猫と待ちあわせ

「よう、待たせたな」
 時計屋の軒先で、所在なく佇んでいたミィルは、少し斜に構えた口調で呼びかけられて、はっとした。
 慌てて振りかえると、赤い石畳に姿勢良く座した、一匹の黒猫がいた。
「クロ……」
「その単純な名前で呼ぶなよ!」
 黒猫は尻尾をぴんっと立たせて、落ち着かなげに顔を前肢でぬぐった。
「車の野郎が、水たまりを轢いたんだ。泥水、よけそこなって、頭からかぶっちまった。それで身繕いしてたら、”待ちあわせ”してたことも忘れちゃって……なかなか泥が落ちなくてさあ」
「クロはお洒落さんだもんね」
「だから、その名前はやめろ!」
 じゃあ何て名前なのかと問えば、適当に呼べ、と矛盾したことを言う黒猫は、ウィンドウに所狭しと飾られた商品の時計を見上げた。仰け反らせた首の線がとても綺麗で、ミィルはほうっと見惚れる。
「せっかく時計の見方を教わったのになあ。惜しいなあ、初めての“待ちあわせ”だったのに」
 黒猫はちっちっと動く針を追って、首をちっちっと横に倒してゆく。首が回らないところまで来ると、うっとうしそうに頭を振った。
「でも、時計の見方は分かったけど、やっぱり”待ち合わせ”って不思議だ。猫は“待ちあわせ”はしない。時計持ってないし、そもそも“待ちあわせ”の時間に、“待ちあわせ”の場所に行きたいと思うかどうか分からねぇもん。……なあ、怒る?」
「怒るって……待ちあわせの時間に遅れたことを? ううん」
 ミィルは背の後ろで両手の指を絡ませ、足元の石をちょんと蹴った。
「怒らないよ」
 待ちあわせの時間から三時間も経っていたけれど、ミィルに黒猫を怒る気はなかった。いつも家族や同級生や先生に怒られて、怒られる悲しさを知っているからだ。
 人間の世界ではちょっとの遅れが人を苛立たせる。だからミィルは、周りの人たちを怒らせてばかりいる。ミィルの体内時計は、時計屋に置いてあるどの時計よりもゆっくりなのだ。
 誰もが体の中に自分だけの時計を持っていて、それはひとつひとつ、針の進む速さが違っている。それでは困るというので、人間は歯車と螺子でできた時計を発明した。体の外に揃いの時計を持つことで、みんなが同じ時を共有できるようになったけれど、ミィルの体内時計はあまりに遅すぎて、どんなに懸命に走っても、揃いの時計についてゆけない。みんなは何の苦もなくついてゆけるというのに。
 だからきっと、「のろまのミィル」と言われてしまうのだろう。


 時計が十二時を指した一月前の夜、時計屋の前で泣いていたミィルに「これは何だ?」と聞いてきたのは、夜遅くまで好き勝手に遊びまわっていた黒猫だった。
 動く針を前肢で追いかけてはウィンドウに邪魔されて、がっくり頭を垂れる黒猫に、体内時計と、みんな揃いの時計の話を教えると、黒猫は「せっかく違う時計を持ってるのに、なんで同じにしちゃうんだ?」と頭の上にはてなを浮かべた。黒猫は、誰も持っていない不揃いの色をした両眼を、毎日自慢に思っていたのだ。
 答えはミィルにも分からなくて、分からない自分は人間よりも猫に近いのかもしれないと思った。そうしたら少し元気になり、ミィルは黒猫に「わたしの時計は、人よりのんびりなの」と明かしてみた。
 黒猫はご飯を目にしたときと同じぐらい、きらきらと眼を輝かせた。
「お前の時計は、他のとは違うんだな。いいな、素敵だな、見てみたいなあ!」


「怒らないよ」
 もう一度言って、ミィルは黒猫の反応を伺う。
「だって……私の時計だと、今が待ちあわせの時間ぴったりなんだもの」
 おずおずと微笑むと、黒猫は「おれも!」と奇遇を笑った。
「ここに来る途中、遅いって怒ってる女を見たんだ。男が頭をぺこぺこさせて、薔薇の花束を買ってたぜ」
「そうなんだ」
「なあ、次の“待ちあわせ”には、ミィル、お前遅れてきたらいいよ。おれも贈り物がほしいんだ!」
「……うーんと」
 ちょっとばかり横にずれた解釈を笑って、ミィルは「うん」とうなずいた。
 黒猫は「食いもんな」と念を押し、ふと顎で時計屋の脇に伸びる坂を示した。
「じゃ、そんなわけで、そろそろ会議行こうぜ」
 さらりとした言葉に、ミィルはどきりとした。
「う、う」
「おいおい。お前、こんなんでビビッてたら、猫になんかなれねぇぜ」
「う、うう、う」
「それ、人間の困ったときの鳴き声か?」
 黒猫は飄々と髭をそよがせ、顔面を蒼白にするミィルの足元に寄った。
 片方は汚れた靴下で、片方は革靴を履いている。黒猫の眼みたいにちぐはぐな二本足を、黒猫は羨ましそうに頬ずりした。
「安心しなよ。おれはここらの界隈じゃ顔がきくんだ。このクロ様が一緒なら、みんなもミィルを猫として認めてくれるだろうさ」
「……クロって呼ばないでって言ったのに」
「今は、クロって呼ばれてもいい気がしたんだよ。あと十秒くらいならな!」
 黒猫は時計の秒針を得意げに読んで、足の周りで八の字を書くと、最後に尻尾の先っぽで膝小僧を撫でて、愛らしい声で鳴いてみせた。
「さ、勇気を出せって。素敵な時計を持った、二本足のお嬢さん」
 坂を軽やかに駆け登ってゆく黒猫に、ミィルは「待って」と手を伸ばした。黒猫はずいぶん登ってから、ようやくぽっとついた街灯の下で振りかえった。けれどそれもつかの間、すぐに上空を飛び去る鳥に気をとられ、会議とは関係ないはずの路地に突進していってしまった。
 待ってと言って、待ってはくれない。
 人間は「のろまのミィル」と嗤い、片方だけ靴を奪っていった。猫は端から待つことを知らない。
 待ってくれないのは同じ。――けれど、意味がまるで違う。
「大丈夫」
 ミィルは両手の拳を握りしめ、すーはーと深呼吸をした。
「大丈夫」
 背にしたウィンドウの奥から、急きたてるように時計の音が聞こえてくる。
「大丈夫」
 ミィルは胸に手を置き、ひときわ大きく息を吸って、吐いた。
 決めたのだ。揃いの時計が支配する世界を飛び出して、自分の時計を信じて生きてゆくと。人とは違う自分が「素敵」でいられる世界が、すぐ足元にあると知ったから。
 勇気を出して。勇気を出して。ほんの一歩分の、勇気でいいの。
「大丈夫」
 ミィルは、一歩、前に踏み出した。二歩目で、時計屋の軒が落とす影の外に出る。
 三歩目は右手だった。四歩目は左手だった。
 気づいたらミィルは小さな猫になり、四本足を自由に駆って、踊るような足取りで黒猫を追っていた。



おわり

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