噴煙が勢いよく吹きあがるさまは、まるで大地が呼吸しているかのようだった。「地球って生きてるんだ」。圧倒的な生命力を前に、皐月は時が経つのも忘れて立ち呆けた。
 マフラーに硫黄の匂いが染みついていると気づいたのは、帰宅した翌日、通学バスの車中でのことだった。
(温泉の匂いだあ!)
 月曜日の憂鬱な気分が一瞬で吹き飛んだ。満員バスは箱根の温泉に早変わり。皐月は頭の中で想像の温泉につかりながら、鼻歌まじりに学校に向かったのだった。
 それから五日、マフラーからはまだ硫黄の匂いがする。おかげで毎日「温泉気分」を味わえるので、皐月はマフラーを洗いもせず、陰干しもせずに使いつづけているのである。
「ええと……箱根の大涌谷で匂いがついちゃって。どうやっても消えないの」
 消えないのではなく、名残惜しんでいるのだとは言えず、歯切れが悪くなる。瑛太に貧乏性と思われるのだけは絶対に避けたい。
 瑛太はさりげなく身をのりだし、皐月の首元で、くん、とまた鼻を鳴らした。
「いい匂い」
 皐月は凍りつき、ぎくしゃくとマフラーを首からはずした。
「あれ、はずしちゃうの?」
「……病室、熱いから」
 本当に熱いのは、頬だったけれど。
「いいなあ、箱根」
 胸がじくりと痛んだ。失敗した。気遣うべきだった。けれど瑛太は皐月の困惑を知ってか知らずか、悪戯っぽく微笑んで言った。
「また出かけてきて。それで、マフラーにいろいろな匂い、仕込んできてよ。どこに行ったか当てるから」
「仕込むってなんか変」
「じゃあ……香を焚きしめてきてくださいませ?」
 雅。皐月はくすくす笑った。



 けれど香りなんてものは、そう簡単に染みこむものではない。焼肉屋なんて色気のない場所しか思いつかない自分が憎らしかった。
 それでも不思議と瑛太は皐月の出かけた先を当てた。うなじのあたりに顔を寄せ、マフラーの匂いを嗅ぐ瑛太。そのたびに皐月はどぎまぎした。
 小学五年生の頃からほとんどの時間を病院で過ごしている瑛太には、十一歳のまま時を止めてしまったみたいに純粋なところがあった。中学生男子が同い年の女子にするには大胆すぎる行動だってこと、きっと気づいていない。皐月の動揺にも、ともすれば匂いたちそうに熟した想いにも気づかないのだろう。
 鈍感瑛太。皐月は心の中で文句を言う。
「これは夏祭りの匂いかな。あ、コロッケ食べた?」
「え、やだ。どうしてわかったの?」
 瑛太は得意そうに「超能力」と笑った。

 今ならわかる。もちろん瑛太に特別な力があったわけではない。ただ、瑛太は皐月が何気なく話す言葉を端々まで覚えていただけだ。
 他愛のない一言も、話題に困ってとっさに発した言葉だって、余さずに全部。
 瑛太は全身で皐月の話に耳を傾けてくれていた。「今度、夏祭りがあるからコロッケ屋のおばちゃん張り切ってた」と言えば、瑛太は皐月の性格上、夏祭りに行ったら必ずおばちゃんの店にも寄り、「ちょっと応援に」と言ってコロッケを買うだろうことまで予測していたに違いない。
 どうして十一歳のまま時を止めてしまったみたいだなんて思えたのだろう。瑛太はちゃんと同い年の男の子だった。止まったままだったのは皐月の方だった。
 小学五年生の頃から通いつづけた病院。瑛太がよくなるよう願う一方で、皐月はなんとなく、瑛太がもう退院できない気がしていた。
 だから皐月は「瑛太は鈍感」とふてくされながら、その実、自分の気持ちの成長に歯止めをかけていたのだ。
 瑛太が皐月を見つめる瞳は真剣で。
 時を見計らっているのがわかって。
 伝えたがっている言葉があると、どこかで気づいていて。
 それを聞きたくて。
 聞きたくなくて。

 いつものように病院に行った、あの日。待合室では瑛太のお母さんが顔を両手で覆って泣いていた。その肩は激しく痙攣し、両手の内から発せられる声はくぐもり、すぐには泣き声とわからないほど変な音をたてていた。
 皐月は病室のドアの前で立ちつくした。白いドアは氷の壁が立ちはだかっているかのように、冷たく来る者を拒んでいた。
 けれど、ドアを開けると、いつもと変わらぬ瑛太がいた。皐月を見つめ、そっと、包みこむように微笑む。
「皐月。今度、雪のある町に行ってきて」
「雪のある町?」
「そう。俺、転校生だったろう。岐阜の方。今はもうないけど、合掌づくりの家に住んでた。昔話に出てきそうなやつ。雪が降って、外が怖いぐらいに静まると、火を熾《おこ》した囲炉裏のそばで、ばあちゃんが昔話をしてくれた。怖いやつとか、それから怖いやつとか」
「怖いのばっかりだね」
「うん、怖かったよ」
 ふと、瑛太の手が、枕元に突っ立ったままの皐月の手に触れた。
「怖かった」
 その声があまりに心細げだったので、皐月は瑛太の手を握った。そばにいるよと伝えたかった。瑛太は皐月の手を強く握りかえし、どこか遠くを見るような眼差しで囁いた。
「行ってきて。雪の香り、連れてきて」
「雪って、どんな匂いなの?」
 瑛太はただ、はにかんで笑った。

 皐月は雪原の真ん中で足を止める。そのまま両腕を広げ、背中から雪に倒れこむ。
 雪の香りなんてちっとも感じない。鼻の奥が寒さでひりついて、感じることもできない。
「瑛太。雪のあるとこ、来たよ」
 皐月は呟いた。
「雪の匂い、しないよ」
 皐月は重たい灰色の空を見つめる。
「瑛太。どれぐらいここに寝転がってたら、マフラーに染みこんでくれると思う?」
 このまま、ここに。
 ここで、身を横たえて。
 寒さがこの身を砕いてしまうまで。
「雪の香り、届けてあげられなかったなあ」
 つんと鼻の奥が痛くなる。皐月は凍えてこわばった腕を持ちあげ、目元を覆い隠した。
 もっと早くに来たらよかった。けれど離れたくなかったのだ。怖いと言った瑛太のそばにいてあげたかった。
 いいや、怖かったのは皐月の方。刻一刻と迫るそのときを前に、そばを離れるなんてできなかった。
 そうして結局、瑛太の最後の願いを叶えてあげられなかった。
「ごめん、瑛太」
 皐月はマフラーを引き上げ、寒さで痛む鼻頭を覆った。
 そのときだ。体温でぬくもったマフラーがかすかな匂いを皐月に伝えてきた。
(あ……)
 風が吹く。巻きあげられた雪片が、記憶の中でひらひらと舞った。

 そうだ。あれは小学生の頃。
 教室で飼っていた金魚が死んでしまい、飼育係だった皐月はひとり体育館の裏で泣いていた。
 はじめて直面した死。自分がなにかミスしたせいで死んだのではないかと思うと、クラスメートにも先生にも合わせる顔がなく、皐月はすっかり打ちのめされていた。
 雪が舞いはじめた。めったに降らないのに、今日に限ってどうして。寒くてたまらない。けれど、お弁当の時間になっても教室に戻る勇気は出てこなかった。
 そのときだ。
 突然、首にマフラーが巻かれた。驚いて顔を上げると、長いマフラーの半分を自分にも巻きつけ、瑛太が立っていた。
 転校してきたばかりの瑛太は、初日に方言をからかわれて以来、友達をつくれずにいた。片手にお弁当の入った巾着袋をさげている。もしかしてひとりでお弁当を食べようと体育館裏にやって来たのだろうか。
 ひとりきりの皐月。ひとりぼっちの瑛太。
 編まれた毛糸を通して、瑛太の体温が伝わってくる。こっそり見上げれば、瑛太の頬はほのかに上気していた。
 急に恥ずかしくなって、皐月はマフラーに鼻先をうずめた。
 マフラーからは、優しくて、ぽかぽかで、春の日溜まりみたいな匂いがした。

「瑛太の匂いだ」
 皐月は泣きじゃくり、マフラーの半分を両腕に抱きしめた。
 雪が舞いはじめた。けれど寒くはなかった。
 あの日、記憶に焚きしめた雪の香が、皐月を優しく包みこんでいた。


おわり

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