TIME LIMIT~嗚呼、愛ゆえに~

04

AM10:00

「くそぉ、くそぉ! セインの嘘付き! ぬわぁぁにがスッテンコロリンだぁぁあ!」
 テスはズキズキ痛む背中に涙しつつ──ホーバーに容赦なく切り刻まれたのだ。といっても、しっかり鞘つきのカトラスである辺りがホーバーだが……──薄暗い部屋の中で一人わたわたと喚いていた。
 ここは甲板の船首側にある武器庫。暗く、火薬の臭いがする狭い武器庫のあちこちには、カトラスや大砲、それに大砲の玉などが丁寧にしまわれている。
 テスはぶちキレた副船長ホーバーと、面白半分暇つぶし半分な船長たちによって、ここに閉じこめられてしまったのだ。しかも大砲の砲台に括りつけられるというおまけつきで。
「何がおれの色気だ! くそぉぉ!」
 テスは泣き叫ぶ。しかしご丁寧にも猿ぐつわを噛まされているので、実際のところはもごもごとしか聞こえない。
(ああ、こうしている間にも、タネキアは遠ざかってゆく!)
「……くぅぅ!」
(誰か来い! 来ーやーがーれー!)
 かなり切実に心中で願いつつ、テスは必死にもがく。だが頑丈に縛られたものだ、縄はテスの非力ではビクともしなかった。
「……ぅう」
 思わず哀愁めいた溜息が漏れる。
(ユキちゃん。さっきから君の顔が、瞼裏にちらつくよ)
 ──のろまの亀さん。ついてらっしゃい!
 ──ユキちゃーん!
 ──うふふ。早く私をつかまえてぇ。
 ──待てよぉ、ユキぃ!
 ──うふふ。
 ──あはは。
 ざぷーん。
(ああ、あの夏の日の君の笑顔、もう見られないのだろうか……)
 かなり青春的に美化された過去の思い出を女々しく思い出し、テスはすすり泣いた。
(大砲引きずって逃げようか……)
 真剣にそんなことを思った時だった。
 武器庫の扉が静かに開かれた。
 わずかに開かれた隙間から顔だけをひょっこり出したのは、小さな少年と少女だった。
「……ここならきっとバレないわ。レイリ、ここにしましょ……」
「お、怒られちゃうよ……。ここは入っちゃダメって、お母さんが……」
 何やらコソコソと企み声が聞こえてくる。
「だらしないわねぇ。じゃ、チカルは他にかくれたら?」
「ええっ。わ、わかったよう……」
 チカルとレイリ、船医長フィーラロムの双子のお子様だ。
 勇ましかった父親の初代船長ジルサン=バリーにはあまり似ず、母親ゆずりの繊細で美しい顔だちをしている。金糸の髪を輝かせ、双子がひっそりと中へ入ってきた。
「ここは……狭いなぁ……」
 何やら物色し始める。どうやら誰かとかくれんぼしているようだ。
 しかしこれはチャンスだった。
「……うー! んうー……っ」
 テスは必死に声を上げ、バタバタと足を振り回して物音を立てた。
 と、それに気付いたらしい、何かの箱に入ろうとしていた双子はパッと顔を上げた。
「な、なに?」
「こっちからしたよ……っ」
 幼い双子が身を縮めてこわごわ大砲の方に近づいてくる。テスはよっしゃあとばかりに、いっそう暴れて呻き声をあげた。
 双子が大砲の前に立ち、テスを見上げる。ポカンと。
(縄を解いて……!)
「……むぁむぁお、もうぃえ……!」
 双子の顔がみるみる恐怖に歪んでいった。薄暗い室内だ。外から来たばかりの双子の目は、まだ闇に慣れていない。彼らの目に映ったのは、大砲に括りつけられた哀れなテスではなく、不気味な唸り声を上げながら蠢いている、奇怪な形をした黒い大きな怪物だった。
「……っいやぁぁぁぁぁ!?」
「フェルカぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 双子は同時に絶叫を上げ、外に飛び出していった。
「んがぁぁ! むぁんぐぇっ!?」
 テスは訳が分からず呻き声を上げる。
 ──あ。チカル、レイリ、見ーつけた。
 ──フェルカ、かくてんぼは中止!
 ──中にタコ怪獣がいるの! わたし達を殴ったり蹴ったり、墨吐きかけたり、あげくに、わたしのかわいいおしりを触ったのよ……!
 ──なんですって……!?
 ──退治して! 火つけてくし刺しにして今日の夕飯に食べちゃって……!
「……!」
 外から恐ろしく物騒な、しかもまったく身に覚えのない訴えが聞こえてくる。
 テスは必死にもがき、大砲と一緒にガタガタと揺れ動いた。
 ──下がっててください……、ぼ……僕が……た……た……たたた退治しますからね……!
 気が弱いで評判の青年フェルカが、決死の覚悟を決めて扉に手をかけた。
 テスは顔面蒼白になる。
 説明も弁解もする暇もなかった。
 扉を開けるなり、フェルカは棒を振りあげ突進してきた。しかも目をつぶって。
「うえおひゃぁぁぁぁぁ……!」
 妙な奇声を発し、フェルカは棒を降り下ろした。
 ばこーん!
 凄まじい衝撃とともに、目の前にお星様が散る。ついでに三匹のひよこが楽しそうに目の前を踊りだした。
「た、退治したよ……! 退治した退治した……! うう、う、海に放り投げてやる……!」
 いつも弱い弱いと馬鹿にされてきたフェルカは、すっかり勝利に酔いしれ、興奮ぎみにはしゃいだ。そして火事場の馬鹿力とはこのことだろう、フェルカはあろうことか相当な重量があるはずの大砲+テスをぐんっと持ち上げ、頭上へ向けて──思いっきり放り投げた。
「───!!」
 テスの眼の前に天井が迫ってくる。かと思うと、全身の骨を盛大に折ったような音をたてて天井が木片となって吹っ飛び、青空が世界の全てとなった。
「ふがぁぁぁぁぁぁぁ……!!」
 こうしてテスはお空の人となったのだった。

 後に残されたフェルカは、穴の開いた天井から見える青空と、ピカっと輝き飛んでゆくタコ怪獣を満足気に見上げ、手をパンパンと叩いた。
 同じく空を見上げていた双子は、恐る恐る片割れに囁く。
「今の、テスに見えなかった……?」
「き、気のせいだよ……」
「そう、よね……」

AM10:21

「おーい、キャムー! そろそろ上がりなよー!」
 心地よい速度で航海するバックロー号の横を、小舟ほどの大きさがある翼を持った飛竜が、並行して海面すれすれを飛んでいる。声は竜の上からだ。
「キャムってばー」
 ──もう少しー!
「……もー。オレ朝飯まだなんだよー。腹減ったよー」
 後ろの方から聞こえてきた声に、馬上の主ならぬ竜上の主は溜め息を落とす。
 主は十七才ほどの少年だ。色とりどりのバンダナを頭に巻きつけた、手足の長い長身の少年ファーである。世界の東にある謎多き未開の大陸「イリューザ」の出身で、飛竜を操ることのできる「竜使い」の一族の出らしいが、様々な事情を経て、今は海賊バクスクラッシャーの料理番見習いなどをやっている。
 そんな彼が今何をしているかと言うと、それは竜のしっぽ見れば分かる。竜の長い尻尾の先っぽは鉤の形に丸まっている。そこには一本の太い縄が握られていて、その紐を辿っていくと、
「ひゃっほぉー!」
 なんと海面に、水上スキーを楽しむ少女がいた。
 彼女の名前は、キャム。黒目黒髪の、気の強そうな少女である。素潜りが得意なことから「海人のキャム」という二つ名を持つ。
 先日彼女が発見したこの遊びは、今フェズルート大陸北国で流行っているという「スキー」という遊びを、なんとかこの南国でも出来ないかと考え、その結果編み出されたものだ。「一回三百エルカで」と上手くのせられ、ほとんど毎朝のように彼女の遊びに付き合わされているファーである。
 ファーはもう一度ため息をつき、うんざりと天を仰いだ。そして直後、唖然とした。
「……大砲が降ってくる」
 ──何か言ったぁ!?
 ファーは勢いよくキャムを振り返った。
「大砲が……! 大砲とテスが降ってくるぞ……!」

 ドボーン……ッ ! !

 ──キャー!? な、何……!?
「キャム! テスだ! テスに大砲が括り付けて、海を沈んで……あれ?」
 ファーは頭を抱えて、手を振り回した。
「と、ともかく素潜りGO!」

 キャムはよく分からないがともかく大変らしいことを察し、竜から伸びた縄を離し、海面に滑らせていた足板を外すと、水柱の立った海面へと飛びこんだ。
 鮮明な音が水中に独特のくぐもったものに変わる。しかし「海人のキャム」にはこちらの方が耳に心地よかった。
 気泡が浮いてくる辺りを、凄まじい速さで潜ってゆく。まるでイルカの様に優雅に、海蛇の様にしなやかに。
 しばらくして猛然と沈んでゆく大砲を発見した。その大砲には一体どういう理由でか、テスが括りつけられている。ようやく事態が飲みこめたキャムは、鳥が舞い降りるように大砲の上へと降り立ち、気を失ったテスを縛りつけている縄を、腰から抜いたカトラスで切り離した。そしてテスを掴むと、大砲を蹴り上げ海面へと急いだ。
「……ぷはぁ!」
 海面から出て思い切り息を吸いこむと、竜が頭上で待っていた。
「大丈夫!?」
「こ、今回はさすがに潰れるかと思ったわ」
 ファーの心配そうな声に、キャムはそれでも余裕そうに笑って、まだ竜の尻尾から垂れ下げったままの縄を掴んだ。

 随分と遠ざかってしまった船を追うことを諦め、とりあえずすぐ近くの海面から突き出していた岩の上に三人は降り立った。
「……ん」
 横たわらせたテスが小さく唸って、ゆっくりと眼を開けた。ホッと息を吐いて、キャムはテスの顔を覗きこむ。
「大丈夫?」
「……ユキちゃん」
「──は?」
 剣呑な顔をして聞き返すと、テスがいきなり勢い良く起き上がった。
「……びっくりしたぁ! もっとゆっくり起きれないの!?」
「こ、ここは? あれ……?」
 テスはキャムを思い切り無視してきょろきょろと辺りを見回した。
 ここはどこだろう、どうしてこんな所に……。
「何か知らないけど、テス、空から降ってきたんだよ。大砲と一緒に」
(大砲……、大砲!?)
「ああ! 思い出したー!」
(そうだ、そうだった。おれはフェルカに!)
「ぎゃあ! 誰がタコ怪獣で、暴行魔で、セクハラ親父だあ!」
「……? と、ともかくこれなら安心だな。んじゃ、船に戻るか」
 ファーは言うなり竜に飛び乗る。キャムはかなり物足りなそうな顔をしながらも、尻尾の綱を掴んだ。
「キャムが助けてくれたの?」
 今更ながら、テスはそれを思いついてぽつりと呟く。
「そーだよ」
 キャムは憧れのクロル姉がするように、肩をすくめ、口端をにっと持ち上げてみせた。
「あ、ありがとうぅぅぅぅぅっ!」
 捨てられる神ばかりであったテスは、拾ってくれた神に感動のあまりむせび泣いた。
「ふふ! お礼は弾んでね。それより早く船に戻ろう。追いつけなくなっちゃう」
「船……」
 テスは涙を拭いながら、ふと今までの出来事を反芻した。
 ──地獄の間直行。
 ──林檎拾えぇ!
 ──あきらめな。
 ──ぬしがラヴちゃんを傷つけたっちょねぇっ!
 ──そんな寝言は、寝てても言うなぁぁっ!
 ──タコ怪獣、退治して!
 ──う、う、海に放り投げてやる……!
「あぁぁ……」
 テスは力なく呻き、頭を抱えてぶつぶつ呟きはじめる。
「あ、あ、あそこは……悪魔の巣窟だ。悪魔の巣なんだぁっ!」
「……?」
「ファー!」
「は、はい!」
 いきなり振り返られ、しかも胸倉をがしっと掴みかかられ、ファーはびくっと肩をびびらせる。そんなファーを、テスは懇願で血走った眼をカッと見開いて、食い入るように見つめた。
「頼む。おれをタネキアに連れてってくれ。あの可愛らしい竜さんで!」
「え? タ、タネキアったって……あの子、一人乗りなんだけど……」
 がくぅ!
「しかも竜だと今日中にはつかないよ。休み休み行くから」
 がくがくぅ!
 テスは力なくファーから手を離し、掴みかかった襟をそっと整えてやり、深く深くうなだれた。
「……とほほ」
 どんより。ファーとキャムはそのあまりの暗さに思わず後ずさった。
 テスはゴツゴツした岩山を見つめ、じっと考えこむ。
 どうしたら、五体満足にタネキア大陸の彼女の元へ戻れるのだろう。このままでは本当に、望みもないほど間に合わなくなってしまう。
 一人で小舟を漕いでも恐ろしく日数はかかるし、そもそも方角もわからないし、食料の問題もある。しかも船は海流に乗ってしまっている。
 絶望の二文字が、テスの脳裏を過ぎっていった。
 しかし。
「……あれ? 待てよ?」
 そういえば何故そもそもおれがこんな痛い目に遭っているかというと、そうだ、セインたちを逃がすためだったのではなかろうか。彼らが自分をタネキアまで、連れていってくれると言うから……。
 ──協力してやるよ、出してくれたらな。
 きっと彼らには何か考えがあるのだ。良い考えが、いや、良からぬ考えと言った方が正解だろうが。
 しかし、騙されているのかも。本当は出すだけ出したら、あとはそんな約束知らねぇだの寝ぼけてんのかだの、適当に誤魔かされてしまうのかも。
「うぅぅぅうぅぅう」
「ど、どうしちゃったの? テス」
「さあ。どーでもいいけど、あんまのんびりしてると、本当に追いつけなくなるよ。オレはともかく、キャムたち、縄に掴まってるの大変だろ?」
「あ、そうだね。……よし。テス、勝手に引っぱってくよ」
 キャムはそう宣言すると、足板を足の裏へはめなおして、じっと考えこむテスの後ろ襟を引きずって縄に掴まった。
「さぁ、出発進行!」
 ──こうしてテスは、キャムに引きずられて初の水上スキーを経験することになるのだが、当人は考えに夢中になり、まったく気付くことはなかった。水面に腰まで浸かっている状態でキャムに引きずられているというのに、大したぼけ青年である。
 だがそれほど真剣に考えこんでいたのだ。これはもう最後の賭けになるかもしれないのだから。
「……信じてみよう」
 テスはぐっと決心する。そう、もしかしたら彼らの協力の申し出は嘘かもしれない。だが信じるしか方法がない。それ以外で時間通りにタネキア大陸へと戻る方法は、もう思いつくことができなかった。──それにセインとワッセルはともかく、ダラ金はあれで結構仲間思いなところもあるし。問題は自分を仲間と思ってくれているかなのだが。
「よし! 待っててくれ! ユキちゃーん!」
 一体何度目になるのか、テスは新たに決意をして今一度拳を太陽へとかざした。
 ようやく出た答えに満足してふと辺りを見渡すと、そこはもう甲板の上であった。
「……あれ?」
 テスは困惑してきょろきょろと辺りを見渡した。甲板には頭上の見晴らし台に見張りがいるぐらいで、他には誰もいない。一緒にいたはずのキャムやファーはもちろんのこと、あの巨大な竜の姿も見当たらなかった。
「おれってもしかして、魔術師?」
 実は甲板に着いてからすでに二十分は経過していて、二人は何度呼びかけても返事のないテスに呆れ果て、とっくの昔に船室に戻っていただけなのだが。ともかくテスはあまり深く考えずに立ち上がった。
 考えがまとまったからには、行動あるのみだ。
 あの地獄の間の頑丈な扉を何とか開け、三人の助っ人たちを何としてでも助け出す。
 問題はその方法だが……。
「鍵は駄目。ログゼは昏睡。色仕掛けも失敗。……そう、他力本願だから駄目なんだ! 信じれるのは自分だけ! 悪魔の城には味方なし!」
 テスはなにやらにやりと口端を持ち上げると、天井の吹っ飛んだ武器庫へと、軽い足取りで向かった。

AM10:55

「っていう大変なことが起きたんだ。……ひどいじゃんか。色仕掛け、全然通じなかった」
 何だかものすごく久しぶりに戻ってきたような気がする。ここを怯えながら出発したのは、ほんの三時間ほど前でしかないというのに。
 テスは懐かしさすら感じる「地獄の間」の頑丈な扉の前に座りこみ、今まで起きた災難の数々を話し終えて、少し拗ねた口調で文句を言ってみた。扉越しなので、少々強気である。
 パチン、グルグルグル。
 ──あのなぁ、普通信じるか? しかも実行するなんてお前頭プッツンしてんじゃねぇの?
 扉越しにセインの声がする。不思議なものでああまで酷い目に遭うと、普段は恐ろしくて仕方がない彼ら三人の声が、異様に懐かしく、そして愛しく思えてくる。なんというか……仲間、という気がした。
 ──それより、早くここから出せ!セインのアホのせいで、煙が充満して気分悪ぃんだよ!
 ──あーん? 俺が好意で、煙草を持ってないてめぇらのために煙を吐き出してやってるってぇのによぉ。ち! もう空気吸うな、タダ食らいめ。
 ──てめぇって、つくづく勝手な野郎だよな!
 キュイキュイキュイッ。パチン。
 テスは彼らの罵り合いを聞くともなしに聞きつつ、黙々と作業を進める。
 ポキ。カチッ!
 ──って、さっきから何の音だ? テスちゃんや。
「いやぁ、おれ昔っから、何かいじるの得意なんだよねぇ。火薬さえあれば、時計で爆弾造れたりして。でもまさかそれがこんなことに役立つなんてね! まさに日頃の行いだよね、これって」
 ──あ? ……で? 何してるんだっつーの。
 テスはふーと満足げに息を吐き出し、おもむろに立ち上がってトテトテ扉から遠ざかった。
 そして、呟く。
「何してるって……だから時計で爆弾」
 ──え? 何? きこえね
            どかーんっ!!

「……」
「……」
「……」
 吹っ飛んだ扉が粉となって舞い落ちる。
 頑丈で有名な地獄の間の扉は無残にも消え失せ、中ではセインとダラ金、ワッセルが、爆発前の姿勢のまま呆然と凍りついていた。
 テスは彼らのそんな様子を見て、ふぅと額の汗をぬぐった。
「ま、こんなもんか。はじめっからこうすれば良かったんだな!」
 何だか晴々とした気分で、テスは喜色満面と微笑んだ。
 木箱の上にふんぞりかえって座っていたセインのくわえた煙草の先が、ぼろりとくずれ落ちた。
「……随分と思い切りましたなぁ。テスちゃん」
 ダラ金がいち早く立ち直り、惨状の中から這い出てきた。
「……普段大人しい奴ってキレると怖いって本当なんだな。ま、何にしろ、助かったぜ」
 ずれた右目の眼帯を直しながら、ワッセルものそりと立ち上がる。
「おい、セイン、びびってちびったか?」
 いつまでも動かないセインを振り返り、ダラ金がケタケタ笑う。
 ……と。
「くっくっくっくっくっくっ……」
 セインがいきなり低く笑い始めた。心底愉快そうに笑いながら、セインはようやく立ち上がり、今更ながら大それたことをしでかしてしまったかも、と後悔し始めたテスの元へ、悠々と獅子の足取りで近づいてきた。そして彼は、硬直するテスの真正面で足を止めると、不意にニッと笑い、ブンッと拳を振り上げた。
「──!」
 テスは歯を食いしばり覚悟を決め、ぎゅっと目をつぶった。
 ──が、危惧していた鉄拳はいつまでも来ない。
 訝しんで目を開きかけ、しかしテスは慌ててまた目を閉じる。
(きっとこれは罠だ! 時間差攻撃してくるに違いない! 罠だ、決まっている……!)
 完全に下僕精神が身に染みてしまったテスである。
「何怯えてやがる。目ぇ開けろよ」
「……ああ! 命令だ!」
 きっと罠だそうに違いないと思いつつ、命令されれば聞かない訳にはいかない。テスはおそるおそると薄目を開けた。
「……──」
 そして目に入ってきたものに、テスはポカンと目を丸くした。
 自分の前にはセインの拳。拳が握りしめているのは。
「やる」
「……やるって。これ、何?」
 思わずぼんやりと聞くと、セインは猿に似た間抜け面を作って、テスを白けた顔で見下ろした。
「物を知らないお子ちゃまでしゅねぇ。これは煙草って言うんでしゅよ」
「そ、それは分かるよ! そうじゃなくて、やるって、どーゆー……」
 セインはテスの困惑した問いに、人の悪い笑みを浮かべた。
「いや、お前にしては珍しく大胆な行動で、ご主人様の俺としては、この犬っころも成長したなぁって感じで嬉しいわけ。分かる?だから、これやる」
「……分かんないけど、あ、ありがと」
 言われている内容はものすごいのだが、テスは何となく嬉しい気分になってポリポリと頭を掻いた。
「派手なのは実に俺好みだ。……もっとも」

 ──何だ!? 今の爆音は……!
 ──下からだ……!

「少し派手すぎたみたいだがな……」
 セインは天井を見上げ、おもむろに後ろ襟首の辺りに隠し持っていたらしい短刀を三本ほど取り出した。
「さて。テスちゃんをお約束通り、ユキ嬢の所へご案内ってね」
 ダラ金が額に巻いたバンダナを解いて、長ったらしい金髪を無造作に結い上げた。
「久々に暴れるぜぇ!」
 ワッセルはにやりと笑うと、右手で拳を繰り出し左手で受け止めた。
「しっかりついてきな、テス」
 言うなり彼らは駆けだした。それぞれの得物を手にして。
(あ、暴れる? 何で、暴れる?)
 いまいち状況を把握しきれないまま、とりあえずテスも一歩を踏み出した。

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