雪の子供

01

 小さな男の子が、私の顔を覗きこんでいた。
 五歳ほどだろうか。とても綺麗な子だ。
 海の浅瀬のように、透きとおった青い瞳。羽根のようにふんわりと揺れる、薄金色の髪。そして、雪のように白い肌。
「おじいさん、外は雪だよ」
 子供が嬉しそうに笑う。
 私はゆっくりと窓に目を向ける。白い霜にふちどられたガラスの外には、なるほど、雪が降っていた。暖炉の火のおかげで室内はあたたかく、気がつかなかった。
「積もるといいね」
 子供の背後には、夕日色の壁。いや、違う。壁ではなく天井だ。暖炉の火に照らされた、天井。
 そうか。今、私は、寝台に横になっているのだった。
「今日はクリスマスだね」
 子供が囁く。ああ、今日はクリスマスか。
 クリスマス。幸せと喜びに満ちあふれる一日。
 幸せと、喜び。
 幸せと……。
「……Merry Xmas」
 私はかすれた声でそう呟く。子供はうなずいた。
「Merry Xmas!」
 本当に綺麗な子だ。きっと心の中も綺麗なのにちがいない。まだ、鳥の足跡すらもついていない、積もったばかりの雪のように。
 ──この子は誰だろう。
 今さらながら、私は疑問に思う。
 私はひとりでこの家に暮らす年老いた男だ。息子と孫がいるが、別々に暮らしている。クリスマスにすら帰ってこない親不孝者だ。たったひとり、私のそばにいてくれた妻はすでに亡い。もしやこの子は私の孫だろうか。寝てる間に息子が帰ってきて……いや、そんなはずはないか。あの子は黒髪と、黒目のはずだ。
 では、この子は?
 いや、そんなことはどうでもいいか。この子が誰だろうと関係ない。
 もう、なにもかもが関係ない。なぜなら、私はもう……。
「聖なる夜に死ねるなんて、私は幸せ者だな。しかも、ひとりではない」
 私は節くれだった手を子供に伸ばす。
「君がだれかは知らないが、ありがとう」
 子供はほほえむ。
 そして枕元の床にひざまずき、私の手をその小さなてのひらで包んだ。
 あたたかい、手だ。
「ああ、そうか」
 私は笑った。視界が不意にぼやける。涙が頬を伝った。
 わかったのだ。この子がいったいだれなのか。
「君は、私を迎えにきたんだね……」
 子供が私の手を引く。
「神様も粋なことをしてくれる。私のような救いようのない人間にも、慈悲を、迎えをおくってくださるとは」
 白い霜にふちどられた硝子の外には、
 雪が、降っていた……。



『頑固じじい! さっさと死んじまえ!』
『おじいちゃん、どうしていつも怒った顔してるの? 僕のこと、きらい?』
『お義父さん、意地を張らないで一緒に暮らしましょう。お義母さんは亡くなったのよ』
『人を疑ってばっかで、自分しか信じていないのさ』
『あのおじいさんには困ったものねぇ。お夕飯の差しいれに行っても、いやあな顔して追いかえすのよ。邪魔だと言わんばかりのあの態度!』

『私のことは放っておいてくれないか? ひとりでいるのが好きなんだよ』

 よみがってくるのは、生きていたときの記憶。
 近所の子供や孫、息子夫婦、隣家の婦人、かつて少しでも関わりを持った人びとの言葉。そのどれもが苛立ちと戸惑い、冷たさに満ちている。
 私は人嫌いだった。他人と関わることが面倒で、うっとうしく、誰も彼もを突き放し、遠ざけていた。いつからそうだったのか、気づいた時には「頑固じじい」と呼ばれていた。
 だが、それでよかった。ひとりでいる時間が増えたのだから。
 だからといって、ひとりきりの人生を謳歌したわけでもない。我ながらつまらない人生だったと思う。生き甲斐もなく、ただ死なないから生きているようなものだった。
 やっと死んだのか。
 わずらわしかったなにもかもが、やっと幕を閉じたのか。
 やれやれ。
 私を知る連中はだれもが棺桶にしがみついて笑い転げるだろうな。おめでとう。
 きっと誰も、私の死を悲しまない。
 誰ひとり。
 ……まあ、どうでもいいがね。

 ──え?

 ――ええ? ええええ!?

「ちょっと待ったぁぁ──!!?」

「うわわ! あ、暴れないで、おじいさん!」
 感傷にひたっていた私は、ふと目を開けた次の瞬間、絶叫していた。
 途端、私の隣から悲鳴じみた子供の声が聞こえてくる。
 暴れないで、だと!? それは無理な相談というものだ。なにをどうしたら、この状況で冷静でいられるというのだ。
 仰ぎ見れば、目の前には分厚い雲。
 顔を下に向ければ、はるか眼下に星屑のようにきらめく家々の灯火。
 おわかりだろうか。私は今、空を飛んでいた。
「手! 手だけは離さないでね、落っこっちゃうから!」
 私の手を引き、もっと上へもっと上へと飛んでいこうとしている子供は、困りきった様子で声を張りあげた。だが、私の方がずっと困っている! なぜ、寝台に横たわっていたのが、いきなり空に浮いていなければならないのだ!
 そりゃ、たしかに私は死んだ。だから空に浮いている、というのも理解できなくもない。だが、もっとふわふわしたものを想像していた。浮遊感というか、一条の光の中を天に向かって飛んでいくというか……ともかく、愛らしい天使たちがラッパを吹いている、例のあれだ! あんな展開を想像していたのだ!
 今の状況は、そんなものとはまるきり、かけ離れている。
 私は浮いていない。重力が私を下に引っ張っている。
 子供の手がなければ、私は落ちて、地面に叩きつけられ、体がつぶれ……。
「っぐぁあああ────!!」
「わー! 暴れないでってばー!」
「無理だ、ばかもんがー!」
 そう反論した瞬間、私ははたと我にかえった。待てよ? そういえば、私はもう死んでいるんじゃなかったか?
 そ、そそそ、そうだ。私はすでに死んでいるのだ。いったい、なにをおびえる必要があるというのだろう。まったく、大人げない。そうとも、怖くない。ちっとも怖くなんかないぞ。ははは、そうさ、死んでいるのだからな! 怖くなんかあるものか! は、ははははは!
「お、おじいさん、もう着くよ」
 やっと暴れるのをやめた私を、子供がほっとした様子で振りかえってきた。
 私は表情を改め、静かにうなずいた。


 まぶしい光が目を焼く。
 固く閉じていた目をゆっくり開くと、そこは雲の上だった。
「ここは……」
 予想していなかった光景に、私は唖然とした。
 てっきりこのまま天国へ向かうと思っていたのだ。図々しくも天国に行くだろうと思っていた。いや、もしかしたらここが天国なのかもしれないが、想像とはずいぶん違う。
 ここは天国というよりも、むしろ北国の雪原地帯だ。
 雲で出来た地面はどこまでも続き、まるでそれは雪野原。空は見たこともないほど青く澄みわたり、白い太陽が鋭く輝いている。雪と違って、雲は光を浴びても銀色に反射しない。そのことだけが、ここが雲の上であるということを実感させた。
 少し先に木造の小屋が建っているのが見える。目につくものといえばそれぐらいなものだ。まさかあんな小屋で、神の裁きが待っていたりするわけか?
 埒もなく考えこんでいるあいだに、子供はさっさと小屋へと向かう。その足取りは羽根でも生えたかのように軽やかだ。
 私は不可解なものを感じつつ、子供についていった。そうする以外になかったからだが。
 小屋の前まで来ると、遠目では見えなかったものが目に入ってきた。小屋には人の住んでいる気配、あるいは住んでいた気配があった。とてもじゃないが、裁きの場には見えない。赤い屋根、小さな窓、緑色の郵便受け、ドアには金と銀の大きなベル。雲の上にもクリスマスがあるのだろうか、窓にはリース、小屋の前にはツリーが飾られている。
「ここはいったい誰の家だね?」
 不審感たっぷりに問うと、子供が無邪気な笑い声をあげた。
「ここはね、サンタクロースの家だよ!」
 ――は?
「……サンタクロース?」
 私は驚きのあまり、目を丸くした。
 今は露とも信じていないが、少なくとも子供のころは信じていたサンタクロース。一度は訪れてみたかったサンタの家。
 ここが、あの……。
「サンタの家、だと?」
 私は一瞬だけわきあがった感嘆を、剣呑な言葉で打ち消して、疑いの眼差しを小屋に向けた。ふん。なにがサンタクロースだ。あんなもん、ただの不法侵入者だ。夢と希望を運ぶ? 忌々しいにもほどがある!
 しかし「からかうのはよせ」とばかりに見下ろした子供の顔は真剣そのものだった。子供は黙りこんだ私を、不思議そうに見上げてきた。
 その澄みきった瞳。
 私の疑いにくすんだ目をまっすぐ見つめる、無垢な瞳。
 どうもこの子供の瞳には不思議な力があるようだ。死ぬ間際、「メリークリスマス」などと虚しい戯言を言えたのも、聖なる夜に死ぬ己を「幸せ者だ」などと抜かせたのも、この子供の美しい瞳があったからこそだ。
 もう何十年も人の言うことなど信じていない。
 だというのに、この子供の言うことなら信じてやってもいいかもしれない、と、私はらしくもなくそんなことを思った。
「そ、そう、それにここは雲の上。なにがあってもおかしくはなかろう。信じてみても損はあるまい。それに……多少ばかりは、いや、小指の先っぽ程度には、興味もないわけではないし、な」
 いや、サンタクロースの家に興味があるのではない。「夢と希望を運ぶのが仕事」と豪語するサンタクロースが、実際にはどんなに腹黒く、いやらしい奴か、ちょっと興味があるだけだ。
「ふん、これがサンタの家というわけか! ご立派なもんだ」
 私はことさらに声を大きくして文句を垂れながら、しかし浮きたつ気持ちをいまいち隠しきれぬまま、窓の中をひょいっと覗いた。
 だが、次の子供の台詞が、私を硬直させた。
 子供は笑って言った。
「そう、これがおじいさんの家だよ!」
 ああそう、私の家、そりゃ結構なことだな。
 私の……。

 ……なに?

「ようこそ、新サンタクロース!」


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