TIME LIMIT~嗚呼、愛ゆえに~

09

「……ああぁー……、テスだぁ……」
 慌てて舵台に登ると、舵輪の側にキャベツ色の髪の少年がぽへぇと座り込んでいた。半開きの目を笑みで更に細め、手にしていた何かの本を、足元にドサッと落とす。
「カティール。操舵のマニュアル、読んだ?」
 後ろからキャエズがテスを追いこし、少年に近づく。
 少年の名はカティール。キャエズの親友で、確か方角見をやっているはずだが、この通り始終ぼーっとしているため、まともに仕事をしているところを見たことがない。
 カティールは「えへへー……」と笑って、キャエズを見上げた。
「もぉ、すっごい読んだよぉー……。この本は、舵の扱いのノウハウを書き記した本である、ってとこまで……。すごいぃ……?」
「ひょえー!」
 絶望でか、キャエズは頬を両手で包んで、後ろにそっくり返った。
「ま、まぁ、初めっから期待はしてなかったさ。でも、ちょびっっとは期待してたんだ。一応腐ってても舵手を補佐する方角見なわけだし、能あるタカは爪を隠すって言うし……」
「あははは……。世界も終わりかなぁ……、ぼくに期待するなんてぇ……」
 ガックリと肩を落とすキャエズに、テスはかける言葉もなく立ち尽くす。そんなテスを傷心のキャエズが、どよ~んと振り返った。
「……テス。まかせた」
「ちょ、ちょっと待った!」
「何」
「何って……、お、おれは船鐘係だよ!? 方角見ならともかく、舵なんて取れる訳ないじゃん! そ、そーだよ。おれでなくって、舵手をたたき起こせばいーじゃんか!」
 テスはかなり混乱した様子で両手を振り回し、後ずさる。そんなテスを、やけに暗い顔のキャエズが目で追ってきた。
「……ウンコもどきが降ってきて、何人かは気絶したけど、当然気絶しない連中の方が多かったんだ。けど、怒り狂ったメルがいきなり睡眠ガス爆弾打ってさ。みんなあの通り……。オレとカティールは泥降ってきた時に、樽ん中隠れてたからガス吸わないですんだんだけど……」
 モタモタ落とした本を拾い、再び読みはじめようとするカティールにどんよりと視線を戻し、キャエズは悟ったため息を落とした。
「みんな、どんなに揺すっても起きなくって……。気絶してたせいで、ガス大して吸わなかったんだか何なんだか、目を覚ましたのテスだけだったんだ……」
 でなきゃ誰がテスみたいな天然に頼るかと小声で愚痴る声は、幸いテスの耳には届かない。
 テスは呆然と甲板を見下ろす。自分たち以外に、目を開けて、しかもちゃんと黒目の者は船上には存在しない。皆、後は棺桶が届くのを待つだけだとばかりに、死体よろしく横たわっている。
 舵手はいない。帆手もいない。船はつまり、暴走している。
「ヤ、ヤバいじゃん。それって……」
 テスの頭の中で、大きな鐘がゴォーンと鳴った。
「おおお、カラよ。おれ、まだ死にたくないぃ!」
 彼の脳裏を、今日繰り広げられるはずだったデートの光景(妄想)が、大パノラマでドラマチックに演出されて、流れていった。
 ──ユキ、待った……?
 ──ううん、今来たとこ。
 ──良かった。……ユキ、寒くないかい? 側へおいでよ。(タネキアは熱帯です)
 ──うん。ふふ、テス、暖かい……。
 ──それはユキへの、愛の熱だよ……。
 ──テス……。
 ──ユキ……。
「ユキぃぃぃぃ!」
「ぐわぁ! はなせ……! カ、カティ……!」
 倒錯したテスに抱きつかれた哀れキャエズはジタバタもがいて、助けを求め親友に視線を送り……本を持ったまますやすや寝こけていらっしゃる姿を見つけ、泣いた。
「ハ……ッ」
「……っはうゃ!」
 唐突にテスは立ち上がり、キャエズを我知らず放り投げた。ゴン、と物凄い音がして、それきりキャエズは沈黙したが、テスは気にしない。
「ま、待てよ? この船は言うなれば無人状態。て、ことは」
 この船は──。
「自由自在……?」
 自由自在。
 それは即ち、御自由にどうぞ。
 更に言い換えるならば、
「──どうぞ、御自由に船を操って……」
 テスはパンッと音を立てて、両指を絡める。
「ユキちゃんの元へ、お戻りなさ──い!」
 いきなり出現した希望の光に、テスは邪悪に微笑んで、勢い良く舵輪に走った。
「うあっはっはっはぁっ! この船は、おれ様が乗っ取った──!」
 なんて幸運だろう。不幸中の幸いという言葉がこれほどぴったりな瞬間は、そうそうないだろう。
 今朝から今にかけて、色々な事があった。
 地獄船の船長への下克上。
 地獄の番人たちを屈伏。
 林檎大王との攻防。
 行き倒れの老人を助ける。
 副船長に言い寄られる。
 竜を召喚。
 たった一人で、悪魔の巣窟へと立ち向かう。
 ──全ては愛しいユキに逢うため。
 そして今、とうとう船を手に入れた。
 とうとう、ユキの元に戻れるのだ。
「ユキ。待っていてくれ」
 テスは声に決心を滲ませた。
 今君の元へ行く。愛のゴンドラに乗って。
「ゆくぞ、テス」
 テスは舵輪をしっかと握りしめた。
「いざ、愛の航路へ!」
 天が轟き、海が裂ける。
 テスはぬおおおっと舵輪から手をひっぺがし、頭を抱えて、後ろに反り返った。
「だから、おれは舵がとれないんだってばー!」
 所詮はテスだった。
「……しくしくしく」
 テスは膝を抱えて、どんよりと涙に暮れた。
「お、おれって、もしかして、バカ?」
 今更気づくあたりが、もはや馬鹿だ。
「……」
 待ち合わせ時間は、今日の五時。
(今、何時だ?)
 乱闘していた頃は、確かまだ日は高かった。十二時かそこらだったはず。それならまだ間に合う。ぎりぎりで間に合う。
 テスは弱々しく、頭上を見上げた。
「────」
 薄い色の青空。輝く太陽。船鐘係の確かな目で測ったその高さは──。
「……三時」
 テスは唇を噛みしめて、息を詰まらせる。今の時間、推測三時。
 間に合わない。
 絶望的なまでに、間に合わない。
「そんな!」
 絶望がテスの中にくすぶりはじめる。無理だ。間に合わない。
 せっかくユキが、デートに誘ってくれたのに。
 間に合わない。
 少し日差しを緩めた太陽が、テスのうなだれたうなじに降り注ぐ。空気はこんなに温かいのに、心の中はどんどん冷えてゆく。
 きっとユキは怒るだろう。どうして間に合わなかったのかと。今まで一度も遅刻したことなどなかったのに、どうしてよりによって、ユキが誘った時に遅れるのかと。
 きっと怒る。怒って、そして──。
「……!」
 テスはハッと顔を上げた。
 そう、きっとユキは怒る。けど、きっと同時に──悲しむ!
(悲しむ!? 駄目だ! 悲しませるなんて、駄目だ! 絶対にそれだけは出来ない!)
 ユキが泣く姿を想像するのは、胸が張り裂けそうにつらかった。
 テスは拳を握りしめる。
「……絶対、帰るぞ……」
 テスは固い拳を、パンッと口元に当てた。
「絶対帰ってみせる!」
 テスはそう胸に誓い、ない脳みそを振り絞って賢明に考えた。
 今この船は、帰るどころか、沈むかもしれない窮地に立たされている。舵手がいない。自分は舵を操れない。
 今自分に出来ることは何だろか? 自分に出来ることは……。
「……っ」
 テスはきっと顔を上げ、駆け出した。
 倒れる船員たちの間を、上手く走り抜ける。
 今も何も、自分に出来ることなど初めから一つきりだ。自分は航海術については、からっきしの無能者。しかし誰にも負けないものを持っている。
 それはすなわち、誰よりもやかましく船鐘を鳴らせることだ。
「とりゃ……!」
 テスは自分の半身とも言える船鐘の元へ辿り着くと、まるで待ちかねていた様に真っ直ぐ垂れ下がった紐を引っ掴んだ。
 そして力いっぱいに、紐を振るった。

 カンカンカンカン……! !

「起きろぉぉぉ!」
 船中と言わず、だだっ広い海にけたたましく鐘の音が響き渡った。
「朝だぁぁぁっ! 嘘だけど朝だぞォォォ!」
 ピタッ!

 テスは鐘を鳴らすのも、叫ぶのもやめて、肩で息をしつつ甲板を見た。
 グゥー、グゥー……。
「……ああ! 寝息!」
 テスは、静まり返った甲板を無力に眺めた。
「ユ、ユキ……」
 テスは愛しい彼女の姿を思い浮かべ、船鐘の綱を握りしめる。
 ──テス、待ってるから。

 必ず、来てね。テス!

「ウ……オォォオオ……!」
 テスは悲鳴に近い声で吠えた。
 もうユキの声しか聞こえない。何がなんでも時間通りに帰ってみせると、自分の中の自分が叫んでいる。
(ユキ! 必ず行くよ!)
 テスは船鐘を支える船鐘台から、鐘だけを取り外し、甲板を一直線に駆け抜けた。
「オレはしがない船鐘係! おれに出来るのは、どんなに吠えたって所詮鐘を打つことだけ! けど!」
 テスは鐘をブンと抱え上げる。そして辿り着いた先、そこに眠る変人科学者メルの頭めがけ、
「こんな利用法もあるんじゃい!」
 容赦なく打ち下ろした。
 ゴン!
 しーん……。
 長い静寂が、鐘の虚しい余韻だけを響かせて、船上を支配する。
 メルのダラダラと血の垂れる頭が、微かに揺れた。
「……い」
 メルが呻く。
「痛いわぁああああぁ ! ?」
「はう!」
 ついでに、飛び起きざまにテスをぶん殴った。
「何すんのよ! 痛いじゃないの!」
 もはや痛いで済むのか? という勢いで、頭から血を吹き出しつつ怒り狂うメルを見て、テスは自分のしたことをちょっと後悔した。
「メ、メル博士……。血、血が、活火山状態……」
「は?」
 メルはテスの言うことに険悪に目を細めてから、「ああ」と思い出した様に手を打った。
「これは血じゃないわ。血糊よ」
 言いながらメルは血の吹き出す頭に手をやって、何やらペチャンコに潰れた袋をペリっと剥がした。
「実験も兼ねて頭にくっつけてたのよー」
 な、何の実験ですか、メル博士。テスは心の中で質問しつつ、とりあえず血、いや血糊のついた船鐘を背後に隠した。
「で? 何? 何なの? 何の用? ……あらー、みんな健やかに眠ってるわー」
「す、健やかって……」
 甲板を見渡しピンクの目をまん丸にして言うのを、テスは妙に敗北感を覚えつつ見やった。
(って、それどころではない!)
 テスはキッとメルを睨み据える。
 舵手がいない。舵手がいなければ、自分はタネキアに帰れない。今こんな舵手がいなくてどうしようっていう状況は、メルの無差別睡眠ガスのせいなのだ。皆は眠っているが、いくら何でもガスを放ったメル本人は、ガスマスクくらい付けていただろうと踏んだのだが、叩いただけ(?)で目を覚ました辺り、どうやら推測は合っていたらしい。じゃあどうして皆と一緒に倒れていたかというと、
「あ、そっか。あたしってばウン○で足滑らせて、床に頭打って気を失ってたのね」
 そういう事らしい。
「良く血糊が無事だったものねー! あっはっは!」
 テスは泣きそうになりながら、チラリと空を見やる。
 時間がない。
 早くしないと、間に合わなくなってしまう。
「メ、メメ……メメメ……メメ……」
「……いやだ。死に際の羊?」
「メル博士ー!」
 テスはガシッとメルの頭を引っ掴んで、無理やり舵台の方に頭を向けさせた。
「いて! この野郎、あんた後であたしの実験室に来なさいよね。その空っぽな頭に、あんたの大好きな船鐘埋め込んで、全自動鐘付き機に……──ややや?」
 メルの目がようやく誰もいない舵台に向けられる。
「見通しの良い眺め」
「博士! 何か解毒剤ないの!? 皆の目覚まさせなきゃ! 早く誰かが舵をとんないと!」
 切羽つまりきった声を張り上げて、メルの顔をグラグラ揺すると、メルはテスを思いっきりはっ倒してから、腰に手を当ててニッと笑った。
「んなもの、ない!」
「──!?」
「解毒剤なんて作ってどーすんのよ。武器ってのは、つけ入る隙が豆腐に針で穴開けた程度にもあってはいけないのよ!」
 メルは満足そうに言い切って、ふんぞり返って高笑った。
「そんな──!」
 うちひしがれポカンと座り込むテスの顔を覗き込んで、メルは不敵に笑った。
「安心しなって」
 え、と虚ろに見上げるテスに、メルは何というか耳栓としか思えない物体を放って投げてきた。
 首を傾げるテスの前で、メルはピンクの白衣の内ポケットから色眼鏡を取り出し、くいっと掛けてみせた。瞬間メルの雰囲気がガラリと一変した。普段から変人だが、色眼鏡を掛ける事で彼女は、
「ふ……ふふふ……ふははははは……!」
 超変人になるのである。
 メルは何故か嵐の中、飛沫を上げる高波を背景に、不気味な笑い声を上げた。
「船上大帝国バクスクラッシャーの支配者、天才科学者メルファーティーに、不可能の文字は一字一句ない……!」
 メルは丸眼鏡を光らせた。
 期待と不安と気味悪さで複雑な顔をしたテスの横で、メルはどこからともなく、また変な物を取り出した。それは楽器でいう所のピアノに良く似ていた。というより、黒白の鍵盤がピアノと同じ配列でずらりと並ぶ様は、ピアノそのものだ。奇妙なのは、本体を支えるための四本脚がなく、その代わり肩から下げられるように両端から太い革紐が伸びていることだ。ついでに用途不明な筒があちこちから何本も生えている。
「聞こえているか、世界にはびこる悪しき汚れた者たちよ!」
 メルは傲慢な口調で声を張り上げた。と同時に、肩から下げたピアノもどきの鍵盤に十本の指全てを乗せた。テスには鍵盤が何か恐ろしい爆弾のスイッチに見えてならなかった。
「さあ、心安らぐ恐怖の子守歌、メル様万歳大空讃歌第九、心して聞くが良い!」
 恐ろしくも凄まじい最悪な予感が走る。
 テスはとっさに、耳栓を耳にねじり込んだ。

 ジャジャジャーン!
 例の用途不明な筒から、強烈な音波が飛び出した。

「……っぎゃああぁぁあぁぁあああああ!?」
 耳栓をしたテスの鼓膜に、凄まじい絶叫が微かに入りこんでくる。
「ふははははは! 眠れ、眠るが良い! 子守歌にうちひしがれて、愛憎の子らよ……!」
 ジャジャジャーン!
 メルが鍵盤を叩くたびに、空気がしびれクラゲにでも刺されたようにビリビリと震える。メル特製超強力耳栓をしているのでテスには分からないが、今、筒からはガラスを爪で引っかいた時の数十倍は不愉快な音が、放出されていた。
「うぎゃあああぁぁぁぁああああ!」
「ぎええぇえええええぇええええ!」
 獣じみた悲鳴がみるみるうちに増えてゆく。テスは唖然として甲板に視線をやった。
 甲板の上では、眠っていた船員たちが次々に目を見開いて、海老反りになって躍りはじめるという、世にも恐ろしい光景が繰り広げられていた。
「ああ、美しい……! 血を流し争っていた者たちが、皆一様に協力しあって躍る姿、なんて感動的なのだろう……! 珊瑚の産卵には劣るけど、美しいわ……! ──ちなみに自然保護のため、植物と人間以外の動物どもには聞こえない仕組みになっている」
「……か、感動的?」
 テスが聞き返すのを無視して、メルは陶酔のあまりに鍵盤から指を離し、涙の溢れる目を眼鏡ごと両手で覆った。
「……?」
 と、テスは不意に顔を上げた。何やら急に日が陰った気がした。
 ゆっくりと背後を振り返ったテスは、そこに見つけた光景に声のない悲鳴を上げた。
 背後には、血走った目を爛々と輝かせ、物騒な物を手にした船員たちが立っていた。泥を被ったその姿は、さながらゾンビ。恐怖に凍りついたテスの頭を通り越し、ゾンビの視線はひたっとメルに向けられていた。
「お、おかしい。何故起きているのだ、あんなに美しい子守歌を聞いておきながら、無礼者どもめ! 恥を知れ……!」
 この後に及んでもなお高慢なメルの声に、船員たちがゆらりと動いた。
 テスは声もなく後ずさる。
「良い歌、ありがとよ……」
 船員の一人が、ぼそりと呟いた。
 その言葉を皮切りに、船員たちが一斉にカトラスやら鉄球やら、思い思いの武器を振り上げた。

「今度はてめぇが、眠りやがれぇぇええ……!!」

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