TIME LIMIT~嗚呼、愛ゆえに~

10

PM15:10

 バックロー号は、奇妙な静寂で満たされた。
 乱闘が起きていたときの騒々しさは、もはや夢の彼方だ。誰もが皆、暗く険悪な顔をして、気分が悪そうに甲板をよろよろと彷徨っている。
 テスは血糊を撒き散らして倒れてているメルを呆然と見下ろし、まだ耳に詰めていたままだった耳栓を、きゅぽんと外して捨てた。
「助かった、テス……」
 すごいものを見てしまった衝撃で、まだ呆然としているテスの背後から、ホーバーが声をかけてきた。
 振り返って見たホーバーの顔は、ひどく複雑な表情を浮かべていた。
 この妙な事態の根本の原因はテスなのだから、当たり前の表情だろう。
テスも何だか妙に複雑な気分で、はは……と笑った。メルを起こしたのも実はオレです、と心の中で告白しつつ。
「大丈夫か? ラギル」
 見晴らし台からよろよろと降りてくる船長ラギルニットを見つけると、ホーバーはそちらへと向き直った。
 ラギルはふらふらする頭を押えながら、ホーバーの隣に降り立った。
「大丈夫……。ふつかよいってこんな感じ?」
「あー、ふらつく感じは、千鳥足に似てるかもな……」
 ホーバーは、小声のラギルニットと同じく小声で答え、やれやれと深い深い溜め息を落とした。
「……さて、トゥーダ大陸に向かうか」
 他の船員たちもまた、暗い表情のままぼちぼちと作業に戻り始めた。
 メルの死体(仮)が片付けられ、茶色い泥もすぐさま水夫によって処理される。
 テスはまだそれをぼんやりと見ていた。

 ──とぅーだ?

 テスが正気に返ったのは、方角見たちが現在位置を確認するため、空や波をチェックし出した頃だった。
 ──トゥーダ大陸へ向かうか。
 頭の中で繰り返される、先ほどの船員たちの言葉。
 テスにとって、それは想像していなかった言葉だった。
「……とぅーだ」
 間の抜けた声が漏れる。
 トゥーダ大陸へ向かう?

 タネキア大陸じゃなくて?

 テスはそこでやっと、自分が全く船を助けた後のことを考えていなかったことに気がついた。
「……っうぁあああああ!?」
 開いた口から絶叫がほとばしる。作業に戻り始めていた船員たちが、いちいち五月蝿いテスを、表情の見られない目線でチラリと振り返った。
 自分は船を沈没の危機から救った。船員たちを起こすことによって。
 そうしなければ、自分も沈んでしまいかねなかったし、それに船がなければタネキア大陸に戻れないと思ったからで──。
 だが考えてみれば、船員たちが起きてしまったという事は……。
「なんて、バカなことしちゃったんだろう!」
 そう、船員たちが起きてしまったということは、タネキア大陸にはもう戻れないということではないか。
 何故メルを起こしたときに、そのことに気がつかなかったのだろう。せめて舵手だけを起こしてもらえば、脅すなりなんなりして進路を変更させることだってできたのに。
「……違う」
 そこまで思って、テスは愕然とした。
 違う。進路はどちらにしろ、変更出来なかった。
 船は舵手だけで動くのではない、風を捕まえる帆を操るために複数の船員たちが必要なのだ。
「……」
 テスは真っ青な空を見上げた。
 そこには、今から再び何か計画をたてて実行するには、あまりに絶望的な位置にある太陽の姿があった。
 ──自分のミスだ。
 船乗っ取り作戦が半ば順調に行きかけていた。それなのに調子に乗って、乗っ取りの協力者を失くしたのもテスのミスだ。
 テスは興奮で赤くなっていた顔を青ざめさせ、悄然と足元に視線を落とした。
 自分のせいだ。
 自分のせいでしかなかった。
 やはり自分は、鐘を打つしか能のない、無能な船員だったんだ。
 自分など、なにをしても上手く出来ないんだ。
『……朝、話聞いてなかったな?』
 そうだ。そもそも、そもそも朝の会議の内容をきちんと聞いてさえいれば、こんなことになどなりはしなかったのに。
 初めから最後まで、全部テスの愚かなミスだったのだ。

「おれ、戻れないんだ……」
 小さな声でテスは呟く。
「ユキの元に戻れない……」
 ユキの笑顔が胸をよぎった。
 待っていると言ってくれたユキ。
 初めてデートに誘ってくれたユキ。
 そのユキを、他でもない恋人であるテスが悲しませてしまうのだ。
「……う」
 切なくて、悔しくて、自分が情けなくて、涙が溢れそうになる。
 テスは甲板に膝を折って座り、顔をくしゃりと歪めた。熱い涙がこみ上げてきた。
 だが、

 泣くな、テス。男でしょ!

 ユキの声が耳に響いた。
 こみ上げていた物が、波が引く様に消えてゆくのを感じた。
「テス」
 不意に肩をポンと叩かれた。振り返ると、バクスクラッシャーの船員たちが笑顔を浮かべて、こちらを見ていた。
「行けよ……」
 肩を叩いたセインが不気味にも微笑んで、くいっと親指で海を示した。それはタネキアへ続く海。
「俺のやった煙草、餞別がわりだ」
「セイン……」
 呆然と見ていると、他の船員たちが次々にテスの肩を叩いて言った。
「待ってるんだろ? 愛しのユキ嬢が」
 ダラ金が、
「船鐘係がいないんじゃ、夜と朝の区別もつかなくなるが、ま、大したことじゃない」
 ワッセルが、
「お前の根性には負けたよ。行ってきな」
 ホーバーが、
「行くっちょ。女児のために命賭けるなんて、最高の男の生き方っちょよ!」
 カヴァスじいが、
「フン。おいしい林檎をくわせてやんな」
 リズが、
「がんばれ、エロエロタコタコ怪人!」
「がんばってね、テス」
 双子が、
「ファ、ファイトです……」
「怪我に気を付けてね」
「ああ、綺麗です、フィーラロム……」
「合言葉は、よ……よぼよぼじゃ」
「ま、せいぜいがんばりや」
「がんばってくださーい。ははは……」
「……フ」
「今日はたっぷり人が殺せそうですねぇ」
「最高の風を嬢ちゃんに!」
「ああ、まだ顔も分からないマダモアゼル、俺が駆けつけ、一晩中口説いてやりたい」
「云々云々」
 フェルカが、フィーラロムが、クステルが、ラヴじいが、キャエズが、カティールが、レティクが、メイスーが、ルイスが、バザークが、……しちめんどくさいのでその他大勢が、次々に激励の言葉を投げてくる。
「み、みんな……っ」
 テスは感動のあまりに浮かんだ涙を、ぐっとこすって堪えた。
 悪魔の巣窟たちの思いがけない優しい言葉に、胸が熱くなる。
 希望という名の二文字が、頭の中にきらめいた。
「うん!ありがとう!おれ、ユキの元に行くよ!」
 テスは立ち上がった。皆が拍手をして見守ってくれた。

 ユキ、まっていてくれ。君の元にすぐに駆けつける。
 だってこんなにも皆が祝福してくれている。おれたちの愛を!

「……って、あれ?」
 テスはしかし、はたと気づいた。拍手はまだ鳴りやまない。
「……あのー、船鐘係がいないとって事は……、船を動かしてくれるわけじゃないの?」
 ピタ。
 恐ろしいほど的確に、拍手が鳴りやんだ。しかし皆の顔には、まだ友情の微笑みが張りついている。
「あ、あの」
 妙な予感を覚え、テスはじりじりと後ずさる。同時に皆がじりじりと迫ってくる。
 半歩下がれば半歩追いつき、三歩下がれば三歩近づき、二歩戻れば……やっぱり二歩近づく。
「……大丈夫だよ、テス。間に合うさ」
「で、でも、あの、ふ、船……」
「船? 船なんて必要ない」
 テスはあっという間に囲まれ、がしっと両腕を捕まえられた。
「かまえ!」
 船長ラギルニットの無邪気な声が、甲板に響きわたる。
「アイアイサー!」
「ちょ……!」
 猛烈に嫌な予感がして、腕を振りほどこうとするテスを、船員たちが一丸となってひょいっと抱え上げ、わっせわっせと縁の方に連れてゆく。
 やがて広大な海が眼下に広がった。
「ちょ……っと待った! ど、どーなるの……! おれ……え? 何なの?」
 皆の足が一斉に止まった。
「どうなる?」
 にこやかな声音。
 テスは自分を抱え上げている船員たちを見下ろし、恐怖に顔を引きつらせた。
 全員、福の神みたいな微笑みを浮かべていた。
「あ、あの……っ」
「どうなるって……」
 福の神の口許が、ニヤリと裂けた。
「こうなるんだあぁあ────!!」

 ひょい!

「……え?」
 船員たちは思い切り、テスを海へと放り投げた。

 ざぷーん!!

 巨大な水柱が立ちのぼった。
「……フ……フフ……フ」
 船員たちはテスの落ちた海を見下ろし、険悪に笑い合った。
「ざけんな、テスの腐れチンポめ……」
「お前のせいで順調な航海が、こんな有り様だ……」
「ざまあみろ」
 船員たちは狂った様に笑った。

「泳いでいきやがれ」

 というか、狂っていた。

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