藪椿

07

「御免ください」
 鈴の音のように柔らかな声が、閑散とした本屋に響き渡った。
 書棚の整理をしていた貸本屋の店主は、両手に開いた本から顔を離した。掛けていた金縁眼鏡を畳んで、胸ポケットに仕舞い、棚整理用の背の高い梯子から下りる。
 迷路のように並んだ巨大な書棚の間を抜けて、入り口を覗くと、客の姿がそこにあった。
「……ああ、懐古堂さん」
 絵画の額縁のように切り取られた戸口に立っていたのは、和装を凉やかに着こなした懐古堂の女店主だった。
「こんにちは、貸本屋さん。先だってお借りした小説を返しに来ました」
 外は日差しが強いようで、その姿は逆光で全くの影となっている。だが彼女がいつものたおやかな微笑を浮かべていることは、声音から判断がついた。
「わざわざご足労、ありがとうございます」
 懐古堂の手から小説を受け取り、貸本屋は微かに笑みを返す。
 表紙を返すと、夏目漱石の『こころ』とあった。眠る前に何か読みたいと書店推薦本を訊ねられて、何とはなしに渡した一冊だ。適当なようだが、この本屋には生憎と薦めの本しか置いていない。
「どうでしたか? 少し難解ですか」
 漱石の傑作は、人の図りがたい心の有様を描いているためか、少しばかり難解である。懐古堂は胸元にそっと両手を添えると、「色々と考えさせられました。眠る前には読まない方がいいですわね」と言葉少なに答えた。
「お代はいつものように茶葉でいいかしら」
「ええ、結構です。……助かります。懐古堂さんのお茶はいつも美味しい」
 懐古堂は茶と時計を扱う店である。この町の住民が飲む茶はいつも懐古堂の茶と決まっていた。もっともそれ以外に茶屋などないのだが。懐古堂は微笑んで、袖から茶葉の包みを取り出し、貸本屋に手渡した。
 そこでようやく光に慣れてきた目が、懐古堂の髪を飾る一輪の花を見出した。
 貸本屋は眩しげに目を細め、わずかに微笑んだ。
「藪椿ですね」
「え?」
 何とはなしに言うと、懐古堂は思わずといった風に花飾りに手を触れた。
「ああ、この花。ええ。時折、町を歩いていると、”空から落ちてくる”ことがあるんです」
 懐古堂は微笑して、藪椿の紅の花びらを愛しげに撫ぜた。
「藪椿という名前なんですか?」
「はい。何千種とある椿の中の一種です。他の花とは違って、散る時には花の形のまま、ほとり、と落ちるんですよ」
 懐古堂は、あら、と顔を綻ばせた。
「ほとり、ですか。貸本屋さんには似合わぬ、かわいらしい表現ですわね」
 貸本屋はその言葉に恥じ入るように仏頂面になって、「ぼと、ではあんまりですから」と言い訳をした。
 懐古堂は新たに見繕った本、太宰治の『人間失格』をまた借りて本屋を後にした。今宵も眠れぬことだろうと苦笑して、日傘を差した姿が、太陽の燦々と照りつける夜の裏路地へと消えてゆくのを見送る。
「相変わらず、気まぐれな」
 町はすっかりと夜の装いだというのに、空にはぎらつくような夏の日差し。貸本屋は呆れるあまりに首を振ると、薄暗い店の中へと戻った。
 懐古堂から受け取った茶葉の包みを、勘定台代わりにした長机の引き出しに仕舞う。目の前を通り過ぎる鬼火を鬱陶しげに手で払ったところで、騒々しい声が入り口からした。
「おうい、貸本屋。文字が読めねぇでも分かる小説を見繕ってくれい」
「無理です。馬鹿ですか、貴方は」
 振りかえりもせずに答えると、便り足と呼ばれる飛脚姿の男が馴れ馴れしく背中にもたれてくる。
「つれない貴方。あちき寂しい。懐古堂さんにはあんなに優しいのに、よよよ」
「広辞苑と、百科家庭の医学と、出刃包丁。凶器はどれがいいですか」
「……四番目で」
 便り足はささと貸本屋から離れると、机に置きっぱなしになっていた本を手に取った。
 植物図鑑だ。ちょうど先ほどまで梯子の上で読んでいた本である。貸本屋内に何冊かあるが、先ほど懐古堂に話して聞かせた藪椿の説明もこの図鑑に載っている。”ニッポン”から取り寄せた物だが、生憎と、この世界とあちらとでは植物の有り形も違うので、あまり評判は良くない。
 便り足が戯れに頁を繰るのを横目で見つめる。
 貸本屋の脳裏に、懐古堂の挿した椿が蘇った。
 くるり、と回る。何かが、記憶の奥底で。
 貸本屋は人嫌いの性格には珍しく、こっそりと、穏やかな微笑を浮かべた。
 いつも、ふとした拍子に思い出す何かは、心に眩しいものをくれる。
 夏の太陽のような。
 ほとりと散る、藪椿のような。
 あるいは、陽光を弾いて輝く、白い日傘のような。
 それはきっと、いつかの世界で、大切に想っていたものだ。
「ああ、これなら俺でも分からぁ。絵ばっかりなのがいい」
 便り足がクツクツと笑った。
 貸本屋は目を閉じ、記憶を封じると、書棚から文字の少ない絵本を取り出して、便り足に放った。お、と笑顔になる友人に背を向け、また書棚の迷路に戻って作業を始める。
 好奇心の旺盛なこの町の住人は、一人がどこぞの店に入れば、また一人と続いてくる。貸し賃を支払わぬばかりか、借りた本も返さぬ腹立たしい異形のもの、それでいて本を寄越せとねだる身勝手な住人たち。
 彼らを迎えるため、貸本屋は慌しく書籍本の整理にかかった。


おわり

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